>>277
斉は協力的だった東夷でしょ
太公望の先祖の出身は山東だし
それは斉ではなくて魯だな
ニュース
気候変動で時と伴に段々遊牧民が入り込んで来た
まあ燕が建てられた頃にわ既に遊牧民の多い土地に成ってたが
商代以前は以っと温暖で降水量が多く農耕で暮らして居た地域
伝説だと古公亶父の頃に定住したことになってるが
実際は文王か武王あたりだろう
>>287
いくら古代文明があったといっても、
先進都市国家を除けば、基本的に原始人の世界だからな
中原にも狩猟採集民が少なくない
>>290
北狄や西戎は狩猟採集民ではなく遊牧民だし
決して原始人ではなく都市国家を持たない以外は夏華族と同じか
もしくはそれ以上ともいえる
例えば
西戎の甘粛省磨溝遺跡や新疆の盆地洋海遺跡から
少なくても紀元前14~11世紀には
鉄器文化に移行していて中原よりずっと早い
北狄もスキタイの影響を受けて
紀元前11世紀には綏遠青銅器と呼ばれる青銅器文化を形成している
>>296
そりゃ、中央アジアや北アジアは、西アジアとつながってるからな
ペルシャやアッシリアの文明を取り入れた彼らのレベルは、中華より進んでた
そもそも華夏族という存在が学術的じゃないんだがな
北京とか遼西の辺りわ逆で気候が変わって遊牧民が南下して来たパターン
自身は異民族系でありながら
他の異民族を征服したり自国の伯を入植させて文明化させている
文字も記録も無かった、大倭国を簒奪した日本国と違い
燕は周の王族が侯に封建され建てられた方谷だと記録されてる
狩猟採集民などという非効率な存在わ
不毛な山岳地等を除けば歴史以前に消滅してる
えーと?燕は召公セキの長男の封じられた土地で
召公セキって後の関中、今の西安周辺の有力者で周の王族ではないよ?
史記だと姫姓としてるけど史記以外の資料で姫姓でないことが確認されてるし
当時の金石文が出土してて実在が確定してるんだな
ただし姓は姞で周王と同姓ってのは権威付けのための後の創作だろう
綏遠文化の方が成立が早い上に墓制も東から西へ伝播している
紀元前14世紀だったら、ペルシャもアッシリアもまだ無いけどな
メソポタミア文明か
而もスキタイわ北アジアのトルコ人に追われたマサゲタイに追われて玉突きで西へやって来た
当該時期の進んだ技術と文明の伝播は東から西
インドとペルシャ辺りが文明一番高くて
後はその東西の文明圏に流れてるんだけどね
メソポタミアがダントツに進んでたんじゃねーの?
インドなんか自分たちの歴史を記録しておく慣習がなくて
研究が大変らしいじゃん
>>303
インドは研究大変だけど少なくとも他地域に先駆けて
思想哲学の発展が早かったのはわかってるのよ
あとはメソポタミアはペルシャに含んで考えてたよ
>>303
「歴史記録」の豊富さを文明レベルの証とする発想自体が儒教的な発想だけどな
例えばアケメネス朝ペルシャは体系的な歴史書がまったくと言って存在しない
ペルシャから見て後進未開部族に過ぎなかった古代ギリシャや属州の一つでしかないイスラエル王国のほうがまだ史料の残りが良い
考古学の三時代区分法によれば
古代インドは後期ヴェーダ時代に鉄器時代に移行してるのに対して
一方中国における鉄器時代は紀元前7世紀の春秋時代中期にあたるのだから
400年ぐらい文明レベルはインドのほうが先行していたことになる
隋唐で無く周までな
秦漢に成ると東アジア>オリエント>欧州
中原はあまりにも守るに難しな地形でどこかが必ず統一してしまうし
豊かな中原を取ってしまえばいずれ江南も巴蜀も統一されてしまう
平原が広がっているヨーロッパですら完全統一されたことは一度もない
割と山岳地帯の多い中国だと統一されないこともありえた
いやそれは違う
ヨーロッパはアルプスやピレネーやライン川に分断されて
どこか一強と言える様な地理的まとまりに欠けた
