ワイが
正史三国志の馬超・劉禅伝の意訳と解説をしていくから
興味あったら見てクレメンス
ニュース
なんやあの魔境
仲間が増えて嬉しいわ
漢文は学べば学ぶほどわけわからんなる
平気で古典を引用しだすの嫌い
まだ「○○に曰く~」とか脚注が入ってれば
かわいいもんやけど
昔の人はワイらのために書いたわけやないのはわかるけど
辛いわ
◆
馬超、字孟起、右扶風茂陵人也。父騰、靈帝末與邊章韓遂等、?起事於西州。
馬超、字を孟起は、右扶風茂陵の人である。父の馬騰は、霊帝の末年に辺章や韓遂らと、共に西州で事を起こした。
◆
初平三年遂騰率衆、詣長安。漢朝、以遂爲鎭西將軍、遣還金城、騰爲征西將軍、遣屯?。後、騰襲長安、敗走、退還涼州。
初平三(192)年、韓遂と馬騰は衆を率い、長安に赴いた。漢朝は、韓遂を鎮西将軍に任じ、金城に帰らせ、馬騰を征西将軍に任じ、?に駐屯させた。後に、馬騰は長安を襲い、敗走して、涼州に撤退した。
◆
司隸校尉鍾?、鎭關中、移書遂騰、爲陳禍福。騰遣超、隨?討郭援高幹於平陽、超將?德親斬援首。
司隸校尉鍾?は、関中を鎮守すると、韓遂と馬騰に手紙を送り、禍と福とを述べた(※)。馬騰は馬超を鍾?に随行させ、郭援と高幹を平陽で討伐させると、馬超の将の?徳が自ら郭援の首を斬った。
※文章は残っていないが、帰順と独立の禍福についでであると思われる
この結果、馬韓はそれぞれ子供を朝廷に参内させる
そらもう勇将よ
武将自身が敵将の首を斬るって
なかなかないケースやからそれは間違いないで
◆
後騰與韓遂不和、求還京畿。於是、?爲衞尉、以超爲偏將軍、封都亭侯、領騰部曲。
後に馬騰は韓遂と不和になり、都に帰ることを求めた。そこで、召し出して衛尉に任じ、馬超を偏将軍とし、都亭侯に封じ、馬騰の配下を率いさせた。
正史はAの伝で語ったことはBの伝で省くってのはよくあるからな
ここらへんの背景が知りたければ武帝紀(曹操)読めばええ
◆
超、既統衆、遂與韓遂合從。及楊秋、李堪、成宜等、相結、進軍至潼關。
馬超は、衆を統べてから後に、韓遂と合従した。さらに楊秋、李堪、成宜らと結び、軍を進めて潼関に到った。
※三国志演義では馬騰が殺されたから挙兵したことになっているが、正史では馬超の挙兵が理由で馬騰が殺されており、因果が逆になっている
挙兵の理由は鍾?が西方の諸将から人質を取ろうと、張魯討伐を名目にして軍を出したことに疑心を抱いたから(衛覬伝、武帝紀)
また、この時、馬超は鍾?に韓遂を捕らえるよう命じられており、そのことも不審につながっている(張既伝)
馬超は韓遂に対し、「父を見捨ててあなたを父と思うので、あなたも子を見捨てて私を父と思ってください」とまで言い切っている(同上)
>父を見捨ててあなたを父と思うので、あなたも子を見捨てて私を父と思ってください
やっぱり馬超はクソ
乱世やからしゃーない
父をスープにしたら
ワイにも飲ませてくれって言ったやつもいるぞ
>>30
それは儒教観の出来上がってない漢代以前やろ
儒教がすべての後漢期に馬超の所業は外道の誹りをまぬかれないんやで
そう考えると馬超が責められるのは残当やな
◆
曹公、與遂超單馬會語。超、負其多力、陰欲突前捉曹公。曹公左右將許?、瞋目盻之、超乃不敢動。
曹公(曹操)は、韓遂や馬超と単騎で合って語った。馬超は、力強さを恃みとして、密かに突き進んで曹公を捕らえようとした。曹公の護衛の将の許チョが、目を怒らせて睨んだので、馬超は動こうとしなかった(※)。
※馬超は許チョの武勇を聞いていたので、曹操に「虎侯という者がいるらしいが、どこにいるのだ?」と問うた。曹操が許チョを指差すと、許チョは馬超を睨んだ。馬超は動こうとしなかった。虎侯と言ったのは、許チョが虎痴と呼ばれていたことに由来する
◆
