のインディアンたちの
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「リトルビッグホーン」って地名は、なんだか矛盾していると思います。
オロナミンCは小さな巨人です
ビッグホーンってのは、長角羊のことで、「小さな長角羊」ってこってす。
ちなみにインディアンはここでの決戦について「リトルビッグホーン」とういう地名を使わず、
「グリージーグラス(油染みた草)川での戦い」と呼んでいます。
始めは長弓を使用していましたが、馬上使用が増えてくると短弓に移行した
そうですね。かつての北米には馬も狸もいましたが、有史時代には絶滅して
いたので、知らなかったのも無理は無い。
それと、この呼称も白人が使ってる呼び名。「ネイティブアメリカン」とすると
アメリカの一民族に埋没させられる恐れがあるから、あくまで「インディアン」と自称する。
廃れてはいないものの少数かも。人類学など学術分野で見かけますね。
>>13
カナダ国内では「ファーストネイション」と称してもいますね。
ただ、「インディアン」の範疇に通常入らないエスキモーまで混同されることがままあり・・・
アメリカ映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」で、ケビンコスナー演じる主人公が同化していくスー族の敵役として、狂暴な部族として描写されるポーニー族は、実はかなり早い時期から白人側に恭順した部族で、
(映画のラストシーンでも、ポーニー族が騎兵隊の雇われ斥候“インディアン・スカウト”として登場する)
大陸横断鉄道建設の際も、警備に当たったポーニー族にメダルが授与されている。
当時の彼らポーニー族にすれば、彼らなりの部族生き残りの苦渋の道だったのだろうが、お陰で白人には走狗扱い、インディアンからは裏切り者扱い、で、挙句の果てには100年後の映画でイイとこ無しの敵役。
何ともやるせない話ではある。
ポーニー族は捕虜の心臓をえぐったりして、いけにえを捧げる習慣があったからね。
別の意味で、ちょっと回りの部族から怖がられてた。
いい映画だった あれは。
インディアンの歴史を調べてみてアメリカが来る前に既にスペインやフランスと
交易していて、銃などを手に入れていたとしって驚いた。詳しくは忘れたけど
インディアンについて一切言及ないのって不自然すぎ・・・・
見てたけど、あの中にでてきたカメラマンは、「インデアン」という
言葉を使っていたけどな。訳では「原住民」になっていたっけ。
えっと、なんか、鈴みたいな種のなる草を揺すっているときに、
「インデアンの子供がこんなのをもって、揺すって、がらがらへび
だぞ、って脅かしたりして遊んでいた光景が目に浮かぶ」
みたいな話だったと思うよ。あまり政治的な話は関係なかったけど。
訳では、「原住民」になっていたが、あのおっちゃんはたしかに
「インデアン」という言葉を使っていた。
それ専門のハンターが有無を言わさず射殺してるんだってさ。
で、当然もったいないから、インディアンによっては保留地に連れて帰ってバッファロー牧場にしてるそうな。
そういうとこも見せて欲しかったな
今のアメリカ合衆国の地には約2000万の先住民が暮らしていたが、
その後200年も経たない内に、主に疫病のため約100万人に減少した。
>>59
あからさまな記録は知らないが、最近までブラジル内陸部で行われていた(いる?)
援助救済の形で病原菌の意図的持ち込みバラマキと同じ事があったと思われる。
北米では、先住民の痕跡を徹底的に抹消し続けた。WW II 後、旧日本領で、
日本人が構築した物を跡形も無く消し去ろうとしたやり方は、その伝統なのだろう。
伝統として継承出来る様に悪逆の詳細な極秘資料が、特定集団、特定階層に残されているはず。
彼らのトップは、自己の存在繁栄の基盤が、祖先、先人の犯罪に基礎をおいている事を知り
団結心が固められ、先人を見習う様になる。
彼らの秘密結社好きはこう云う背景がある。
通訳を立てたのか、いずれか側が相手の言葉で話したのか、それとも有名な手話で?
