將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事、試用於昔日、先帝稱之曰能。是以衆議舉寵、爲督。愚以爲、營中之事、悉以咨之、必能使行陳和睦、優劣得所。
将軍向寵は性格が素直で、軍事に明るく、昔試しに用いたら、先帝は有能だと称えました。皆は議論して向寵を推挙し、督としました。愚かに思いますに、軍営のことはことごとく彼に相談すれば、必ず軍を和睦させ、優劣を決めることが出来ます。
ニュース
親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。親小人、遠賢臣、此後漢所以傾?也。
賢臣と親しみ、小人を遠ざけ、こうして前漢の興隆する所となりました。小人と親しみ、賢臣を遠ざけたので、後漢が傾倒する所となりました。
なんせ蜀が魏に勝ってることって、守りが固いのといい鉄があることくらいで、それ以外は大差で負けとるわけやし
危険な賭けが出来るやつだけが名将ってわけやないもんね
>>700
得れる情報にも限度があるし、ゲームと違ってやり直しもきかんしなぁ
イリョウでケイシュウ組死にすぎだわ
馬良が痛すぎる
>>702
黄権、馬良は本当に痛い
どっちか残ってたら孔明の負担が軽減されてた
>>708
これは名言
陸遜の仕掛けがもう少し遅ければ蜀の大勝利もあったけど、肝心の本体が壊滅してしまった模様
別働隊にしたがゆえに帰れなくなって魏に降伏やからな
荊州が確保できないから本来のものではないルートで北伐しなきゃいけなくなったし、次世代の人材もゴッソリ死んだ
特に黄権が痛いわ、諸葛亮以外で唯一軍司令官ができる人やったのに
やっぱおしいよなぁ
漢中の功績とか考えていたらどれほど助かったことか
戸次川の戦いでの長宗我部みたいなもんやな
あっちは後継者 期待の若手全滅やったけど
当主が狂うに御家騒動もセットとかいうアレ
でもしばらくは南方に貼り付けざるを得ないのが勿体無い。
先帝在時、?與臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓靈也。侍中、尚書、長史、參軍、此悉貞良死節之臣。願陛下親之信之、則漢室之隆、可計日而待也。
先帝が居た時、度々私とこのことを論じ、かつて桓帝、霊帝(※)のことを嘆息、痛恨しておりました。願わくば陛下はこれを親しみ、これを信じれば、すなわち漢室は興隆し、日を数えて待つことが出来ます。
※献帝より前の皇帝
前述の通り賢臣を遠ざけ小人と親しんだので漢の衰退の要因となった
臣、本布衣、躬耕於南陽。苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。
私は本来無官であり、自ら南陽で耕作をしておりました。いやしくも乱世において生命を全うするため、諸侯に知られることを求めませんでした。
先帝、不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、遂許先帝以驅馳。
先帝は私を卑しいとせず、自ら赴き、草廬の中に私を三たび顧みて、私に当世のことを尋ねられました。これによって感激し遂に先帝の元に馳せ参じることを許諾しました。
後、?傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之閒、爾來二十有一年矣。
後に傾倒して敗軍となった(長阪での敗戦の)際に任を受けました。危機の間に命を奉じて二十一年になります。
先帝、知臣謹慎、故臨崩寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂歎、恐託付不效以傷先帝之明。故、五月渡瀘、深入不毛。
先帝は私の慎み深さを知り、ゆえに崩御に臨んで大事を私に託しました。命を受けて以来、一日中憂いて嘆き、託されたことに答えられず先帝の威光を傷つけることを恐れております。ゆえに五月に瀘水を渡り、深く不毛な土地(南方)に入ったのです。
今南方已定、兵甲已足。當獎率三軍、北定中原。庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還于舊都。此、臣所以報先帝而忠陛下之職分也。
今南方は既に平定され、兵と甲冑は足りております。まさに三軍を奨励して率い、北に行き中原を定めるべきです。
至於斟酌損益、進盡忠言、則攸之、?、允之任也。願陛下、託臣以討賊興復之效。不效則治臣之罪、以告先帝之靈。責攸之、?、允等之慢、以彰其咎。
損益を取捨し、忠言を尽くし進めるのはすなわち郭攸之、費?、董允の任務であります。願わくば陛下は私に賊(魏)を討ち復興に尽くすことを託してください。尽くせなければ私の罪を正し、先帝の霊に告げて下さい。郭攸之、費?、董允らの怠慢を明らかにして咎めて下さい。
陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言。深追先帝遺詔、臣不勝受恩感激。
陛下もまた自ら謀り、善い行いを尋ねられて正しき言葉を察して納めて下さい。先帝の遺命を深く追われれば、私は恩を受けるより感激が勝ります。
今當遠離、臨表涕零、不知所言。遂行、屯于?陽。
今遠きに離れておりますが、上表に臨み涙をこぼし、言うことがございません。遂に行軍して?陽に駐屯した。
※出師の表はここまで
部下の諸葛亮が言っちゃうよ。
前の皇帝がやりたいこと半分もやらずに死んじゃった・・・
んで天下が3つに分かれてて「ウチ」(蜀)はボロボロなの!
