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特にヨーロッパ
16 : :2005/06/22(水) 01:19:07 ID:MX62QSwm
1953 リオ・デ・ジャネイロで生まれる
1970 フラメンゴのエスコリーニャ(17歳以下のチーム)で22試合で28点、得点王になる
1971 フラメンゴのジュベニール(18~20歳のチーム)に昇格。9番FWとして1軍デビュー。
16試合で2得点。五輪代表になる
1972 ミュンヘン五輪参加。監督のいじめにあい、出場できず
1973 フラメンゴで52試合13得点
1974 65試合49得点、リーグ優勝、ブラジル最優秀選手賞を受賞
1975 76試合51点 得点王獲得
1976 ウルグアイ戦でブラジル代表デビュー(8番)FKで1点とる
1977 南米最優秀選手賞を受賞
1978 WCアルゼンチン大会出場(8番)
1979 フラメンゴでリーグ優勝、得点王、ブラジル最優秀選手賞
1981 南米最優秀選手、ブラジル最優秀選手、トヨタカップで初来日。MVPとなる
1982 WCスペイン大会出場、チーム最多の4得点だがイタリアに負ける。
1983 イタリアのウディネーゼに移籍。24試合で19得点
1984 後方からのファウルで左ヒザ負傷、以降この怪我に悩まされる。
1985 ウディネから古巣のフラメンゴに移籍。イタリアでの通算は79試合57得点
1986 WCメキシコ大会出場。怪我で数試合の出場しただけ。WC後、3度目の手術をUSAで行う
1987 怪我との戦い。18試合6得点
1988 25試合6得点。キリンカップで来日、優勝
1989 ワールド東海マスターズで南米代表の一員として来日。大会MVP
1990 引退。プロ入り通算成績1046試合729得点、
ブラジル代表89試合66得点(ペレ、ロマーリオの次)
1991 住友金属(現アントラーズ)に入団
1998 WCフランス大会ブラジル代表のテクニカル・アドバイザーとして準優勝に貢献。
2002 日本代表監督就任
正確には、リオデジャネイロ州のキンチーノ生まれ
誕生日は3月3日w
NHK特派員報告でやったことがあるが、今どうなっているのだろうか。
フィンランドじゃ国技とまで呼ばれるペサパロのことかな?
長方形のコートに適合させて冬の北欧でも屋内競技場でプレイできるよう工夫したのは
考えたね。
アレはマジですごかった
1974 ストリートサッカーで腕を磨きメディアでも取り上げられる存在に
1976、10,20 15歳11ヶ月リーグ戦デビュー
1977、2,27 アルゼンチン代表デビュー
1978,5,19 自国開催のW杯はメンバーから外され
「若いというだけで外されたのなら納得がいかない」自室にこもって涙
1979,9 日本開催第二回ワールドユース大会に出場しチームを優勝に導く
1981,2,12 ボカ・ジュニオルスに移籍
1982,1 ボカと日本代表の親善試合で来日「日本はアルゼンチンの子供のサッカーだ」
1982,6,4 バルセロナへの移籍が合意
1982 W杯初出場も度重なるファウルを受けブラジル戦でついにキレる。相手の下腹部にケリを入れて退場
「自分は散々ファウルを受けたのに罰せられた選手は一人もいなかった」
1983,6,4 コパ・デル・レイ決勝ディ・ステファノ率いるレアルマドリードを2-1で下す
スペインで手に入れた唯一のタイトル
1984,5,5 ビルバオとのコパ・デル・レイ決勝。ファンカルロ国王が見守る中ファウルされブチ切れる。
ピッチの中央で相手選手と殴りあいをはじめ両チーム入り乱れて大乱闘。スペインを去る
1984,6,30 「バルセロナを去ることが自分にとって一番いい選択だった」ナポリへの移籍金は1300万ドル
1984,7,5 「ナポリの皆さんこんばんわ。貴方達といられて僕はとても幸せです」
8万人ものファンの前で教えられたとおりのセリフで挨拶
ディエゴ・マラドーナ!