それに対して中国は黄河流域さえ押さえれば他を圧倒できる
本当の意味で統一されたことがないのはライン川を越えてからのみ
ヨーロッパで本格的統一国家がローマ以来現れなかったのが不思議な気はする
中国の場合とっくに江南が魏晋南北朝時代には経済的には華北を超えていたが
統一王朝は明だけだったのは基本的には豊かでない方が富の強奪をするから
征服王朝の原理もコレ
>>327
クレフェルトの補給戦読めば欧州の補給情勢が良くわかるよ
中華王朝が統一し易い理由もこれを援用すると簡単に説明できる
まあ河川交通です
古代には河川交通という概念はほとんどなく隋代に入ってからではないのか
始皇帝が表れても斉が健在ならば韓を征服した時点でヤバいと思い
たちまち5か国連合で秦を僻地へ追い返すが天然の要害で滅ぼすには能わず
とにかく統一したとしても大幅に遅れたのは間違いないだろう
斉も燕を属国にするのではなく完全に併合すべきだった
>>332
勘違いしてる人が多いけど水経注なんかを見てもわかるように
古代から中原は黄河やその支流とか色々あって河川交通が発展してる
始皇帝は戦国の統一後に各地に道路通すだけでなく運河を掘ったりもしてるように
昔から運河って重要視されてるよ
加えて隋の南北を繋げた大運河が統一病を決定的にしたな
とは言え南宋がモンゴル軍を凌いだように襄樊さえ確保してると
南も相当持ちこたえられるけど
あ、それ淮南子だから全然違う
ずっと統一されていたともいえるけどな
イスラムやモンゴルといった「異民族」に関しては
実質一つの文化圏として対応していたし
教会自体が東西分裂したし
その後宗教改革も起こったから
それはあんまりない
鉄道の発明まで、物流の基本は水運やで
中央ユーラシアは水運よりは陸運メインだけど
交易路の中途や終端で水運に接続はしてるね
こんなとこ通ろうとは普通は思わんで
内陸に向かうための交通の要衝だろ
抑えて関所作って通行料取れる
塩と鉄を始めとする、産地の限られた生活必需品
これらを内陸部を含む全土に流通させる
全国的な安定した商業ネットワークが必要だ
ゆえに、統一に対するニーズは常に高かった
>>346
全土に流通させるニーズは存在してないというか「全土」という概念がない
特に周には参加してなかった地域まで含んで統一という形にしたの始皇帝以降でしょ
秦からしたら本来関中で完結できるだけの産物も生産力もあったし
ニーズが統一を生んだのではなく統一がニーズを生んだという方が正しい
鉄は東西南北何処でも産出してた
塩わ偏ってるけど蜀や梁が大産地だし
ちょっと前に話題出たオルドスも塩の産地だからそこ迄でも
古代の華北は森林に覆われていたが、自然破壊が進んで草原や砂漠に変わった
平坦な草原地帯ほど、統一しやすい地形風土は他にない
関中は古代から隋唐に掛けてゴソット消失した
地図を見て、黄河や長江から離れているからといって
「川沿いの地ではない」と判断してはいけない。
黄河の沿岸は、洪水が多くて流路がよく変わる上に、
侵食で切り立った崖になっている。
このため、人が住むのに適した土地ではない。
都市はたいてい、黄河ではなく、支流の沿岸にある。
古今東西の侵略はたいてい、北から南へ、高地から低地へと行われる。
古代中国の場合は、西の黄土高原から東の華北平原へという、
高いところから低いところへの侵攻が基本パターンとして続いた。
この2つの間には、長大で峻険な太行山脈がある。
太行山脈と黄土高原の間には細長い盆地があり、それが山西省の晋。
>>355
秦の統一は西進してるけど逆に秦末漢初で秦楚の争いは楚が秦に攻め込んでる
楚漢抗争に入ると関中から侵攻してる
後漢は中原を制した光武帝が関中に攻め込んでるね
三国魏の制圧も中原から関中に向かってる
それ別に基本パターンじゃないんじゃないの?
