室町時代

【細川勝元】応仁の乱について徹底的に語りましょう【山名宗全】

2021年12月13日

1: 名無し 02/07/21 08:25
細川勝元 VS 山名宗全
斯波・畠山など有力守護大名を巻き込んだ争乱について
語りましょう。

ニュース


3: 名無し 02/07/21 12:09

◆東軍
細川勝元
足利義政
畠山政長
斯波義敏
京極持清
赤松政則
富樫政親

◆西軍
山名持豊(宗全)
足利義視
畠山義就
斯波義廉
六角高頼
大内政弘
土岐成頼
一色義直

 

16: 名無し 02/07/22 09:49
>>3
そう簡単な図式ではない。
義視が東軍になったり、東西の武将が入れ替わったりと、混乱を極めたのが応仁文明の大乱。
それと、西軍に担がれた南朝の子孫が抜けてる。

 

4: 名無し 02/07/21 14:26
畠山義就は最強だろ

 

5: 名無し 02/07/21 14:29
やっぱり足利義政だろ
戦乱の真っ只中でどんちゃん騒ぎ これ最強

 

8: 名無し 02/07/21 15:58

朝倉さんが大変なことをしてくれました。とりあえず寺社領だろうが
貴族領だろうが横領です。つーか管理してる地元勢力が所有でいいじゃん
ってことで。幕府内で分裂してるから双方から役職とか官位斡旋されるし。
漁夫の利を取りまくりなり。おかげで一乗谷は繁栄したよ。

公卿とかは”死ね”とか日記に書いてるし、本当に死んだら”死んでよかった。”
とかさらにムチャクチャ言われたりしてるけど。

 

9: 名無し 02/07/21 16:28
結局この争乱で一番得した奴は誰よ?

 

15: 名無し 02/07/22 03:39
>>9
意外と足利将軍家

 

369: 名無し 03/01/26 13:31
>>15
乱の端緒の畠山家の相続争いを唆したのも、義政じゃなかったっけ。

 

10: 名無し 02/07/21 17:14

なんかいつのまにか幕府の印持ってた大内とか
成り上がりの朝倉とかいろいろありそうだが・・・

日野富子は両軍に融資して大儲けって説があった。

 

13: 名無し 02/07/22 03:37

大内って最後の辺で配下の毛利とか尼子が見限って戦線離脱
したのに逆転勝利(別働隊の陶が後背ついて混乱したところを突撃)
したんだよね・・・。

 

29: 名無し 02/07/24 00:47
>>13
それって応仁の乱じゃなくって義興の上洛ん時の話とちゃうの?
違ったらスマン。

 

26: 名無し 02/07/24 00:21

応永の乱でifしたら面白くない?
禅秀方が義嗣でなく義持を取り込んでたら(つか義嗣を無視しとけばよい
禅秀方が勝っていたのか?勝ってたろうなあ

鎌倉公方は史実より早く滅亡
常陸では佐竹の嫡流が山入氏になって源姓佐竹氏が存続し
その後の疲弊がなくなるかわりに庶子家の統制が緩くなったり

管領家は犬懸上杉が嫡流、上総での武田氏勃興は・・・?

関東の戦国時代は早く来るのか、遅くなるのか

そして北条氏の興らなかった関東は近世に栄華を築けるのか

 

626: 名無し 04/12/21 00:52:13
>>26
鎌倉公方は持仲で存続するっしょ。
>庶子家の統制が緩くなったり
・・・江戸氏の水戸進出がなくなったり
>上総での武田氏勃興は・・・
・・・当然なかったことに。安房の里見も存在が消滅。
犬懸上杉は武蔵・上総に加えて山内上杉の伊豆・越後・上野の守護にもなるかもねん?

 

32: 名無し 02/07/24 17:47
応仁の乱で鉄砲が使用されたという説は学会でも認められてきているね。

 

44: 名無し 02/07/27 20:47
>>42
まぁ、「鉄砲」といっても、この頃のは鉄筒で造られたものじゃないから「鉄砲」とは言えないかも・・・。

 

33: 名無し 02/07/24 17:53

鋳銅製の銃なら存在したみたいだよ

ほとんど使い物にならなかったらしいけど

 

34: 名無し 02/07/24 18:48
命中率が低かったらしいね。鉄砲の時は
威力にも驚いてるけど命中率の方が
脅威的だったらしい。飛ぶ鳥を落とす
ということから鳥銃と呼ばれたとか。

 

35: 名無し 02/07/25 15:59

細川勝元=野村萬斎
山名宗全=萬屋錦之介
だっけ?大河の出演者だけど

あと、実際の山名宗全って本当に強かったの?

