秀吉が北条潰さなかったら佐竹は北条に潰された可能性が極めて高い
佐竹厨には痛いところですが北条に押されてジリ貧でした
沼尻合戦を引き分けて以降は小競り合いが続いてただけで、
特に脅かされていたようには思えないが。
全面対決も無かったし、どちらかというと南奥の対応におわれてたような感じがするが。
~天正年間前期まではピンチもあったが。
1590年までに北条は6カ国以上に勢力を伸ばして兵力も7万にまで達していた
武田、上杉の動きが相次いで止まったお陰で北条は本格的に常陸攻略にも
力を入れ始めていた
直接対決は行っていなかったが常陸周辺の豪族の切り崩しを行っていたから
恐らくその後で大規模な攻勢に出る予定だったと思われる
土浦市周辺にはいくつもの巨大な城郭を次々と築城してたところから見ても
北条は常陸南部に着実に佐竹攻略への足掛かりを作っていた事を見てとれる
俺は茨城在住だからよく分かるけど
土浦、石岡あたりと水戸、太田あたりは目と鼻の先だよ
だから佐竹にとってはかなりの脅威だったと思う(ずっと平野だし)
会津なんかは太田からだと300キロぐらい離れてるから
何か現実感がない
佐竹は大子(茨城北部)なんか本拠の太田から見て山越えて裏側なのに
僻地扱いで長い間放置していたぐらい北は進出の不便さもあって
あまり関心を持っていなかった
義重の葦名への読み違いもそういう感心の薄さも関わってるんじゃないかと思う
>>252
上総や常陸まで北条の勢力が及んでたのは分かる。
だが、常陸南部の辺りはそれこそ義重が家督を継いだ時から親北条が多かったような。
それに、家康と同盟し背後を固めた上で八万もの軍勢で攻め寄せた沼尻合戦でも
勝ちきれなかった上、秀吉が関東出馬の意向を示していたあの時期に、
それほど簡単には佐竹は滅ぼせないと思うが。
あと、北への関心が薄いってのはありえないと思う。
義重は若い頃から何度も南奥に出兵してるんだし。
南と北を比べたら北の方が関心薄いって事
南部の広大な水田地帯は誰が見ても垂涎物だよ
北は会津まで行っちゃえば別だけどそれまでの道のりが大変
今でも不便なんだから昔はもっと大変だったはず
茨城から福島みるのはちょうど宮城から岩手や青森見る感覚と同じ
北より南のほうが得るものが大きいのは分かる。
でも天正八年に勝頼から北条討伐への協力を求められた時は、
仙道への出陣依頼のほうを優先し、対北条戦の展開は翌年になったりしたが。
北条の8万もの大軍で倒せないなら
伊達じゃ全く話しにならんじゃないか
伊達の場合は位置的に北条と挟撃できるのでより有利に進められる。
摺上原直後の北条もしかり。
佐竹は芦名が滅ぼされて秀吉の介入があった(当然介入があるのは計算してただろうけど)から難を逃れた。
ただ摺上原直後はもう秀吉の北条征伐はほぼ決定的だったから佐竹からしてみればピンチとは思ってなかったかもしれない。
あの戦では、佐竹方には北関東だけでなく南奥の諸将も参戦したし、
佐竹方は8千挺もの鉄砲を用意したとも言われる。
いくら兵力で勝っていてもなかなか勝ちきれないだろう。
土浦まで小田原の勢力圏内だからな
常陸の半分まで北条が入りこんでいた
端から見てる分には面白そう
資料読んでると義重の忙しさにこっちまで疲れてくるw
ニュース
伊達と戦いながら更に大軍の北条と交戦するなんて
義重は凄いよ
ネットで見かけた沼尻合戦の資料のコピペ
佐竹氏はその当時南奥州の地において伊達政宗と交戦中だったが、
兵を二手に分けて佐竹義重自らが参戦。
北関東の武将を総動員し4万の兵力をもって北条氏に立ち向かった。
この戦場は下野藤岡で渡良瀬川を挟んで行われた。
この時の佐竹勢の鉄砲の数は8千挺以上といわれている。
この戦いも両軍が対峙したままにらみ合いが続き勝敗を決することがなかった。互角の勢力だったのだろう。
佐竹側からは東義久、北条氏からは北条氏照が交渉人となり、佐竹、北条両氏の間に無条件講和が成立。
この講和の成立以降北条氏は北関東に攻め入ることはなかった。
天正16年に、北条方の大掾清幹と佐竹方の江戸重通が争った時、
義重は重通の要請を受けて出陣し大掾方の田余城を攻め落とし、
それを見た北条氏直は江戸崎まで出陣、多賀谷や小田を攻めてる。
すぐに和睦して北に向かったけどね。
どうして上杉-武田-織田の三者のように思い切りよく一時的和睦ができなかった
ものか。