コレ、マジやばいみたいな!?
ぶっちゃけ、蜀のみんなが頑張ってんのはさ、あんたのためじゃなくて親父さんに恩返しするためだから。だからさ、あんたも親父さんみたいに頑張らなくちゃだめなのよ。
あんたさあ、よく「どーせ俺なんか」って言うでしょ、あれマジでやめなよ。
屁理屈こねて他人のアドバイス無視したり、よくないよ。
みんな仲間じゃん、そこらへんグダグダだとダメだと思うんだよね。
ヤバいことやる奴とか、いい人とか、いろいろいるけど、みんな区別してけじめつけなきゃさあ。えこひいきして、筋曲げちゃだめってこと。
郭ちゃんや費ーさんや董くんは真面目で使えるからって親父さんが残してくれた部下なんだから わかんないことはなんでもこいつらに聞けばいいよ。
こいつらがOKだしたんなら何やっても大丈夫。
将軍の向さんも真面目で、親父さんが「こいつマジ使える」って言ってたから、 うちらが遠征した後の軍事面はこいつに任せておけば大丈夫。きっと役に立つよ。
賢くて善良な人を採用してたから前の前の国家は大発展したけど、バカばっかり採用してた前の国家はつぶれちゃったよね。
「前の皇帝はバカばっか」って親父さんと二人で嘆いてたもんですよ。
さっき名前出した連中はみんな賢くて善良だから、こいつらは使いなさい。
いいから使いなさい。
私なんかもともと片田舎のニートで終わるはずだったんだけど、 あんたの親父さんは「いやお前さんはすごい人だから」って三回もスカウト来てくれた。
そりゃもう感激して社会人なるっきゃないでしょ。
ま、負け戦ばっかりだったからわらにもすがる思いだったかもね。
もう二十一年前だよ。
親父さん、亡くなるときに「息子バカだから後頼むわ」って言ってたよ。
あ、バカってのはオフレコ。
とりあえず田舎のほうが騒がしかったから、なんとか親父さんのやってたこと立て直そうと 南蛮まで行ってきて騒動を治めてきましたよ。
あ、どっかのエロゲでロリ王国になってるらしいですがあれはデマです、デマ。
で、南蛮も落ち着いて、兵隊もずいぶん強くなりました。
とっとと軍隊出して、首都とか奪還しましょう。
親父さんの悲願だし、これが私の仕事だから。
国の中でいろいろやるのはさっきの連中の仕事。
私は軍隊率いて戦ってきますから、とっとと許可出してくださいな。
もしダメだったら親父さんの墓の前で
「孔明は口先だけだからぶっ殺した」って墓参りしてOK。
さっきの連中がサボってるなら、ついでに処罰してくれてOK。
あんたもちゃんと仕事して、身は慎んで、親父さんの期待に背かないように。
親父さんは私の恩人でしたよ。
あの人のためなら異国の地で戦うのも本望ですよ。
はわわ、ご主人様、なんだか泣けちゃいます。
これ間違ってないんだよなぁ
ほんま陰険やであの酒乱
楽斉とか有能いたからなあ
後方の攪乱は当然といえば当然
孫権が陰険なのは認めるけど
>>725
重臣の家を燃やしたり馬車から身を乗り出して虎狩りしやがるからな
なお狩のことを咎められると、装甲馬車にして身を乗り出して狩をした模様
六年春、揚聲由斜谷道取?、使趙雲鄧芝爲疑軍據箕谷、魏大將軍曹真舉衆拒之。
建興六年(228年)春、斜谷道から?を取ると声を揚げ、趙雲、鄧芝を偽の軍として箕谷に拠らせ、魏の大将軍曹真は兵を挙げてこれを拒んだ。
亮身率諸軍攻祁山、戎陳整齊、賞罰肅而號令明。南安、天水、安定三郡叛魏、應亮、關中響震。