1985-1986シーズンUEFAカップ出場権獲得
1986,6,22メキシコW杯。準々決勝イングランド戦における5人抜きゴールは伝説となった。
試合後、1点目のゴールについて「ボールと追って飛び上がった瞬間、目の前が真っ白になったんだ
すると神が現れて僕に手を差し伸べた。僕はただそれに従っただけ。そうあれは神の手によるゴールだったんだ」
と神の手を告白
1986,6,29 西ドイツとの決勝は3-2で勝利
「キャリアの中で最高の瞬間だったよ。天に手が届いた気分だった」
1986-1987シーズン ナポリのクラブ創設60周年に悲願のスクデット獲得に貢献
コッパ・イタリアも制しダブルタイトル
1989,5,17 クリンスマン擁するシュトゥットガルトを退けてUEFAカップ優勝
1989,8-9 マルセイユへの移籍はクラブ幹部の翻意でお流れ。バカンスに出たまま
リーグ戦が開幕しても9月までイタリアに戻らず「脅迫を受けているから」
1989,11,7 次女が生まれたのを機に幼馴染のクラウディアと結婚。ブエノスアイレスの式には1200人が招かれた
1990,4,29 2度目のスクデットを獲得
1990,7,3 W杯イタリア大会。準決勝で開催国イタリアをPK戦で破り、2大会連続で決勝へ
統一ドイツとの決勝戦は疑惑の判定に泣き0-1で敗戦。泣きじゃくる
15ヶ月間の出場停止「コカインを試合に勝利するために使用したことはない」
ナポリでのバッシングにも嫌気がさし「もうプレイするために戻るつもりはない」
1991,4,26 仕組まれたのか帰国したアルゼンチンでもコカイン所持容疑で逮捕
1992,7,1 ナポリへの合流を拒否。FIFAが仲介役となって9月22日にセビージャへ
1993,2,18 アルゼンチン協会創設100周年を祝うブラジルとの記念試合で代表復帰
1993,3,21 カディス戦後に暴言を吐き乱闘の原因を作る。3試合の出場停止処分
1993,6,13 ブルゴス戦で監督の命令で痛み止めの注射を3本も打ったものの10分で途中交代
ビラルド監督との関係は崩壊し「すべてが終わった」チームも退団
1993,10,10 ニュウェルスの選手として11年ぶりにアルゼンチンリーグでプレイ
1994,2,2 ニュウェルスからの解雇の発表翌日、自宅まで訪れた記者団に空気銃を発砲
「娘のために取材をやめるように言ったのに立ち去らなかったから」
1994,5,12 キリンカップ出場のための来日が過去のコカイン使用を理由に入国を拒否される
結局アルゼンチン代表も来日をとりやめ
1994,6,30 W杯アメリカ大会。6月21日のギリシャ戦でゴールを決めてカメラに向かって叫ぶ
この行為でFIFAに目をつけられたのか続くナイジェリア戦で逆転勝利に喜んでいるところに
看護婦がお出迎え。禁止薬物のエフェドリンが検出されたために大会からの追放が決定
「単なる薬だと思った。悪いことはしていない
ベンチ入りを許されて采配を振る。12月にクルス会長との口論がきっかけで辞任
1995,1,4 ラシンの監督に就任。3月のインデペンディエンテ戦で副審に物を投げつけ退席処分
「協会に弁明するつもりもないし罰金を払えといわれても払うつもりはない」
1995,5,6 招聘してくれたステファノ会長が選挙に敗れたため監督を辞任
1995,7,21 出場停止処分が解けプレイヤーとして古巣ボカと契約
1997,8,28 アルヘンティノス戦後ドーピング検査で陽性反応
1997,10,30 現役最後の公式戦は10月25日のリーベル戦。試合後検査でコカインが検出
5日後のこの日37歳の誕生日に現役引退を発表
2000,1,4 ウルグアイで心臓発作を起こす
2000,1,18 キューバに移って薬物中毒治療を開始
2000,1,25 カメラマンに対し車の窓ガラスを割って負傷させる
2000,11,22レアルマドリード対ボカのトヨタカップに来日を希望するも日本政府はビザ発給を拒否
2001,1,12 ナポリ在籍時の税金1800万ポンド滞納が発覚「ナポリが支払うべきだ」