>>97
スクオーマン(squaw man)って、聞いたことあるかな? インディアン女性
(squaw)と結婚した白人男のことだぜ。squawは「蛮婦」みたいなニュアンス
がある差別語なんで、今じゃ使わないけどな。
「リトルビッグホーン」でも知られるラコタ族(平原スー族)などの場合、
猟師や交易商でインディアン女性と結婚し、嫁の親族と行動を共にする野郎
が何人もいた。奴らは、母語の英語(or仏語)はもちろん、奥さんの部族語
もぺらぺらだから、チーフらは、白人との交渉でこういう奴らを通訳に立て
たようだ。奴らは、言葉だけじゃなく、白人の政治制度なんかにも詳しいか
ら、不案内な白人世界への対応を迫られるチーフの、政治コンサルタントと
しても重宝されたんだ。
それと、インディアンと白人との間に生まれた子供は、赤ん坊の頃から両方
の親の言葉を聞いて育ってるんで、これまた優秀な通訳になりえた。
「通訳」を意味するラコタ語「イエスカ」が、「混血児」をも指すのは、こ
ういう事情からだろうな。
どんなかんじで愛を育んだんだろね
>>102
インディアン女性と交易商との結婚について、カナダの事例だけど、
「カヌーとビーヴァーの帝国」(木村和男、山川出版社、2002年)
が、手に入れやすく読みやすいだろう。同書の「3 多くの優しい絆」
には、「白人男性の交易者はインディアン女性との間に、両性の対等な
立場での合意と、社会的認知とにもとづく永続的な家族関係を、少なく
ともある時点まで、広く成立させた。この点こそ、毛皮交易を世界史上
でもきわめてユニークなものとしている」
なんて書いてある。ま、これだけじゃ何のことかわからんだろうから、
詳しくは同書を読んでみておくれ。
インディアン女性と交易商の結婚、実際には、「愛しちゃったのよ、
ら ら らんらん♪」なあんて感情よりも、お仕事のパートナーとして
必要だっていう感じみたいだし、交易商と娘さんの父親との間で話が
決まっていたり、他部族にとっ捕まって奴隷としてこきつかわれてる
娘さんを交易商が買い取ったりする場合もあったから、必ずしも木村
さんが書いてるみたいに「両性の対等な立場での合意」だったとは思
えないんだけどね。
でも、お見合いで結婚したカップルみたいに、とりあえず結婚して、
一緒に暮らすうちに、愛が芽生えるってことは、充分ありえただろう。
そうそう、交易商と結婚したインディアン女性といえば、ショショーニ
族のサカジャウェアが超有名。1804-06年のルイス&クラークの探検隊に
随行した、フランス人交易商トゥッサン・シャルボノーの嫁さんだ。
探検から200周年ということもあって、アメリカじゃしばらく前からルイ
ス&クラーク探検史とサカジャウェアがちょっとしたブーム。たぶん、
ポカホンタスを別にすれば、世界一有名なインディアン女性だろうね。
日本でも、彼女を主人公にした小説なんかがいくつか翻訳されて出てるぜ。
彼女は実に有能で、いろんな局面で探検を助けたみたいだ。インディアン
部族と交渉する場合の通訳なんかも、多くは彼女が務めた。もっとも、
シャルボノーとの結婚生活は幸福なもんじゃなかったみたいだけどね。
昔っから普通におこなわれてたようだね
>>107
米墨国境付近に住むアパッチが、メヒコのセニョーラやセニョリータ、
ニーニョ(お子ちゃま)をかどわかしてくることは十分ありえただろうね。
あと、アパッチの東隣に広がる南部大平原の覇者、コマンチなんかもね。
例えばコマンチの超有名な指導者、クアナ・パーカー(1845-1911)の母ちゃ
んは、シンシア・アン・パーカーって白人女性で、1836年5月19日、9歳の
時にコマンチにさらわれた。で、その後コマンチに仲間として迎え入れられ、
コマンチのクアハディ・グループのチーフ、ペタ・ノコナと結婚。クアナが
生まれたってわけだ。シンシアは1860年にとっ捕まり、もとの白人家庭に戻
されたけど、1年後に死んじゃった。すっかり馴染んだコマンチの仲間から
むりやり引き離されたのが、よほど辛かったんだろうね。
まあ、こんな風だから、アパッチや南部大平原の部族がメヒコやグリンゴの
娘さんを略奪して、その娘さんが後に誰かの嫁になることはあったようだ。
でも、それは部族のメンバーとして迎え入れての結婚だから、「部族外婚」
とは言えないだろうね。
これが北方大平原だと、大勢のグリンゴが女連れてやってくるようになった
(おっと、「グリンゴのご婦人方が、野郎同伴でお越しになるようになった」
と言った方が適切かな?)のは、19世紀中頃以降だし、そのあと暫くしてグリ
ンゴに敵対するインディアン部族はすっかり平定されちまうから、グリンゴの
女性をかどわかして嫁にすることが「昔っから普通におこなわれてた」とは言
