日本語で李世民について、書かれた本とか教えてください。
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芝豪の「太宗李世民」だな。「李世民」だったか?
毒にも薬にもならん出来だった。
PHP研究所から出てるような歴史小説が許容範囲内ならOKだと思うよ。
どっちもそれなりに読めたけどな。
小前の方は盛り上がりに欠けた記憶が。
歴史事実を気にしすぎのため、ドラマティックさがなくなったのでしょう。
>>198
詳しいことって具体的にどういうことを?
概要だけなら、陳御大の小説十八史略と中国の歴史の該当部分を、さらっと読んでおけばいいと思うけど。
漢文はやや苦手なので、日本語のわかりやすい注釈があるとありがたいのだが。
要は史実にのっとった李世民の参考書。
>>200
安価なところでは
「つくられた暴君と名君 隋の煬帝と唐の太宗」清水書院
かな?
別に李世民を貶めようとする本ではなく、史実から真面目に考察しようとする本。
いや劉黒闥がすごいのか。
だからと言って、もしかしたら竇建徳が逃亡に成功して、再び反乱を起こすなんて可能性もなくはないんだし、一概には言えない。
なぜか一族の集会所には秦の李シの肖像画までかけてあったw
あ、みたみたw
李姓の偉人は皆先祖かい! とか思った。
あちこちに自称偉人の子孫の村ありそうだな
一億人はいるであろう張さんはみんな張良と張飛の子孫だな
兄で統一 → 弟継承
って、それこそ血塗られた手を使わなければ、皇帝位に手は届かないのでは?
自分の家を一番立派にしようとするし。
気持ちは分かるけど、世の為政者の多くは
それに準じた、あるいはそれ以上でもあるよ。
李世民はそれを糊塗しようとしたところが嫌われる原因と思える。
まあ、宋太宗も兄殺しの疑惑を持たれているしね。
しかし証拠というものがほとんどない。
しかも南宋で兄一族に戻ってるんで、印象薄い
兄がする、弟殺しやその親族殺しは往々にしてあることで
李世民のこれはその逆という。
宋太宗については、その政治的識見や手腕はまぎれもなく兄を凌いでいるので兄殺しの疑いの件はなおさら薄くさせられる。
これで凡君や単なる野心家で政治を混乱させてたら、いったいどんな非難をあびていただろうか。
宋太祖は改変してない。する間がない。
している可能性があるとすれば太宗の方。
その太宗でさえ、太祖の徳「だけ」は完全に認めている。
>>230
その改竄の場合、たぶん逆改竄でしょう。悪く、というわけではないけど「徳」と腕力以外、あんま評価してなさそうなのは太宗自身の述懐からうかがい知れる。
たぶんだけど、太宗は太祖のちゃらんぽらんで、そのくせ小心なところが結構嫌いだったのではないかと思うんです。戦場の勇者であっても、人間関係や政治の場面では、結構小心で繊細かつ神経質な面を太祖は垣間見せているから、その辺、太宗との相性はどうだろうと考えてしまう。
家系の改竄というかこじつけは、ふつうに太祖からやってるけどね。宋州節度使だから宋となった以外に、宋州が春秋時代の宋の故地であり、殷(宋代では商という)の末裔だったうえ、父親の名前が「趙弘殷」だから、その殷の王室との関連を強める作為があった。
さらに言えば、涿州の趙氏を、戦国時代の強国、趙王室の末裔と位置づけた。国号をならば「趙」とすればいいところだが、先の王朝が周王室の「周」を名乗っていたので、その跡となる趙では格式が下がるから、遡って殷にちなもうとしたらしい。その点で、宋という国号は都合が良かったようだ。
これは山東貴族より劣る李家を、それより上にしようとした李世民と、さして変わらない。
光武帝も、あまり改竄に手を出してる余裕はなかったと思うがな。
太祖や光武帝の事跡に改竄がないとは思わないが、やったのは子孫でしょう。
比べると、当の本人が改竄に積極的に手を出している李世民はどうしてもね。
李世民って、長孫皇后が死んだ後、元斉王妃、つまり弟の嫁だった楊氏を、後継の皇后に立てようとしたらしいけど、そんなに仲が上手くいっていたのかな?
李元吉は玄武門の変で、5人の子も殺されているけど、それって楊氏の産んだ子ではなかったの?