 

36: 名無し 02/07/26 13:40
旗頭って感じで兵を集めるのには、なかなかの力量を発揮したけど
室町御所を結構奪還されてるので・・・強いかは微妙。
細川も維持できてないが。

 

37: 名無し 02/07/26 17:33
嘉吉の乱最大の功労者

 

38: 名無し 02/07/26 17:42
細川=名門で、山名=成り上がり。
嘉吉の乱で、赤松ぶっ潰した山名。

 

39: 名無し 02/07/27 15:43

赤松の所領を山名が受け継いだから結局、幕府にとってなんの解決にも
なってなかった。

まぁ基本的に近隣の連中でカタをつけさせるってのが基本。
応仁もなんか将軍ってなんの意向も発揮してないし・・・。
山名のいいなりか細川の傀儡かの違いしか。

 

54: 名無し 02/08/03 13:14
トップが死んでも戦争は終わらない。利害でやってるくせに
みんな長期帯陣で損をしている。戦争ってむなしいな。

 

55: 名無し 02/08/04 11:26
お互いに相続絡みの同族が関わっているので
妥協とか和議が成立しません。本当は将軍家が仲介や裁定するのが
筋なんだけどね。

 

58: 名無し 02/08/06 19:50
>>55
>>トップが死んでも戦争は終わらない。
応仁の乱は、トップの勢力争いに、地方の武士達の鬱憤が便乗したものです。
小領主レベルでは、相続争いとか、隣りとの境界争いを整理する為に参戦する、
なんて事もあったでしょう。
だから、戦争は根が深くてコワイ。

 

56: 名無し 02/08/04 12:01
しかし、11年もよく続いたなあ。細川・山名という当事者が死亡しても
戦争継続する意味ってあったのか。

 

57: 名無し 02/08/06 17:41
なまじ均衡してたので・・・どっちも損害を恐れて無理をしなかった。
足軽とかは、どっちにでもついて稼いだそうだし。
どっちの勢力にも資金融資して儲けた層もいたそうだ。日野富子が
有名だが、軍事物資供給で死の商人やってた寺社やそれと結んだ商人
の存在も軽視できない。
堺や近江の資本拡大もこの戦乱が招いた面が大きい。それぞれの
物資補給拠点として急激に発展している。

 

60: 名無し 02/08/07 17:50
物流は大規模になったそうだ。軍需だね。

 

61: 名無し 02/08/08 11:56
消費してるだけだから既存勢力は、皆没落していき
下克上の風潮が加速した。

 

64: 名無し 02/08/10 19:36
オイオイ、あの無茶苦茶な兵数は誰も気にならんか?

 

68: 名無し 02/08/14 12:55
兵力がでかくなるとかえって
動けません。

 

69: 名無し 02/08/14 19:26
>>68
兵制が稚拙なんで、数の論理は成立しないかも・・・
市街戦だしね
ある意味、経済の持久力戦だったんじゃないの
兵を在京させておける国力が無くなったほうが負け

 

70: 名無し 02/08/15 01:52
双方100万とか10万とか無茶苦茶な数字だと思うが...

 

71: 名無し 02/08/15 16:07
5万とか7万じゃなかったっけ。
それでも多過ぎるけど・・・。命令系統がバラバラで
強制権がないからズルズル帯陣。

 

79: 名無し 02/08/27 12:09
あいまいにされがちな勝敗だけど、一応東軍(細川方)勝利でOK?

 

80: 名無し 02/08/27 12:32
>>79
何をもって勝ちとするんですか?
当初の目的であった義視の擁立という意味では、東軍は当初の目的を達成できなかった。
しかしながら、当初の名目など何ら意味を持たず、管領家や守護家の相続争いという意味なら、
決着はついていない。
細川家と山名家の争いとするなら、細川家の勝ちっぽい。
将軍と富子の争いなら富子の勝ち。

 

83: 名無し 02/08/27 12:51
>>80
義視は途中で西軍に移ったと思ったが。
それに、大内あたりっていちおう詫び入れなかったっけ?

