人は城といいながら家臣をたくさん失った武田の負け
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家中じゃ緘口令だからなぁ、信玄
何をもて『勝ち』とするかが問題だよな。
戦場はイコール戦略と繋がっているから、勝てば良いってもんでもない。
けど、実際に戦場では戦略と無関係に見た場合の、勝利も存在する。
事実として、上杉は武田の裏をかいて強襲を仕掛けてるし、武田は名高い人物を数多く死なせてしまった。
しかし結局、上杉は目的を達成出来なかった。
武田はとりあえずの目的を達成し、所領を分配して守りを硬くして名実共に領地にした。
どの視点での川中島を語ってるんだ?
戦場? 戦争全体? 川中島(信濃)単位? 戦略も含めて?
戦略だとしても、それぞれ方向性が違うから、また選びにくいし……
結局何をメインにしてるわけ?
戦争は政治目的を達成するために行うものであって、死者数を競うものではない。
戦死者がどうこう言っている人は、WWⅡでドイツより戦死者の多かったソ連や、
第二次ポエニ戦争でハンニバルにぼこぼこにやられたローマ(戦死した司令官、
兵卒の数は圧倒的に多い)も敗北したと言うのかね。
そういう例は分かりやすくていいんだけど・・・・
武田も上杉も最終的な勝者じゃないから微妙なんだと思う。
戦争を語ってるのか、戦場を語ってるのかがこのスレはハッキリしない。
戦争に限定すれば武田の勝ちっぽいけど、戦場で言えば上杉の勝ちっぽい。
実際にそうとも言えてしまう。幾ら信濃確保が目的だとしても、損失が多過ぎ、割に合わなかったらまた話は別だと思う。
武田が実際、その時勝利していても、損失が多くて立て直せなかったら?
その兵数損失が多すぎた! あれが敗北要因だった! と言う人は必ず出てくる。
そうなると話は複雑になってしまうし、決して兵損失、武将損失は抜きにしてはならないのでは?ドイツとソ連の例だけど、ソ連は『川中島』を戦った訳じゃない。『第二次世界大戦』を戦ってた。
言うなれば、スターリング攻防戦はどっちの勝ちだったかスレで論じてる訳で。
(結果的にスターリングラードではソ連勝ってるけど)
戦場でも武田の勝ちではないか?
武田は川中島を抑え、上杉は崩せず退いた。
将棋で例えれば、飛車角失っても、王(この場合は大将の生命であり、争奪対象
の土地でもある)は残ったのだから。
永禄2年の段階で武田は川中島を押さえてるんだよ。
もっと言えば、第2次川中島の緒戦で善光寺を手に入れてた
んだよ。永禄4年に川中島を残したからって、あんなに重臣を
失って勝ったといえるのか?
その後も善光寺界隈は上杉が居座ったわけでしょ?
信濃一国をついに制圧できなかったのは、信濃国主の信玄では?
自分も斬られてるしね。
結局、両者とも王は取れなかったという感じではないかと。
買ったといえるだろう。
通説の第四次川中島の戦いに限っても、
上杉の戦争目的は川中島から武田を追い出すことであり、失敗している。
武田は侵入してきた上杉を追い返すことであり、成功している。
ついでに言えば、この後のことになるが信玄は飯山城も野尻城も小谷城も落して
信濃を完全制覇してますよ。
上杉は政治目的達してないし、武田は大将首ヤラれすぎ
持ち込んでしまうと、抽象的な議論になるんだなぁ
掲げた政治目的を逸したのなら、ほとんどが敗戦だぜ
川中島合戦に限定して、もっと詳細に論じるべし?
謙信は土地を奪えず、信玄は土地を守った。
川中島の戦いに限定したって、こうなるのだが。
今後の戦略(政治)に土地が関わってくる訳だが、人的損害も
今後に関わってくる問題なのだから。
確かに武田はこのあと川中島をほとんど掌中に収めることができたわけだが、
それは結果論だ。多くの人材を失った直後にもかかわらず、諸手を挙げて
万々歳、なんてやっていられたのだろうか?むしろたった一度の戦いで
これだけの人材を失ってしまった・・・という喪失感が強かったのではないか?