えんだろうな。
Indian no lie. とかの日本語訳だろうな。
英語の中で、long time no see などの表現があるが、これらは、
開拓時代のインデアンと白人とのピジン英語が起源だ。
ロッキーから太平洋にかけての山間地では温泉に入る地域も多かったそうな。
南部での話し→毎朝、川での行水を欠かさなかった。(氷が張ってても平気で入ってた)
北部森林での話し→雨が降ったときに外へ飛び出し、身体を洗った。
一番一般的なもの→発汗小屋(スウェットロッジ) 屋外簡易サウナ
それ自体が清めの儀式でもある。
>>139
「衛生観念」ってゆうのが、「身なりをさっぱりする」ってゆう意味なら、マン
ダン族やオマハ族、スー族など平原インディアンが身奇麗にするのに結構気を
使っていたってゆう記録はいくつもある。Sr.>>129も書いてるように、朝晩川
での水浴を欠かさなかったそうだ。冬には、川に張った氷を割ってまで水浴し
たそうな。もちろん、中には無精者もいただろうけどね。
石鹸やシャンプーにはユッカ(糸蘭)の根を使った。細かく砕いて煮出すんだ。
それと、蒸し風呂があるわな。若木でこさえたドーム型の骨組みに、毛布や毛皮
を被せて、すっかり覆ったやつだ。中に人が入ったあと、真っ赤に焼けた石を何
個も入れる。その後、水をかけるんだ。スー族の蒸し風呂を使わせてもらったこ
とがあるけど、熱いの何の。日本のサウナなんて目じゃないね。でも、終えた後
は、身も心もすっきり爽やか! 蒸し風呂は、いろんな病気の治療にも使われた。
ただ、「衛生観念」が、「日本で(特に都会で)"ばっちい"とされるようなことを
やんない」ってゆう意味なら、インディアンに衛生観念が発達してたとは言えねえ
だろうね。そんなこと気にしてたら、生きていけないもの。
歴史的な話とは違うけど、インディアンたちと遊んでいて、車のタイヤに小便され
たことがある(小便したのはクロウ・ドッグってゆう名のメディシンマンだった)。
ムカついて、「やめろよ!」って怒鳴ったら、「白人みたいなこと言うな!」って怒
鳴り返された。なるほど、俺たち「清潔に!清潔に!」って気を遣いすぎなのかも
ね。伝統派を自認するメディシンマンの言葉だけに、妙な説得力があったよ。
川崎麻世の嫁さんのカイヤも、父親は独人で、母親はインディアンだって言ってた。
元・横浜ベイスターズのデニー友利は、おばあさんがチェロキー族だそうだ。
>>149
【西部劇映画】
時代劇ならやっぱり『ダンス・ウィズ・ウルブズ』だね。時代考証はかなり出鱈目
だけど、インディアンを人間としてきちんと描いた上で、わくわくドキドキ厭きさ
せない展開。流石は、アカデミー最優秀作品賞に輝く映画だ。
1970年公開の『馬と呼ばれた男(原題"A Man Called Horse")』も、1830年代のスーの
国を旅してるみたいなわくわく感があって好きだった。でも、今考えると、インディ
アンを脳タリンの原始人みたいに描いてるのは問題だな。それと、一枚一枚の絵は
カッチョいいんだけど、他部族の風習を無理やりスー族にくっつけてるのが多過ぎだ。
西部劇を「西部を舞台にしたドラマ」と解釈してOKなら、一推しは『荒野の絆』(原
題"SKINS")だ。日本では2002年の東京国際映画祭で公開された。パインリッジ・
スー族居留地が舞台の現代劇だ。監督のクリス・エアはインディアン系アメリカ人。そ
れも、よくある"なんちゃってチェロキー"とかじゃない、正真正銘のインディアンだ。
画面に漂う「居留地の空気」みないなもんは、非インディアンの監督じゃ出せないぜ。
こうしてみると、スー族ばっかだな。まあ、個人的なオススメなので、許してちょ。
あと、インディアン史のドキュメンタリーでは"500 Nations"(全8巻)がオススメ。
インディアンそのものの歴史ってゆうよりも、主にインディアンー白人関係史だけどな。
ケビン・コスナーの案内で、メヒコも含めた北米全域の500年に渡るインディアンー
白人関係史のおおよそのことがわかる。TVのシリーズ番組をまとめたものだ。
以上の劇映画とTVドキュメンタリーのビデオは、amazon.comで入手可能だよ。
映画なら『ウインドウォーカー』でしょ
低予算ですがよくできてる
こちらはシャイアンのお話
>>149
【本】
ここは「インディアンの歴史」スレなんで、歴史系の本に絞るぜ。概説書としては
『アメリカ・インディアン』(W・E・ウォッシュバーン、南雲堂)、
『アメリカ・インディアンの歴史』(富田虎男、雄山閣)、
『アメリカ・インディアン史』(W・T・ヘーガン、北海道大学図書刊行会)、
『米国先住民の歴史』(清水知久、明石書店)
『ネイティヴ・アメリカン――写真で綴る北アメリカ先住民史――』(ハーシュ