2001,11,10 引退試合「間違いはしたけれどサッカーを汚したことはない」
2002,6,28 FIFAの尽力もあって日本政府から特別に観光スポーツ庁長官特使として来日
2003,3,29 長年連れ添ってきたクラウディア夫人が離婚手続きをしたことが判明
2003,5,16 ナポリ郊外でイタリアのイタリア版どっきりカメラに会い。スタッフと殴り合い
2003,5,19 かつての愛人の子、ディエゴ・マラドーナ・ジュニアとローマで初対面
2003,9,11 ナポリの元会長が薬物検査で陽性反応が出ないように不正と繰り返した事を新聞に告白
本人は否定
2004,4,18 ボカ・ジュニオルスの試合観戦後に倒れ一時意識不明の危篤状態
2004,4,30 退院翌日いきなりゴルフへ。テレビにも出演し
「死が近づいていることを知り、ファンに守ってもらい抱擁してもらいたかった」と涙
2004,5,9 サンパウロ郊外の薬物中毒治療施設へ
2004,8,19 リハビリ中コカインを吸引していた写真をメキシコの新聞が掲載
2004,9,20 キューバ入り。政府系の精神病院に入院し薬物中毒などのリハビリに専念
サッカーの原型ってのはひとつのボールみたいのに屈強な
男たちが群れをなして集まり、奪い合うそういうものだったらしい。
その中で一人、群れから離れてボールが飛んでくるのを待っている
ようなやつは臆病ものとか非難されてたんだって。それがルール化
されてオフサイドってのが出来あがったんだと。
もし、オフサイドがなかったらサッカーって結構違っているスポーツに
なっていたよね。
・二手の集団に分かれて球を奪い合う
・手を使わずに球を運ぶ
・敵陣のゴールに球を通せば得点
この定義に合うスポーツ・遊戯はサッカー以外にも世界各地にあるようだが、結構普遍的な競技なのかな。
蹴鞠のような「リフティングラリー」的な遊戯のほうが世界各地に
分布しているようで。
競技スポーツ化される前のセパタクローもルールは蹴鞠と同じ。
廃れたわけではなく、市井の遊びとして幅広く健在。
フランス?オランダ?イングランド?
トルコとロシアは出場無理っぽいけど
フランスだと思うけど無理っぽい
イングランドには一方的に親近感持ってるからアリじゃない?
ライバル視する程強くないし。
だからやっぱりオランダだろう。
ドイツ人はオランダ人をジョークの対象にしてる程だから
まだサッカー戦争が登場していないじゃんか!
「史上最もばかげた戦争」と評された輝かしい中米二国を称えようじゃないかw
まぁ、あの戦争がサッカーが原因って言うのも、厳密には俗説らしいですけどね。
それをときの政府がトリガーとして利用したということでしょ。
サッカーだけで戦争が起きるわけない。
俗説というわけでもない。当時の背景にはホンジュラスとエルサルバドルの入植、出稼ぎ者問題が
あったのは確かだが、サッカーがトリガーになったのは紛れもない事実。
サッカーの起源て
・十字軍兵がイスラム兵の生首蹴飛ばして遊んでた
ってのと
・牧羊の膀胱引きずり出して膨らませて遊んでた(汚れるから手を使わなかった)
ってのを聞いたことがあるんですが、どっちが有力なんでつか?
中国の蹴鞠が起源だってさw
FIFAの会長が言ってたよw
ソースはコチラ ※古いスレなのでリンクは切れています
FIFA会長、サッカー発祥地に山東省シ博市を認定へ
http://j1.people.com.cn/2004/07/14/jp20040714_41309.html
サッカー博物館が開館 サッカー発祥地・山東省
http://j1.people.com.cn/2005/09/13/jp20050913_53511.html
サッカー発祥地認定の記念貨幣を発行 山東省臨シ
http://j1.people.com.cn/2005/08/31/jp20050831_53160.html
http://www.nittsu.com.hk/pelican/back_issue/Vol42-Aug05/pel_trip3.html
イングランドが発祥の地じゃないの?
