姜維、字伯約、天水冀人也。少孤、與母居。好鄭氏學。仕郡上計掾、州辟爲從事。
姜維は、字を伯約といい、天水郡冀県の人である。若くして父を亡くし、母と暮らした。鄭氏(鄭玄)の学問を好んだ。郡に仕えて上計掾となり、州に召されて従事となった。
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ここにも名前が出てくる鄭玄ってやっぱすごいんやね
当代きっての学者やからね
以父冏、昔爲郡功曹、?羌戎叛亂、身衞郡將、沒於戰場。賜維官中郎、參本郡軍事。
父姜冏は、昔郡の功曹であったために、羌戎の反乱に遭い、身をもって郡将を護衛し、戦場で没した。姜維に中郎の官職を賜り、本郡の軍事に参画させた。
姜維は優秀
なお軍政・糧秣
蒋・費は確実に優秀
姜維は人間として素晴らしいけど
出征しすぎって点でマイナスやな
建興六年丞相諸葛亮、軍向祁山。時、天水太守適出案行、維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等、從行。
建興六年(228年)丞相諸葛亮は、軍を祁山に向けた。この時、天水太守はたまたま巡察に出ており、姜維及び功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔らが、随行した。
太守聞、蜀軍垂至而諸縣響應、疑維等皆有異心、於是夜亡保上?。
太守は、蜀軍が来ており諸県が呼応していると聞くと、姜維らに皆異心があると疑い、こうして夜逃亡して上?を保った。
維等、覺太守去、追遲、至城門、城門已閉、不納。維等、相率還冀、冀亦不入維。維等乃?詣諸葛亮。
姜維らは、太守が去ったとわかると、遅れて追い、城門に到ると、城門はすでに閉められ、入れてもらえなかった。姜維らは、皆で冀に帰ったが、冀もまた姜維を入れなかった。姜維らはかくして共に諸葛亮の元に行った。
會馬謖敗於街亭、亮拔將西縣千餘家及維等、還。故、維遂與母相失。
折しも馬謖が街亭で敗れ、諸葛亮は西県の千余家及び姜維らを連れて、帰った。ゆえに、姜維は母と別れた。
亮、辟維爲倉曹掾、加奉義將軍、封當陽亭侯、時年二十七。
諸葛亮は、姜維を招いて倉曹掾とし、奉義将軍を加え、当陽亭侯に封じ、この時年は二十七であった。
亮、與留府長史張裔、參軍??、書曰「姜伯約、忠勤時事、思慮精密。考其所有、永南季常諸人不如也。其人、涼州上士也」
諸葛亮は、留府長史張裔、参軍蒋?に、書を与えて言った「姜伯約(姜維)は、時の事に忠勤で、思慮は精密である。持てる力を考えると、永南(李邵)、季常(馬良)ら諸人にも及ばない。この人は、涼州最高の士だ」
又曰「須先教、中虎?兵五六千人。姜伯約、甚敏於軍事、既有膽義、深解兵意。
また言った「先に教練せねばならぬのは、中虎歩兵の五、六千人だ。姜伯約は、甚だ軍事に敏く、胆力があり、深く兵の気持ちを理解している。
此人、心存漢室、而才兼於人。畢教軍事、當遣詣宮、覲見主上」後、遷中監軍征西將軍。
この人は、心に漢室を思い、才は人の倍だ。軍事の教練を終えれば、宮殿に行かせ、主上(劉禅)に会わせよう」後に、中監軍、征西将軍に昇進した。
十二年亮卒。維、還成都、爲右監軍、輔漢將軍、統諸軍、進封平襄侯。
十二年(234年)諸葛亮が亡くなった。姜維は、成都に帰り、右監軍、輔漢将軍となり、諸軍を統率し、平襄侯に封爵を進められた。
延熙元年、隨大將軍??、住漢中。?、既遷大司馬、以維爲司馬、數率偏軍西入。
延熙元年(238年)、大将軍蒋?に従い、漢中に行った。蒋?は、大司馬に昇進すると、姜維を司馬とし、たびたび一軍を率いて西に入った。
六年、遷鎭西大將軍、領涼州刺史。十年、遷衞將軍、與大將軍費?、共?尚書事。是?、?山平康夷反、維率衆討定之。
六年(243年)、鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史となった。十年(247年)、衛将軍に昇進し、大将軍費?と、共に録尚書事となった。この年、?山平康の蛮族が背き、姜維は衆を率いて討ちこれを平定した。
やっぱり蜀内部での権力基盤がそんなに無かったからかな
ぽっと出やし、若いし
それもあるかもね
朝廷では反姜維も多かったみたいな記録もあるし
反姜維は姜維が北伐続けたせいでできたもんやろ
言い換えれば反北伐やない?