>>358
周が殷を滅ぼす
秦が他国を滅ぼして統一
漢が他国を滅ぼして統一
曹操が袁紹を滅ぼして華北統一
北周が北斉を滅ぼして北朝統一
唐の李世民が王世充を滅ぼして華北統一
・・・と、大きな歴史の節目で
西から東というパターンが繰り返されている
例外がないとは言ってない
>>361
曹操が袁紹を滅ぼして華北統一したのって西から東じゃないぞ
南から北だぞ、適当な事言い過ぎ
北から元が来て南から明が来たりもするし北から南に攻めた清は
次に西に攻め上って最大版図を実現したり
北から南、西から東というのは、全然基本じゃないんだよ
隋唐までは西高東低のパターンが繰り返されてきたが、
元・明・清あたりでは西の存在感が薄れ、
侵略は「北から南へ」というのが基本パターンとなる
逆のパターンも何度も起こってるので
「繰り返された」って強調できるもんでもないでしょ
>>368
だから、あくまでも「基本パターン」なんであって、
「例外なく全部そうだ」とまでは言ってないじゃないの(笑)
周、秦、漢、北周、隋、唐と、唐宋変革期以前の主要な王朝は、
どれも基本的に「西」の勢力なんだから
そこに無理なくパターンを見出だせる
>>370
だから基本パターンと呼べるほど基本的な動きじゃないって言ってるんだが
基本だと言うなら秦が西から攻めて統一した割とすぐ後の時代に
楚が東から西へ秦を攻めて滅ぼすなんておかしいし
次の戦乱からの統一王朝樹立も中原から西へ関中、蜀に攻め込んで統一
後漢末の魏も東から西の動きで勢力拡大してるだろう
西からは遊牧系のユーラシアの民族が雪崩れ込む場所だから
晋以降の時代に西から、北からって形が目立つけど
それ以前の歴史は基本ではないとでもいうの?
>>379
いやいや、西から、北からってのは、それ以前から目立つ形だよ
なにせ、周・秦・漢・北周・隋・唐と、主要な王朝がそのパターンだからねえ
あくまでも「基本パターン」であって、全部がそうだと言ってるわけじゃない
>>382
周 西→東
秦始 西→東 後に南→北
項羽 東→西
前漢 西→東
後漢 東→西
曹魏 東→西 後に北→南
上古までを東西の形で見るとこんな感じで別に目立ってないよね
春秋の強国で見ていくと南北対立の形を取ってるからそこまで東西関係ないし
むしろ楚の侵攻を中原の勢力がどう対抗していくかという歴史だから
形の上では南から北へ侵攻していた時代と言える
統一王朝で見てくと傾向としては
晋 北→南
隋 北→南
唐 北→南 統一後は南から北 東から西へ勢力伸長
宋 北→南
元 北→南
明 南→北
清 東→西かつ北→南
統一王朝の大半を占める北から攻めて統一するパターンの内、漢人の国は宋だけ
要するに「遊牧民は強い」って話で西から東は基本ではない
>>391の漢人の国云々は晋もそうだね
色々書き足してったら何故か晋が落ちてしまったので追記しとくね
>>391
唐の李淵が旗揚げしたのは太原だけど、
長安を急襲して乗っ取ってからが本当のスタート
西に長安の李淵・李世民、東に洛陽の王世充や、
北京・南京の勢力というのが、隋末唐初の群雄割拠図
やはり、その数十年前の北周と同様、
天然の要害を活かして国力の劣勢を凌ぎ、東の諸勢力を滅ぼした
>>391
いやいや、そういうことじゃないんだな
西の周と、東の殷
西の秦と、東の六国
西の漢と、東の楚を始めとする復活六国
西の北周と、東の北斉
西の唐と、東の王世充を始めとする群雄
・・・という具合に、何百年も続いた群雄割拠が終わるときや、
何百年も続く長期王朝が登場するといった歴史の節目には、
なぜか上記のような東西対決の構図となり、
西の勢力が勝つというパターンを繰り返してきた。
たいてい、国力は東のほうがもともと上なのに、
劣勢な西が最後に勝利するというのが多い。
全部がそうだっていうわけじゃないんだが、
ここぞというときは、いつもそうなんだよねえ。
>>402
補足しとくと、ここに挙げた「東西対決」の例は、
