上杉はその企図を見破り、一部を拘束部隊として残して
残りを霧に紛れて隠密機動から手薄になった武田本陣を
中央突破するという戦術を極めつくした両将の戦いこそ
まさに戦国最高の戦いといえまいか
睨みあいの中、越後に大軍いたんだから
呼んでくれば兵力的な劣勢をはねのけられたのに
大体、馬を率いてなんて不可能。あの勾配の獣道を登ろうと思えば、槍も置いていかなき
ゃだめだ。甲冑なんか着ていけば、上につくまでにバテるぞ。
濃霧を利して妻女山から降りて撤退する上杉勢と武田本隊の偶発的な遭遇戦だったんだと
思うな。
じゃ上杉軍はどうやって登ったんだ? と聞いてみる
うーん…だとしたら城に篭る武田方はあの日、あんな早い時間になぜ八幡原に陣取っていたんだろうか
集まれば、霧が立っててもまったくお互い知られずに通り過ぎれると
思う方が無理がある。城のすぐ前の川原に多勢の気配に気付けば、嫌
が上でも普通、対抗準備するでしょ。普通。
そのまま茶臼山を下山中の武田本隊に援軍を求めたのが本当だと思うな。
妻女山の山麓にて戦っていた武田方はいわゆる高坂、馬場の別働隊てやつか?
だとしてもだ、茶臼山下山中で、あとから来た新手である本隊にいる奴らの被害がひどすぎないか?
普通はしばらく先に戦っている上杉は疲弊しててあとから来た武田本隊の奴らはまだ無傷だし脇からの攻撃になるから被害はもっとも浅くなるはずだよ。
啄木鳥戦法は創作で、撤退時の偶発的な遭遇戦とか。
信濃の武将の戦死者が少ないことからそんな激戦ではなかったのでは、とも言ってたような。
では、武田側の重臣の戦死者の多さはどうなるんだとも思うんだけど。
どんなかたちをとって戦ったかは知らないが、武田が2方向からきたら上杉方に対し包囲が完成するんじゃないかとおもう。
その上で上杉方は遭遇戦なんだから、武田本隊に対する抑え部隊をいきなりは出せないし、武田本隊がきたらすぐさま退却しないと
ただでさえ兵数の差で圧倒的不利な上杉方は上記の通り包囲殲滅をくらう。
なのにだ、副将格の信繁や初鹿野、諸角や管介、名だたる者たちが打ち死に義信も信玄も本隊連中が負傷しまくっているくらいだぞ、
これはおかしい。と思うよ
『その時…』を見てなかったから見れば納得できるかもしれないんだが。誰かうpしてくれー
まあ、俺個人の見方からいくと死傷率80%てのはオーバーな気もするがそれなりに大きな戦いであったのは間違いないと思う。
血染めの感状まで現存してあるんだし。
待ち構える武田勢に個別撃破されるだけの愚策に思えてしょうがない。
新手を次々に繰り出す戦法、なんて紹介してたけど、
兵力が同数か劣勢の時には意味ないだろってガキでもわかった。
逆に上杉方は交代したら小休止できるわけだしね。13000いた上杉に100人一部隊として、車掛りは100隊は作れるんだから休めるだけ間隔作れると思う
とは言っても車懸り自体はキツツキ戦法というファンタジーの上にできたもう一つのファンタジー戦法なわけだと思われるし、存在はイマイチ信じがたいがな。
なにせ状況からしてキツツキと車掛りはセットなわけだし
キツツキ戦法があったからこそ車掛りが出来るし
キツツキ戦法がなかったら車掛りなんてできてない。
だから俺は車掛りは無いと思われる
たがいに10人ずついるとしてさ、一方が車懸をしたらどうなると思う?
敵10人が待ち構えるところに5回交代で2人ずつ全力で走っていき、
優勢な戦いできる?
まず走っていく時点で息切らして、さらに少数で多勢と戦わなきゃならない。
個別に叩きのめされるだけだよ。
(1万の軍勢がぐるぐる回りながら代わる代わる攻めるのは不可能らしい)
啄木鳥作戦も地理的にあり得ないとすると
この戦いは何だったのか分からなくなる。
死者 負傷者
武田 2500 7000
上杉 1500 4500
だった。正確な数字じゃないだろうけど、甲陽軍艦や北越軍記等、武田、上杉の戦いを考察している
教授の書いた本に載っていた。
負傷者のうちどれくらいが戦闘員として
再生できたかも重要だな。
武田の矢は毒が塗られ鏃を引き抜く時に体内に残るように仕掛けられていて、武田戦後に死亡する人間が多い。
上杉も戦後に死んだ人多かったんじゃないかな?
ちなみに信玄を尊敬していた家康は「武士にあるまじき非道な行為」として使用を禁止している。