確かにそうやな
ここでそれは相応しくなかった
実際段谷までは無敵感あったし
又出、隴西、南安、金城界、與魏大將軍郭淮、夏侯霸等、戰於?西。胡王治無戴等、舉部落降、維將還、安處之。
また、隴西、南安、金城の境に出て、魏の大将軍郭淮、夏侯覇らと、?西で戦った。胡王の治無戴らが、部落を挙げて降ると、姜維は率いて帰り、安住させた。
ペルシャの位置がわからんから答えられへん
詳しい人頼みます
十二年、假維節、復出西平、不克而還。維、自以練西方風俗、兼負其才武、欲誘諸羌胡以爲羽翼。
十二年(249年)、姜維は節を与えられ、また西平に出て、勝てずに帰った。姜維は、西方の風俗に通じていると考えており、さらに軍才があると自負し、羌族や異民族を誘って羽翼としようとしていた。
謂、自隴以西可斷而有也。?欲興軍大舉、費?常裁制不從、與其兵不過萬人。
隴より西は分断して有せると言っていた。軍を起こして大挙しようとするたび、費?は常に制限して許さず、与えた兵は一万人を越えなかった。
費?、名采配
この辺が演技だと変わってそう
演義やと姜維が費いを説き伏せて
劉禅に認められて出征って描写がある
十六年春?卒。夏。維、率數萬人出石營、經董亭、圍南安。魏雍州刺史陳泰、解圍至洛門、維糧盡退還。
十六年(253年)春費?が亡くなった。夏であった。姜維は、数万人を率いて石営に出で、董亭を経て、南安を囲んだ。魏の雍州刺史陳泰が、包囲を解かんとして洛門に到り、姜維は兵糧が尽きて退却した。
待ってましたと言わんばかりに費イの死後打って出て
ちゃんと負けて帰ってくるあたり姜維やわ
我慢出来なかったんだろうな
明年、加督中外軍事。復出隴西、守狄道長李簡、舉城降。
翌年、督中外軍事を加えられた。また隴西に出て、狄道を守る長の李簡が、城を挙げて降伏した。
進圍襄武、與魏將徐質交鋒、斬首破敵、魏軍敗退。維、乘勝多所降下。拔河間、狄道、臨?三縣民還。
襄武に進んで囲み、魏将徐質と交戦し、斬首して敵を破り、魏軍は敗退した。姜維は、勝ちに乗じて多くを降した。河間、狄道、臨?の三県の民を連れ帰った。
蜀いけるやん!
Vやねん!姜維
後、十八年、復與車騎將軍夏侯霸等、?出狄道、大破魏雍州刺史王經於?西。經衆、死者數萬人。
後、十八年(255年)、また車騎将軍夏侯覇らと、共に狄道に出て、魏の雍州刺史王経を?西で大破した。王経の衆は、数万人が死んだ。
ガチで無双してて草
なお降伏後の夏侯覇の軍功
このころやと
魏=司馬やからしゃーない
楽浪郡なるところへ流される模様
まぁ、夏侯の人間やし
文字からして楽しい土地なんやろなぁ
近くに倭人がいそう
經、退保狄道城、維圍之。魏征西將軍陳泰、進兵解圍。維、卻住鍾題。
王経は、撤退して狄道城を保ち、姜維はこれを囲んだ。魏の征西将軍陳泰が、兵を進めて包囲を解いた。姜維は、退却して鍾題に留まった。
十九年春、就遷維爲大將軍。更整勒戎馬、與鎭西大將軍胡濟、期會上?。
十九年(256年)春、(現場に)就かせて姜維を大将軍に昇進させた。さらに兵馬を整え、鎮西大将軍胡済と、上?で会合する約束をした。
戦犯コサイきたあああ
濟失誓不至、故維爲魏大將鄧艾所破於段谷、星散流離、死者甚衆。
胡済は誓いを破って到らず、故に姜維は魏の大将鄧艾に段谷で破られ、散り散りとなり、死者は甚だ多かった。
蜀の衰退を決定づけたこの戦いで
何で来なかったのかが
未だにわかってないと言う事実
しかも戦犯にしては普通にその後も名前出て来るからな
謎
責任おってるのも姜維だけやしな
それだから陰謀めいたこと言う人も見たことある
姜維を敗戦させるためとか
はえー…
敗戦で兵力が足りなくなったから
兵力を回せなくなったって説も聞いたことがある
でもちゃんとした資料ではなく
ネットで聞いただけだから信じないでね
衆庶由是怨?、而隴已西亦騷動不寧。維、謝過引負、求自貶削。爲後將軍、行大將軍事。
庶民たちはそのため怨み、隴以西もまた騒乱して安んじられなかった。姜維は、過ちを謝罪して責を負い、自らを降格するよう求めた。後将軍、行大将軍事となった。
二十年魏征東大將軍諸葛誕、反於淮南、分關中兵、東下。