現在行われているルールのサッカー(アソシエーション・フットボール)ができたのはまぎれもなくイングランド。
そういう意味では、サッカーはイングランド起源といえる。カビラは間違ってないw
しかし、その元になったスポーツがどこの何なのかは諸説ある。蹴毬説も古くからある説古くのひとつで、
中国が昨日今日言い出した、ってものではない。
クロアチア
オーストラリア
日本
それでイタリアかチェコにあたるワケですよ
ドイツVSポーランド
歴史上数々の因縁
イングランドVSスウェーデン
前回に続き同G。英代表監督エリクソンはスウェーデン人
アルゼンチンVSオランダ
78決勝カード
ポルトガルVSアンゴラ
旧宗主国対植民地
イタリアVSチェコ
34決勝カード
フランスVS韓国
前回大会直前にジダン潰された恨み
フランスVSトーゴ
旧宗主国VS植民地
回 年 開催国 優勝国
第1回 1930 ウルグアイ ウルグアイ
第2回 1934 イタリア イタリア
第3回 1938 フランス イタリア
第4回 1950 ブラジル ウルグアイ
第5回 1954 スイス 西ドイツ
第6回 1958 スウェーデン ブラジル
第7回 1962 チリ ブラジル
第8回 1966 イングランド イングランド
第9回 1970 メキシコ ブラジル
第10回 1974 西ドイツ 西ドイツ
第11回 1978 アルゼンチン アルゼンチン
第12回 1982 スペイン イタリア
第13回 1986 メキシコ アルゼンチン
第14回 1990 イタリア 西ドイツ
第15回 1994 アメリカ ブラジル
第16回 1998 フランス フランス
第17回 2002 日本他 ブラジル
第18回 2006 ドイツ ?
記念すべき第一回。欧州はほとんど参加せず。
>第2回 1934 イタリア イタリア
ムッソリーニ、ファシスト政権で不正だらけ。不名誉優勝国第一号
>第3回 1938 フランス イタリア
今回もイタリアが審判に圧力。提唱者のフランスは優勝できず
>第4回 1950 ブラジル ウルグアイ
決勝で敗れたブラジル国民大ショックで自殺者も
>第5回 1954 スイス 西ドイツ
敗戦国ドイツが栄冠。国民に勇気を与え。近年映画化された
>第6回 1958 スウェーデン ブラジル
ブラジル悲願。ペレ大活躍。欧州大陸で欧州以外が優勝した唯一の例
>第7回 1962 チリ ブラジル
ブラジル連覇。ペレ大活躍。ホスト国チリは3位
>第8回 1966 イングランド イングランド
母国が面目躍如。女王が優勝カップを祝った
>第9回 1970 メキシコ ブラジル
ブラジルが3度目の優勝でカップを永久に保持。すかさず溶かして貧民の食事代に
>第10回 1974 西ドイツ 西ドイツ
オランダのトータルフットボールがリッケンバッカーに敗れたがクライフの名は世界に知れ渡った
>第11回 1978 アルゼンチン アルゼンチン
軍事政権がヒヤヒヤする中、ケンペスの活躍で優勝。だが不正もあり不名誉優勝第2号
マラドーナは直前で落選
>第12回 1982 スペイン イタリア
ロッシが奇跡の大活躍。ジーコのサッカーは永遠
>第13回 1986 メキシコ アルゼンチン
地震で直前にメキシコへ開催権返上。マラドーナの大会。
>第14回 1990 イタリア 西ドイツ
決勝で疑惑のPK。マラドーナ敗れ、泣きじゃくる姿がテレビに。
>第15回 1994 アメリカ ブラジル
イタリアが決勝のPKで敗れる。バッジョの名は永遠。日本はドーハの悲劇で出場できず
次回ホスト国のフランスも出場でできず赤っ恥
>第16回 1998 フランス フランス
ジダンの活躍で悲願の栄冠。パリ解放以来の大騒ぎで人種差別が無くなる美しい光景も
カズ落選に涙。日本は初出場で3戦全敗だが次回ホスト国の面目は保つ
>第17回 2002 日本韓国 ブラジル
前評判の悪かったブラジルが優勝。日本は鈴木が大活躍。韓国は闘志溢れるプレーでベスト4位
だが疑惑の誤審や度を越したサポーターの応援に批判も
>第18回 2006 ドイツ ?
ホスト国ドイツはボロボロで優勝はない。王者ブラジルを倒すのは果たしてどこか?