まあ実の兄弟をぶち殺し父親を幽閉して皇位を簒奪するような外道のことだから、弟の子をぶち殺して嫁を孕ませることくらい何とも思わんだろ。
こうゆう行為をするということは李氏が伝統的な漢族ではなく北方民族(鮮卑)か鮮卑(漢)化したものだという証拠だね。私は唐朝李氏=鮮卑説を採るけど。
突厥が当時の唐をして「タブガチ」と呼んだ。
これは「拓跋」の音である。
決して民族弾圧を受けているわけでもないのに、漢化が進んで、民族が消滅しつつあるような。
貞観政要読むと、理想的君主に書かれているね。
政治制度もよくできている。
でもこの人死んだらすぐ唐は駄目になっていったね。なぜだろう。
マキャベリの言葉「その生前だけでなく、死後も国家が永続するようにしなければ名君ではない」。
簒奪はされはしたけど。
そういう言い方をするのは唐だけだっけ?
漢や宋は、前後(東西)、南北で分けるしな。
初明 → 盛明 → 中明 → 晩明
ってのも何だか、変だ。
まぁちゃんと使いこなしたんだからある意味じゃ李世民の手柄の面もあるけどな。
突厥やったあたりで警戒されて殺されるか干されるぞ、普通。
部下がいきいきしているのは、使っている人が有能な証拠。
劉邦にしろ曹操にしろ…
>>259
> 曹操は人材を集めることには熱心だったけど、
> 自在に使いこなしていたかについては微妙
ここで勝ったら統一って戦いにまで、自身が出ばるっていったい…
一臣下としては当然だと思うけど?曹操は魏王でしかない。
李世民も秦王として、統一までは自身の割り当てられた方面では、陣頭に立ってる。
李世民は二勢力を同時に壊滅させたことをお忘れなく。
この人、息子の教育には悉く失敗してるな。
李承乾→素行不良で廃嫡
李泰→兄を蹴落とそうして、自分まで廃嫡される
李治→武則天に頭が上がらないヘタレ
李承乾は李世民が李泰ばかり可愛がるから廃嫡を恐れて蜂起した。
息子達に玄武門と同じ轍を踏ませてしまったわけだ。
李承乾は李世民の悪い部分ばかり受け継いでしまったってことか
息子はなおさらボンクラに見えるのだろう。
その分、貴族政治は長く続き、唐は早く滅亡したと思われる。
さぁ、どうだろうか。
簒奪したがるヤツと、皇帝を意のままにして、体制のもとで権勢を奮いたいという寄生虫なヤツとがいるからねぇ。
>>265
> 長孫無忌に簒奪されるのがオチじゃないか?
母ちゃんがどういった性格で、親族に対して、どのような扱いを旦那に求めたかは知ってるだろ?その辺のバランス感覚はあったでしょ。
たぶん、長孫無忌は幅をきかせない。
中国では皇帝でさえ自分自身が戦場に出ることも必要なんだよ
劉邦の陣頭指揮って、どの記述?
親征したのはどっかで聞いたが、陣頭指揮は初めて知った。
英布戦は前線まで出張ってて、矢傷を負ってしまうほどの苛烈な戦だったらしい
(結局、その怪我がもとで死んでしまうことになる)
戦下手なイメージがある人も多いと思うが
第一線であれだけ長い期間戦い続けられる王侯ってのも珍しいと思う
決着がつくまで、一回たりとも本拠地の関中に帰ってないんだから
案外、馬上の方が落ち着くタイプだったんだろうか?
宋の太祖、太宗の二人も南は曹彬他に任せたが北漢の時は出張ってるな。
統一戦の大事な局面だと自分でやろうとしない皇帝の方が少ない気もする。
最初のお方はお任せタイプだったけどw
>>272
宋太祖も太宗も、前線に出たけど、陣頭指揮はしていない。
そもそも親征だけなら、多くの皇帝がやってることだけど(統一間近とかそんなの関係なく) 矢石を冒しての陣頭指揮をやってるのは、珍しいと思う。あと、遠征を安心して任せられるのと、任すしかない(内政に追われて)という場合もある。
宋太祖の場合、即位当初から、遠征はほとんど部下に任せっきりで、例外が上党の李筠の
挙兵に対処したときと、南が落ち着いた後の北漢か。 上党戦は討伐軍が負けたんだからしょうがない。
この頃、内政も急務だし、統一の気運も高まっていて、好機だったわけだから同時進行しないといけなかったのだろう。 本来、趙匡胤なら陣頭に立ちまくっていそうなんだけどね。
出張るってのを陣頭指揮に限定してる人と親征含めて取ってる人とで微妙に話が食い違ってるよーな。
ま、劉邦なんかだと統一までの戦で陣頭指揮の決戦したら一発で死んでるよな。
相手アレだし。
でも、それだけだと思うよ、自ら兵の前に立って敵兵を斬る皇帝は。
皇帝になってからの陣頭指揮は、あまり褒められた行動でないかも。
皇帝に独裁権力が集中している以上、万一のことがあったら、国が大混乱に陥ってしまう危険がある。
>>281
だから普通は、まわりの臣が止めるし、自身もしないようになる。
皇帝となったとしても、実際には中国と認識されている地域を併呑していない場合、つまり、まだ地方軍閥のときであれば、皇帝でも陣頭指揮しなければ、将兵が従わない場合がある。 そういうときの姿は英姿だと思うな。
光武帝は誰よりも先に敵陣に切り込み、勇武を示し、後周世宗は自らの背を将兵に見せることで、無言の叱咤をする。
石虎? 知らんw
永楽帝はどうなん?
