多少のリスクは犯しても攻めれば人取橋でも郡山でも摺上原でも
間違いなく伊達を潰せたのにいつも北条らの動きに過敏すぎて攻め切れなかった
もっともその慎重さがあったからこそ佐竹は生き延びてきたのだが・・
義重が慎重というか消極的だったのは北条の動きを気にしていたと同時に
秀吉の惣無事令を意識して領土の防衛でないこれらの戦いには積極的にならなかったのだろう。
その姿勢が小田原後の好待遇につながっている。
>>503
まあ、読み違いは無かったのは間違いないけどね
関ヶ原でも義重は家康に加担させようとしたし
読みの鋭さはさすがだと思う
例えば摺上原なんかで無理押しして伊達を滅せても
佐竹の勢力は大きくなりすぎて
どうせ秀吉に討伐されないまでも転封や減封を食らったことは間違いないだろうから
合法的に数十万石もらったのは成功と言えるかも知れない
義重にも摺上原の時は誤算はあったと思われ。
摺上原のの前の時は佐竹と芦名は二手に分かれて進軍していったけど
義重にしてみればこちらに有利な状況を作れば惣無事令が出ている以上
伊達が乾坤一擲の勝負を仕掛けてくる事はないだろうと考えていたと思う。
けれど政宗は主力の一部を田村の防衛に割く様なそぶりを見せてから
一気に主力のほぼ全てを芦名軍に向けて進撃させて数的優勢を築き、
摺上原で芦名軍を壊滅させて事実上芦名を壊滅に追いやった。
この政宗の野望や大胆さあるいは無謀さを義重は読み違えたというのが個人的な感想。
佐竹はその後所領や支配力を大幅に拡大していったけど同盟者でもあり防波堤でもあった芦名の復活はならず
東北における佐竹の影響力は大幅に低下したしこの一連の戦いにおいては、
合戦では政宗が芦名・佐竹を圧倒して全国的に名を売り東北での影響力を増すという結果になった。
田村氏の大平城攻撃作戦を立てたのは東義久だよ
ニュース
そう、だから義重も義久の作戦を許したんだけど
全く見当違いだったな
義重は一気に会津まで進軍して芦名と伊達が戦ってる所を急襲しようと
決めたのだが、義久が何故か強固に反対した
実際知恵モノなんだし。
作戦練る人間登用に見込み違いがあったのは上の人間の義久としては
かなり手痛かったろうね。
義久を責めるわけにもいかんか・・・
義久がいなかったら、秀吉と緊密な関係を築く事はできなかったかもしれんしな。
実際義久の外交のお陰で小田原の遅参も逆に常陸支配のお墨付き貰う
というようになったわけだし
徳川とも親密な外交を行っていた
だから関ヶ原後も義久が死ぬまでなかなか佐竹の処置が決まらなかった
作戦の最終決定は義重がしたので、
なんだかんだいって義重に責任がある。
もともと義重自体あんまり博打を好まなかったのは言うまでもない。
例えば北条との栃木での大対陣のときには
義久を始めその他の大隊長クラスが決戦案を主張したが、
義重は何故か真壁の持久案を受け入れたという話もある。
ちなみに『那須記』では、大平城攻めを献策したのは
戸村十太夫ということになっている。
沼尻は8万対2万だろ?
いくら鉄砲が多くても決戦は難しく思える。
とある政宗好きです。摺上原前の東義久の意見についてとあるサイトの資料をコピペしました。
>>義広が芦名を継いでから4人の付け家老送られましたが、
譜代家老たちとことごとく意見が対立したと言われています。
政宗は黒川城内の混乱に乗じて芦名氏の支城である猪苗代城主、
猪苗代盛國を寝返らせ無血で城を奪い取りました。
そしてついに摺上原で芦名対伊達の戦いが始まりました。
この時の人数は芦名勢1万6千騎、伊達勢2万3千騎だそうです。
このころ水戸城内では内紛が発生していました。
義重はこちらからも要請を受けましたので両面作戦を行ったのです。
そのため安積への出陣が遅れてしまいました。
このため義宣は、伊達の拠点本宮城を攻撃するべきだ、との意見を父義重が到着していないとの理由で退けてしまったのです。
義重は歴代の家臣の中でも最も優れていたと言われる東義久を従えて奥州へ向かいました。
この時義重の妻の宝寿院は東義久に政宗を殺さないように命じたと言われています。
義重の作戦は一気に会津に侵入し、摺上原で伊達勢を佐竹、芦名の両軍で挟み撃ちにし、一挙に壊滅させる作戦だったと言われています。
ところがこの作戦に軍師である東義久が強く反対し、伊達氏の与力大名三春の田村氏の支城である郡山の大平城を攻撃すれば政宗は会津攻めを中止するはずと主張しました。
義久は義重の作戦通りに政宗を攻めれば宝寿院の命に反して政宗を討ち取ることになると考えたのでしょうか。
義重はやむなく義久の作戦を取り入れ(東義久の洞察力には定評があった)
安積(郡山)の田村氏の支城大平城を攻略しました。
しかし、この戦いは伊達家に対しては効果的な圧力には成りませんでした。
>>東義久は常陸国鹿島郡6万国を与えられた佐竹家の中でも最高の人材と言われています。
織田信長の後継者が秀吉であると進言したり、徳川家康も東義久存命中は佐竹の移封をしないと約束したほどの人物なのですが、
この時の行動はいかに宝寿院から厳命をうけたとは言え理解に苦しみます。
この一戦における判断の誤りが会津80万石を失い、
更に与力大名の白河、二階堂、石川、岩城、相馬などの諸氏を佐竹傘下から伊達氏の元へ走らせてしまった事になりました。
かなり主観が入った資料だな。義重を庇おうという姿勢がもろに出ている。
>>義重はやむなく義久の作戦を取り入れ
やむなくだろうがなんだろうが義久の意見を採用する決定したのは義重なんだから義重の責任は重いぞ。
>>この時義重の妻の宝寿院は東義久に政宗を殺さないように命じたと言われています。
これは初耳。誰かソースを知ってる人いないかな?