諸葛亮は諸軍を率いて祁山を攻め、陣は整然とし、賞罰は粛然とし、号令は明瞭であった。南安、天水、安定の三郡は魏に叛き、諸葛亮に応じ、関中は震撼した。
ここで無抵抗で降伏した三郡と違い、隴西太守の游楚って魏将が頑強に抵抗したお陰で全部の目論見が崩れたんよな
あー勿体なす
魏明帝、西鎭長安、命張?拒亮。亮使馬謖督諸軍在前、與?戰于街亭。謖、違亮節度、舉動失宜、大爲?所破。
魏の明帝(曹叡)は西に行き長安を鎮め、張コウに命じて諸葛亮を拒ませた。諸葛亮は馬謖を遣わして諸軍を督させ前線に送り、張コウと街亭で戦わせた。馬謖は諸葛亮の命令に違え、挙動はよろしきを失っており、大いに張コウに破られる所となった。
亮、拔西縣千餘家、還于漢中。戮謖、以謝衆。
諸葛亮は西県の千余りの家を抜いて、漢中に帰った。馬謖を殺して兵たちに謝罪した。
上疏曰「臣、以弱才、叨竊非據、親秉旄鉞、以厲三軍。不能訓章明法、臨事而懼、至有街亭違命之闕、箕谷不戒之失。
上奏して言った「私は才が少ないのに、拠らざるべき所(高い地位)を受け、自ら総帥となって三軍を励ましております。文を教え法を明らかにしておりましたが、事に臨んで恐れ、街亭では命に違えられ欠ける所があり、箕谷では戒めを守らず失態に至りました。
咎皆在臣授任無方。臣明、不知人、恤事多闇。
咎は皆私の任ずる方針が悪いからです。私は明らかに人を知らず、事を計るにとても暗いからです。
春秋、責帥、臣職是當。請自貶三等、以督厥咎」於是、以亮爲右將軍、行丞相事、所總統如前。
『春秋』では責は総帥にあるとしており、私の職はこれに当たります。自らを三等級貶め、督を咎めることを請います」こうして諸葛亮は右将軍となり、丞相の事を代行し、統括することは以前の通りであった。
冬、亮復出散關、圍陳倉。曹真拒之、亮糧盡而還。魏將王雙率騎追亮、亮與戰、破之、斬雙。
冬、諸葛亮はまた散関に出陣し、陳倉を囲んだ。曹真がこれを拒み、諸葛亮は軍糧が尽きて帰った。魏の将王双は騎馬を率いて諸葛亮を追い、諸葛亮は戦って、これを破り、王双を斬った。
七年、亮遣陳式攻武都、陰平。魏雍州刺史郭淮率衆、欲?式。亮自出、至建威。淮、退還。遂平二郡。
建興七年(229年)、諸葛亮は陳式を遣わして武都、陰平を攻めさせた。魏の雍州刺史郭淮は兵を率いて陳式を迎撃した。諸葛亮は自ら出陣して、建威に到った。郭淮は撤退して帰った。遂に二郡は平定された。
詔策亮曰「街亭之役、咎由馬謖。而君引愆、深自貶抑、重違君意、聽順所守。前年燿師、馘斬王雙。今?爰征、郭淮遁走。降集?羌、興復二郡、威鎭凶暴、功勳顯然。
諸葛亮への詔の木片に曰く「街亭の役は馬謖の咎に由来する。しかし君は過ちを引き受け、深く自らを貶め、君に意に違えぬよう、聞き入れたのだ。前年軍を輝かせ、王双を斬った。
今年も征伐し、郭淮を遁走させた。?、羌を降伏させ、二郡を復興させ、威によって凶暴を鎮め、勲功を顕わにした。
※羌=異民族のこと
おは曹真
方今天下騷擾、元惡未梟、君受大任、幹國之重。而久自?損、非所以光揚洪烈矣。今、復君丞相、君其勿辭。」
ただいま天下の秩序は乱れており、元凶は未だ晒し首になっておらず、君は大任を受け、国の重鎮となった。しかし、久しく自らを貶めるのは、業績を輝かせる所とはならない。今、君を丞相に復職させるが、君は固辞しないでくれ。
司馬懿のやつか?