>記念すべき第一回。欧州はほとんど参加せず。
13ヶ国中欧州4ヶ国。当時の事情考えりゃまずまずの結果。
>決勝で敗れたブラジル国民大ショックで自殺者も
決勝戦はありません。決勝リーグの最終戦です。事実上の決勝戦ではあった。
>敗戦国ドイツが栄冠。国民に勇気を与え。近年映画化された
プスカシュとマジック・マジャールの方にはなぜ触れない
>ブラジル連覇。ペレ大活躍。ホスト国チリは3位
大嘘。ペレはケガで途中から出てません。大活躍したのはガリンシャ
>母国が面目躍如。女王が優勝カップを祝った
これも決勝で疑惑のゴールがあるな
>オランダのトータルフットボールがリッケンバッカーに敗れたがクライフの名は世界に知れ渡った
誰だよそれ?ベッケンバウアーのことかw?
>軍事政権がヒヤヒヤする中、ケンペスの活躍で優勝。だが不正もあり不名誉優勝第2号
マラドーナは直前で落選
そうは言っても優勝に値しないチームではなかった。
>地震で直前にメキシコへ開催権返上。マラドーナの大会。
コロンビアが政情不安で開催権返上。USA、日本が打診されるが断りメキシコに。地震で
開催が危ぶまれるが無事開催。
02年からのニワカで申し訳ないw
アンタのような突っ込んでくれるサッカーファンがこの板にいてくれて
嬉しい限りですが
もしかして82年以降見てないんですか?
語ろうと思えば1大会で1晩は語り明かせるし、実際仲間とやってる
まあセビリアの死闘とか、ジーコ・プラティニ・ソクラテスPK外し競演とか、5人抜きと
神の手とか、カメルーン旋風とか色々触れてほしいことはあるよ。最近の大会は98除き
インパクトが薄い。特に前回はW杯史上最低の大会だったと思ってる、日本以外の所で
やった分がね。
94年からのニワカだが
前回大会で開催国抜きに印象に残ってる事と言えば
・トルコ・アメリカの躍進
・カメルーン、ナイジェリアに次ぐセネガルのジャイアントキリング
・ベッカム4年越しの復讐
・ロナウジーニョのループフリーキック
・A・スヴェンソンのルーレットからポスト直撃
とかかな
98年は面白かった。1試合の密度が濃かった印象。
>>119
じゃあ先生。06ドイツ大会の見所、注目点などを
純粋なサッカーファンからの視点と世界史オタからの視点で2つ挙げてみては
くれませんか?
>>120
ニワカだなんてとんでもない。先生も2つの視点から注目している所を挙げて
みて下さい。
ちなみに自分はオランダが好きなので日本と一緒に期待しています
>>121
絞れとなると後者はともかく前者は難しいな。
後者はドイツVSポーランドだろう。歴史上の因縁の数々はこの板の住人なら言わずもがな。
あろうことか一次リーグで同一組になってしまった。ふつーに考えればポーランドは欧州の中
でもトップクラスというわけじゃないし、ホーム・ドイツが圧倒的に有利なはずなんだが、今の
ドイツの体たらくをみるとリアルで落す可能性すらある。
なお、前回のドイツ開催(74西ドイツ)の時にも西ドイツは一次リーグで東ドイツ(初出場)と同組
という因縁の組み合わせがあった。(結果は東の勝ち)
前者はとてもじゃないが絞れん。許せ。いくつか(かなり)挙げとく。あくまでも個人的なだがな。
注目G
C アルゼンチン・オランダ・コートジボワール・セルビア・モンテネグロ
前回のアルゼンチン・イングランド・ナイジェリア・スウェーデンに匹敵する死のグループ
注目国
アルゼンチン・・・前回に引き続き死のグループ入り。GL敗退の屈辱のリベンジなるか
オランダ・・・前回不出場の屈辱、当然シードからも外れ死のグループ入り
ファン・バステン改革で甦ったオレンジ軍団の初栄冠はなるか←俺的超オススメ