フェルダー、BL出版)などがある。
この他、超入門書としては『北米インディアン生活術』(グリーンアロー出版社)、
西部劇でおなじみのスー族など平原インディアンの歴史については『大平原の戦
士と女たち』(社会評論社)が読みやすいだろう(って、他人事みたいに言ってる
が、この二冊には俺の分身が関ったって事は告知しとかないとマズイだろうね。
後者については、原著を書店で見つけ、超オススメ本だと思ったから関ったのさ)。
あと、歴史の本じゃないけど、『インディアン魂』(レイム・ディアー、河出書房新
社)もオススメだぜ。現代のスー族の物の考え方がかなりよく出てると思うよ。
現代モノでもうひとつオススメは、『インディアン・キラー』(東京創元社)。イン
ディアン系作家シャーマン・アレクシーが書いたミステリーだ。都会のインディア
ンがどんな気持ちで暮らしているのがよくわかる。映画『荒野の絆』と同じく、イ
ンディアン系の表現者でないと描けない世界だろうね。
>>158
ミシシッピー文明の中心地、カホキア(Cahokia)の最盛期、
西暦700~900年頃の人口は、10,000~40,000と目されてる。
1800年にフィラデルフィアに抜かれるまで、現在の合衆国に
相当する地域の中じゃ歴史上最大の町だった。
セントルイスの近くにあるカホキアの墳丘は、支配者「偉大なる
太陽」様のお宅の跡で、ベースの面積で言えばギゼーのピラミッド
よりでかいそうな。
なお、この墳丘は世界遺産に指定されてるぜ
http://www.arukikata.co.jp/news/staff_note/c230.html
をみてちょ。
カホキアについては、「インディアンの夢のあと」(徳井いつこ、
平凡社新書、2000年)にも書いてあるぜ。
家はティピ、服装と髪型はスー族そっくり、あまりに大平原(グレートプレーンズ)の
部族の風俗と似ているのが不思議なのですが、これは近代の影響でしょうか。
今や全米の部族がワシ羽根の冠を被っていることだし(笑)、近い時代に真似たのかな?
だから本当がインド人をインディアンになるはずだったんだよ確か。
>>184
人の暮らしって、結構影響されやすいみたいだぜ、セニョール! 俺たち日本人だ
って、今や家は洋風、服装も髪型も西洋人そっくりだしな。
ロッキーの山岳地帯(Plateau)に住む部族も、馬を手に入れると、ちょくちょく大平
原に遠征して野牛狩りをやった。その際、移動に便利なティーピーを採用するのは
当然だし、スー族など大平原の部族の服装や髪型がカッコイイって思えばマネるわ
な。だから、彼らの家や服装や髪型が平原部族のものに似てきてもちっとも不思議
じゃあない。まあ、流石にワシ羽根の冠については、写真家のヤラセだろうけど。
>>185
「コロンブスがアメリカをインドと勘違いした」ってゆうのはよく聞く話だし、ア
メリカの学者が書いた本なんかにもそういう風に書いてあるのが多いけど、ホント
はそうじゃない。英語のIndianには「インド人」ってゆう意味があるんで、それに
ひきずられてつい誤解しちゃうんだろうね。実際には、コロンブスが目指したのは
インディアス。実際のインドだけじゃなく、黄金の国ジパングや、中国も含めた、
漠然とアジアを指す、当時の用語だ。まあ、最近ではアメリカの小学生の歴史教科
書にも「コロンブスはアジアを目指した」って書いてあるみたいだね(「アメリカの
小学生が学ぶ歴史教科書」p14-15)
>>188で言った「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」。英語の原文と日本語訳が対に
なった本で、今年2月にジャパンブックって所から出たんだけど、中々面白いぜ。
第一章冒頭はこう始まる
The First Americans
The story of our country begins with the first people who lived there. These people
are often called Indians because Columbus gave the people he met in the New
World the wrong name. He thought he was in Asia, which he called "Indies". In
this book, we call these people by the term they usually use for themselves,
American Indians. You may also hear them called Native Americans.