政宗を斬首するまで北条とは争うべきでなかった。
むしろ、南奥州を制圧してから雌雄を決するべきだった。
そうすれば、奥州の弱兵を城の貼り付け部隊として使い潰して常陸の精鋭を機動打
撃部隊として使うことができたのに。
だから順序的には北条が先だけど北条倒すってのは無理がある・・・
それに伊達と和睦も無理だろうし
結局両面作戦をとるしかない
伊達を滅ぼす事は可能だったろうけど
武田・上杉が使い物にならなくなった以上北条を牽制する手だてがない
義広が後継者になるまでは佐竹と芦名は同盟者ではなかったんだから。
義重自身は惣無事令に従う方針固めてたんだし郡山ではさっさと引き上げてるし、
そもそも伊達を倒そうとも倒せるとも考えてなかったと思うが。
>>275
葦名を勢力下においた後伊達との全面戦争に踏みきれば
佐竹が勝つに決まってる
背後になにもいなければね・・・
>>277
背後の問題を無しにしたら、
人取橋で政宗は負けていた可能性が極めて高いし戦死する可能性も低くない。
逆に摺上原後は佐竹が伊達と北条に前後から攻め立てられて滅亡と言うのもありえる。
実際には大名は当然周囲の状況を読んで情報を集めて戦略を決めていたのだろう。
北条征伐の直前とその後の戦後処理も含めるとこんな感じか。
↓
北条⇒秀吉の力を見誤り対立して滅亡する。
佐竹⇒早くから秀吉に臣従して秀吉の方針にも従っていたのでいたので北条滅亡後かなりの利益を得る。
しかし芦名の復活はなかったので有力な同盟者を失う。
伊達⇒天下を諦めず北条征伐直前まで秀吉に臣従せず惣無事令にも違反するが、
外交や処世術を発揮して本領安堵+芦名領以外の占領地の併合を認められる。
これによって奥羽の中では最大の大名となるが、
摺上原前後の一連の戦いでかなりの戦費や人的損害も費やす。
結局どっちが優れてるとは言いきれないな
義重、政宗>氏政
だけはハッキリしてるけど
やはり本命は北条打倒でしょ
佐竹にとって奥州なんて全く戦略的価値ないよ・・・
伊達が会津や関東無視して南部や蛎崎に必死に戦い挑むようなものじゃないか
その点義重の方が優れていたとも言える
しかし結果的に言えば、なんとかうまく泳ぎまわって
佐竹より多くの領地を安堵されたから政宗が義重に劣るとは言えない
まあ、必死に言い逃れしたって点はちょっと政宗もみっともないが
天守どころか石垣、水掘りすらない
20万石以上あったのにこの程度の城しか作らなかったところに
佐竹の凄さが伺える
ちなみに佐竹が数百年居城をおいてきた太田城も土塁程度しかない
信玄と同様に城というか館程度に住んでいた
さすがって感じだ
佐竹はそれとは違うと思うが…。そんな考え持ってる節はあったっけ。
名将ってのは常に外に出て戦うから城なんて無くてもいいんだよ
北条・・・
北条だって好きで篭城してたわけじゃないw
幕府への配慮から石垣も天守も作らなかったって言われてるけど
実際は無駄金使わないように作らなかったんだと思う
佐竹は昔から城に金かけなかったから
義重なんかは篭城戦って一回もしてないと思う
常に外で戦っていたから城には金かけたくなかったんだよ
佐竹支配下にはマトモな城って一個もないよ
みんな土塁回しただけの粗末な城ばかり
城は領内の政治、経済、交通常の要地に構えられるべきであって…。
でも軍事をおろそかにできないよね、乱世の時代は。
そこで小高い丘とかに建てたりするのさ。
築くっていうのは。
で、下に家臣住まわせたりね。町形成したり。
そう思うと北条の城は凄いな
築城術云々じゃなくて作らなかったんだって
清々しい。
年貢が安いのにあれだけ戦ばっかりしてたんだから
築城は莫大な労働力と資金が必要だから
なくて済むなら無い方がいいもんな
領民だってその分楽になる
江戸時代になってからは皆見栄張って壮麗な城など作ったけど
佐竹などは20万石あってのあんなボロ城のままでいたのは凄い
皮肉なのはかつて佐竹の本拠地だった常陸の水戸家が
見栄の為に重税をとって領民を苦しめてたって事だな
援軍が期待できないで相手が長期間包囲できる物資を用意しているんだったら、
そのまま負けだろうな。
籠城失敗例→斉藤氏の稲葉山城の籠城→援軍が期待できず有名武将が龍興に愛想を尽かしたこともあり内部崩壊。
籠城成功例→毛利の郡山城の籠城→尼子は郡山城を長期攻略する準備をしておらず(短期でけりをつけるつもりだった?)