確か別の伝やった気がする
確証ないから宿題にさせてクレメンス
多分司馬懿伝の方やね
孟達って伝残ってないのか・・・
九年、亮復出祁山。以木牛運、糧盡退軍。與魏將張?交戰、射殺?。
建興九年(231年)、諸葛亮はまた祁山に出陣した。木牛(※)で運搬したが、軍糧が尽きて軍を退いた。魏の将張?と交戦し、張?を射殺した。
※木牛と後出の流馬は運搬道具
十二年春、亮悉大衆、由斜谷出。以流馬運。據武功五丈原、與司馬宣王對於渭南。
建興十二年(234年)春、諸葛亮は兵士を全て使い、斜谷に出陣した。流馬で運搬した。武功郡五丈原で司馬宣王(司馬懿)と渭南において対峙した。
これで死ぬ張こうってどうなんやねん
亮?患糧不繼、使己志不申。是以、分兵屯田、爲久駐之基。耕者雜於渭濱居民之間、而百姓安堵、軍無私焉。相持百餘日。
諸葛亮は常に軍糧が続かなく、己が志を明らか出来ないことを憂いていた。こうして兵を分けて屯田し、久しく駐屯する基地とした。耕す者は渭水で民間と雑居したが、百姓は安堵し、軍に私心はなかった。相対して百余日となった。
其年八月、亮疾病、卒于軍、時年五十四。及軍退、宣王案行其營壘處所、曰「天下奇才也。」
その年の八月、諸葛亮は病となり、軍の中で亡くなり、その時の年齢は五十四であった。軍を退くに及んで宣王(司馬懿)は軍営のある所に行き、言った「天下の奇才である。」
亮、遺命葬漢中定軍山、因山爲墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物。
諸葛亮は遺命を出して漢中の定軍山に埋葬し、山に墳墓を作らせ、塚は棺を入れるのに十分な大きさで、朝廷に賜った服を着せ、道具を収めさせなかった。
時代を考えても若く感じるのう
もう少し長生き出来れば天下の情勢もまた変わったかもしれん
如何不弔、事臨垂克、遘疾隕喪。朕用傷悼、肝心若裂。夫、崇德序功、紀行命諡、所以光昭將來、刊載不朽。
どうして弔わずにいられるのか、事業に臨んで後世に残す前に、病に倒れ亡くなった。朕は傷み入り、心は張り裂けそうである。徳を崇め、功をはしがき、行いを記し、諡をするのは、光を将来に残し、不朽に載せるためである。
今使使持節左中郎將杜瓊、贈君丞相武?侯印綬、諡君爲忠武侯。魂而有靈、嘉茲寵榮。嗚呼哀哉、嗚呼哀哉。」
今使持節、左中郎将杜瓊を遣わして、君に丞相、武郷侯の印綬を贈り、君に諡して忠武侯にしよう。魂に霊があるなら、寵愛と栄誉をめでたく思ってくれ。ああ悲しいかな、ああ悲しいかな。」
草
間違いやないな
初、亮自表後主曰「成都有桑八百株、薄田十五頃、子弟衣食、自有餘饒。至於臣在外任、無別調度、隨身衣食、悉仰於官。不別治生以長尺寸。
以前、諸葛亮は劉禅に上表して言った「成都には桑が八百株、痩せた田が十五頃、子弟の衣食は豊富にあります。私が外で任務に当たっても、身の回りの道具はいらず、わが身に必要な衣食は全て官より頂戴します。別に心の内にそれ以上のことを望みません。
若臣死之日、不使?有餘帛外有贏財以負陛下」及卒、如其所言。
もし私が死ぬ日が来ても、内に余った絹があり、外に財が得られ、陛下に(苦労を)負わせません」亡くなるに及んでその言葉通りであった。
思ってた以上にアッサリ記述なんやね
正史ってそんなもんや
あくまで記録やからね
夷陵に次ぐ大敗をやらかしてゲームセットや
味方が来ないとかいう敗因
ベイスボールかな?
