如水最後の計略
黒田如水が死ぬ1カ月前の頃、病床にあった如水は連日家臣を呼び出しては彼らに罵倒を浴びせ続けた。
いわれなき罵倒を受けた家臣たちは
「如水様は病気が重くご乱心あそばされたのであろう。」と如水の罵倒に耐える毎日で暗澹たる気持ちになり、如水乱心の噂は息子の長政の耳にも入った。
このままでは家臣の統制がつかなくなると心配した長政は、見舞を兼ねて父をいさめに行った。
「父上、病気が重いのは分かりますが、乱心となれば家臣が動揺するのでどうか心を広くお持ちください」と長政がいさめると
「そなたはワシが本当に乱心していると思ったのか。父のワシが乱心すれば家臣は息子のそなたを頼りにするから、後日ワシが死んでも主君交代がスムーズになるだろう。ワシが乱心したふりをしたのは、そなたのための親心だとまだ気づかぬか。」
と、病床の如水は逆に長政をいさめたという。
出典「老人雑話」
同じ話が、葉隠にも鍋島直茂と勝茂の話として伝わっている。
ニュース
名将言行録から明智光秀と三宅弥平次の話
光秀が丹波攻略をしていたとき、秀吉が陣中見舞にきた。
光秀は「秀吉殿は天下の出来大名だから、顔を覚えてもらえば何かと便利だろう。」
と自分の重臣達を秀吉に紹介した。ところが三宅弥平次だけ病気で欠席。
光秀は「せっかくの機会なのにかわいそうな事だ。」と思っていた。
そして、その秀吉に会ったその日のことである。
光秀が馬に乗って外出しているとそこには元気に馬を乗り回す弥平次の姿が!
念のために小姓にもきいてみても、「あれは弥平次殿にござる。」と答えた。
なんとサボりだったのである。光秀はカンカンになって次の日弥平次を呼び出した。
「せっかくわしが機会を与えてやったのにさぼるとは一体何事か!?」
しかし弥平次はしれっとして答えた。
「世間の武士は再仕官のために他の大名と顔を繋ぎたがるらしいですな。私はあなた以外に仕えるつもりはありませんので会いたいとも思いません。」
光秀は一言もなくなって退出してしまった。
三宅弥平次ってのは明智秀満か光春なんだけど名将言行録では光春だったかな?
※WIKI「明智秀満」
本山氏と共に長宗我部の土佐統一の障壁となった安芸氏の話。
安芸国虎は一時は長宗我部を大いに苦しめたものの、矢流の合戦で破れ安芸城を包囲されてしまった。
国虎は夫人を実家の一条氏に送りかえしたのち、部下の命乞いの為に自刃する。
このとき国虎が妻子を送らせたのが、家老の黒岩越前だという。
安芸城の落城後、長宗我部元親は越前の武勇を惜しみ彼の元に配下の吉田重俊を向かわせたが、彼は「主君が寂しがっている」とだけ言い再び安芸に戻ったという。
全てを察した重俊は越前に一人の部下を伴わせた。
越前が自刃する際、介錯をするものがいなければ困るだろうからである。
果たして黒岩越前は主人の供養を済ませた後、自刃した。
彼の墓は浄貞寺にあり、今も主君の傍で眠っている。
毛利秀元の格好いい話
関ヶ原の退き口と言えば島津の名が真っ先に上がるが、この毛利秀元も島津ほどの大胆さや知名度はないにせよ見事関ヶ原から退却せしめたのである。
最初は他の毛利勢と共に南宮山に陣取っていた毛利秀元だったが、合戦が終わると予め東軍に内応していた吉川広家と福原広俊はさっさと山を降りてしまった。
取り残された秀元も山を降り退却を始めた。目指すは養父・輝元のいる大阪城である。
秀元は、あえて北国脇往還を進み、東軍の包囲する三成の居城、佐和山城付近を通った。
すかさず東軍が攻撃してくるが、秀元はこれを振り切り、ついには京の手前、瀬田までたどり着いた。
しかし、ここで秀元に報告に来るものが。
「前方、瀬田の橋にて、退却してきたと見られる将兵たちが殺到しており、混乱を起こしております。」
瀬田の橋さえ渡ればもはや大坂方の領域である。
しかし、こんなところで混乱に巻き込まれては埒が明かない。
そこで秀元は騒動が収まるまで全軍この場で野営することにした。
このとき秀元は大阪城で輝元とともに籠城し、東軍と一戦交える覚悟であったという。
しばらくし、野営地で食事をとっていた秀元であるが思わぬ急報が入る。
徳川方、福島、黒田の軍勢がこちらに向かっているという。
この先、大坂城での決戦を考えていた秀元は思案した。
ここで、闘っても無駄に兵を失うだけ。友軍のいないこちら側が圧倒的に不利だからだ。
秀元がなおも迷っていると、黒田方からの使者がやってきたらしい。
「黒田どのより使者が参りまして、殿に来陣致すようになどと要求してきております。」
これを聞き秀元の陣がどよめいた。
「体よく殿をおびき寄せ、捕らえようという魂胆か!?」
「返答次第によっては殿を切り殺すつもりであろう」
様々な憶測が飛んだが、いずれも「行ってはなりませぬ」という結論で一致していた。
しかし、秀元は「さようか、されば参ろう。」と承知してしまった。
「なりませぬぞ、殿!これは罠に決まっておりまする!」
なおも反対する家臣たちであったが、秀元は部下数名のみを連れさっさと行ってしまった。
さて秀元の運命やいかに!?以下次号
つづき・・・
黒田の陣には福島正則も一緒にいた。彼らの口上はこうであった。
「秀元どの、悪いことは申さぬ。今からでも徳川方につかれよ。これは、そなたの養父、輝元どののためでもござるぞ。」
しかし、秀元は即座にこれを拒絶した。
「わしは、輝元が陣代じゃ。輝元が大坂にいるのに、陣代のわしがどうして寝返ることができようか。かくなった以上は、早急に大坂まで引き上げるのみにござる。」
こう言うと、秀元は立ち上がった。そして、「では」と言うと、突然黒田長政の手を握り、そのままひきずるようにして陣幕の外に出た。
乗ってきた馬の前まで来ると、長政の手を離して、馬にまたがり
「では御免。」
と一言言って、来るときと同様にさっさと黒田陣を離れてしまった。
驚いて呆然となってしまったのは、黒田、福島の二人であった。黒田は自分がひきずられるほどの秀元の膂力に驚いたし、福島もその気迫に圧倒されて手を出せなかった。
黒田が半ば人質のようにされて、強制的に秀元を見送ることになったのである。結局、秀元の投降勧誘には失敗した。
この後無事に大坂城に入場し立花宗茂と共に徹底抗戦を主張するが、それが叶えられることはなかった。
関ヶ原の戦場では空弁当など不名誉な逸話を残してしまった秀元であったが、実際は、度胸も据わった勇将だったのである。
朝鮮役の秀元は凄いよね。島津や立花に劣らない活躍。
関ヶ原の代わりと言っちゃなんだけど、大阪の陣で大暴れしてるよね。>秀元
武人として徹底抗戦は主張したけど、どうも徳川家の事は基本的には好きだったらしい。
それ以上に江戸と言う新興都市が大好きで、晩年はほとんど国元に帰らなくなっちゃってるなw