イングランド・・・スタメンはほぼ全員が油の乗り切った時期。個人的にはイングランド史上最強と
思われる。
フランス・・・前回は大会直前にジダンが姦国にケガさせられて屈辱のGL敗退。04EURO後
ジダン代表引退して若返りを図ったハズだったのが失敗。予選敗退の危機に
直面し、急遽ジダンを呼び戻す。が、最近のレアルでのプレーを見てもジダンの
衰えはあきらか。果たしてフランスは甦るのか?それともこのままプラティニ後の
低迷を繰り返すのか?(GLは楽な組だから大丈夫だと思うけど)
注目選手
ロナウジーニョ、カカ、アドリアーノ、メッシ、ジェラード、ジョー・コール、ファン・ニステルローイ、ファン・ボメル、
アンリ、デコ、ピルロ、ジラルディーノ、ネドビェド、シェフチェンコ、ドログバ
その他
おそらくジダン、ベッカム、ネドビェドは最後のW杯だろう。その雄姿は目に焼き付けておきたい。
長文スマソ。これだけ書くと、俺がある超有名選手が大嫌いなこともわかるかも知れんなw
興味あるならサカー板にもドゾー
ニステルとロッベンの活躍に期待です。
ドイツ人はオランダ人は親切でいい奴らだと思ってるがアウトバーンを
トロトロ走るからイライラするのでよくジョークのネタにしてるらしい
ちなみに細木和子はオランダ優勝を占ってました。信じますよ俺は。
アルゼンチンも応援してます。とにかくブラジルを誰か倒して欲しい
嫌いな選手ってロナウドですか?
マラドーナ「そうか?じゃあこう考えてみてくれ。10代のうぶなガキのころ、
好きな娘に自分の気持ちを言えなかったろ?友人にもいとこにも隠してたはずだ。
だが相手にその気があると分かるとどうだ?愛してる愛してると耳元で囁きセックスまで誘いやがる。
俺が言ってることなんかそれと似たようなもんだ!言ってることは目の前に見えてることを言ってるだけだ!
じゃあ逆に何も言わねぇ野郎は何なんだ!?奴ら自信がねえのさ!マラドーナを100%止めてやるなんて
言う度胸がねえのさ。 俺にまたを抜かれて翌日の新聞で叩かれるのが怖いからな!
俺ならそんな奴らの試合を金払ってみようなんて思わねえよ! プロとは思えないからな!だから俺は
ペレの野郎よりうまいと言ってんだ! なぜだか知らねえがペレを抜くって言うことすらタブーなんだろ?
冗談じゃねえ!あんなサッカー技術の発達してない時代に何点入れたか知らねえが技術も何もかも全て
現在のサッカーはあのころより発達してるんだぜ!? もうタブーを守り続ける時代は終わったのさ!
俺はサッカー界最後の反逆者だ!サッカー界を変えることができる最後の闘士だ!!」
これを聞いた記者は涙を流しマラドーナに握手を求めた。
過去には優勝杯を贈ってたのか?
1 (勝利の記念として保存する)戦利品;
戦勝〔成功〕記念物、狩猟記念品(ライオンの毛皮・鹿角・獣の頭など);
トロフィー(月桂冠・メダル・カップ・盾など競技の勝利者に与える記念品)
2 (一般に)記念の品;
〔古語〕戦勝記念碑;(メダル表面などの)戦勝記念碑の彫像;
一群の武器をかたどった建築装飾
ドイツではFIFAワールドカップを「Weltmeisterschaft(ヴェルトマイスターシャフト)」と呼ぶから無問題。
でも国際技能競技大会(World Skills Competition)と紛らわしいすい。
ニュース
ちとシャレになってねえよな。ニュルンベルクのスタはアレが行われてた場所の隣だし。そこで試合するかつてのナチスの同盟国
>>135
クロアチアといえばナチよりエグイといわれた「ウスタシャ」があった国だもんな。
というわけで開幕したんでage。
大ショック
終戦を経験した人はこんなカンジだったんだろうな
ゆんべの試合が影響してるのか?
