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のウンチクをお願いします。
まず、言うまでもないでしょうが、すべて垂れ流しです。
次に形態ですが、3等車が和式、1・2等車が洋式と、はっきりと階層分け?がなされています。
これは座席にも当てはまりますが・・・
便所は創業時にはなかったのですが、開業区間が延長するにつれ必要性が高まり、確か1889年ごろには出来ていたと思います(このあたり少しうろ覚え)。
形態的には外出の通りですが、車両内における位置では、現在のように車端部ではなく、車両の中心付近に置かれていました。
台車が汚れることを考慮に入れたこともあるのかな?
もっとも図面を見ると、1・2等の仕切りとしての役割も負っているのが伺えました。
3等車のほうがむしろ「転換クロス」だったりします(背ずりは板張りだけど)。
これは1912年に運転を開始した特急列車でも同様でした。
その理由というのは、いろいろあるでしょうが、「車体長が取れなかったから」という理由付けが一般に広まっています。
果たしてそれだけかは、疑問というか、最高の余地ありそうです。
車体長というより車体幅の問題では?
まあ、実際に経験した人の話なんてそりゃ無理だから、書籍などで得た知識をもとに議論するしかないわなあ。
あ、ごめんなさい。車体長じゃなくて、車体幅です。訂正します。
創成期の狭隘な社内に詰め込むには黒須シートの方が有利でした。
その通り。だから逆に、優等車はロングシート。
しかしあの椅子は、どう見てもベンチじゃなく、ホテルのソファーの延長だ。
>>12
2ちゃん以前にこの世にいるかどうかが問題かと。
今日本で最高齢の方って何年生まれくらいかな?
トリビア的ネタを少々。
明治末から大正初期にかけて、寝台車にはダブルベッドを備えているものがあった。
ところが風紀紊乱を助長するとして短時日のうちに廃止されてしまった。
一方アメリカでは、いわゆるプルマン式の開放寝台が、
同じく風紀紊乱のもととして批判され、個室タイプへと切り替えられていった。
ところがこの結果、寝台車はむしろ格好の逢引の場となってしまい、
寝台車を縄張りにする売春婦も登場したとか。
明治・大正から時期は少しずれるが、こんな本があります。
昔の「富士」はいまいずこ(交通出版社刊・西沢有著)1,400円、1994年刊
この本では、開放型(おそらくはツーリスト型のマロネ37あたりでしょう。昼間がロングシート状態になる)の車内で不倫をしたおっさんの話が出てます。
車掌にばれて(スリッパの位置で)、結局2等座席車に移乗させられたとのこと。
究極の上級客車、御料車だと、12号以前まで玉座は窓を向いている。
明治時代、まだ列車内電話がないころ、侍従や鉄道職員の前後の連絡
のための通路があったので、御座所の巾が1.8メートルしかないのが原因かも。
1,2号(2軸)は通路もないのに窓向きの玉座だが・・・
そのソファを逆向きにしたのが、一等展望車。~~あれこそ、ある意味究極のロングシートだと思う。
う~んと、大井川のお座敷客車と展望車も、大正頃の客車でつね。
客車→電車(性撫サハ1500)→客車(大鉄)
ま、台車と台枠しか、残ってないけど
室内は車幅いっぱいの長さの座席が鎮座ましましていた。
外からはドアが林立するもの凄い姿だった。
その「密室性」の中、強盗事件がおきて、通路の重要性が出来たとか、鉄道史料に記述があった。
詳しくはまた調べて見ますわ。
あれほどたくさん合った車両なのに、なぜか1両も残ってない・・・
まあ、それだけの価値がなかったといわれればそれまでだが。
価値が無かったのでは無く、
戦中戦後の酷使は想像以上のものだったろうし、
木製、半鋼製共にボロボロの状態で走っていた
みたいなので残したくても残せなかった,と考えるのが
妥当なところでは?