 

84: 名無し 02/08/27 12:55
>>83
だから『当初の』目的って書いてるじゃん。
それに、大内は退陣にあたって幕府(富子)から相当の支度金を送られている。

 

81: 名無し 02/08/27 12:46
当初は西軍(義尚)VS東軍(義視)
途中か西軍(義視)VS東軍(義尚)

だから、名分の点では、曲折はあったものの、東軍の「勝利」だと思うんだけど。
あと、西軍の主力だった大内なんかも、「賊軍」の汚名を拭うために、(今や東軍となった)
富子・義尚以下の重要人物にたいして、莫大な献金をおこなっているわけだし。
まあ、確かに本当の意味での決着には遠かったかもしれんけど。

 

85: 名無し 02/08/27 13:01
途中で目的が変わったんだろ。だから東軍の勝ち。
当初の目的なんて何の意味も無い。

 

86: 名無し 02/08/27 13:02
>>85
んじゃ、変更後の目的に意味があったとでも?

 

87: 名無し 02/08/27 13:06
勝ち負けの話をしとるんだが。

 

88: 名無し 02/08/27 13:14
>>87
意味のないものを達成しても勝ちとはいえないと言ってるんだが。

 

89: 名無し 02/08/27 13:27

なにいってんの?意味があろうが無かろうが、
義尚を担ぎ上げて名分を達成したんだから東軍の勝ちじゃん。

何で意味が無いのかよく分からんが。

 

90: 名無し 02/08/27 13:31
>>89
東軍は、西軍の当初の目的をまんまと達成させられちゃった。

 

91: 名無し 02/08/27 13:32
>>89
達成した目的が何の効力も発しなかったからね。

 

92: 名無し 02/08/27 13:35
東軍は西軍の嫡子擁立と言う大義名分を奪い取り、
西軍は賊軍となってわびを入れる羽目になった。
西軍惨敗、残念無念。

 

93: 名無し 02/08/27 13:36
畠山義就が消え去ったわけでなし、
朝倉孝景や大内政弘、斯波義廉が力を失ったわけでなし、
畠山政長、斯波義敏、武田信賢の勢力が増大したわけでなし。

 

94: 名無し 02/08/27 13:47
義尚擁立とか義視擁立とか、大義名分なき戦といわれる応仁の乱の勝敗を
大義名分の達成で決めるというところが厨房。

 

95: 名無し 02/08/27 13:56

畠山義就は管領職を奪われ畠山の主流は畠山政長へと移る。
東軍の朝倉は斯波義廉から越前を奪い、大内はわびを入れた。
山名も勢力を失った。

>義尚擁立とか義視擁立とか、大義名分なき戦といわれる応仁の乱の勝敗を
>大義名分の達成で決めるというところが厨房。

はぁ?じゃあ何で決めるんだ?っていうか、大義名分だけじゃなく実も得てるんだが。
あんたが厨房。

 

97: 名無し 02/08/27 15:40
当人が勝ったと思えば勝ちだ。

 

96: 名無し 02/08/27 14:03
勝者:富子
敗者:義政

 

99: 名無し 02/08/30 03:48
大内と朝倉が洛内以外でも活躍しすぎ。畿内の連中が下克上されてるうちに
いいとこ取りだ・・・。

 

100: 名無し 02/08/30 08:49
朝倉って後の浅井・朝倉の朝倉氏?

 

101: 名無し 02/08/30 08:56
そう。朝倉は西軍方の越前守護代だったけど、越前守護職を条件に東軍に寝返った。

 

102: 名無し 02/08/30 14:59

典型的な成り上がり大名。荘園の横領常習者で公卿の日記には
当時の朝倉当主が死んでよろこばぬ者無しって書かれているほど。

でも地元勢力にとっては貴族とかに取り分引かれるより朝倉の
庇護下のほうが利権的にありがたかったらしい。
近隣に対しても土岐氏や斯波氏の内乱で亡命を受け入れたり
浅井を援助したりしてる。斎藤や六角からはその分嫌われるが。

 

117: 名無し 02/09/08 15:44
>>102
朝倉は浅井に肩入れしたんじゃなくて浅井を牽制してたんじゃないか?
無論ある時期までだけど

 

103: 名無し 02/09/04 15:55
朝倉って斯波氏の家来だっけ・・・

 

104: 名無し 02/09/05 00:49
そだよ。

 

105: 名無し 02/09/05 17:27

管領家ってみんなこの大乱の頃に
没落していったんだよ。

下克上を促進させたってのはそういうこと。
家督をめぐって同士討ちやってたから
その家来にとっては権威というより担ぐ駒に
なってきたわけ。

 

