毛利元就が、孫、輝元の母親、尾崎局に出した手紙。酒の飲み方に関して
「小椀に1つ2つくらいならまだいいが、中くらいのお椀で二杯も飲むと、まわりの人もこれは飲めると酒を勧め始め、ついつい飲んでしまうものです。
冷汁椀に二杯か、一杯以上は飲まないように、よく言い聞かせて置いてください。私は下戸だったから、こんなに長生き出来ました。酒さえ飲まなければ70,80くらいまで長生きできるものなのです。私を見てください。
私の祖父、父、兄は、酒、酒ばかり飲んで早く死んでしまいました。どうか輝元を、酒飲みにはさせないようにして下さい。」
元就の、孫への気遣いと、酒への嫌悪感が伝わる手紙。
ニュース
一人の家来が実は本名を偽っていたことが判明した
理由を問いただすと「自分はかつて人を殺したから捕まらないため」という
家康は斬ろうとしたが彼の本名を聞いて撤回
「わしはそちの親父殿に昔命を救われた。殺人から時間もたっているゆえ許すので今後もはげめ」
さらに大坂の陣のころ呼び出し「わしが今こうしていられるのも措置の親父のおかげ、感謝している」と重ねて言い秀忠付きの家来にした
その男の名は夏目吉次夏目金之助の先祖にして
かつて三方が原の戦いで「もう死ぬここで死ぬ」と騒ぐ家康の馬のケツを槍で叩き包囲から走らせ自らは身代わりになって死んだ夏目吉信の子供だったのだ
男の名前が出た瞬間に涙がブワッと溢れた
<井伊の赤備えの始まりの話>
本能寺の変の後、甲斐の所有をめぐって北条と徳川の交渉が行なわれた。
北条代表は氏規、徳川は若干23歳の井伊直政。
直政はまだ小姓組の身でありながら、交渉をまとめ上げた。
家康は甲州武士団を徳川に組み入れ、直政に与えた。
榊原康政が「半分でいいから自分に」と申し出たが、酒井忠次が一喝した。
「このたびのことは自分の一存で決まったことだ。おまえが、あくまでも横槍をいれるなら、おまえの一族を皆串刺しにしてくれるわ」
こうして、山県、一条、土屋、甘利の配下は直正の家臣となった。
後に秀吉に「赤鬼」と呼ばれた井伊の赤備えの誕生である。
>>109
(´・ω・`)あんさん次の番は増田長盛でっしゃろ。
そして長盛は茶を飲むふりをして次の人に回し、他の諸侯もこれに倣って進行した。
この時の吉継はまだかすかに視力があった。故にこの光景を見て屈辱と怒りに震えた。
この茶会の後、腹を切ってやろうとすら思っていた。
その時、場違いな音が響いた。吉継がそちらを見てみると、三成が豪快に茶を飲んでいた。
三成が茶碗を置いたとき、茶碗は空っぽだったとさ。
ちなみに
その時、秀吉に「全部飲んだのか」と聞かれ、「殿下の点てたお茶が余りに美味だったので…」
と答えている。
膿という説と鼻水という説がある
どっちにしても嫌w
つか鼻水垂らしたら本人次ぎに回すなw
(ドラマの関ヶ原では、単に義継が飲んだというだけで避けられてたが
そっちのが普通に納得行くw)
自分で飲み干せばよくね?
>>117
いや、作法とかもあるだろうからさ
「飲み干してしまいましたあ(絵文字)」
とはなかなか言いにくいんじゃないかと。
それを三成がやってくれたのがこの話の良いところなのかな
理由はわからないけど…
最も他人を思いやれる人物を見極めるためだった、と妄想してみる…
講談に「清正公の髭汁」ってのがある
茶椀が廻っていく過程で鼻水以外にも色々な物が入っていって
お茶がどんどん汚染されていく話
>>120
それが落語の「荒茶」の元なのかな
豊家武断派連中が家康&正信に茶の湯に招待されたはいいが
全員が全員作法なんぞこれっぽっちも知らない
しょうがないんで忠興先頭にして
皆それを真似する事にしようみたいな噺
清正の髭が漬かって脂が浮いただの
むせて量が増えただのって状態になった茶を
正則が無理やり飲み下すってオチなんだが
鶴光といっ平がやってるの聞いた事ある
>>142
その2人はオチ要員かいw
元の身分はともかく、子供の頃から秀吉夫妻に可愛がられた説が
ある位なら、茶の湯の作法くらい心得てたろうになあ、
なんて言っちゃあ駄目?
吉継と三成の茶の話って、どれぐらいバージョンあるんだろな?
他で俺の知ってる話だと
普段でも吉継が口を付けた後は飲む振りだけして次にまわす諸侯がいたぐらいで
吉継は呆然として、次にまわす事もできなかった。その時に
「吉継。喉が渇いて仕方が無い。早くまわせ」
と三成が吉継から奪い取って、一気に全部飲み干した。
吉継は屋敷に帰った後、泣いた。
というのも有った。
・医学に通じていた毛利元就、桜の木にしがみつく鮭様
・武田信玄の異母弟「川窪信実」の心根、北向きに置かれた信長の兜
・瓜の皮むきをする尼子経久、若き上杉景勝が佐竹義重に送った手紙
・歌舞多城の乞食、池田輝政と福島正則、千利休の石灯籠
・福島正則が宇喜多秀家に贈った備前の酒が詰まった樽