二十年(257年)魏の征東大将軍諸葛誕が、淮南で背き、関中の兵を分け、東に下った。
維、欲乘?向秦川、復率數萬人出駱谷、徑至沈嶺。時、長城積穀甚多而守兵乃少、聞維方到、衆皆惶懼。
姜維は、虚に乗じて秦川に向かい、また数万人を率いて駱谷に出で、ただちに沈嶺に到った。この時、長城の穀物の蓄えは甚だ多く守備兵は少なく、姜維が到ったと聞くと、衆は皆恐怖した。
魏大將軍司馬望拒之、鄧艾亦自隴右、皆軍于長城。維、前住芒水、皆倚山爲營。望艾、傍渭堅圍。維、數下挑戰、望艾不應。
魏の大将軍司馬望はこれを拒み、鄧艾もまた隴右より到り、皆長城に駐屯した。姜維は、前進して芒水に留まり、皆山に拠って営とした。司馬望、鄧艾は、渭水に拠って防備した。姜維は、たびたび下って挑戦したが、司馬望、鄧艾は応じなかった。
景耀元年、維聞誕破敗、乃還成都。復拜大將軍。
景耀元年(258年)、姜維は諸葛誕が敗れたと聞くと、かくして成都に帰った。また大将軍となった。
劉備が作った防御システムは漢中に敵を入れさせないというものであった
姜維は漢中自体を戦場にして相手の補給を難しくし、敵が撤退する時に一気に殲滅するという策を提案し、これは採用された
長期的な誘引作戦って感じかな?
姜維の主張としてはそうだね
五年。維、率衆出漢侯和、爲鄧艾所破、還住沓中。維、本羈旅託國、累年攻戰、功績不立。
五年(262年)。姜維は、衆を率いて漢の侯和に出で、鄧艾に破られ、帰って沓中に留まった。姜維は、本来他国の者で、累年攻撃しても、功績を立てられなかった。
こいついつも鄧艾に負けてんな
文官出身の鄧艾が異常なだけや
而宦官?皓等、弄權於?。右大將軍閻宇、與皓協比。而皓、陰欲廢維樹宇。維亦疑之。故自危懼、不復還成都。
宦官黄皓らが、内で権力を弄した。右大将軍閻宇は、黄皓と協力した。黄皓は、密かに脅威を廃して閻宇を立てようとした。姜維もまたそれを疑った。故に危惧し、ふたたびは成都に帰らなかった。
胃が痛くなりそう
相手にしたのが悪いんか
正史では書いてないから
わかりようがないとしか言えない
恐らく兵力は少ないのだろうが
六年維、表後主「聞、鍾會治兵關中、欲規進取。宜並遣張翼廖化、督諸軍、分護陽安關口陰平橋頭、以防未然」
六年(263年)姜維は、後主(劉禅)に上表した「聞きますに、鍾会は関中の兵を統治し、進軍を図っております。張翼、廖化を遣わし、諸軍を督させ、陽安関の入り口、陰平橋のたもとに分けて守らせ、未然に防いでください」
>張翼、廖化を遣わし
もう碌なのがいないんだなって
関張クラスと比べると格段に下だけど
いい武将だと思うよ
魏延クラスのエースが欲しかったわね
鄧艾が強いんや
鄧艾伝読むと有能なのがわかるで
鄧艾はワイのオキニやからな
文官出身なのに政治、統率のみならず
カコウハ射殺したり文オウと一騎打ちしたり
武力にも優れてるからすこ
姜維と互角だから趙雲と互角で
さらに許チョと互角で
呂布とも互角なんだよね
文武両道のチートや
中国には「廖化を先鋒とする」っていうことわざもあるんやて
意味は「人材不足で取るに足らない人に大役を任せる」
せやね
自分で七十で越えたって言ってるし
皓、?信鬼巫、謂敵終不自致。啓後主寢其事、而羣臣不知。
黄皓は、鬼や巫の徴を信じ、敵は結局来ないと言った。後主に申してその事を伏せさせ、群臣は知らなかった。
小物版趙高かな
趙高ほど国を揺るがす才も影響もなかったけど
本質は一緒というか
及鍾會將向駱谷、鄧艾將入沓中、然後、乃遣右車騎廖化詣沓中爲維援、左車騎張翼、輔國大將軍董厥等、詣陽安關口、以爲諸圍外助。
鍾会が駱谷に向かい、鄧艾が沓中に入ろうとし、しかる後に、かくして右車騎廖化を沓中に行かせて姜維を救援させ、左車騎張翼、輔国大将軍董厥らを、陽安関の入り口に行かせ、諸囲を外から助けさせようとした。
比至陰平、聞、魏將諸葛緒向建威、故住待之。月餘、維爲鄧艾所摧、還住陰平。
陰平に到る頃、魏将諸葛緒が建威に向かったと聞き、故に留まってこれを待った。一月余りし、姜維は鄧艾に破られ、帰って陰平に留まった。
こいついつも(ry
40年侵攻されて無くて、姜維頼りきっちゃったかも。
劉禅は補佐がしっかりしてないとダメなタイプ?