曹公用賈ク謀、離間超遂、更相猜疑。軍、以大敗。
曹公が賈クの謀(※)を用い、馬超と韓遂を離間させると、改めて猜疑しあうようになった。軍は、そのために大敗した。
※韓遂が曹操に会見を求めると、曹操は軍事について言及せず、昔話しかしなかった。戻った韓遂が馬超に「曹操は何と言ったのですか?」と問われても、「何も言わなかった」と答えたので、猜疑されることになった(武帝紀)
曹操は韓遂に手紙が送ったが、塗りつぶしておき、韓遂がやったようにみせた。馬超らは韓遂を猜疑した(武帝紀)
これって樊稠のときと同じやな
蜀に入ってから何にもしてないからしゃーない
一応漢中では活躍したから…
ちなみに戦闘経過は他の伝に点在しているが、要約すると、
馬超は父の敵討ちが目的ではないので、領土の割譲と人質の要求が目的、曹操はそれを拒否(武帝紀)
徐晃が曹操の渡河を助けるため、精鋭を率いて馬超らの背後を断った(徐晃伝)
曹操の渡河の最中に馬超らが襲来したが、矢の降り注ぐ中、許?が曹操を護りつつ船を漕いだ(許チョ伝)
余談だが、婁圭という者が砂に水をかけて氷の城を作るよう進言しているが、時期が夏であり、凍るわけがないと指摘されている(武帝紀)
昔やった世界不思議発見では
それで城作った言うてたな
関あるのに
長安は落としてないぞ
それは演義の設定や
◆
超、走、保諸戎。曹公追至安定、會北方有事、引軍東還。
馬超は逃走し、諸所の異民族を味方につけた。曹公は安定まで追ったが、たまたま北方で事件(※)が起こり、軍を引き連れて東に帰った。
※蘇伯が河間で謀反を起こしたこと(楊阜伝)
◆
楊阜?曹公曰「超、有信布之勇、甚得羌胡心。若大軍還、不嚴爲其備、隴上諸郡非國家之有也」
楊阜が曹公に説いた「馬超は、韓信、黥布(※)の勇があり、はなはだ羌・胡の歓心を得ております。大軍が帰った場合、備えを厳重にしておかなければ、隴上の諸郡は国家のものではなくなりましょう」
※共に漢の高祖の名将で、軍事に秀でていた。ちなみに諸葛亮も馬超を黥布、彭越(こちらも高祖配下)に例えている(関羽伝)
この伝みたらやたら人気あるんよな
やっぱり出自かな?
恐らく武勇って点で比較されてる
◆
超果率諸戎以?隴上郡縣。隴上郡縣皆應之、殺涼州刺史韋康、據冀城、有其衆。超、自稱征西將軍、領?州牧、督涼州軍事。
馬超は果たして異民族たちを率いて隴上の郡県を攻撃した。隴上の郡県は皆これに呼応し、(馬超は)涼州刺史韋康を殺し、冀城に依拠し、その衆を有した。馬超は、征西将軍、領并州牧、督涼州軍事を自称した。
◆
康故吏民楊阜、姜敍、梁寬、趙衢等、合謀?超。阜敍起於鹵城、超出攻之、不能下。寬衢、閉冀城門、超不得入。
韋康のもとの吏民の楊阜、姜敍、梁寬、趙衢らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜敍が鹵城で挙兵し、馬超は出陣してそれを攻めたが、下せなかった。梁寬と趙衢は、冀城の門を閉ざし、馬超を入れなかった。
◆
康故吏民楊阜、姜敍、梁寬、趙衢等、合謀?超。阜敍起於鹵城、超出攻之、不能下。寬衢、閉冀城門、超不得入。
韋康のもとの吏民の楊阜、姜敍、梁寬、趙衢らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜敍が鹵城で挙兵し、馬超は出陣してそれを攻めたが、下せなかった。梁寬と趙衢は、冀城の門を閉ざし、馬超を入れなかった。
馬超が韋康を包囲すると夏侯淵は救援に赴いたが、間に合わなかった。次いで馬超と交戦するが、敗北して帰還する。姜敍らの挙兵があって馬超が出陣すると、趙衢らは馬超の妻子を皆殺しにした(夏侯淵伝)