味方が来なかったのに加えて
敵将がトウガイとチンタイという当時最強クラスの名将やからな
段谷の戦い以前は長安以西総取り目前やったのに
この敗北で諸葛亮以来のベテラン大量喪失や
まさに半ばで失速したベイスの如くや
胡済ってホント何で来なかったんやろな
ただでさえ不利なのにこんなの勝てるわけないやん
景耀六年春、詔、爲亮立廟於?陽。秋、魏鎭西將軍鍾會征蜀、至漢川、祭亮之廟。令軍士、不得於亮墓所左右、芻牧樵採。
景耀六年(263年)春、詔勅して諸葛亮の廟を?陽に立てさせた。秋、魏の鎮西将軍鍾会は蜀を征伐し、漢川に到り、諸葛亮の廟を祭った。兵士に命じて諸葛亮の墓所の周りで草を刈り牛馬を飼うこと、木こりをすることをさせなかった。
亮弟均、官至長水校尉。亮子瞻、嗣爵。
諸葛亮の弟諸葛均の官職は長水校尉に至った。
諸葛亮の子諸葛瞻が爵位を継いだ。
本文と内容がかぶるため
夏候は一人あかんけど
惇のことか楙のことか覇のことかで悩むな
楙のせいで長安攻める案出て蜀分裂したから有能なんかもな
風吹けば桶屋が儲かる理論
評曰。諸葛亮之爲相國也、撫百姓、示儀軌、約官職、從權制、開誠心、布公道。
評に曰く。諸葛亮は相国になると、百姓を慰撫し、規則を示し、官職を引き締め、権勢に従い、真心を開き公道を敷いた。
盡忠益時者、雖讎必賞。犯法怠慢者、雖親必罰。服罪輸情者、雖重必釋。游辭巧飾者、雖輕必戮。
忠を尽くして時勢に益がある者は、仇といえども必ず賞した。法を犯した者は、親しいといえども必ず罰した。罪に服し情に負けた者は、重罪といえども必ず釈した。浮ついた言葉を巧みに飾った者は、軽罪といえども必ず殺した。
自らが罷免した廖立や李厳からも、いつか諸葛亮が再び引き上げてくれると信じていた
こういう人の元で人間が育たないという事の方がないと思うで
お前は特別やからね
善、無微而不賞。惡、無纖而不貶。庶事精練、物理其本、循名責實、?偽不齒。
善が少しも無ければ賞さなかった。悪が少しも無ければ貶めなかった。庶事に精通し、物事はその本を正し、名実共にあるように努め、嘘偽りを歯牙にかけなかった。
終、於邦域之?、咸畏而愛之。刑政雖峻而無怨者、以其用心平而勸戒明也。可謂識治之良才、管蕭之亞匹矣。
終いには国内の内において、皆畏れつつこれを愛した。刑政が厳しいといえども怨む者がいないのは、その心を用いることが公平で賞罰が明らかであったからである。治世を知る良才は管仲、蕭何に限りなく匹敵に近いと言うべきである。
※秦末漢初の政治家で漢の初代相国
国を良く治め、軍を後方から支えれば兵士、糧食を切らしたことがなく、高祖が項羽を破るのに大きく貢献した
然、連年動衆、未能成功、蓋應變將略、非其所長歟。
しかれども、連年兵を動かして成功出来なかったのは、けだし応変の計略を得意としなかったからであろうか。
最期が疑問系なのが良くも悪くも考えさせる書き方するよな
敢えて陳寿はこうしてるとワイは思う
陳寿も完全には批判したくなかったんやろ
おまけ
諸葛亮の軍事能力考察
本文の紹介はこれで終わりでここからは諸葛亮の軍事能力考察や
見たい人だけが見て行く感じでオナシャス
北伐以前にも劉璋時代の益州攻略、劉備死亡後の益州四郡の反乱の制圧などで戦っており、それは諸葛亮の能力の高さを十分表顕するものであるが、記載が少なく、また比較となりうる人物もいないため、今回は北伐に絞って検証することにした。
第一次北伐
