その程度の理屈なら徳川家康を西軍に引き込んだ方が早いんでね?
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だからその場で家康を討ち取らないとダメ
豊臣家の音頭をだれかが執れればだが。
豊臣の音頭を取っていたのが家康その人だったんですけど
>豊臣の音頭を取っていたのが家康その人だったんですけど
家康が寿命が尽きるまで豊臣家の音頭を執っていれば、西軍の勝ち。
徳川家康を「豊臣政権の執権」につなぎとめ、徳川宗家代々がこの地位に就く形に持ち込めれば、豊臣政権は維持されたといえるわな。
でも家康がそんな鎖を引きちぎって幕府を開いたのは、秀吉死去時で250万石という卓越した石高を持っていたから。これはもちろん、秀吉自身が関東に与えたものだが、これぐらいしないと転封を承知しないと思われていた。
つまり、問題の源泉は、天正壬午の乱で家康の旧武田領蚕食を牽制しなかったばかりか、影で後押ししたという秀吉の致命的戦略ミスにある。あの時、家康ではなく上杉を支援して諏訪湖ぐらいまで取らせれば、家康は関東に移封させても100万石程度で済み、五大老筆頭のまま、豊臣政権を壟断するだけで済んだ可能性が高い。
>>226
幕府を開いたらそれには逆らっちゃいけないと家康が考えていたとでも?
秀家「さあ、オレは将軍だぞ」
家康「知るか。宇喜多なんか滅ぼしたるわ」
清正、正則「俺は将軍だぞ」
家康「知るか。お前らなんか滅ぼしたるわ」
清正、正則「すみませんでした、あなたに従います」
大野治長「秀頼さまが将軍です」
家康「知るか」→あとは史実のように
そんなことは考えてないよ。
でも、関ヶ原後に将軍になったから、諸大名は臣下の礼をとったわけで、将軍になれなかったら、家康も諸大名も豊臣家臣のまま。
家康が言うことを聞かすためには、豊臣を叩き、各大名をひとつひとつ潰していかなければならない。家康にそれほどの時間は残されてないよ。
豊臣政権当時、武家の棟梁は武家関白だよ。
秀吉が五摂家に取り入ったから関白になれたわけだから
あくまで貴族の官位じゃん?
武士の頂点は征夷大将軍だと思うんだけど
豊臣姓を下賜されて武家関白家となったよ。
武家関白は貴族の官位ではなく、武家の棟梁として認知されているから、秀吉は将軍を置かなかったわけだ。自分の意のままに動かせる傀儡将軍が必要なら鎌倉幕府みたいに摂関なり親王なりを据えれば済むことだけど、そんなものは必要無かった。
あと気になったのは豊臣姓を下賜されたのは太政大臣になってからだと思ったんだけど違ったかな?
まぁ秀吉は関白を世襲するために結構裏技使ったからな…
既にここらへんから綻びは始まってたのかもしれん。
それに朝廷だって一大名程度を征夷大将軍になんか任命するわけないだろ。
226では「秀吉が存命中に」とあるね。
秀吉存命中ということは、対外戦争中ということ。
豊臣姓の外征将軍を征夷大将軍に任命することは道理にかなう。
しかも秀吉の意思であれば、何の障害もないよね。
次に将軍の権威の件。
仮に加藤清正が将軍になり、その後歴史通りに関ヶ原が展開したとしよう。
清正は東軍だし、将軍を罷免するわけにはいかない。
そうなれば、家康は豊臣政権の大老として主君秀頼の名のもとに戦後処理をするしかない。
家康が諸大名を臣下にするのは、個別に行うしかなく、そんな状況で九州にいる将軍清正を倒すには何年かかるやら。
さらに秀頼を滅ぼすとなると、時間がかかりすぎて家康の寿命が尽きるだろう。
実力を伴わない将軍に従うものは少ないが、権威のない実力者に従う者もそう多くないのだよ。
家康は任官された時点では400万石の石高と内大臣の官職をもっていたし、
家系図を新田家傍流に書き換えて任官されるように土台を入念に準備している。
>>246
加藤清正と福島正則は豊臣姓で秀吉と血縁関係もあるから、少なくも秀吉存命中には問題なく征夷大将軍になれる。 外征将軍だしね。
初代征夷大将軍坂上田村麻呂の出自は東漢氏で、それほど貴種というわけではないね。
>初代征夷大将軍坂上田村麻呂の出自は東漢氏で、それほど貴種というわけではないね。
少なくとも朝廷の直臣であり、豊臣の陪臣である福島や加藤と同列ではないし、
近衛府勤務からスタートしていて、天皇に対する信任に至っては別格。
そんなゴリ押しで朝廷相手に紛糾するぐらいなら足利家をそのまま継続させて将軍家とした方が効率が良い。
東漢氏は渡来系でもともと蘇我氏の陪臣のような氏族だった。
同じ源氏とはいえ源頼朝の陪臣(御家人)だった足利氏が将軍になったわけだから、摂関家である豊臣姓の加藤、福島が将軍になるのがそんなに無理とは思えないな。
小早川秀秋も関白になれると自他ともに思っていたわけでしょ?