106: 名無し 02/09/06 16:48
信長も斯波氏の家来だよ。織田宗家が上手い具合に斯波氏ごと自滅したので
直で下克上には、なんなかった。

 

107: 名無し 02/09/06 23:23
斯波にとどめさしたの信長じゃん。
守護代家を滅ぼしたのも信長じゃん。
ええ加減なこと言うな。

 

108: 名無し 02/09/07 02:08
織田だったような。信長は家臣の家臣だよ。
織田が斯波ごと織田を倒したので織田がその織田を
倒したんだよ。

 

112: 名無し 02/09/07 02:57
>>108
ちがう。斯波を滅ぼしたのは信長。清洲の織田信友が斯波義統を殺す→息子の義銀が
信長のもとに逃げる。信長、義銀を担ぐ。→信友あぼーん→信長、義銀を追放。斯波、終了~。

 

122: 名無し 02/09/08 20:42
伊勢宗瑞(北条早雲)って足利義視の家臣だったの?

 

123: 名無し 02/09/09 01:57
>>122
よくわからんが伊勢貞親の親戚だったから、どうのこうのって
聞いたことある

 

124: 名無し 02/09/09 10:56
>122
足利義視の近臣に伊勢新九郎という人物がおり、
最近ではこの人物が後の宗瑞と言われています。

 

155: 名無し 02/09/15 18:40
ちょっと関係ないけど、畠山重忠の男系子孫って完全に絶えちゃったの?

 

163: 名無し 02/09/17 12:42
>>155
事実かどうかはともかくとして、子孫と言う家が残っているよ。
因みに苗字は変わっている。

 

156: 名無し 02/09/17 04:54
どっかの大名が子孫を名乗ってなかったっけ

 

157: 名無し 02/09/17 05:23
じゃないの?
じゃなければ、重忠未亡人を再婚させて畠山家を名乗らせないでしょ。
例えば三浦家などは宝治合戦で滅んだが、庶系の佐原氏を三浦氏として名乗らせているもん。

 

158: 名無し 02/09/17 08:25
ちなみに重忠未亡人は、北条義時の妹。

 

159: 名無し 02/09/17 08:28
家系図からいうと、二本松畠山が嫡流なのかな?

 

160: 名無し 02/09/17 09:07
嫡流のようですね。
奥州四探題のひとつで、観応の擾乱で直義に味方して没落。

 

161: 名無し 02/09/17 11:57
随分とマニアックな没落の仕方だな・・・

 

162: 名無し 02/09/17 12:07
>>160
尊氏派じゃなかったっけ?
直義派は吉良貞家。

 

167: 名無し 02/09/17 17:34

畠山氏を再興するために足利義純と結婚したのは
重忠未亡人説と重忠の娘説があるらしいね。

重忠未亡人って再婚した時いくつやねん(w

 

168: 名無し 02/09/18 01:55
そのころは夫人のほうが相続権とか
重要だったとか

 

170: 名無し 02/09/20 14:47
相続権は大きいからね。

 

171: 名無し 02/09/21 15:47

どっちについても
問題なしって戦乱は長引くよねぇ・・・
戦場となった都は大迷惑どころではなく
足軽の登場により大変なことに
なってしまいました。

公卿とか文句とか抗議はしてるけど効果なし。
それどころか朝倉のように押領などを平気でするように・・・
しかも権力者の都合でそれが見逃されというか追認してる
カタチに。

 

214: 名無し 02/10/17 18:58
>>171
特に、学者・一条兼良が足軽にブチ切れていたね。
書物が多数焼かれるわ、弟の家が散々な目に遭うわ。
「足かるという者、長く停止せらるべきこと・・・・」
火事場泥棒の元祖かな?

 

173: 名無し 02/09/25 18:35
朝倉が名門になった漁夫の利大乱

 

174: 名無し 02/09/27 13:50
北陸はねー。でも六角も大活躍したんだぜ。将軍がいちいち逃げ込んで
くらから。で将軍に構い過ぎてると朝倉が北近江の勢力に支援して・・・

 

175: 名無し 02/09/28 14:11

六角はやばくなったらとりあえず甲賀へ逃げます。ほとぼりが
さめるとまた戻ってくるの繰り返し。

でも信長はずっと領地にしちゃったんで甲斐まで逃亡。

 

176: 名無し 02/10/01 15:20
武田の滅亡の時、寺焼き討ちの原因になったヤツだな。

 

177: 名無し 02/10/02 14:00

信忠許すまじ!!!