信玄が言ったとされる言葉。
これって、謙信と敵対してしまったために苦労を強いられた反省、
とも思えるんだよね・・・。
悲しんだだろう。兵の損害にも、頭を悩ませただろう。しかしそれと戦の勝敗は別だ。
そもそも、感情論で言っても、「土地は守れたけど人がいっぱい死んだから、負けだ」
なんて言ったら、土地を守るために戦って死んだ者達を侮辱している。
兵達は勝つ(=土地を守る)ために戦って死んだのだから。
こんな発言を、兵たちを生か死かの戦いに放り込んだ大将がかましたら、そいつは兵達
の死に責任をとらない最低の将だ。
過去3回の川中島は陣地(城砦=領土防衛)合戦だったが、
永禄4年の合戦が激戦になったのは、互いに大将首を狙った
からだ。信玄は前年に勝沼五郎(武田一門最大の軍役)が上杉方に内応した
咎で殺してるし、その後も川中島で寝返る武将が出た。
何よりも、謙信の上洛祝いに真田や禰津ら20人近い信濃の武将が
祝いの太刀を贈ってる(春日山城に出向いて)、謙信の関東遠征にも
兵を送ってる。したがって、信玄としては謙信の首を取るのが
永禄4年の合戦の目的だったはず。土地争いに限定してしまうと、
史上最大の激戦になった理由もわからなくなるんじゃ?
つまり、敵大将の首級を獲って土地を確保しようということだろ。
目的は土地。そのための手段として敵にたいする大勝利。その目標が大将首だ。
土地は奪い返せても、人間は死んだら終わりだからなぁ
「愛民はわずらわすべからず」
孫子だ。意味は自分で調べて見ろ。戦うからに死者が出るのはあたりまえ。それとも、上杉が侵入してきたときに、戦わずに
撤退していればよかったと言う気か。
武田氏滅亡の遠因というのは定説ですか?
勝頼にあてた遺言にも「私は大人気なく謙信と敵対してしまったため
一生戦うことになった・・・云々」と言っているしね。
避けては通れない道だった
信濃侵攻の流れで、謙信が頼られたり自国防衛の必要性から出てきたのだから。
(近年、信玄は信濃から越後に出て海を狙っていた、とする説も出ている。この説だと、
謙信という厚い壁に遮られているうちに、南が義元の死で薄くなったので方針転換した
ということだが。)後世からみて、謙信と戦わないためには、中信で止まって、北信の村上とは同盟組んで越後
へのクッションにするくらいしかない。これこそ後知恵としか言いようがないが。
良かったのにね
織田~今川と違って武田~今川は敵対関係にあったわけじゃないんだから。
義元が死んでごたついたからこその駿河攻めだろ。
同盟無視して武田が攻め込んできたなら義元も武田つぶしに向くんで
桶狭間はなかったか。南に義元、北に謙信、東に氏康と武田は内陸に
封じられていただろね。
信玄の戦略目的は、確かに川中島の確保だろう。
けど、一つ忘れてる事が無いか?確かに川中島確保が戦略の目的だとは思うが、
信玄自身としては『どれだけの損害』なら許容できたのかが重要だろ。
信玄が、川中島は確保したいが、余りに損害が出るなら諦めようと考えていた場合、失敗と言える。
逆に、如何なる損害を出してでも川中島を確保しようと考えていたなら、勝ちだろう。正直、信玄としてはどうだったんだ?
最上は、「被害は少なく確保」だろうな。
しかし、信玄はどれほど被害を出そうと結局川中島から撤退していないのだから、その問い
の答えは出ている。
しかし本当にそうか?
川中島4回目は、謙信の奇襲によって勝てる筈が苦戦した戦いだ。
結局川中島では5回戦しているが、それまでは損害といっても4回目には及ばない。4回目の損害で逆に意固地になったから撤退しなかった、とも考えられるんだが……
>謙信の奇襲によって勝てる筈が苦戦した戦い
これは苦戦したけど結局は武田が勝ったって事でしょ?
どうだろう?
むしろ、今それを論じてるんじゃないの?
武田勝利が優勢だけども。
手も足も出なかったのか……
或はそれが最善だったのか、それが解らん。
謙信は敗北だろうな。城を落とせず、後北条の支配体制を崩す事も出来ず、しまいには
協力者を敵に回して逃げ戻った。信玄の場合は、どうも目的は城を落す事ではなく、駿河から北条を引かせる戦略の一環
らしいので、その点でいけば戦略目的は達成したと言えるかな。
信玄や謙信の小田原攻めは敗北ということでFA?