(ピクのオハ61系特集にもそういうことが書いてあった記憶が・・・。)
どもです。
そう言われてみれば、確かにあの時期におそらくさんざんこき使われたであろう車両の筆頭でしょうから(しかも木製)。
そりゃまたすごいや・・・
そういえば、オハ60・61の座席、背ずりが板張りでしたっけ・・・
最近、もと巨人の吉原正喜選手の本が出ていて、旧制中学時代、川上哲治氏と列車に乗っている写真が出てましたが、あれもナハ22000ぽかったなあ・・・
戦時中は、逆が結構ありました。戦後は、20系のマヤ20の種車のオハシ30など、もとはおは35だから、ある意味それに該当するでしょう。
>>25-26
オハ60,61に台枠を(切りつなぎして)譲ったのではありませぬか?!
(台車、座席etcもか・・・)
♯ナハ22000系
要望の頃、祖父に連れられて成田山お参りに逝くトキ上野から乗りましたYo
牽機は86です
編成の真中に乗ったので前後に5両くらいずつ繋がってたとキオーク
5月頃で田植え前の田んぼの中の築堤をのんびりと・・・
ナハ22000は明治の末から昭和2年まで造られていたんですね。
SLでも8620、9600なんか長きに亘って営々と造られ続けているし。
この時代、国鉄(鉄道院→鉄道省)がいわゆる『広軌改築論』に揺れ動いていたことと
やはり何か関係あるんでしょうか...
蒸気に関しては性能の良さもさることながら
という事で量産されたという面があるでしょうが,
客車に関しては乗客数の増加と路線延長による
輸送力増強が重なった時期でも有るからその辺りが
何かヒントになるのかも(^^;;
『広軌改軌論争』とはあまり関係ないのでは?
>>35
別に「部品」使って出来た車両の事話しちゃいけないとは言ってないが、
肝心の明治大正のPCの話が出てこないからさ。w
例えば北海道のC6232,44の話するときに、その車輪とテンダーを使った15,16の
話ばっかりじゃおかしいと思うがな。
誰か、5人掛け向かい合わせ車両の話や、日本初のボギー車(材料エゲレス製)や
最初に電灯を装備した関西鉄道のPCだの日本初の食堂車(山陽鉄道)の形式の
話を聞かせれよ。
食堂車だが、後の合雑食堂車の原型を見る思いだった。~~ビュッフェ車のサハシ153など。
問題は、この「食堂車」ってやつは、昭和の戦前のつばめでもそうだが、冷房・扇風機系の先駆を行きやすい車両だということ。
この車両にはそれこそ、扇風機が2台も(!)ついてた。
しかしテーブル配置は、後の食堂車とそうかわらねえところもみそだ。
そういえば俺、戦前の特急つばめの食堂車の木彫り花柄の扇風機カバー持ってるの
いま思い出した。
明治の初めはイギリス流儀だったのに、ある時点からアメリカ流儀に切り替わった。
イギリス流儀が好まれなかった背景は何だろう?
そもそも最初の客車が馬車の客室形態の模倣であったことを考えれば、馬車にない要素、
つまり車内を貫通する通路や前後に集約されたデッキを考え付いたのはいつごろ、どこの国
なんだろうか?
多分アメリカなのだろうな。
おそらくそうではないかと思われる。
一等展望車の一等室部分~~戦前・コンパートメント、戦後・開放型の1*1のリクライニングシート。
これが後のパーラーカーの原型。でも、クロ151の前部の個室は、ある意味イギリス型、か・・・
新橋創業当時の2軸客車数59両
車体長4.7M 幅2.1M
定員30名
10人ボックス(それぞれにドア、外にカギ)
座席は背ずりも腰掛けも板張り
照明は石油ランプ二個
暖房なし
アメリカンタイプのさきがけは幌内のボギーだろ。
キートンの大列車追跡に出てくるようなやつよ。
なんでアメリカはエゲレス式の客車にしなかったって?