また毛利方は大内の援軍が期待できた。
士気は萎えるし、例え撃退できても
城下は荒らされて再建するには相当な労力と資金を費やさなければならない
あるよね。それは信玄の例を出される場合が多い。
でも
>平城とかってかなり不便なはずなんだけどなぁ。
>城は領内の政治、経済、交通常の要地に構えられるべきであって…。
はその通りだと思う。
政治、経済、交通の要地。部下住まわせたり、城下町の形成とか(楽市楽座が始まってから
特に顕著)。だから城を高めのとこにしたほうが構成するのに良いんだよね。
そういう意味で城は篭城のためだけじゃないってのはうなずけるよ。
それは城の位置の問題だろ
なんで経済や交通の為に天守や石垣、水掘りが必要なんだ?
そんな無駄金使うなら佐竹式に簡単な城作って町や農村に投資した方がいいだろ
立派な城がそのまま墓になったヤツは数知れない
武田がいい例だね
信玄の代では躑躅ヶ崎の館にいたのに
勝頼は新府城.作ったけどあっと言う間に滅んだ
城を厳重にするって事はそれだけ外敵に対して不安があるって事だ
余裕と自信がなきゃボロ城なんかにオチオチ住んでいられない
城下やその周辺の作り方によっては、そうとも言い切れないと思うが。
佐竹は城作りよりも野外で戦の方に重点置いてたんだろう。
だから佐竹はその周辺に力を入れてたんだよ
佐竹の内政が優れてる事はあまりに有名じゃないか
特に鉱山開発の技術が凄いよな。
佐竹がいたころの常陸は全国有数の金産地だったし、
国替え後に秋田でも金山を開発して、今度は秋田が有数の金産地になった。
1
立派な城を造り兵士がたくさん駐在。
城の周辺の治安が良くなる。
商売人達が安心できる場所として人が集まる。
城下町が発達する。
経済が発達して現金収入が増えてウマー。
2
他には立派な城なら攻め落とすのが難しい。
周りの大名がそこまで押し寄せてくるのをためらう。
その城の周囲は比較的安全。
もしかしたらこんな効果があったかもしれない
佐竹も武田も城らしい城がなくても
全部その条件を満たしていますが
城下町もあわせて、城作りだろ。
のがわかるな。
領土拡大が捗らなかったと言えるんじゃない?
信玄を例に挙げると、別に本拠地に壮大な城がなくても
拠点には必ず堅城を築いてるし
外に攻めると言ったって闇雲に攻め続けるだけじゃ
謙信といっしょだろ?
重税を課さなかった
北条のほうが数倍名君ってこった
大阪城だって外掘り埋めなきゃ難攻不落だったんだよね。
俺は伊達好きな人間だが、寄生獣の作家の岩明 均が書いた「雪の峠/剣の舞」をよんで
伊達よりもむしろ佐竹の関ヶ原後の城作りの構想の方が詳しくなったかもしれん。(もうあまり覚えていないけど)
あの漫画で一番格好良く感じたのは何故か義重だったが。
佐竹義重は陰流の使い手だったり、戦場で武勇を発揮した逸話が残ってるが、
政宗には何か無いのか?知ってたら教えて欲しい。
佐竹の事しか書いてない自分が言うのもなんだが、スレが佐竹の事ばっかりなんで。
俺は伊達についてはそんなに知らないから、伊達の事の方を知りたい。
まあ当たり前といえば当たり前で、いちいち総大将が前面に出て戦う
なんてことは滅多にありはせん。人取橋で辛うじて槍を持って戦った
記録は出てくるかもしれんが。
>>352
やはり無いのか。
確かにそういう逸話が残ってる義重の方が特異だからな。
人取橋は本陣近くまで迫られたから、政宗自身が槍を持つ必要に迫られただろうが。
確か、臑当て、腹、肩の三ヶ所に鉄砲傷、兜に矢傷が二ヶ所だっけか。
よく生き残れたよな。
いつごろ戦ってたのか知らんけど
義重相手に勝ってるってのは凄い
那須氏ってどの程度の力があったのだろう
那須七党って言っても2,3万石程度の豪族の集まりのような気が・・・
あ、3万石でも7党なら21万石か
十分に匹敵できるじゃないか
自己完結してしまった・・・
>>425
義重の那須攻めは永禄九年が最初。
那須資胤と大関高増の争いに介入し、大関側に東政義を陣代とした援兵を送った。
更に直前に味方に引き入れていた茂木や、宇都宮とともに総勢三千で那須攻めを行い、
千本城や森田城を落としながら烏山に迫ったが、千二百の那須勢の奮戦を見て、
東政義は敵を大軍と見誤り降伏、佐竹方の敗北となった。
翌年、長倉義尚を陣代として再び那須へ援軍を送るも、那須勢のの奇襲によりまたも敗北。
更に翌年の永禄十一年、那須と大関の和睦が成立したため、義重は烏山北方の松野に築城、
これを那須攻めの拠点とし、二年後の元亀元年に義重自ら出陣、那須郡の大山田城を落城させ
烏山に圧力をかけた。
この戦いにによって、佐竹の那須の間に和睦が成立、資胤の娘と義宣の間に婚約が成立。
更に那須武茂郷と芳賀郡茂木郷が義重に割譲された。
義重は意外と北条や伊達じゃなく那須に一番梃子摺った
2度ぐらい大敗している
さすが那須与一を出した家系ってところかなw
>>427
東政義って佐竹(東)義堅の親だよね
義堅は高瀬で戦って破れて治部内山で降伏したけど
政義が降伏したってのはそれのことかな?