補佐がいないとなにも出来ないけど輔佐を自分で見つけられない
だから諸葛・蒋・費がいる時代はよかったけど
いなくなったら国を乱してしまったって印象
後継者問題で滅んだ国いっぱいあったから
劉禅一択でよかったとは思う
鍾會攻圍漢樂二城、遣別將進攻關口、?舒開城出降、傅僉格?而死。會、攻樂城、不能克。聞、關口已下、長驅而前。
鍾会は漢、楽二城を包囲し、別将を遣わして関の入り口を攻めさせると、蒋舒は城を開いて降伏し、傅僉は格闘して死んだ。鍾会は、楽城を攻めたが、勝てなかった。関の入り口をすでに下したと聞き、長駆して進んだ。
翼厥、甫至漢壽、維化亦舍陰平而退、適與翼厥合、皆退保劍閣以拒會。
張翼、董厥が、初めて漢寿に到り、姜維、廖化もまた陰平を捨てて撤退し、ちょうど張翼、董厥と会合し、皆で退いて剣閣に籠り鍾会を拒んだ。
姜維は返書を送らず守備に徹する
鍾会は勝てず兵糧の運搬も遠くから来ているので
帰還を議論した
演義の最期の台詞は蜀ファンとしてくる物があるわ
詩までもらってるし最後の格闘死もええ
ワイも好きや
而鄧艾、自陰平、由景谷道傍入、遂破諸葛瞻於緜竹。後主、請降於艾。艾、前據成都。
鄧艾は、陰平から、景谷道を経由して脇道から入り、遂に諸葛瞻を緜竹で破った。後主は、鄧艾に降伏を請うた。鄧艾は、進んで成都に拠った。
維等初聞瞻破、或聞後主欲固守成都。或聞欲東入?。或聞欲南入建寧。於是、引軍由廣漢、?道、以審?實。
姜維らは諸葛瞻が破られたと聞いた当初、ある者は後主が成都を固守しようとしていると聞いた。ある者は東に行き呉に入ろうとしていると聞いた。ある者は南に行き建寧に入ろうとしていると聞いた。こうして、軍を引き連れ広漢、?道を経由し、虚実をつまびらかにしようとした。
袁術「どうしたんや?」
後継者問題すら起きる前に滅びた定期
尋被後主敕令、乃投戈放甲。詣會、於?軍前。將士咸怒、拔刀?石。
次いで後主の勅令を受けると、かくして戈を投げ甲冑を放った。鍾会に会うため、?の軍の前まで行った。将士は皆怒り、刀を抜いて石を斬った。
蜀って愛されてたんやな(遠い目)
會、厚待維等。皆權還、其印號節蓋。會、與維出則同?、坐則同席。
鍾会は、姜維らを厚遇した。皆仮措置で、印や節、車蓋を帰した。鍾会は、姜維と出れば同乗し、座れば同席した。
6: 名無し 2017/12/06(水)21:57:16
會、厚待維等。皆權還、其印號節蓋。會、與維出則同?、坐則同席。
鍾会は、姜維らを厚遇した。皆仮措置で、印や節、車蓋を帰した。鍾会は、姜維と出れば同乗し、座れば同席した。
鍾会の下心が透けて見える
謂長史杜預曰「以伯約、比中土名士、公休、太初、不能勝也」
長史杜預に言った「伯約は、中土の名士に比べると、公休(諸葛誕)、太初(夏侯玄)でも、勝れない」
會、既構鄧艾。艾、檻車?。因將維等、詣成都、自稱益州牧、以叛。
鍾会は、鄧艾を陥れた。鄧艾は、檻車で召還された。そこで姜維らを率い、成都に行き、自ら益州牧と称し、背いた。
欲授維兵五萬人使、爲前驅。魏將士憤怒、殺會及維。維妻子皆伏誅。
姜維に兵五万人を授け、前進させようとした。魏の将士は憤怒し、鍾会及び姜維を殺した。姜維の妻子は皆誅殺された。
姜維は
何で鍾会に協力したんや
蜀の復興やろ
>>21
ってことは再び劉禅を推戴するんかな
鍾会じゃなく
>>29
成功したら鍾会ブッコロして
「劉禅さまを救い出す!」ってやるんやろか
この伝の注の『華陽国志』って資料に
劉禅に手紙送って
復興させるのをお待ちくださいって言ってる
へぇーそうなんや
サンキューガッツ
劉禅ももう皇帝になる気なさそう
一応降伏論を提示された時
最後まで南方に逃げようと考えてたって?周伝にある
?周に説き伏せられて初めて降伏を決断したんだと
郤正著論、論維曰「姜伯約、據上將之重、處羣臣之右、宅舍弊薄、資財無餘、側室無妾?之褻、後庭無聲樂之?