どれも、中国の時代劇には欠かせない大人気テーマばかり。
当方は中国の時代劇が好きなので、
周の武王の東征とか、隋末の群雄割拠とか、北周・北斉の東西対決とか
・・・を見慣れている。
いつも東西対決の緊迫した状況で、
地力に勝る東側を、最終的には西側が逆転勝利するパターン。
マジメに歴史を勉強してきた人ほど反例を出したくなるのも分かるけど
こればっかりは、感性の問題でしょうな(笑)
華北平原は、面積も人口も、ちょうど関東平野を十倍にしたイメージ
ここが統一されるのは時間の問題
南は山岳地帯が多くて、なかなか統一しにくい
華北平原は、黄河が作り出した巨大な扇状地。
扇のカナメあたりに位置するのが洛陽や開封で、
開いた扇の両端あたりに北京と上海がある。
華北平原の面積は、日本より少し広くて、フランスよりは狭い。
ここに、4億人の人口が集中する。
インドのガンジス川流域に次いで、
世界で2番目に極端な人口過密地域だ。
内陸部
と比べたら緑は多いが、日本人の目から見ると、
上海ですら、ちょっと郊外に行ったら赤茶けた乾燥地だ。これほど騎馬軍団にとって征服しやすい地形・風土もない。
ただし、日本と違って河川がバカでかいから、騎馬で越えるのは難しい。
殷代の頃は黄土高原も象や犀が生息していたようなジャングル地帯だし
統万城の発掘調査から紀元5世紀に入っても
内モンゴル付近まで森林地帯だったことがわかってる
>>374
古代の黄土高原は熱帯か亜熱帯だったのか
だとすると日本も暑かったんだろうな
夏王朝って昔は暑かったから「夏」って名前だったのかな?
タイムマシンで3千年前の中国に行ったら、東南アジアだと思うだろうな
それは日本も同じだけど
上海が黄河扇状地の端ってどんな地理的概念やねん、と
黄河よりはるかに大きな大河長江はどこ消えた
>>378
それは、地形図を見るしかない
黄河は長い間に流路を大きく変えており、
下流で長江に合流していたこともあった
>>381
だから、上海は長江三角州の都市であって、黄河の影響じゃねえ
黄河の流路は度々変わっているけど、その影響を受けるよりはるかに新しい土地なんだよ
黄河の影響はそれよりはるかに北の地形(淮河の北)までやねん
斉や魏が天下統一しても不思議はなかった
でも、函谷関や潼関を突破して秦を滅ぼすのは至難
遥か後の時代にも、西の北周の国力は、東の北斉に大きく見劣りした
しかし、最後は天然の要害に守られ、北斉の攻撃を凌ぎきっている
現在復元されている函谷関の後ろに見える開墾されて段々になった山こそが本来の函谷関の残骸
はっきり言って、西の黄土高原は貧しい。
東の華北平原に、国力ではかなわない。
しかし、東から西に攻め込んでも、なかなか勝てない。
西の地形は山あり谷あり、デコボコで、最終的な勝利をおさめるのが難しいからだ。
そうこうしているうちに、西が逆転勝利する。
いつも、そのパターン。
中国人は、華北の覇権をめぐる東西対決の話が大好きだ。
隋末唐初がいい例で、たいてい、
西の長安の李世民と、東の洛陽の王世充の対立が、
群雄割拠ストーリーのメイン。
実際には、復活した南朝の蕭銑を倒すほうがよほど大変だったと思われるのだが、そこは省略されることが多い。
斉は東帝、秦は西帝を称して並び立つほど、二強だった時期もあった
斉は、燕の楽毅が率いる6カ国連合軍によって、滅亡寸前まで潰れかけた。
秦も、魏の信陵君の5ヵ国連合軍に攻められたが、なんとか凌いだ
ここで生き残った秦が天下を取った
楚の領土は、他の6カ国を合わせたより広かった
単独でヨーロッパ全土、インド全土に匹敵した
後には中国経済の心臓部となる長江下流の三角洲が、この頃はまだ開発途上
それでも、楚の国力は大きかった
>>415
そうなのか
やはり、キングダムの読みすぎは良くないな(笑)
あんなバカスカ徴兵して生産性落ちなかったんかね魏とかは
>>416
大土地所有がそんなに進んでたとは思えん
そもそも農地の貨幣売買が行われてたんだろうか?