これ読むと、「コロンブスは(インドじゃなく)アジアに着いたと思い込んじゃった」
って、ちゃんと書いてある。くどいようだが、以前は「コロンブスはインドに着いた
と思い込んじゃった」って書いてる本が多かったんだ(今でも多いと思う)。
それと、アメリカ先住民は"Native American"なんて呼ばれることもあるけれど、
彼ら自身の呼び方では「アメリカ・インディアン」が普通だ、とも書いてあるね。
これも正しい認識だと思うぜ。
独立戦争当時の植民地人と本国政府の確執噺も面白かった。植民地人は、人口が増え
るにつれ、西へ膨張したかったんだけど、本国政府の方は、アパラチア山脈以西はイ
ンディアンのものとして確保し、インディアンとの毛皮交易で稼ぎたかったらしい。
それに、領土を拡張すると必然的にインディアンと戦わざるを得ないけど、本国政府
としてはそんな戦いは金がかかるので、避けたかったんだと。
「白人」ってゆうと、みんながみんなインディアンの土地を奪いたがっていたように
ゆう人がいるけど、同じ「白人」でも、立場が違えば考え方も違うんだね。
ニュース
戦いは棒で突っつくだけで結果死ぬことはあっても、殺すための戦いはなかったとか。
>>203
ちゃんとありましたよ>部族間抗争
白人接触後に激化(鉄砲・ウマの使用、勢力圏の縮小)し、
敵対部族を殲滅・奴隷化した例はけっこうあったかと。
メキシコ圏では戦争は生贄確保のためでしたが。
>>204
>敵対部族を殲滅・奴隷化した例はけっこうあったかと。
殲滅したら奴隷は確保できない。女や子供は生かしたまま奴隷にした
のでは。西部太平洋沿岸のハイダなどはそうだったと聞いた。奴隷は、
身分が永遠に固定されることはなく、一代限りで、子供は部族の子
として育てられたとか。
>戦いは棒で突っつくだけで、殺すための戦いはなかったとか
って話、地域・時代限定でホントだよ。その地域・時代とは、映画「ダンス・ウィズ・
ウルブズ」にも描かれた19世紀中葉の大平原だ。
当時のラコタ族(平原スー族)など平原インディアンにとって、戦とは「馬泥棒」と
「鬼ごっこ」だった。つまり、できるだけ多くの敵を殺すことじゃなく、敵の村に侵
入して馬を盗んだり、武装した敵の体に素手でタッチすることが、彼らの戦だった。
どちらもとてつもない勇気がいることだね。彼らの社会では、勇気が何よりも賞賛さ
れていた。だから、危険を冒してド根性を見せつけ、仲間から尊敬されるのが、戦に
出る目的だった。それに比べると、遠くから弓矢や鉄砲で敵を倒すのは大した根性は
いらないから、賞賛も低かった。
特に、素手で敵の体にタッチするなんて、キケンこの上ない離れ業だ。そういう離れ
業をやってのけることを「クーを数える」ってゆう。クー(coup)は、「クーデター
(coup d'Etat)」でお馴染みのフランス語だ。素手だけじゃなく、刃物などのついて
ない杖で敵の体に触れてもOKだった。その杖をクー杖(coup stick)という。Sr.203の
「棒で突っつくだけ」ってゆう話は、このクー杖のことを言ってるんだろうね。
あらら、そんな戦争儀式があったんですか…。
「武威を示す」ことが肝要とされていたんですね。
地域によりまちまちとは思いますが。
また、生涯に名を改めたり、複数使い分けたりすることもあるんでしょうか。
に四回名前が変わると聞いたことがあります。赤ん坊の時の名前、子
供の時の名前、大人の時の名前、老人の時の名前。赤ん坊も、子供
も、それほど名前にはシリアスではないらしい。「いつでもベットか
ら転げ落ちる」とか「両足が四六時中泥だらけ」といった名前。大人
の名前は、その人の職能に応じた名前であったりする。祖先のなかの
同じ仕事をしていた人の名前をもらうとか。生まれてつけられた名前
で一生を終えることはなかったと聞いた。今だってたいていふたつの
名前、インディアン・ネームと、白人のような名前を持っていたりす
るのがあたりまえ。人には絶対教えてはいけない名前を持つこともあ
るとか。
ってる北太平洋岸のインディアンだったろう、って言われてる。彼らは名誉ある称
号を獲得することを、人生最大の目標にしていて、偉い人になると夏用と冬用の名
前を持っていたらしい。
北太平洋岸といえば、ポトラッチ。氏族の長が、地位と名声を高めるため、大勢の
客人を招いて、むちゃくちゃな大盤振る舞いをする風習だ。このポトラッチ、名誉
ある称号を継承したり、良い名前(例えば「超リッチ」とか、「喋りながらいつも毛
布を呉れてやる」とか「富投げ」なんて名だね)を称することを公認してもらうた
めに催すこともあったらしい。
ようだ。例えば、ラコタ族の偉大な指導者タタンカ・イヨタケ(Sitting Bull)の
生まれた時の名はホカ・プシチャ(跳ねる穴熊)だったらしい。その後フンケシュ
ニ(のろま)と呼ばれるようになった。本人にしてみれば、あまり嬉しい名前じゃ
あなかろう。つまり、綽名ってやつだ。
でも、14歳のとき、初陣でクーを数え、息子の大手柄にすっかり気をよくした親
父は、自分の名を息子にゆずった。その名が、タタンカ・イヨタケ、"座れる牡牛"
だったというわけだ。
じゃあ、そもそも親父はなんで"座れる牡牛"なんて名乗ったかとゆうと・・・
あるとき親父が猟に出ていて、不思議な牡の野牛に出会った。その牡牛、なにやら
ぶつくさ呟いている。親父によると、それは霊的な存在が牡牛に姿を変えたもので
「座れる牡牛、跳ねる牡牛、牝牛と立つ牡牛、独りきりの牡牛」って言ってる。
親父はそれを、「4つの名前のどれでも自由に使え」って霊的な存在が言ってるんだ
と解釈して、それまでのReturns-Again(ラコタ名不明)って名を捨ててそれ以後
は"座れる牡牛"、タタンカ・イヨタケって名乗ることにした・・・・といわれている。
ところで・・・。ひとつ質問があります。
名前といえば、俺の昔の名前は「アステカの戦争は口げんか w」。このオチャラ
ケた名前がもとで、某アステカ関連スレを滅ぼしてしまった暗~い過去が・・・・
まあ、それはそれとして、中南米文明関連のスレッドを見る限り、我が国では
北米インディアン史に関心を持つ人よりも、中南米文明についての関心と知識
をもつ人の方が、どうやらずっと多いみたいだね。
質問:それは、どうしてなんでしょうか(それはどうしてだと思いますか)?