>東漢氏は渡来系でもともと蘇我氏の陪臣のような氏族だった。
田村麻呂自身は近衛府から出仕して紛れもない直臣だし、天皇の信任は歴史的にも稀に見る厚さ。加藤や福島なんか当時の天皇からすればどこの馬の骨か分からぬ上に、秀吉の子分に過ぎない。秀吉がゴリ押ししたとしてもそのせめぎあいの姿を諸大名に晒し、時間を浪費するだけだろ。
>同じ源氏とはいえ源頼朝の陪臣(御家人)だった足利氏が将軍になったわけだから、
源氏の分家筋だし、全国の武家を二分する一方の指導者だろ
>摂関家である豊臣姓の加藤、福島が将軍になるのがそんなに無理とは思えないな
加藤や福島が豊臣本家を乗っ取る形で諸大名に号令する立場になり、家系図も源氏なりそれなりの家に書き換えればなれるかも。
>>256
坂上田村麻呂のときの桓武天皇と、秀吉が関白になって以降の天皇じゃ持ってる権力が全然違う。せめぎあいになんぞならんよ。
実際、秀吉は臣下を内大臣やら大納言にもしている。
あと、足利が源氏の分家筋なら、加藤福島小早川も豊臣の分家筋。
豊臣は摂関家で武家の棟梁だから、わざわざ源氏になどなる必要はない。
あなたは、源氏や将軍を特別視しすぎなんじゃね?
征夷大将軍を名乗るだけの統率力には値しないだろ。
足利のような確かな血筋でもないし。
足利も実に盛大に内輪もめしてたよな。
文治派vs武断派の熱い内部抗争
鎌倉幕府四代将軍は摂家の非嫡子で、しかも3歳の幼児だったから、摂家分家筋も統率力も天皇の信任も全く問題にならないということだな。
ある程度支える武力があればな
鎌倉には北条がいたから将軍が雑魚でも倒れなかった
しかし豊臣にはそんな勢力はないんでね
徳川が絶対服従なら話は別だけど
坂上田村麻呂は長年失敗してきた奥州平定に成功したし、天皇の近臣として厚い信頼を寄せられた。 頼朝や尊氏は源氏の血筋で、しかも多くの武家従えていた。
福島や加藤は豊臣の配下としては猛将かもしれないが、それまで叙任された征夷大将軍
としては豊臣家配下として同僚といさかい起こしている程度の人物で小物過ぎるし、血筋も頼朝や尊氏に比べ不確か、大名としても20万石程度と小身。
少なくとも利家のように仲の悪い三成と清正を丸め込んでまとめる度量ぐらいは必要。
つうかだなあ、太閤が自ら乗り出して、隣国の征服作戦に邁進しているその期間に、
何が悲しくて、部下にわざわざ征夷大将軍になってもらおうとするんだよ('A`)
そんなわけわからんことをして、唐入りの作戦遂行に、何かプラスにでもなることがあるのか?
朝鮮の冬の寒さに耐えきらず凍死者だしてるようじゃ華北も占領できん
戦力以前にそうしたことがダメ
満州は関係ないでしょ
戦とは兵站で決まるもの、当時に三成より優れた人はいない
家康の将軍就任は、秀頼家臣から家康家臣に鞍替えしたかった諸大名に口実を与えた訳で、
将軍職を長生きしそうな別の奴にくれとくのは面白い嫌がらせ。
清正とか武張った奴に与えるより、ひょうげ者に与えて、将軍職の権威を落としておく方がいいと思うが。
しかし、将軍職は口実であって、その前の事実としての権力交代を防がないとな。
古織将軍ですか(笑)
それはそれで面白いですね。
ただ、あまり小者だと、将軍ごと担がれてしまうリスクがありますね。
そこそこ力があり、できれば秀吉と血縁のある豊臣姓のものが最適かなとは思います。
もう答えは出ているだろ。
秀頼が出陣するだけで勝てたはずだ。
西軍の陣頭に秀頼が自ら立ちはだかれば、
東軍の軍勢はことごとくその場にひれ伏し、
戦にもならなかっただろう。
見なかった事にして押しきるのでは?
鳥羽・伏見のときの明治帝は幼かったけど慶喜は撤退したが
帝を担いだら正義
それ以外は悪
指導者はこれを無視する事ができない
民衆が納得しないからだ
当然納得した兵士と納得しない兵士で戦えば結果は見えてる
秀忠を江戸20万石
秀康の結城10万石
四天王も各10万石で他所に移す
豊臣政権=徳川政権くらい家康に全部委ねてるから
西軍に勝ち目ゼロ。
天下の豊臣が全力出しても倒せなかった徳川を、
一奉行に過ぎなかった石田がどうやって倒す?
無理だろ。三成に非はない。
秀吉が死んだ瞬間、すげー勢いで家康に擦り寄るってのはどうだ?