あんなシートごとに仕切り壁がついてるようなやつじゃ
山賊やインディアンに襲われたら鉄砲が撃てんわなー。w
そういや急行八甲田のマシ35でメシを喰ったことがあるが、とにかーく
窓がデカくて眺めは最高だったな。室内も全くレストランと変わらない造りで
アニメヲタが歓喜しそうな、まんまウエイトレスルックの綺麗なネーチャンが4人
お盆もって待っていたぞ。 それに比べてオシ16なんざ場末のハンバーガー屋だ。
ほんと、食堂車のオネーチャンは綺麗な子が多かたなぁー。
小樽の駅前ロータリーの日本食堂のネーチャンも綺麗だたなぁー。
機関車のススだらけのオラの顔を拭いてくれた優しい子もいたなぁー。
あはは。
食堂車という粋な文化をなぜ残さんのか分からん。
日本人の暮らしはどんどん貧しくなっていくな。
食堂車が付いてないのは特急じゃねえ。
>>53
日本食堂が『峠の釜めし』には勝てない、と思ってたから(w
ま、定数40(でしたっけ?)という厳しい枠があれば、食堂車を繋ぐ余裕があったら1両でも多くハザを繋いで客を捌くべし、という考え方はあったかもしれませんね。
>>55 わはは! 惜しいっ
正解は… スープがこぼれるから。
その客車はイギリス式なので、外から見るとドアがずらりと並んでいて、内部は小さな個室がいくつもあるタイプだった。
で、問題となったのは風紀の乱れとか。 何と学習院に通う深窓のご令嬢達と男子学生達がナンパを繰り返していた。
その縁で結ばれて後に出世した大物も何人かいたという。
ドキュソと令嬢を隔離するために明治の中央線で史上初の女性専用車が
設定されたんじゃなかった?
昭和10年代以前のドキュソは小卒か、せいぜい高小止まりでは?
明治村のは青梅鉄道出自なのに実在しない「青森鉄道」の車両とした本もあるね。
誤植の資料の孫引きでしたっけ?確か。
青い森鉄道と間違えたとか(藁
鉄道ピクトリアル昭和54年12月増刊号(名鉄特集号)の90㌻。
寄稿者の白井良和サンって、確か本職は中学校の先生じゃなかったっけ?
尤も、ピクも毎度々々誤植の多い本ですから、白井サンじゃなくピク側のミスの可能性もあります。
それが原典ですかね(笑)後に他の本で「青森鉄道」見たから。
>>85
白井良和氏は確かに、中学の先生です。白井昭さんという人もいて、こちらは大井川鉄道のえらいさん。
二等車の件ですが、面白い話を聞きました。
なぜ二等車が支給されなくなったかという門で、
県庁職員などが休日だかに鍬などの農作業の道具を持って二等車に乗り込んで、あまりにも「ふうがわるい」(これ岡山の方言で、みっともない、の意)ので支給されなくなった。
と、本当とも思えませんがある市役所の職員さん(50台)がおっしゃっていました。
兼業農家、多いし、ありそうだね。
明治・大正期の大学生は、やはり帰省などの折には三等車に乗っていたのだろうか。
最も卒業後は、彼らの多くは新卒と同時に二等車に乗っていたと思われるが。
というのが、県庁あたりでも1960年代半ばまでは出張時は二等車の運賃が支給されていたことと、もうひとつは戦前の大卒初任給は肉体労働者の平均賃金のおよそ倍だったこと。
それが根拠です。
>県庁あたりでも1960年代半ばまでは出張時は二等車の運賃が支給されていたことと...
国家公務員の場合、1979(S54)年頃まで係長以上の役職の出張時は全てグリーン料金が支給されていました。
現在は本省の課長級(地方の局なら局長級)以上にしか支給されないとか...。
映画「警察日記」の最後の方に
C10に牽引されたナハ22000系らしき
客車が映るけど,木造客車は
昭和20年代末頃まで使われていたのだろうか?