金銀財宝ざっくざっくの中南米文明。失礼ながら貧乏臭い(?)北米の文化より
関心を呼ぶのは当然と言えば当然かな。
でも、北米インディアンには西部劇ってゆう強い味方がついている。良かれ悪し
かれ、西部劇はインディアンを先住民中のスーパースターに仕立てた。
それに、北米インディアンの住むカナダ・アメリカ合衆国は、ラテンアメリカ諸
国に比べて日本との関係は濃密である、と思える。
なのに、なぜ北米インディアン史は、中南米先住民史ほどの関心を集めないのだ
ろう?
学問の世界のことはよくわかんないけど、日本の大学では北米インディアン史を
研究してる人たちよりも、中南米先住民史を研究してる人たちの方がずっと多い
のかな? もしそうだとして、それは何故なんだろ?
>>217
中南米を荒らしたスペイン、ポルトガル人は成果をあっけらかんと公表した。
自らの犯罪行為も神に許される異教徒征服行為と信じて隠さなかった。
人も遺跡も徹底的抹殺をしなかった。
北米では当初交易から始まったので、後からの財宝の取得は組織犯罪として行われ、
管理され、隠された。
インディアンに対する虐殺は、裏切りと欺瞞的手段でなされ、犯罪である事を強く
意識されたもので、人も遺跡も徹底的に抹殺し、痕跡を残さぬように手を尽くした。
良心の呵責、神の裁きを恐れる仲間は、秘密を暴露させる虞れある者として
順次処分され、秘密は特定の集団の中に秘匿された。
すなわち、一般の関心を呼ぶ物が悉く消し去られていたから。
程度の差かも知れないが、フランスは比較的インディアンに対して
毛皮交易だけと割り切ってつきあっていたようにも見えるが。
日時計兼・夏至冬至を知るカレンダーではとの説もあるでよ。
文字記録が出土していないので証拠は薄いものの、
中米でおなじみの52年周期や260日暦を表したと思われる絵や文様は
あちこちで見付かっているので、結構中米からの影響は大きかったと思われ。
おすすめのがあったら教えてください!
>>404
『北米インディアン生活術』(グリーンアロー出版社)など、どうじゃろか?
実は、俺っちはこの本に関して客観的評価を下せる立場じゃあないんだけど。
アマゾン.comには
「北米で生活していたインディアンの生活様式を知る和書としてはまずこれが
一番ではないでしょうか。インディアンに興味のある方は一度目を通しておくと
参考になる本です」
とか
「図解が明解で非常に分かりやすい。文章も難しい専門用語が少なく、実際の
生活知識としても雑学としても役に立つ。私自身がネイティブアメリカンについ
て入門者だったこともあり、読み易そうなものを選んだつもりだったが、まさに
大当たりだった。先住民問題とかはさておき、インディアンと言うものに興味を
持ったら読んで欲しい一冊」
なんてレビューが載ってたから、まあええんじゃないでしょうか。
この本が役に立たなかったら、他のを紹介するから、教えてちょ。
早速注文したいと思います。
ところで、インディアンの生活様式で日本で暮らせると思いますか?
湿気とかで、だめでしょうか
東海岸や西海岸の中緯度あたりの生活様式ならば、なんとかなりそう。
日本以上に湿度が高いメキシコ湾岸部もあることだし。
>>408
>インディアンの生活様式で日本で暮らせると思いますか?
>湿気とかで、だめでしょうか
あくまで、「昔のインディアンの生活様式」ってことで
お話しますね。
Sr.409の仰るとおりでございます。
ご存知のように、インディアンは北米大陸の先住民。
北米大陸はアジアと同じぐらい広く、自然環境も多様ですね。
従って、北米先住民の生活様式も「アジア人の生活様式」と同じく
さまざまなのでございます。
西部劇でおなじみの平原インディアンの生活様式を日本に持って
こようとしても、それはムリというものでしょうね。
でも、ドングリなどをベースにしたカリフォルニア先住民の
生活様式なら、日本の照葉樹林帯でも十分マネっこできるんでは
ないでしょうか。
あと、北海道なら、畑で栽培したとうもろこし・南瓜・豆をベースに
鹿肉や魚介類で彩りを添えた東部森林地帯の生活様式とか。
また、ワシントン州(米国)やブリティッシュコロンビア州(カナダ)
など、太平洋沿岸の先住民の生活様式は、大量に獲れる鮭をベースに、
巨木を利用した建造物が特徴なんだけど、東北地方などの縄文文化と
も共通する処が多いって言われています。ちなみに、この付近は多雨で
湿気が多く、それゆえに巨木が育ったのであります。
自分は、長野県の中部に住んでいて、
テントで移動!生活をしたらどうなるか、と常々想像していました。
気候はご存知のとおりなんですが、
なにしろ山ばかりなので、やっぱり不可能でしょうか?