郤正が論を著し、姜維を論じて曰く「姜伯約(姜維)は、上将の重責を担い、群臣の上に位置したが、家は質素で、財産は余剰がなく、側室に妾を置く猥褻さはなく、奥座敷に音楽の娯楽を設けず、
これほど似合う武将もいないって書かれてて
草はえた覚えがあるわ、鍾会
なんでも劉備くらいにはなれるとか
大言壮語してたらしいね
結果瞬殺
衣服取供、輿馬取備、飲食節制、不奢不約、官給費用、隨手消盡。
衣服は供給された物を使い、輿と馬は備えられた物を使い、飲食は節制し、豪奢ではなく倹約もせず、官給の俸禄を、手当たり次第に消費した。
まさに亮先生が手本だなあ
清廉潔白だよね
あくまで妄想だけど諸葛亮から倣ったのかね?
察其所以然者、非以激貪厲濁抑情自割也、直謂如是爲足、不在多求。
そのようにした理由を察すると、貪欲な者を激励したり情を抑えて断ち切ろうとしたのではなく、ただそれで充分だと思い、多くを求めなかったのである。
凡人之談、常譽成毀敗、扶高抑下、咸以姜維投?無所身死宗滅、以是貶削、不復料?。
凡そ人が談ずると、常に成功を誉め失敗を貶し、強者を助け弱者を押さえつけ、皆姜維が身の置き所がなく宗族が滅ぼされたことにより、それをもって貶め、ふたたびは検討しないのである。
異乎、春秋褒貶之義矣。如姜維之樂學不倦、清素節約。自一時之儀表也。」
これは春秋の褒貶の義と異なる。姜維は学問を楽しんで飽きず、清廉かつ質素で節制をする。その時の規範なのである。」
評曰。??、方整有威重。費?、寬濟而博愛。咸、承諸葛之成規、因循而不革。是以、邊境無虞、邦家和一。然、猶未盡、治小之宜、居靜之理也。
評に曰く。蒋?は、厳正にして威厳があった。費?は、寛容で博愛であった。皆、諸葛の作った制度を受け継ぎ、それに従って改めなかった。そのため、辺境に憂いはなく、国家は一つとなった。しかしながら、小さきを治める適宜な方法や、静かに住まわるやり方が出来なかった。
姜維、粗有文武、志立功名。而翫衆黷旅、明斷不周、終致隕斃。老子有云「治大國者猶烹小鮮」況、於區區?爾而可?擾乎哉。
姜維は、文武を兼ね備え、功名を立てることを志した。衆をもてあそび軍旅を汚し、明断はあまねからず、終いには亡くなった。老子は言った「大国を治めるは小魚を煮るがごとし(※)」ましてや、区々たる小国を何度も騒がしてよかろうか。
大国も頻繁に動かしてはならないという戒め
陳寿さんは厳しいなぁ
ボロクソで草
明日も鄧艾、潘濬伝をやるんで良かったらみてくれやで
ハンシュンってのはよく知らんけど
鄧艾はワイが三国一好きな武将やから楽しみンゴね
三国きっての知将鄧艾はワイも好きや
それならぜひ見に来てクレメンス
ワイは真田幸村って印象がある
文武両道とか最後まで敵に抗うとことか
こちらこそ長い時間付き合ってくれて乙やで