ちょうどそのあたりまで営業用に使われていましたね。
使われていたと思うよ。
60・61系が増殖するまでは、使用されていたでしょう。
列車食堂が外食産業の先端を行っていた、古きよき時代をしのべます。
うん。いい本だね。
>>95さん!
これだけは買う価値あるよ、ホント。どうしてもいやなら、近くの図書館で鉄道ジャーナルの連載をコピーさせてもらったらどう?
おいらはコピーも持ってるよ。
で、明治期の食堂車というのは、案外あちこちの中小鉄道でも営業していて、意外なんだが大衆に食べてもらえるような姿勢をとったところもあった。
あのころの洋食=ブルジョアという印象なんだが・・・
その昔(昭和末期)ブルトレの食堂車を利用したが、あれじゃファミレス以下だ。
庶民のための「和食堂車」てのはどう?木造オンリーだが。
カウンター式のすごいやつ(夕刊フジかこれは)。
500円を出すのが嫌で、自由席で座れない連中が、ビールだけで粘ってたし、末期は、お前、たまには風呂入れ、洗濯しろという連中がたまってた。
大衆化の結果が、むしろ、下層化したんだな。
今はもう絶版かも知らんが学研の「機関車・電車」という図鑑があった。
新性能電車の特急サシ(多分181)とサハシ165(だったと思う)が連続登場。
列車の中で食事ができるとは何と贅沢な、そう思ったのわしだけ?
乗ったのは国鉄末期。何も言うまい。(T_T)
木造客車の特別室とは禁煙室ともいうのでは?あれは28000台か。
鉄道史料から中型・大型の図面が出ている。大正浪漫ぢゃな。
特別室付は大型二軸二等車にもあった。20600台だったかと。2形式が確認されている。
20600台って二等寝台だったから、ずばりではないはず。
大体一等寝台車だよね。特別室つけるのは。
所で、讃岐鉄道の食堂車はどうしたんだろ。
あの図鑑は名著。
子供に媚びず大人向けの内容ですばらしかった。
私が鉄道趣味に入ったのはまさにその図鑑の影響です。
小学校低学年頃に買ってもらって毎日毎日飽きずに眺めてた記憶が。
この前引っ張り出してみたら、何かごちゃごちゃと拙い書き込みで一杯でした(w
ニュース
大物、九州鉄道の「或る列車」についてはまだ触れてはいけませぬかえ。
昭和の三十を数える頃になりても、札幌局に1輌は残っていたと聞きます。
而も状態は良好なりき。
何故に保存してくれなかったのやら……。
ぜひ、詳細をよろしく!
国有化がなければ九州鉄道で運用に入ったのか、
それとも国有化を前提とした上で資産価値上昇を狙ったのか、
いずれにしてもわが国にしては破格の車両でしたね。
どうも、後者の説が存外根強い気がします。
そりゃ、そっちのほうが面白いから。聞くほうにしても話すほうにしても。
昔は、皇族というのが今より多くて、華族という人種もいた。
特別列車を運行するクラスじゃないが、一般人とは隔離して運びたい。
そういうのを収納する必要上、個室の特別室があったのでは?
燕が運行された時、昼行特急なので編成に個室がない。それで、個室付き展望車が出来るまで、個室の付いた寝台車を付けていたとか。
元専務車掌氏の本に、その筋は「前官礼遇」をたてに一等車のコンパートメント使用を車掌に申し入れたという話が残ってます。
最近図面や写真を見るにつけ、実は今の新幹線のグリーン車など比にならない豪華なものだったんだな、と。
そりゃ、単純比較すりゃあ今のグリーン車どころか、普通車で十分居住性はいいでしょうけど。
あの明治期の座席は、まさに「ソファー」だったんだなあ・・・
あれこそが「走る社交場」にふさわしい設備なんでは、と。~~ある意味では後の20系客車すらしのぐのでは・・・
20系であれに匹敵するのは 恐らく ナロネ20の二人個室だけだったかと。
TMSで山陽鉄道の客車を作った浮津氏の記事で「今ではちょっと想像出来ない豪華さであった」と書いておりました。
「或る列車」製作記事はTMSとトレイン(故加藤清)にもあり。特に古いTMSは木造客車の製作記事などがあり好きな人には重宝する。
昭和30年頃だったら 鉄道院が最初に作った木造電車デハ6200のなれの果て
クケン23100(クヤ16)もまだ存在しておったな。これも保存してほしかった。
あれもしかし、よくよく考えてみると「ロングシート」だな。
明治期の寝台車の気分を味わいながら、そんなに高くない料金で一夜を明かせます。
時代的背景を考えると、明治期の寝台車は「やっぱり1等&2等」、しかしサンライズのほうは、「所詮三等」。
隙間風が入らなくて、味わえるか?