教えてチャンで、気分を悪くされたらスルーしてください
>>413
長野といえば堅果類(ドングリなど)の料理が今も豊富に残る土地だから、
アク抜きできるきれいな清流がそばにあればもうバッチリでは。
王滝村には、農協のドングリ殻むき機が置いてあるのを見かけましたよw
あれは足踏み式なのか電動なのか、一度に大量に殻を割ることができるようです。
長野でもトウモロコシはかなり標高の高い村でも作付けしているところからすると、結構いけるのでは。
>>413
>自分は、長野県の中部に住んでいて、
>テントで移動!生活をしたらどうなるか、と常々想像していました。
>気候はご存知のとおりなんですが、
>なにしろ山ばかりなので、やっぱり不可能でしょうか?
「山がちの土地で、テントで移動生活」ということなら、ネペルセ(Nez
Perce 英語読みはネズパース)族など、ロッキー山脈の西側、アイダホ州
周辺に住む人たちのライフスタイルが近いでしょうね。ネペルセ族は、ヒ
ナユリ(camas)の球根を掘ったり、鹿を獲ったり、鮭を獲ったり、ときには
山の彼方にある大平原に出かけて野牛を狩ったりして暮らしていました(と、
過去形にしちゃったが、野牛狩りを除いた採集・狩猟活動は、今も小規模な
がらつづいているようです)。
ただ、彼らが移動生活を続けたのは、季節によって獲れるものが違うから。
また、山地を、テントや家財道具一式を移動するには、馬が必要。
日本でマネようとしても、勝手に他人の土地や公有地にテン張れないし、馬も
養えないし、第一、どうやって食っていくのかという問題がありますわな。
鹿などの狩猟は、限られた場所で、限られた期間だけ、限られた方法により、
限られた数だけを獲ることが許され、その獲れ高も限られています。
魚とりにしても同じようなもの。山野で獲れる球根なども限られています。
つまり、現代の日本で、狩猟・採集に頼って生きていくのは、とてもムツかし
いのであります。
ま、そんなにムツかしく考えないで、ただ昔のインディアンの暮らしぶりを
追体験したい、っていうことなら、これは全く別の話になります。
その場合は、かの『動物記』で有名なシートンが書いた『二人の小さな野蛮
人』をお読みになることをお奨めします。インディアンのように暮らそうとし
た少年の物語です。特に、内山賢次さんの訳した評論社版がお奨めです。随分
前に絶版なので、大きな図書館で捜してみてちょ(2000年には秀英書房から
中山理さんという人が訳したものも出ています)
カリブのインディアンは元々平和で豊かな暮らしをしていた。
労働などせず、畑にはいろいろな種類の作物がゆたかに実っているが、
彼らが畑で働くのは一週間のうちほんの数時間。
海には魚がいくらでもいるから、食べるものにはこまらないし、
暑いので裸同然で、着るものもほとんど必要ではない。歌って踊りをして、
女と開放的にセックスをする。エデンの楽園のようなのどかで豊かな暮らしをしていた。
コロンブスは2人のインディアンを連れて新大陸発見からスペインに帰った後、
金があり健康的な奴隷が沢山いるとイザベル女王に言っている。
でまた来て、侵入し、無理矢理、金鉱山とプランテーションで奴隷としてインディアンを強制労働で働かせた。
さらにヨーロッパ人が持ち込んだ黄熱病などの病気により、カリブのインディアンはほぼ絶滅してしまった。
で、代わりにスペイン人らヨーロッパ人はアフリカから奴隷として黒人を沢山連れて来たと。
カリブはキリスト教徒の約束の土地であった。
異教徒が勝手に約束の土地にすみつき享楽していた。
我々は彼らを根絶し、約束の土地を取り戻した。
白人の歴史観なんてそんなものだろ。
少なくとも民族自体が絶滅することは無かっただろう・・・
>>438
モンゴルだったら…病気は入るかもしれん。森林地帯は課税ですむが草原は取り合いに?