もう少し頑張ってほしい国
イタリア、フランス、クロアチア、チェコ、ウクライナ
もっとセーブしてくれないと試合が面白くなく、相手が困る国
アルゼンチン、ブラジル
終わった国
日本
各国チームの愛称で、歴史がらみのものを挙げてみよう。
スペイン:無敵艦隊
日 本:サムライブルー
あとどこかあるかな。
オランダのオレンジ
オラニエ公ウイレム(オレンジ公ウィリアム)にちなむ。
中世に栄えたクロアチア王国の紋章「シャホヴニツァ」から。
『アズーリ(青)』。
妙なところでサヴォイア王家生き残ってやがなるなw
ベルギー代表 愛称"Rode Duivels"「赤い悪魔」。
1906年4月30日にロッテルダムで行われたオランダ代表戦において2-1から2-3にひっくり返して勝利した
ベルギー代表を《La Vie Sportive》紙の記者Pierre Walckiers氏が「赤い悪魔のようだ」と書いたのが
由来と言われている。
これを某国サッカー代表がパックて……うわ、何をすくぁwせdrftgyふじこlp
イビツァ監督はなに系なんでしょうね。
モスレム系、クロアチア系、セビビア系、あるいはそれ以外か?
オシム監督にセルビア語通訳が付いているところからすると
セルビア系だろうか。
ちなみにドイツ系の先祖を持つらしい。
「サッカーでは、ゴールキーパー以外は手を使ってはいけない事になっています」
と説明していた。
>>190
ダウト・・・・実況に関しては今のアナ以上の技能を持っていましたよ
日テレの実況以外はっても他はNHKとテレ東しか放映してなかったけどサカー
80年代前半は完全なる暗黒期
1960年 第一回ユーロ フランス大会
仏サッカー連盟アンリドロネーの発案によりネーションズカップの名前でスタート。
第一回大会は発案国フランスにて17カ国によるノックダウン方式により行われた。
イングランド、伊、西独など欧州中心国が当初大会を疑問視していた経緯があり
東欧の活躍が目立った。かつて内戦干渉されていた政治的理由によりスペイン戦は
不戦勝だったがソ連は黒ジャージにちなんで黒クモのニックネームがついたGKレフヤシン
の活躍によりチェコ、決勝でユーゴに勝利。初代王座に輝いた。ユーロでの最優秀GKには
レフヤシンの名前が付けられている。
優勝 ソ連
準優勝 ユーゴスラビア
ベスト4 チェコスロバキア フランス
得点王 イワノフ、ポネデルニク(ソ連)他3名 2得点
1964年 第二回ユーロ スペイン大会
スペイン、イタリア、オランダなど強豪が加わり参加国数も29カ国と増加したが
前回に続き東欧諸国が活躍。そのハンガリーが準決勝でソ連を下してドロネー杯を
手にしたのが開催国スペイン。スペインは当時から高い攻撃力が魅力でルイス・スアレス
を中心にゴールを狙いつづけた。自国開催、スペイン代表にとって初タイトル(2006年
現在でも国際大会唯一のタイトル)とあり前回よりも盛り上がりを見せた。また前回同様
この大会にも戦争の暗い影が落ちている。予選でキリシャは隣国アルバニアと対戦するはず
だったが1912年以来戦争状態であったためアウェーゲームを拒否。不戦勝でアルバニアが
決勝トーナメントに出場している。
優勝 スペイン
準優勝 ソ連
ベスト4 ハンガリー デンマーク
得点王 ペレーダ(スペイン) ノバク(ハンガリー) 2得点
1968年 第3回ユーロ イタリア大会
この大会より「欧州選手権」に名称変更。参加国も31となり予選グループ→決勝トーナメント
という現在と同じ大会方式を採用。欧州N王者決定大会として名実ともに認められるようになる。
今大会で特筆すべきことはイタリア×ユーゴスラビアの決勝戦が1回で決着つかず再試合になったこと。
延長戦に入りユーゴFWが倒されあわやPKという場面があったのだがこれが認められず1-1のまま試合
終了。2日後の再試合では層の厚いイタリアが2-0で勝利、優勝した。イタリアは準決勝のソ連戦でも
延長の末0-0になりコイントスにより決勝進出を果たしている。当時のユーゴには2006年現在日本代表