ひょっとして本能寺の変って六角関わってる?

 

185: 名無し 02/10/02 22:32
平氏の畠山って続いてるんだね。
重忠-重保-重国-江戸重長・・・

 

189: 名無し 02/10/05 09:21
常陸の江戸氏って>>185の子孫?
那珂氏と関係があったような。

 

190: 名無し 02/10/05 14:13
>>185の子孫は武蔵の江戸氏で、常陸の江戸氏とは関係ないみたいです。
常陸の江戸氏は那珂氏の一族ですよ。

 

188: 名無し 02/10/05 03:30
江戸ってのは佐竹義重への嫌がらせのために存在してたのかと思ったら由緒ある家だったんですな。

 

190: 名無し 02/10/05 14:13
>>188
嫌な存在意義だな。

 

191: 名無し 02/10/06 02:32
那珂氏って平氏だっけ?

 

192: 名無し 02/10/06 10:14

いえ、藤原氏。秀郷の子孫です。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/edo_k.html

 

193: 名無し 02/10/06 17:00
>>192
なるほど。大掾の同族かと思っとりました。どうもさんくす。

 

200: 名無し 02/10/11 18:25
太田道潅って応仁ぐらいだっけか

 

201: 名無し 02/10/11 19:07
茶々丸時代。早雲とか。

 

203: 名無し 02/10/13 15:51
道灌って自分が殺れる時、”当方滅亡!!”って言った人でしょ。
管領職を蔑ろにした専横者か忠臣か微妙なところだね。

 

204: 名無し 02/10/13 17:44
蔑ろにしたことなんてあるの?っていうか、扇谷の家来だよな。

 

205: 名無し 02/10/14 17:11
関東管領上杉以上の権勢を誇ったとか。主君越しに采配してりゃなー。

 

208: 名無し 02/10/16 12:16
江戸っ子の誇り太田道灌!

 

211: 名無し 02/10/17 16:06
太田道灌ってマイナーだから知らないんじゃないかな・・・
局地的には有名なんだけど。

 

213: 名無し 02/10/17 16:46
でも関東地方でしか知らないかも。あんまり時代劇とかにならない時代だからしょうがない面もあるが。

 

218: 名無し 02/10/18 17:49
茶々丸って元服前だからこんな名前なんやろか

 

219: 名無し 02/10/18 18:16
いい年こいた、おっさんだろ。

 

220: 名無し 02/10/19 03:20
嫌われ者で、元服させてもらえなかったそうな。

 

227: 名無し 02/10/22 17:02

>>220
後世(北条氏あたり)の捏造の可能性が高いでしょう

茶々丸を担いで潤童子を殺した勢力があったのですから
それなりの人望はあったのでしょう
少なくとも御所の中では、潤童子よりも茶々丸のほうが
人望があったと考えてよいのではないかと思います

 

221: 名無し 02/10/20 15:34
ひょっとしたら公方になれっかなって思ってたかも。
普通出家するからね。

 

222: 名無し 02/10/20 16:58
元服していないとは言いきれない。
ただ茶々丸側の史料が残っていないだけ。

 

278: 名無し 02/11/06 14:00
この時代けっこう名将いるよな。畠山義就、吉川経基、神保長誠
斎藤妙椿とか。ほかに知ったる?

 

279: 名無し 02/11/06 15:42
朝倉孝景とか?

 

280: 名無し 02/11/06 15:47
>>279
そうだ朝倉孝景忘れてた。ほかにもマイナー名将いたら
教えれ

 

294: 名無し 02/11/13 22:31
政長の子孫は高家として残ったみたいだけど、
義就の子孫は?

 

370: 名無し 03/01/26 13:57
>>294
畠山氏の内訌は、応仁乱収束後も収まらず、政長/義就の次代の尚順/基家に引き継がれ、
1493年には尚順派に肩入れした十代将軍義植の没落を引き起こしました。(明応の変)

 

298: 名無し 02/11/17 13:29
重忠は、ナタのような重量級の幅広刀を愛用してたという。

 

300: 名無し 02/11/17 22:02
っていうか、源平~南北朝って刀がでかかったらしいねぇ。

 

301: 名無し 02/11/19 15:21
ナタのような分厚いブロードソードみたいなのもあったらしいな。
だが結局、ただでさえ重いので今のような切れ味重視になったとか。

 

304: 名無し 02/11/24 21:15
応仁の乱ってのはごちゃごちゃして分かりにくいが、畠山義就ってのは格好いいな。
あの時代では最も男らしい名将だと思うね。いままで歴史小説などで彼のことを主人公に
した作品もないようだが、もっと評価されていいよね。

 

306: 名無し 02/11/25 00:47
畠山義就の名前の読み方って、本当は「よしひろ」ではないかと言われはじめている。

 

307: 名無し 02/11/25 13:08
>306
なんで?