もっともモンゴルは数が少なかろうからジュチ系、チャガタイ系諸国のようにインディアン系言語で
チンギス・ハーンの血を引く王家の支配する諸民族が成立するかも。
ていうかスペインが支配したインディオは散々な目にあって激減したようだがアメリカのインディアン
に比べれば多く残っているような。グァテマラやボリビアのように半分以上インディオとか
パラグアイのように9割以上混血てな国もあるし。
USAのインディアン今は増えているが1%あるか無しか。北海道のアイヌの割合と似たようなもんか。
元の数が中南米に比べて少な目な上に移住者がごっつう多いというのもあるだろうけど。
あっという間にモンゴル語一色に
でもモンゴル帝国ってモンゴル語一色にならないし。
モンゴル語族にはなるんでないか?
キプチャク汗国、イル汗国、チャガタイ汗国はみなトルコ語圏になった。
短期間のうちに西洋文明を採り入れた「開化五部族」ですが、
なぜにあれほど急速に吸収することができたのでしょうか。
南東部の部族は、もともと職業の文化や階級社会が発達していたため
西洋文明の習得が比較的容易だったおかげか、とも考えてみたのですが。
定住性の高い農耕社会、というのも大きな条件かも。
>>451
たしかに、そうした条件が大きく貢献しているでしょうね。
それプラス、混血指導層の存在も大きいと思われます。
白人交易商が、お得意先のインディアン部族の有力者の娘さんと結婚する例が少なく
なかったが、その結果生まれた子どもは、部族の人たちから仲間として迎え入れられ
た。確かに、お父さんは部族の人じゃあない。でも南東部では母系制の社会が多い。
母系社会とは「母方にのみ先祖を意識し、男の財産・地位は母の兄弟から受け継がれ
る」ってゆう社会。なので、母親が部族の人で、しかも有力者の娘ということになれ
ば、その子も、部族の仲間で、しかも母の兄弟の財産・地位を受け継ぐことになる。
一方、そういう子どもは、お父さんから教わったり、白人の学校に入れられたりして、
ヨーロッパの制度(学制、法制、行政機構)に関する知識を受け継いでいる。
だから、自分が母の兄弟の地位を継いで指導的立場に立ったとき、そうした知識を
部族政治に応用することができた。
「開化五部族」が短期間のうちに西洋文明を採り入れることができたウラには、
こういった事情もあったようですね。
詳しいご説明をありがとうござます。
現在のアメリカで活躍する有名人にチェロキーの血を引く人が多いのも
そういった背景があったため白人社会に進出しやすかったんですかね。
政治、スポーツ、芸能・・・幅広さには驚くばかり。
>>455
>現在のアメリカで活躍する有名人にチェロキーの血を引く人が多いのも
>そういった背景があったため白人社会に進出しやすかったんですかね。
実は、これにはちょっとしたカラクリがございましてね。
ちと古いが、1990年の合衆国人口統計によると、全米の先住民人口
(エスキモーを含む)は195万9234人。
一番人口の多いインディアン部族はチェロキーで、30万8132人。
第二位はナバホ、21万9198人。
統計調査のやりかたは、「自分はインディアンである」と自己申告申告した人は
「インディアン」に分類し、その後、部族名を聞くというやりかただったらしい。
しかし、部族に正式に「部族の一員」として認められている人の数は、
ナバホは約16万7千人。
オクラホマ・チェロキーは約12万人。
しかも、ナバホの場合、新たに部族の一員として認められるためにはナバホの血を
1/4以上引いていないといけないけれど、オクラホマのチェロキーの場合は、
1906年に部族員として認められていた人の血を僅かでも引いていればOK。
つまり、チェロキーになるための基準は、ナバホの基準に比べればずっと緩い。
話はこれだけではない。
人口統計では「インディアン」以外の人種分類に申告した人でも、遠いご先祖様に
インディアンの血を引く人が、いなくはない場合も多い。そういう人たちが、
ある種の自慢で「私の体にはインディアンの血が混じっている」なんて言う訳だね。
たとえば、クリントン大統領も、
「私の祖母は1/4ほどチェロキー族の血が混じっている」とのたもうたそうな。
つまり、普段は「インディアン」であるがゆえのさまざまな不利益を被ることも
なく過ごしておきながら、都合のいいときだけ「自分にはチェロキーの血が混じっ
ている」なんていう「なんちゃってチェロキー」が、少なくないのであります。
写真家の河野謙児(58)もナバホ族の女性と結婚してるよ。
1974年コードトーカー(ナバホ族の暗号部隊)に興味を持った河野謙児氏は被写体としてロスから追い続けナバホ族の居留地へヒッチハイクで、
乗せてもらった車の運転手がナバホ族のコードトーカーだった人で、
3ヶ月で帰国するつもりだったが、居留地での交流とかでナバホ族のルース(52)と言う女性と結婚して
サクラと言う名前の娘も授かって、現在でもナバホ族の居留地で暮らしてる。
大きいはずなんだけど・・・・。
部族によって狩猟か農耕か違う。アメリカ東部は世界でも数少ない農耕発祥の地。
ポンティアックのスポーツカー、トランザムのボンネットに描かれている火の鳥って、
インディアンの伝説の火の鳥ファイアーバードらしいね。