馬超が隴上の郡県を攻撃すると、冀城以外は呼応した。馬超は隴右の兵を糾合し、また張魯は楊昂を援軍に出し、一万余りの兵で冀城を攻撃した。冀城の刺史・太守は降服したが、馬超はそれを楊昂に殺させた(楊阜伝)
馬超は楊阜らが挙兵すると、自ら出征した。趙衢らは冀城の門を閉ざして馬超の妻子を殺した。馬超は歴城を攻撃して姜敍の母を捕らえたが、罵られたため殺した。馬超は楊阜に破られて張魯を頼った(同上)
◆
進退狼狽、乃奔漢中、依張魯。魯不足與計事、?懷於邑、聞先主圍劉璋於成都、密書請降。
進退に狼狽し、そこで漢中に逃げ、張魯を頼った。張魯はともに事を計るに足りなかったので、心に憂悶を抱き、先主(劉備)が劉璋を成都で包囲したと聞くと、密書を送って降伏を願い出た。
馬超来たるのネームバリューは凄いぞ
◆
先主遣人迎超、超將兵徑到城下。城中震怖、璋?稽首。以超爲平西將軍、督臨沮、因爲前都亭侯。
先主が人に馬超を迎えさせると、馬超は兵を率いて真っ直ぐと城下に到った。城内は震え上がり、竜璋はすぐに稽首(頭を地面に打ちつけてする礼、ここでは降伏のこと)した。そこで馬超を平西将軍に任じ、臨沮を治めさせ、以前のことから都亭侯にした。
敗北した涼州軍閥みんな張魯に逃げ込んでるし
通じてた
多分土地を守りたい張魯と利害が一致したんやと思うで
ほーん
◆
先主爲漢中王、拜超爲左將軍、假節。章武元年、遷驃騎將軍、領涼州牧、進封??侯。
先主は漢中王になると、馬超を左将軍に任じ、節を貸し与えた。章武元(221)年、驃騎将軍に昇進し、領涼州牧となり、?郷侯に爵位を進められた。
驃騎将軍とか霍去病の将軍号やん
異民族特化の馬超にピッタリやな
もしかしてそれも狙ってたんかな
左将軍は劉備の元官職やからそれも狙っていると考えられるが
当時の人はこういうの大好きだからな
曹操なんか痛いくらい高祖光武リスペクトしてるし
せやったらおもしろいな
こっちには霍去病の再来がいるんやでー的な
昇進に関する辞令があるが長いので省略
かなり要約すると、「馬超には信と威武があるから北方をまかせる。漢王朝を助けてくれよ」といった内容
◆
二年卒、時年四十七。臨沒、上疏曰「臣門宗二百餘口、爲孟德所誅略盡。惟有從弟岱、當爲微宗血食之繼。深託陛下、餘無復言」
章武二(222)年に卒し(※)、時に四十七歳であった。亡くなるに臨んで、上疏した「臣の一門、二百余人は、孟徳(曹操の字)に誅されてほとんどいなくなりました。
ただ、従弟の馬岱がいるだけで、衰えた宗族の祭祀を継ぐべきです。そのことを強く陛下にお頼み申し上げ、その他は言うことがありません」
※演義では劉備より後に死んでいる
◆
追諡超曰威侯、子承嗣。岱、位至平北將軍、進爵陳倉侯。超女、配安平王理。
馬超を威侯と追諡し、子の馬承が後を継いだ。馬岱は、平北将軍まで出世し、陳倉侯に爵位が進められた。馬超の娘は、安平王劉理に嫁いだ。
いうても羌?は度々蜀に降ってるやで
後期蜀に戦の実力と異民族へのネームバリューがある馬超が居ればだいぶ違うやろ
北方の影響、東漢の名家の末裔が味方ってのと
いろいろな要素が馬超ににはあるからな
本当におc
諸葛亮「ははは、それなりですがひげ殿には及びませんよ」
>>75
関羽「やったぜ」
これすこ
相変わらずめんどくさいなこの髭
ひげやししゃーない
正史のちょろっとした表記から
大した出世やな
どっかのサイトで可能やっていってたで
実は当時は寒冷期で
この時期でも凍るんやでって説やっけ
夏に氷の城作れるんか!?
ロマンやな
>>84
せやせや
寒冷期なのは事実やで
中世寒冷期っていうらしい
そもそも後漢末期の飢饉もこの世界的な冷え込みが原因や
はえー
物語と思ってたのが
研究で裏付けされるのあるとなんかええな
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