監督のオシムが出場しており準々決勝ではフランスから5点を奪い勝利。準決勝でボビー・チャールトンらを
擁する当時の世界王者イングランド代表と戦い、1-0で勝利するもその試合で重傷を負い、決勝戦に出場
できなかったが大会ベストイレブンに選ばれている。
優勝 イタリア
準優勝 ユーゴスラビア
ベスト4 イングランド ソ連
得点王 ジャイッチ(ユーゴスラビア) 2得点
1972年 第4回 ベルギー大会
皇帝ベッケンバウワー率いる西ドイツが強烈なインパクトを残した大会。司令塔ネッツァー
得点王ミュラー才能溢れるタレントを多く擁した西ドイツは準決勝で開催国ベルギーを退け
決勝ではソ連を3-0と圧倒的な強さで下し初優勝。リベロのベッケンバウワーを
中心にダイレクトパスを多用した緻密な組織サッカーは参加国のなかでも群を抜いており
対戦国は西ドイツの引き立て役に過ぎなかった。その強さは「未来のサッカー」と
呼ばれ西ドイツは2年後の自国開催W杯も制する事になる。まさにドイツ黄金期の始まりだった。
優勝 西ドイツ
準優勝 ソビエト連邦
ベスト4 ベルギー、ハンガリー
得点王 ゲルト・ミュラー 4得点
1976年 第5回ユーロ ユーゴスラビア大会
74年の西ドイツ大会と同じくベッケンバウワー率いる西ドイツとクライフ率いるオラン
ダが大本命と目されていたがオランダがチェコに準決勝でまさかの黒星。続く決勝戦も
意外な展開になった。西ドイツはゲルト・ミュラーとネッツァーを欠くものの終了直前に
2-2に追いつき延長戦へ。スコアレスのまま突入したPK戦でドイツ4人目のキッカー
ウリ・ヘーネスが痛恨のミスキック。5人目のキッカーとなるはずだった当時30歳の
ドイツの皇帝はその役を果たすことなくキャリア最後の一大タイトルを逃し、試合後には
素直に怒りをぶちまけた。
優勝 チェコスロバキア
準優勝 西ドイツ
ベスト4 オランダ、ユーゴスラビア
得点王 ディータ・ミュラー 4得点
1980年 第6回 イタリア大会
決勝大会に8チームによるグループリーグ制が導入、大会期間も2週間延びイベントとしての
規模が大きくなった今大会では前大会で雪辱を味わった西ドイツが強国の貫禄を見せた。
主役はネッチァーの再来といわれた弱冠20歳のベルント・シュスター。大会の数ヶ月前に
彗星の如く現れ西ドイツの司令塔として存在感を示したシュスターだったがデアバル監督は
もう一人の核、FWカール・ハインツ・ルンメニゲをより多く起用。西ドイツはチームとして
危ういバランスの上に成り立っていたが若い才能を生かし、伏兵ベルギーに2-1で勝利
V2を達成。またこの大会より開催国が予選を免除されている。
優勝 西ドイツ
準優勝 ベルギー
ベスト4 チェコ、イタリア
得点王 アロフス(西ドイツ) 3得点
1984年 第7回 フランス大会
まさにプラティニによるプラティニのための大会だった。芸術的なゲームメーカーでもありゴールゲッター
でもあったプラティニは持ち前のリーダーシップを発揮。地元フランスでの初優勝を願う観客から
熱烈な声援に押され1次リーグ第2戦ベルギー戦、ユーゴ戦と連続ハットトリックを決めた。
準決勝のポルトガル戦では流石に完全にマークを敷かれるが最後はプラティニがとどめを刺して勝利。
続くスペイン戦でも芸術的なFKを決めた将軍は終わってみると全5試合で9ゴールを叩きだす大活躍。
チームを優勝に導いた。ちなみに決勝大会での個人選手による通産最多得点は
このプラティニの9ゴールがいまだにトップである。
優勝 フランス
準優勝 スペイン
ベスト4 ポルトガル、デンマーク
得点王 プラティニ(フランス) 9得点
ベッカムのニュースもいちいち彼の経歴を添えて説明するほどだそうだが。
アメリカ人は大味だが迫力満点のアメフトのほうを好む。
アメリカの野球と同様に、選手には長いことなれず、草サッカーの時代が続いていたのでしょうか。
20世紀初頭に活躍したフリーデンライヒって選手が黒人初のブラジル代表選手だったはず。
ここの住人はサッカー詳しい人すくないのかな?
明けても暮れてもそれだけという生活はまっぴら。
世界史のほうが断然面白い。