まあ、そうだけど、そこはつっこまんといてくだせえよ。
なんちゅう本かいな?
確か、「鉄道誕生物語」とかいうやつだったと思います。
話の中心は、井上勝氏でした。~~鉄道開業のころから井上氏がロンドンだったかで客死されるまで。
子供向けの本ですか?
なんか、面白そう。
今読んでも、結構面白いだろうな・・・
132氏の書き込みで、急に子供のころを思い出しました・・・。
それから、少々スレ違いですが許して。
題名を忘れましたが、1972年ごろに出された本で、リニアモーターカーが1982年10月2日に開業するという近未来像から始まり、あとは鉄道開業から新幹線に至るまでの最速列車の話しがされていた本もあり、それもよく借りて読んでました。
「或る列車」の「ブトク9000」に「ピアノ」があったという記述がありましたが
「8脚の椅子・小机・飾り棚」の他に、果たしてピアノが置けたんでしょうか?
何方か、ご教示くださいですー・・・。
グランドピアノじゃなくてアップライトピアノと思われ
シャングリラ鉄道の模型では、ブオシ1にグランドピアノがあった。
オルゴールを流しており、何か先を越された感じだった。
成田鉄道の例などから考えても、搭載は可能であると思われるが、小型のものを調達するか、置き方を考えないと、通行は不可能になる。
なお、戦前の客車に限らず貨車でも基本的に屋根は上から被せるようになっているので、屋根を被せる前に設置を済ませることが肝要。
ところで、ブトク9000というのは形式改正後の称号及び番号であろうか?
当方はブトク1で記憶しているので。
ピアノ屋のサイトで大きさを見ると、グランドピアノでも置けることがわかると思う。
脚やフットペダルは取り外し可能なので、普通の住宅の出入口でも通る。
鉄道車輌の場合、ベスティビュール付きの出入口からは入れるのは難しいと思うが、連結面側からなら入るだろう。
九州鉄道のストクは社長専用車でアメリカPULLMAN社で多く造られていたパレスプライベートカーを手本に造ったと聞いた事がある。パレスプライベートカーなら専用キッチンやシャワールームは普通に付いていたし、ピアノを置いた車輌も見受けられるから、ストクに設置してあってもおかしくない。
「客車略図 鉄道省 大正3」では、形式改正で「ストク9000」となってます。改番が9000番代と言う事は特別車といえども、雑型になっちゃたんでせうか?