親子で出陣してたのか
それとも別の話しかな?
同じ話。その、敵を大軍と勘違いして降伏したのが冶部内山での事だから。
戦国セレクションの伊達政宗とかは多分べた褒めだろうから。
普通に郷土史関連漁ることを薦める。
まあ、もっとも。
物事を冷静かつ客観的に見る視点があれば
戦国セレクションの伊達政宗とかでも十分といえば十分。
美化バリバリとアンチ伊達から不評の独眼竜政宗からして
伊達家の監修が入ってるから、演出上やむをえない点を除いて
それほど乖離はしてない。
佐竹を汁上で有用な書物。
・佐竹家譜
上中下と分冊。佐竹家の事跡が当主年代別に書かれている。
佐竹家の書ながら家名を飾るような言説は少なく、比較的冷静。
ただし過去に遡るほど参照する史料が少なくなり、たしか中編の
半分以降はすべて義宣の家譜に当てられている。
絶版。古本市場では一冊二万から三万円だったと思う。
・佐竹義重
福島正義著。義重の事跡を丹念に調べてある。
ほぼ全ての事象に史料名が付されているので、追って調べるに便利。
著者の目は冷静で非常に客観的に書かれた良書。
絶版。古本価格は不明。一万円後半から二万数千円程度か。
・中世東国大名常陸国佐竹氏
江原忠昭著。佐竹の太祖から義宣までの事跡について書かれている。
ただしそれぞれの佐竹当主の記述量はそれほど多くは無い。
著者は自治体史の編纂等にもかかわっており、記述は客観的。
また史料も明示してある。佐竹氏の全体を把握するには有用な書。
絶版。古本市場では二万円前後。
・常陸佐竹新太平記
関谷亀寿著。佐竹史の転換期をスポットでとらえている。
ただし客観的とは言いがたく主観が強い。
現在でも買えると思う。
・佐竹史探訪
土居輝雄著。戦国時代付近を人物、家別に記述している。
やや主観が強いが、佐竹家臣団について知るにはかなり良い。
現在も発売中。
・佐竹読本
高橋茂著。佐竹史についてスポット的に一問一答式で記述。
しかしかなり主観は強い。
現在発売中であるが、個人出版であり
水戸近辺でしか手に入らないかもしれない。
・茨城県史 茨城県史料 中世編
本当に自分で調べたいなら購入すべき。
全部で七冊だが五、六万円くらいで買えるはず。
茨城県史料館で通信販売で買える。
・中世のなかに生まれた近世
山室恭子著。これは佐竹に関する記述だけではないが、
戦国という時代を知るのに非常に重要な書籍なので挙げる。
各家に伝わる文書を時代内容印判別等によって分け、
その時々の大名の状態をダイナミックに読み取っている。
各大名の具体的事跡には触れないが、そんなものは一切必要ない
ほどの事実を垣間見せてくれる。
はっきりいって、これを見ずして戦国時代を語ることは有り得ない。
非常に優れた研究成果である。現在発売中。
以上。伊達に関しては非常に沢山の書籍が出ているが、それだけに
事実とか何とかという点に於いてはどれも似たり寄ったりだと思う。
むしろ論文や論文集を探して読んだほうが
より根本的な場所からの理解が得られると思う。
試しに「東北大名の研究」あたりから読んでみるといい。
これは古本市場で一万円程度。