手も足も出なかったのか……
或はそれが最善だったのか、それが解らん。
謙信は奪取できなかった。
負けてはいないが。客観的事実を並べると、
上杉本隊13000+後詰5000の内、死者3400余人、負傷者6000余。志駄、庄田、大川らの戦死。
武田本隊8000+別働隊12000の内、死者4600余人、負傷者13000余人。信繁、諸角、初鹿野と大将クラスの戦死、川中島周辺の占領成功。被害は武田の方が酷いが、上杉も相当被害がある。
てか間違ってたら指摘よろ
謙信曰く。俺は何かを得る為に戦わない。だからなぁ…
そもそも信濃豪族が泣き付いたんだっけ? 戦争芸術家に。
別に武田が川中島をあの戦いで得たわけではないでしょ。
武田は土地を守り、上杉は武田方の大将首をとった。
双方、得たものは無く引き分けというのが従来の考えだと思うけど。
信長の勝ちになりました。
いないよー。だから戦闘そのものは完璧に武田の負け。
キモチいいほどメタメタに討ち取られとる。
両軍とも取れなかっただけのこと。
典厩信繁、諸角豊後、山本勘介は犬死
大将首が目的なのは部下。戦功の証として恩賞をさずかるためだ。
部下と司令官の目的をごっちゃにするなよ。南北朝時代の高師直は「とった首は捨てて戦いつづけろ。戦功は自己申告を認める」
と触れを出している。
謙信の戦いの動機は越後防衛であって、別に戦いだけば目的だったわけではないぞ。
というか、助けを求められたから義のためにたった、なんて小説の「聖将謙信」。
謙信が春日山城に入って長尾家当主となったのが1548年。
このころ村上と信玄はすでに戦いはじめているが、別に援軍を出すわけでもなく、
謙信が信濃に出兵したのは五年後、村上が最終的に破れて武田が越後まで迫ってきてから。
関東も同じ。上杉憲政が頼ってきたのは1552年、謙信が関東に出兵したのは1560年。
国内事情もあっただろうが、基本的には敵が越後まで迫ってきたから先制攻撃をしている。
遊びなんてとんでもない。
じゃあ信濃で手に入れた領地を、殆ど全部信濃豪族にくれてやったのは?
むしろ助けてくれって要請自体、信濃豪族は武田に負けたからしたんじゃないの?
だいたい、謙信が越後当主になった当時は、内乱がやっと終息したばかりだろ。
そんなおいそれと救援要請に応えられる訳無い。謙信さん助けて → よしきた! → 即出兵なんて、普通に考えたって無理。
義だなんだって言ったって、攻撃準備が整わなきゃ出兵は無理だろ?
それこそ謙信なんて四方八方に敵がいる。
あっちに行けばこっち、こっちに行けばあっちといったようにモグラ叩き状態で戦ってる。
あっち始末して、こっちを片付けて……とか考えれば、普通に無理。だいたい、戦国時代には停滞すると数年経過なんて普通にざらだと思うが。
北条や大熊の寝返りに腹を立ててコノヤローって感じで。どちらかと言うと先手を打たれて後手で動き出す謙信ちゃん。
しかし、迫る敵に対処するため、というのは変わりませんね。「義のために戦う謙信」なんて、軍記・小説上の登場キャラクター。
三国志演義に登場するスーパー軍師諸葛亮孔明とおなじ、フィクションのキャラだ。
謙信と諸葛亮を同列に語るのはどうかと、
義に篤いというのは同時代を生きた人間の評価でもあるし。
商売敵潰すためにそこいらに出張ってんのに
それが義のためですとか言われたらやられたほうはたまらんわ。
てか聖将謙信という評は逆に謙信の能力を貶めてるような気がするよ。
まるで自己満足のために戦をやった変態みたいな言われようだ。
幾らなんでも大義名分がないと動かないでしょ。
越中は親父の代からの遺恨があるから良いとして、能登はなんで攻めたの?
川中島と関東の徒労に気づいたんだろ
信長が野心を剥き出しにしてる時代だから
京への進路を確保?
畠山氏が逃げ込んできたという理由もあるが、結局自国領土として欲しかったから。
あっけなく椎名に裏切られて神保が仲間になる。
穴水とか欲しかったみたいね。
武田の政治目的は「天下」ないし「生存」だろ。
「信濃経営」は上記二者からみれば、下位目標だろ。
そのための戦略目的(勢力拡大)として、信濃制覇
永録4年の6月まで、謙信の不在を突いて
越後攻めしてボロボロに負けたのも、越後の海が目的だったから
という目的があった。
越後が米いっぱい生産するのは、20世紀の話である。戦国当時の越後は、冬か
ら春にかけて餓死者が沢山でているのである。だから越後の将は常に略奪(=地域
紛争)に明け暮れ、越後の軍としてのまとまりなど生まれなかったのである。
これは一方で、謙信があれほど大義名分にこだわっていたことの理由を示すもの
でもある。
いまさら・・・
乱捕り、人捕り、奴隷売買