まず諸葛亮は建興六年(228年)の春に斜谷道から?を取ると喧伝し、趙雲、鄧芝を囮にして箕谷に進軍させる。ここで曹真を釣り出すことに成功する。
劉備が異常なんだよなぁ
こうした後諸葛亮は祁山を攻めに行く。備えの無かった南安、天水、安定の三郡は魏に離反する。ここまでの戦略は戦わずに三郡を得て完璧と言ってもいいほどだった。
この事が起こると曹叡は長安に行き張?を派遣する。これに対抗すべく諸葛亮は馬謖を街亭に遣わす。人々の議論では魏延か呉壱がいいと言われていたが結局諸葛亮は馬謖を遣わした。これが諸葛亮の大きなミスとなる。
それでも諸葛亮は進軍したが結局拠点にする場所がなかったため撤退した。
戦果としては西県の千余りの家を引き抜いたことだけであった。
これが本当に惜しい
さっきも言ったが野戦に望む可能性は無かったんだろうか
あるいは占拠した三郡のいずれかに拠るとか
史書から状況なんてわからんが
恐らく野戦だと数で負けて不利とかやったんやろなぁ
三郡を奪ったその戦略自体は間違っていなかったと考える。
ただ人選は間違っていた。魏延が命令違反をする人物だと見抜いていた諸葛亮は彼を使わなかったのはよいとして何故呉壱を使わなかったのだろうか?
大兵力と地の利を有していた司馬懿がガン篭りをしてるって
ヤバイと思うわ
これ
魏は勢力で勝るのに守ってるだけってのがやばい
第二次北伐
曹真は諸葛亮が陳倉に攻めてくると予想し
カク昭、王生を派遣して築城をさせていた。
予想通り諸葛亮は
建興六年(228年)冬または七年(229年)春に陳倉を包囲。
魏略は適当なことが書いてあることで有名だが、これもその一つで、曹真伝を見るに進攻ルートを読み、将軍を派遣し、築城までさせているのに最前線に千人余りしか配置していないというのは流石に考えられない。
諸葛亮は陳倉を攻めたころには恐らく厳重に守りを固められており、途中で費曜らの将軍も派遣されている。蜀は攻めきれず兵糧が底をついて撤退する。帰り際に王双が追撃すると返り討ちにして斬り殺す。
魏延が命令に従えば街亭以西は掌握出来てたかもしれん
第三次北伐
建興七年(229年)の春に陳式を遣わして武都・陰平を攻めさせる。
郭淮がそれを止めようとすると諸葛亮は自ら兵を引き連れて建威まで牽制に行ったので、郭淮は撤退し、二郡は蜀の所属となった。
ここで注目して欲しいのが第二次北伐から日数があまり経っていないということ。
陳倉の包囲、王双との対峙、撤退の期間を考えるとかなり早い。
魏と闘えたかもな
呉壱はなんで使わんかったんやろ?
ホンマ謎や
三国志で何気に使ったなぁこの中堅勢
これがワイの考え
負けやなくて攻めの方向を変えたんやないかと
ただ漢中には第三次北伐を行える兵糧があったのに陳倉に運ばせず、撤退してからすぐに武都・陰平を攻めに行ったということは、むしろ攻めの目標を変えただけではないかというのが私の考え。
なんやかんやといっても正道が一番やからね
第四次北伐
建興九年(231年)の春二月に祁山に出陣。
第四次北伐の詳細は司馬氏に憚ってか本文に書かれていないが注釈の『漢晋春秋』には事細かに記載されている。
それはまず上?で郭淮・費曜らと交戦して撃破し、次いで司馬懿と直接対決すると三千の首、五千のくろがねの鎧、三千百の弩を獲得する大勝をあげるといった内容。
馬超が生きとればあるいは…
馬超が生きてれば戦略レベルで違ったと思うわ
あいつの存在は涼州では強烈やったろうし
その後考えても西側の異民族強すぎるわな
異民族か
馬氏や姜維とかかな?