 

308: 名無し 02/11/25 14:30
>>307
昔の人名の読み方は、たいていは史料上に現れる誤字(書き間違え)から判断される。
例えば、護良親王はかつては「もりなが」と読むとされていたが、「護義」と書き間違えられている例が複数あることから、「もりよし」が正しいと言われるようになった。

 

310: 名無し 02/11/25 16:46
>>308
そんな一般論は知ってるよ。
何で「よしひろ」らしいの?
と聞いています。

 

313: 名無し 02/11/25 17:35
>>310
うちの大学の教授から酒席で聞いただけだから詳しいことは知らないけど、「義寛」とか「義弘」などと書き間違えたものがあるらしい。

 

309: 名無し 02/11/25 14:32
よしなりの方がカコイイけどな

 

311: 名無し 02/11/25 17:16
足利義材って殆どの本は「よしき」って読んでるけど本当に材=き?
一字もらった北畠材親などはどう読むんだろう

 

312: 名無し 02/11/25 17:31
>>311
材親の読みは「きちか」で間違いないらしいです。

 

315: 名無し 02/11/25 17:59

斯波義将は「よしゆき」
斯波義寛は「よしとう」
斯波義良は「よしすけ」
斯波家って変わった読み方多いね。

すると織田良信とか織田良頼は「すけのぶ」とか「すけより」になるのか。

 

362: 名無し 03/01/19 16:24
>>315
斯波義銀(よしかね)もいたっけ。
斯波氏って、細川氏と違い将軍の偏倚をしなかったようだね、なぜか。

 

316: 名無し 02/11/25 18:03
江戸時代の大名の名前ってみんな読みにくいけど、実際簡単に読ませない
ためにわざとそうしてたらしい。難しい読みほど、有難いみたいな考え
があったんだと。儒教とやらの教えなのかな

 

317: 名無し 02/11/25 18:06
もともと公家から移ってきたもの。
儒教とは関係ないんでは?

 

318: 名無し 02/11/25 18:16
吉良義央も昔は「よしなか」と読ませるのが一般的だったが、「義久」と書かれたものがみつかったため、「よしひさ」が正しいと言われるようになった。

 

374: 名無し 03/01/27 03:11
畠山持国は優柔不断な性格といわれ、後継者をさっさと決めなかったので
後の内紛のもととなった

 

379: 名無し 03/02/07 09:41
畠山義継はもっと前に分家した家系だよ。
南北朝期に畠山高国が奥州探題に任じられて、陸奥に下向。
この高国の弟の貞国の子孫が河内の畠山。

 

380: 名無し 03/02/07 11:29

江戸時代の高家畠山氏は
能登畠山と管領畠山の2系統あります。
能登畠山は謙信の養子だった上条政繁の系統。

ちなみに、二本松の系統では、幕末に陪臣ですが二本松大炊が出ています。
これは畠山義継の子孫です。

 

381: 名無し 03/02/08 08:19
>>380
>能登畠山は謙信の養子だった上条政繁の系統...
って、上条氏は、越後長尾氏の主家筋の山内上杉氏の分家じゃなかったか。
畠山氏とは、血縁のはずがないが。

 

382: 名無し 03/02/08 09:41
政繁の実家が能登畠山ってことでしょ?

 

383: 名無し 03/02/08 11:32
上条政繁は能登畠山から上条氏に養子に入ったんですよ。

 

385: 名無し 03/02/15 11:12
>>383
家臣の内輪もめで衰退中だった能登畠山氏への謙信の政略だったって事ですね。
それにしても能登畠山氏といい河内畠山氏といい、家臣の権力争いで没落するとは
当主に統率力のない家柄だったんですね。畠山氏の内訌といえば、必ず名のでてくる
遊佐氏って、いったいどこの血筋なんだろ。”ゆさ”って、日本語くさくない語だが。

 

386: 名無し 03/02/15 20:43
>>385
ちょっと興味が湧いたので検索してみますた。
どうやら地名を名乗るパターンのようです。

 

