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応仁の乱が終わったくらいには将軍が京都にいる事が殆ど無い
担ぐのが三好から織田に代わって織田と揉めて追放されて終わり
室町時代の人民支配の基本は、守護大名による地方自治
加えて南北朝のいざこざがあったから、守護大名は将軍の言うことは聞かないみたいな風潮があった
んで守護大名が戦国大名に下剋上されるようになると、さらに幕府の支配権は弱まっていく
室町時代のおもしろさは、自治の誕生の観点かな
日本で初めての一揆があったり、守護大名、戦国大名の各地方独特の発展とか
和歌山のみかん、愛知の木綿とか特産物も、室町時代のこの地方自治の発展によるもの
各国好き勝手やってたみたいだけど、まとめ役として何か従わせる仕組みでもあったの?
武士による政府のことを幕府と呼ぶ
後世の人が呼んでるだけ
鎌倉幕府って言葉は鎌倉時代にはなかった
>>13
室町幕府にはいちおう管領とかまとめ役はいた
守護大名同士のいざこざに介入したりした
外国との正式な国交・貿易も幕府がやった
絶対的な権力を持ってたのは義満だけだよね
でもあの時代の日本は軽く氷河期みたいに長い間1年通して気温が低く作物が育たなくなった するとどうなるかって云うと幕府に税(米)払うどころか領民食わさなきゃならないからよその土地奪わなきゃってなって戦起こすのよ 攻められる側からすりゃ「うちは幕府からこの土地任されてんのにどういう事?将軍なんとかしろよ」ってなる でも将軍が「おい!喧嘩すんな!」って言っても「は?てめえの言う事聞いてたら餓死するわボケ」ってみんな幕府の言う事聞かなくなった
それで日本中が戦だらけになったのよ
鎌倉幕府の封建制が成功したのは、西国に天皇という敵国がいたからであって、将軍に協力すれば土地などの財が手に入るなどのメリットがあったから
つまり承久の乱後に幕府崩壊の道を辿るのは自明
室町幕府は度を超える地方自治を認めてしまい、それを縛る法制度を用意できなかったため、結果、地方の大名のほうが将軍より強いという構造になってしまった
室町は初期は南北朝の争いで消耗し、後期は山城国の一揆にあい、経済的にも落ちぶれることになった
江戸時代の封建制が成功していた理由は、徹底的な法整備によるもの
地方自治を管理し、統制、制御できる仕組みがあった
これは現在の合衆国と同じような構造
義輝みたいに将軍権力を復活させようとがんばった人もいるけど結局最後まで側近のお飾りでしかなかった
細川政元は10代将軍を幽閉して11代将軍を作ったし
政元の養子の高国は11代将軍を廃して10代将軍を復帰させるくらい滅茶苦茶な状態
ちなみにこの10代将軍・足利義材(復帰の際に義稙に改名)
鎌倉・室町・江戸を通して将軍職を辞してから再就任したことのある唯一将軍だったりする
でも結局高国と不仲になって淡路に逃げた
高国は播磨にいた11代将軍の子供を将軍(12代目)に立てた
この12代将軍の息子が13代義輝と15代義昭(14代は12代の甥にあたる、14代の弟(兄とも言われる)は将軍になれなかったってわけ)
書いてる方も混乱するわ
最後の将軍・義昭は織田信長によって京都を追われ室町幕府は終焉した
将軍権力はついに回復しなかった