>>会津80万石を失い、
芦名領って80万石もあったのか。当時の佐竹領の倍以上じゃないか。
そりゃ義重の責任が大きいことは確かだ。
だが、「秀吉からも家康からも慧眼非凡と目されていた程の男が何故?」
って思うのも仕方ない事だと思う。
>>527
>>>この時義重の妻の宝寿院は東義久に政宗を殺さないように命じたと言われています。
>これは初耳。誰かソースを知ってる人いないかな?
義重夫人は伊達輝宗の姉か妹だから、嫁ぎ先と実家が全面戦争するのを防ぎたかった
だけだろ?
人情と関係ない話で言えば、政略結婚で嫁いできた嫁は元々そうすることを期待され
ているというだけの話。
信長に朝倉・浅井の挟撃を知らせたお市の方の言い伝えとかもその例。
宝寿院のことは『佐竹家譜』に載ってるよ。
佐竹の小説を書いた土居輝雄なんかがこの説を支持してる。
だいたい伊達は南奥全体の騒擾の中心みたいなところがあって
守護(種宗)探題(晴宗)のころからかなり無茶してた。
んで政宗が出てきたときにも「ま た 伊 達 か」みたいな雰囲気が
奥州にはあったと思う。
義光が伊達を米沢に押し込めておこうとして佐竹を始め
伊達攻囲陣みたいなのをつくったのもそういう理由で、
そんな風潮に義重の台所は、ちょっとやばくない?と感じたんだろう。
宝寿院=伊達御台は例の久保の娘なのでたぶん結構美人だったんじゃないかな。
そいで義久は彼女に憧れていた(佐竹家譜)。
それを知ってか知らずか御台は義久に。あんまり伊達をいじめないで、
なんとか八方丸く収まるようにして、と頼み、義久も了承した。
ちなみに小野崎義政も同じことを頼まれたが、こっちはすっぱりと拒否したらしい。
本宮の対陣で義久がとっ捕まえた政宗を逃がしたのもそんな理由からだと思う。
もっとも政宗自体そんなことを聴く人間じゃなかったと思うけど。
以上は『佐竹家譜』に詳しいのでみてみるといい。
お話としては非常に面白いと思う。本当かどうかは知らんけど。
一方常陸でも江戸VS額田の戦いが起こっていて、
義重はそっちも気になっていたというのは本当。
江戸の家老の狩野何某が江戸の息子か誰かを殺したのを額田が匿った。
それを江戸が返せといい、江戸の意向を受けた佐竹も返せといったが、
額田はねっからの東国武士だったので拒否した。
片腕どころじゃないね。
佐竹に興味が無い人には、その存在すら知られて無いだろうからな。
知らなくても無理ない
>徳川家康も東義久存命中は佐竹の移封をしないと約束したほどの人物なのですが、
佐竹の外交面は東が担ってたのか。才腕発揮しまくったんだろうけど、
佐竹も良い人材に恵まれてたんだな。有能な働き者ってのはいいね。
>>536
水戸城攻略の作戦立案も、沼尻合戦で無条件講和を成立させたのも義久。
東義久の能力はかなりのものだよ。
ノブヤボでの評価の低さが、佐竹好きには信じられん。
※「佐竹義久、信長の野望」
出てきちまいました。もともと伊達好きでも佐竹好きでもなくフラッと
このスレ来ちゃったくちなんですが。
スレ読んでて両方とも好感持った(もとが無知なだけに)。
これから調べよう…時間が足りないなぁ。
義久は、家康に国替えをしないよう懇願しに行った時、
家康から「宇都宮12万石を下賜しよう」と言われたが、
「主君が国替えされては宇都宮を貰っても仕方が無い」と言って断った。
更にこの時、家康に口約束ではなく、国替えをしないという誓書まで書かせてる。
有能で、しかも忠義の臣である事が分かるな。
秋田に国替えしてからは義宣が主導権握ったのかな?
しかし某漫画にも出ていたように国替えされた時の佐竹の家中は相当複雑な思いだったろうな。
三成に味方していれば取りつぶされていた可能性が高かったが、
ほぼ中立を守ったのに前田は本領安堵で逆らった島津もほぼお咎め無し。
東義久の誓書も「義久が生きている間は」国替えしない、という風に解釈できるような文面にされたのか。
誓書の内容は、「家康一代、中務一代、国替の儀あるべからず」
だから、義久が死んで、更に家康が隠居してしまっては約束も消滅してしまう。
家康が死んだら誓書の効力は切れるようになってんだし。
これだと誓書の効力が切れないうちに
第2第3の策で国替えを回避しなければいけなかったのか。
国替え後の石高の大小はともかく
地理的にみると常陸は江戸からの距離もそう離れてはいないし、
親徳川でない大名を配置するのは危険だと判断されたのだろうけど。
>>550
義宣は、伏見に上洛する途上で、帰還途中の秀忠に挨拶し、
佐竹への対応を善処するよう懇願したんだが、この時の秀忠の態度は好意的だったらしい。
だから、家康が死ぬまで何とか引き伸ばせてればまた違ったかもしれん。
佐竹の国替えが決まった時、伏見では「佐竹勢蜂起す」の流言が広まったらしい。
上杉攻めでも、討伐軍の間には佐竹が背後を衝くとの風説が流れてたみたいだし。
それほどまでに危険視されてたんだから、常陸に留まるのは難しかったろうな。