万が一、関ヶ原で家康が敗れても
家康さえ生きていれば無傷の徳川本隊が残っているから
何度でも復活戦できる
関ヶ原で1回負けただけで終了してしまった西軍とは大違い
>>302
裏返せば家康さえ
ゴルゴ13が討ち取れば東軍は烏合の衆で崩壊だな
総大将の代わりがいない
ゴルゴは冗談だが
桶狭間合戦のように家康本陣だけを奇襲して
家康を討ち取る軍師が西軍にいればな
秀吉が天下を取った後に軍師の黒田官兵衛を冷遇していなければ
官兵衛が秀吉死後の豊臣家を守るために知恵の限りを尽くしてくれただろうに
それは言えてる官兵衛を恐れたからというが
それなら家康に250万石もの大領地を与えたのはうかつすぎる
もっと分散させなきゃ
それができたとしたら吉川広家だったと思う
東軍とは関ヶ原開戦前に内応していたと言われるが
それを土壇場で反古にして毛利勢が山を下り背後から家康を襲えば
桶狭間の再現になったかも知れない
さらに最前線に犬どもが頑張っているのに
西軍の誰がどうやって家康本隊まで突撃出来るかねぇ。
らっぱで暗殺とか無理なん
>>306
家康は伊賀と甲賀が味方してるし、
剣豪柳生一族まで付いてるから並大抵の連中じゃ無理そうじゃないか。
冬の陣だが、豊臣の決死隊が秀忠襲ったけど柳生宗矩一人に蹴散らされたし。
実際の忍者の役割は逃走補助と情報収集
戦闘能力は低い
ましてや暗殺なんて無理
花の慶次に出てくる忍者は強すぎるな
なんで三成は小早川秀秋なんてのを自軍に組み込んでたんだ…?
伝説を加味してもとても豊臣に忠義感じてそうには思えないんだが…
徳川家康も律儀もので通ってたらしいから
秀吉ってひとたらしとか言われるわりに人を見る目がないな
最も心の底から秀吉を尊敬しついていった人間がどれだけいたのやら
晩年こ数々のやらかしで人心は離れてったからこそのしょぼい結末
>>310
実際、家康は戦国時代基準で見ると無茶苦茶律儀者なのよ。
恩義にはかなり忠実だし、その上交友関係がかなり広い。
織田から成り上がった秀吉は、悪く言えば織田を乗っ取って天下人になったから旧織田家臣団を抑えてくれる管理職は何人いても足りんくらいだった。
信長の盟友で、律儀者の家康は最高の人材だった
ここで完勝して家康をぶっ潰せば、歴史は変わってたろ
>>327
秀次が潰されたのが痛過ぎる。負け方が酷い。
敵の背後取ろうとして背後突かれて壊滅とか聞こえも最悪だし…
地震がなければ、とか言われてるけど
徳川も北条・伊達等に反秀吉連合呼びかけてたから
和睦して無かったらマジでここが最終決戦だったな…
>>327
その通りだと思う。
堺は秀吉が押さえていたのだし、イエズス会のキリシタン大名たちも秀吉側だったのだから、高山とか小西とか蒲生とか黒田とかの神がかったカルト兵の鉄砲隊で圧倒すれば、徳川家康を滅ぼすことは可能だったはず。
関ケ原時点では、もう手遅れだよね。政権に全然人望が集まってなかったし、秀頼は秀吉の種ではないことは皆が知っていたし。キリシタン禁教を解除して、信仰を許すって布告して、高山右近とかを呼び戻せれば、すごいことになったかもしれないが。
朝鮮出兵したおかげで豊臣政権は内部崩壊
反石田派が家康に味方してしまった
朝鮮出兵でなく第二次関東出兵で家康を滅ぼしていたら
豊臣政権は続いていただろうに
動機が無いってのが最大のネックだな
北条を攻めた時の軍功考えると領土増やさないといけなかったし…
無いものを作るのが政治
関ヶ原前に家康に攻撃されそうになった上杉にも
大軍おくられるようなことはしてない
直江状も架空なんて話もある
北条攻めの前だと北条とタッグを組んで大戦争になるし、
北条攻めの後だと軍功あった奴に毒盃で応じたことになって豊臣の人望が地に落ちるし…
大義名分に拘ると家康は潰し難いとは思う。
しかも家康は義理の弟だし…
なぜ秀吉は家康を暗殺しなかったのか
宴会にかこつけて目障りな部下や政敵殺すなんて中国じゃお家芸なんだが
考えられる理由その1
そもそも秀吉は家康を敵と見なしてなかった
理由その2
理由その3
しかし、集団統治型の当時の日本では謀反の疑い
命令違反をしていない律儀物の家康を殺すことは、大名の支持を失い
それが豊臣政権にとって致命的になってしまい無理
秀吉晩年期では家康は対武家では信長の盟友、律儀者という評判から豊臣政権と武将達の折衝役を務め、対朝廷では、秀頼が成人するまで大臣職を五摂家より守護する重石となっていた。
また、秀吉は家康が源氏の一族で、故に将軍を狙っているとも知っていたが、朝廷での工作が功を奏して家康が将軍になる可能性は無かった。
だから家康が天下を握るなら秀頼を奉じるしかないと考えた。
この考えは半ば当たってはいた。
関ヶ原での三成って
細川と黒田に入れ代わり立ち代わり攻め込まれても
頑張って持ちこたえてたよな