キングダムでの、楚の超大国ぶりは異常
しょせん、マンガだからな
>>418
所詮マンガだし上で中国人が好きな構図ってのも所詮お話の構図に過ぎないから
ちっとも歴史的じゃないんだよなぁ
東西対立の形を好むのって南北の形になってしかも毎度のように北が勝って
しかも北方民族系が大半で被支配民族として漢民族が暮らしてきた事を思い出したくないんだろうなぁ
>>422
そういうのはあると思うけどな
西の内陸部は、いまじゃ良いところのないお荷物地域だし
>>422
宇文や段、赫連、呼延、慕容、独孤も今では漢族だし
日本人が隼人や蝦夷をあくまで自国民の歴史として見做すのと同様
あちらの人は鮮卑や匈奴とかもあくまで異民族じゃなくて
先祖の一つ程度に思ってるみたいよ
>>432
そりゃ漢字で記録残ってて近くに居たら大体お仲間漢族認定してるだけの
ひっじょーに政治的な話で学術的な判定じゃないからな
そんなの基準になるわけないでしょうに
>>438
中国の民族認定は基本自己申告じゃなかった?
それらの人々が自分を漢族とみなしてるんでしょ。
ていうかさ、中原に入って1000年以上経過してるような人たちが
未だに同化していないと思える感覚が分からん。
ノルマン・コンクエストでイギリスに入ってきたノルマンフレンチ貴族の子孫で今でも「ド・○○」って家名の貴族はいるけど、そいつらが今もフランス語で話してると思うか?
>>439
うん?そういう民族意識がどうこう言ってるんじゃなくて
本来違っていた民族を政治的に同じ漢族認定してる政治的な認定って話なんだけどなぁ
フランス民族は存在しないのと本来同じようなもんだよ
漢族なんてなくて複数の民族的ルーツを持った人々が漢字文化を共有して漢人と呼ばれて来たのを民族扱いしちゃってるのがまたね
>>441
いや、現代において民族意識が共有されてれば、
普通に民族と言って間違いないでしょ?
それは多様なルーツの存在を否定するものじゃないよ。
民族は超歴史的概念じゃないんだから。
あと、唐は浸透王朝にも入らないんじゃないかな。
遠祖が北方系というだけで文化的二元性の要素がほとんどみとめられないし。
異を唱える人もいたけど、定説にはなってない。
西高東低から、東高西低へ
これが、中国文明史の最も大きなトレンド
元から東高西低
北高南低が南高北低に変わったのが中世
・滝川一益とかいうマイナーなのに信長の野望でいつも良い能力もらってる謎の男
・三国志が歴史の教科書で一瞬で終わってしまうの怖すぎだろ・・・
・昔の人「俳句は5・7・5、決まりです。すこし余る位ならOKです」種田山頭火「…」
・歴女「えまって。武将の家系図に母親の名前ないのって女性蔑視じゃない?呆れる」
・島津家ってよく考えたら、とんでもない畜生じゃね?
・アメリカ人「原爆を落とさないと戦争は終わらなかった原爆は必要悪」←論破できる?