ここの李厳の行動謎なんだよなぁ
なんであんま見え見えの嘘ついたのか
あれは本当に謎
勝ってたのに撤退させた罪を恐れてのことかもしれんが
嘘が明らかで群臣の誰にも擁護されとらんとか
第五次北伐
建興十二年(234年)の春二月に五丈原に駐屯し渭南で司馬懿と対峙。第五次北伐中に諸葛亮は軍を西に動かして注意を引きつけ陽遂を攻めるという策をとったが郭淮に見破られて備えをされていたため攻め落とせなかった。
この年の八月に死去。司馬懿が残された軍営を見ると「天下の奇才」と評した。
総評すると諸葛亮の北伐中における失敗は第一次の人選ミスのみであり、郭淮を撃破、司馬懿に大勝、王双、張コウを撤退戦という不利な状況から殺害、二郡の奪取といったそれを補って余りあるくらいの軍事における有能なエピソードがあることがわかる。
第一次 馬謖が命令違反を犯したため
第二次 防備を固められており攻める方向を変えるため
第三次 勝利
第四次 長雨で兵糧の供給が続かなかったため
第五次 諸葛亮自身が死んだため
と、負けて撤退した以外のことが原因になっている。
漢の韓信には張良、蕭何、英布、彭越をはじめとした能臣や名将がいて、それは馬謖、李厳、魏延とは比べものにはならない。
諸葛亮にはこのような兵力も将もなかったのである。
ベトナム方面は相変わらず反乱しまくって
国力の差は大きいよな
よくよく考えるとそれ不思議な現象だよなぁ
ワイはコーエーのおかげやけど
わおもコーエイのおかげやで
とくに11は何度も天下とっては、暗殺されたなぁ
民心が低かったからかな…
このような中これ程の成果を出したのである。
考えて欲しい、司馬懿に対し大勝出来る将軍が三国志の中にどれほどいようか?
これをもって私は諸葛亮が三国時代最強の軍事能力を持った人物だと結論付けたい。
何か質問や今後訳して欲しい人物があれば遠慮なく言ってやで
乙やでーめっちゃ楽しかった
見てくれてサンガツ
こんな稚拙な文を読んでくれて本当にありがとうや
しかし隴西地方の確保という大目的を達せなければ、結局蜀はジリ貧になる
そこに一番近づけた第一次を棒に振ったのが痛恨の極み
厳しいようやがそこが孔明の限界やったんやろうなと思う
無論トップクラスで有能な軍司令という前提やで
その上で国力全てを賭けれるような大博打を打てる大胆さを持てていたらと勿体無く感じる
そういう賭けが出来んと成功は難しいんかな
と思ったけど周瑜の大勝考えると揺らぐな
呂布はあんまり強いって印象ないな
むしろそれに勝った曹操のが強いやろ
呂布は、前線にでる腕っぷしがやばいやつやったんかな?
正史の一騎討ちって少ないからなあ
ワイが思いつく限りでは
呂布とカクシ、孫策と太史慈、馬超と閻行の一騎討ち、関羽の顔良への突撃
他にあったかな?
それも大きいやろうなぁ
南方のシルクロードの別窓口は確保しとるから
両方手に入れればウハウハやったろう
ところで木牛牛馬ってなんじゃ?
と思って調べてたら中国には巨大な車輪を持つ一輪手押し車があった
一般的な木牛竜馬の想像図とは全然違うけど
輸送能力が劇的に改善したんならこういうのだったんかなと妄想が捗る
正史だと周瑜どんな感じなんだろ
赤壁関連は創作多く
諸葛亮と周瑜がライバルってこと自体も
正史には載ってないことなんや
曹操が歩兵を、呂布が騎兵というドリームチームが見たかった
相手は張遼騎馬隊と関羽歩兵くらいじゃないと無理やな
とんでもない
諸葛亮の後継者で四相の次席である蒋エンは
失態により劉備が処断しかけたのを諸葛亮が取り成し後に大成した
蒋エンは諸葛亮遠征中は成都の政治軍事を預かり、その死後も人々の不安を抑え、混乱なく蜀の軌道を整える事に成功している
馬謖ばかり悪辣に取り上げられるが、蒋エンに関しては劉備が見誤り孔明が慧眼であるという全く逆の事をやってる
明日は荀彧伝やるんでよかったら見に来てクレメンス
ほな、また
サンキューイッチ
また明日やで
本当にありがとう