387: 名無し 03/02/19 00:09
>>386
"遊佐氏は、文治四年(1188)平泉の藤原氏一族、川北冠者忠衝が大楯に館を築き祖となった。
興国五年(1344)畠山高国が奥州探題として二本松に下向した際その家臣として初見され"
とありますが、二本松と山形県北端の遊佐町とは遠隔地だが、二本松まで参じたのかな。
遊佐yuza町、遊佐yusa氏の清濁差は、yusaの方が古音なんだろうか。

 

390: 名無し 03/03/03 16:33
織田の家臣に遊佐教光ってのがいたんだよコレが。
河内からながれてきたとのことですがつながりは不明。

 

392: 名無し 03/03/18 23:43
「武功夜話拾遺」によると、吉乃の兄である生駒八右衛門の妻の姉が遊佐教光の奥さん。高国系畠山の残党じゃないか?

 

393: 名無し 03/04/03 00:23
>>392
生駒氏ってのは、もともとは河内からの移住者だったかな。

 

396: 名無し 03/04/11 23:41
>>392
「武功夜話」なんて信じちゃいけませんぜ旦那

 

397: 名無し 03/04/12 01:12
>>396
「武功夜話拾遺」も知らん奴がいらんこと言うな。
ま、史料的価値は「武功夜話」以上に低い代物だがなー。
個人的には偽書というより虚飾の著しい代物と考えている。
参考するに当たっても、相当の事実考証が必須。

 

412: 名無し 03/04/15 16:38
応仁文明の乱でいい味出してるマイナーな人物を紹介しなさい!

 

413: 名無し 03/04/15 16:51
>>412
「西陣南帝」なんてどうよ?

 

414: 名無し 03/04/15 18:39
>>413
その名は初耳だな。
西軍に擁立された小倉宮王子のこと?

 

415: 名無し 03/04/15 22:58
そうらしいよ

 

417: 名無し 03/04/16 22:02
>>412
一向一揆に殺された富樫政親なんてどう?

 

418: 名無し 03/04/16 22:37
>>417
政親滅亡後、越前金津の溝江氏の元に逃れてた富樫泰俊は天正の一向一揆のときに溝江もろとも滅亡。

 

418: 名無し 03/04/16 22:37
>>412
浦上則宗あたりも渋いかも。

 

442: 名無し 03/07/20 01:04
護良親王っていうのは「もりよし」?それても「もりなが」って読むの?

 

443: 名無し 03/07/20 01:39
むかしは「もりなが」といわれていたけど
現在は「もりよし」が正しいとされる。
「良」を「なが」とよむ根拠がないそうだ。

 

461: 名無し 03/09/04 13:48
斯波義統は、義敏の系統なの?それとも義廉の系統?

 

462: 名無し 03/09/04 17:53
>>461
義敏

 

474: 名無し 03/11/08 01:39
>>461
義敏-義良-義逵-義統-義銀

 

479: 名無し 03/11/22 19:38

>>474
讀み方。
義敏 よしとし
義良 よしなが
義逵 よしみち
義統 よしのり
義銀 よしかね

なほ、織田信長の曾祖父と推定される織田良信も、義良の偏諱を受けたものと考へれば、讀みは「ながのぶ」だらう。

 

491: 名無し 03/11/24 17:25
ところで、應仁の亂以後の畠山氏(特に義就系)の系圖についてなのだが、足利一門の有力守護の一族にしては、判然としない部分が多すぎると思はないか?

 

492: 名無し 03/11/24 17:33
そういや、高屋城の築城年代とか誰がいつ城主だったのかとかかなりあやふやだな。
既に有力守護とは言い難いし、戦乱で何がなんやらだし、
しかも子孫は断絶(だよな?)。
このあたりが理由なのでは。

 

494: 名無し 03/11/24 19:16
>>492
基家と尚順の講和以後の河内は半国守護と言うべきなのか?