浅学ゆえ、おさわがせいたし スマソです。
「陸蒸気からひかりまで」ぐらいしか
ネタ本持ってないんですが。
「百年の国鉄車両3」も絶版だけどまだ数が出てるし値段もそこそこ。
あとは「鉄道史料」やピクの客車関連の特集号とかかな。
瀬古さんの「木製客車メモランダム」
まだ全部手許に揃ってないや。
一冊一万円だから戦前私鉄図面東西とか戦前私鉄写真とか欲しいのし
か買えなかったが
湯口氏の私鉄シリーズも古典客車の成れの果てを知るには好適。
鉄道史料101より
「鉄道広報」中にみられる最急行の特別室の使用者~これをみると、皇族の利用が大半を占めるものの、意外な人物も。
明治40~41年度の利用者
救世軍ブース大将・(平沼)横浜-名古屋。有栖川宮・(新橋)東京ー名古屋。閑院宮妃・大阪ー東京3回、東京ー神戸2回。
閑院宮・東京ー神戸往復。伊藤博文・大磯ー名古屋。武田宮及び同妃夫妻・東京ー名古屋、京都ー東京。
「漫遊外人」5名(おそらくは観光客では?)国府津ー名古屋。伏見宮・京都ー東京。韓国武官5人+誘導将校1人・東京ー大阪
清国武官3人+誘導将校1人・東京ー大阪。
この特別室つきコンパートメント車(形式はオイロ9290~9293)は、後の一等展望車・寝台車のようなコンパート(定員6名)を真ん中にすえ、片方を一等、もう片方を二等車としています。
いずれも、長手腰掛です。
>>175
いやはや、それにしてもすごいわ・・・
ちなみにコンパートメントは、この後の一等寝台車の標準になっていきましたわな。
いやはや、うれしい限りです。
しかし木造客車の模型は鉄道史料の10倍_| ̄|○
自作するしかないのか・・・
Fujiあたりでやらないものかな。
なんせあの時代のカラー写真は皆無だし、絵葉書などがあるにはあるが、それは脚色している可能性も高いし、で。
個人的には、昭和から考えているから、客車の塗装はブドウ色になる。
明治のころはどうか知らないが、大正以降はブドウ色1号で正解であるかと。
それに、塗料は退色などを考慮すると一概には言えない。
それと絵葉書は参考になるかも知らないと言う位で考えるべきかと。
室内まで極めるとなると16番では困難を感じるが・・・
一等車は絶望的に不可能というか、デカールを自作して室内に張るしかないのではと思う。まあ、それらしくといった感じにしかならないと思う。
それに、優等車の室内ってあまり鮮明なものを見たことがない。
擦れの趣旨とは異なるが、小熊氏らの満鉄の本にはカラー挿絵があり、それを参考にするといいかもしれない。
あとは、御料車物語など。
ほんと日本はそのての資料・写真は少ないね。
木造車はニス塗りのはずだから、黒色?していた。と良く聞く。内装に関しての色使いは、シートのモケットの色が各等級で違ったというぐらいで、どのように違ったとも書いてない。
御料車は漆塗りもあるから、漆黒になるのか・・木造車時代では供奉車は緑色、(アメリカのコーチグリーン?)で塗られていた時代もあった。
御料車の漆塗は溜漆ですゆえセピア色になりますよ。
本物の漆なら漆黒のはず。
>>245
モケットの色については、戦後だと青にしとけば安全なんですが。
御料車関連では御陵車物語を参考にしたほうが早いとおもいます。
ちなみに塗装は初代1号はピンクで、初代二号は赤色のはず。
これ以降は大正期のは真紅だったらしいです。カラーなのによくわからん。
大正時代の木造供奉車については青車と言われた様に、
広瀬氏の作例では薄緑でした。
確かサハ75(サロ75格下げ)のいすの色は青でしたよね?
そのはずです。二等車は基本的に青帯と青の椅子だったはずなので。
サハ75は格下げ後の、室内の荒廃した写真ながら見たことがあり、そのときの色は青でした。
格下げ後だと思いますが、現役時代のの写真を見たとき、すわり心地が良さそうに思いました。
かわむら・かずふさ氏が記事で賞賛していたのがよくわかります。
三等車の室内は不明ですが、戦後ならば青にしておけば大丈夫かと思いましたが、
最近のTMSの記事でモケットを緑にしていました。これで正解なんでしょうか?
一等車についてはマイネロフ38が大阪に残っており、モケットの色は臙脂でした。
内装については木製のところはニスでしょうが、ニスだけなのか、色をつけていたのかが
わかりません。三等車では輌数・工数を考えた場合、ニスだけかと思いますが。
あの車は、元々ニス塗りだよ。もう1両残ってる方は、大井の蔵で眠ってる。