 

495: 名無し 03/11/24 23:19
半国守護だね。
尚順→稙長→長経→政国
基家→義英→義堯→在氏
その後も1523年、義英・稙長が半分づつ。
1538年、在氏・政国で半分づつ。
その後、稙長が守護になった後、晴煕と政国で半分づつ。
政国の死後に高政が一国守護。

 

504: 名無し 03/12/14 22:06
応仁の乱はドイツ30年戦争を思い出しますね。
最初は大義があったのに、参戦した諸勢力はそれぞれの思惑で戦ってるし、
国土が疲弊し、国内の分裂状態を招く所とか。
板違いすまん。

 

508: 名無し 04/01/20 02:07
>>504
でも、その後もハプスブルク家はオーストリア地方を中心に勢力を維持したし、まして足利家みたいに当主が各地を流浪したりなんて事はないよ。

 

509: 名無し 04/01/20 09:59

むしろ結果はまるで正反対とも言える。

応仁の乱……国土疲弊、国内分裂を招いたが、織豊・徳川という室町幕府よりも強い政権の誕生に繋がった。
30年戦争……国土疲弊、国内分裂を招き、それがそのまま19世紀まで続いた。
とはいえ、>>508さん指摘の通りハプスブルクは強いままだったし、「下克上」はほとんど見られなかった。
あと、最近ドイツ史の方では、30年戦争後の神聖ローマは「分裂・事実上の崩壊状態」だったわけではない、という意見の方が主流らしい。

 

511: 名無し 04/01/25 02:41
>>509
確かに、神聖ローマが事実上崩壊したのは、むしろオーストリア継承戦争だったのかも知れない。
この戦争で、ホーエンツォレルン家(プロイセン)>>>ハプスブルク家が決定的になった。
それに、ハプスブルク家のほうも、皇帝としてドイツを統一する気があるのなら、マリア・テレジアの相続に際して、ドイツ国内の有力諸侯(バイエルンとかザクセンとか)から婿をとるのが筋のはず。
それをせずに、ロレーヌ公(のちトスカナ大公に転封)などを婿にしたことで、ハプスブルク家にドイツを統一する意思がないことも明確になった。

 

515: 名無し 04/01/25 17:23
>>511
スペイン継承戦争のときには、まだ多少ドイツに未練があったのかも。
ブルボン家のスペイン王家継承を認める代わりに、南ネーデルラントとルクセンブルクを取得しているし。

 

526: 名無し 04/01/27 20:23
ただ、>>511のいうオーストリア継承戦争以前に、すでにポーランド継承戦争の段階で崩壊の序章は始まっているのかも。

 

559: 名無し 04/02/06 00:22
>>526
だとすると、細川政元暗殺が七年戦争に当たり、細川高国敗死がバイエルン継承戦争に当たると言ったところか?

 

564: 名無し 04/02/06 04:19
>>559
応仁の乱(or明応の政変)以後の足利将軍家は、ハプスブルク家よりも、春秋・戦国時代の周王室に似ていると思う。
実権を失っても権威だけは保持している点とか、末期には2つに分裂している点など。

 

523: 名無し 04/01/27 10:08
しかしあれだな、神聖ローマのあの体制が「崩壊したわけじゃない」という理論が成り立つなら、
室町幕府もちゃんとした支配体制であった、別に弱くはなかった、とも言えるのかな。
大名の合議制であったり、将軍の権力を三管領四職が裏付ける形だったりしたわけだけど、
義満~義政期に幕府の命令が諸国に行き渡っていたのは事実。

 

526: 名無し 04/01/27 20:23
>>523
神聖ローマ帝国におけるオーストリア継承戦争と、室町幕府における明応の政変が似ているかも。

 

528: 名無し 04/01/28 08:48

>>523
>義満~義政期に幕府の命令が諸国に行き渡っていたのは事実。

関東は…?

 

529: 名無し 04/01/28 10:21
>>528
関東の秩序は再考に値するんじゃなかろうか。
例えば、永享の乱時を除いて京都と同じ年号を用いている、とか、
鎌倉公方は将軍から一字を拝領している、とか。
単に、関東一円を鎌倉公方に任せる、という「室町幕府の秩序」だった、と解釈できるかも知れない。

 

524: 名無し 04/01/27 19:28
但し、日本の場合は足利家が軍事的には完全に無力になってしまったから、それに取って代わるより強力な政権(織豊政権や江戸幕府)が成立した。
しかし、ドイツの場合は、ハプスブルク家が中途半端に勢力を維持したから、近代になるまでドイツ全土を統一する勢力が現れなかった。
しかも、結局ドイツ連邦内でもハプスブルク家の支配地域(オーストリア、スロヴェニア、チェコなど)が統一ドイツに統合されないまま現代まで残ってしまっ

 

525: 名無し 04/01/27 20:19
カール5世がスペインにかぶれたのが、ハプスブルク家のドイツ軽視の始まり。
その点は、海外に所領を持たなかった足利家は幸運だった。

 

 

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