>>283
李世民も秦王時代なら前線に出張りまくりだな。高句麗では親征したにもかかわらず、惨敗だったが。親征は将兵の士気を高める意味で、重要なんだけど、親征して負けたときの反動もすごそうだね。
柴栄の場合、親征して負けそうになって、その状況を打開するために
随従していた文官が「こうなったら陛下みずから第一線に立つしかないですよ~」
と言って、最前線に送り出された経緯がある。
もちろん望むところだった柴栄は、甲を着込んで最前線で督戦したわけだ。ずいぶん危険な進言をするもんだけど、そのおかげで前線の兵たちの士気が爆発したってわけ。後方の将帥らも、自分らだけ安全なところに居ていいものか、と奮起したし。
その後も、馬を駆って敵陣に乗り入れたり、城壁ぎりぎりのところで指揮したり。はては500人程度しかない本陣を強襲されても、撃退したり。まぁ趙匡胤の奮戦が第一だけど、これは。皇帝としては軽率かもしれんが、こうでもしないとまとまらない時代だけに。敵に胸をそらし、味方に背をみせるって、かっこいいじゃろ。
いつも、思うのだけど、李世民の高句麗討伐って惨敗なの?
遼東も奪っているし、結構、敵軍も降伏させて、住民を奪っている。討伐は失敗だとしても、痛み分けか、勝敗つけるなら、判定勝ちのような気がするけど
>>293
三回の征旅に出て、目的を果せず、ただ物資を浪費したに終ったということで評価できないことになるんじゃないかな。
つまり、軍事を弄んだ、という話。
征服がなっても、本国の経済状況悪化を招けば、また無用の出兵という評価にもなる。
勝てばいいとか、そういう次元ではないよね。
その評価が正しいなら、失敗と言うべきで惨敗と言うのは不適当ってことか
>>295
あ、そうだね。
そもそもの問題点はそこだったか。はぐらかしちまったな。
たしかに、惨敗というほどでもないかもしらんが、三回やって三回失敗ってのは戦略的には惨敗と言っても良さそうだけどね。
4回やった隋は、そのあげくに国が崩壊したという先例もあることだし。
崩壊しなかったことを注視する必要もあるが、そもそもいくさを起こさなければ、もっと国内が安定できたのではないか、というあたりが批判の入りドコロだろう。現に魏徴にはダメって言われていたし。李靖も消極的反対意見だったし。
でも、惨敗って言い方はないような気がする。
曹操みたいに、敗北した上ですでに占領した土地を失っても、多くの人が『撤退に過ぎない』って言い張って、擁護されているのに。
もちろん、同じ人ではないだろうが、李世民だけ一方的に責めるのはどうかと思う。
>>298
別に一方的に責めちゃいないよ。
ただ、その失敗は回避したほうが良かったと思うもので、しかも3度の失敗は惨敗と呼ぶにふさわしいと思うのだけど、まぁ、その表現が過剰なら、撤回するにやぶさかではないよ。
そもそも自分は李世民ファンなんだが、その言い方だと、なんか自分が、敗北の一点をもって、李世民そのものを貶めている ように読めるが…?
>>301
>まぁ、その表現が過剰なら、撤回するにやぶさかではないよ。そもそも自分は李世民ファンなんだが、その言い方だとなんか自分が、敗北の一点をもって、李世民そのものを貶めているように読めるが…?
ごめん。そう読めたなら謝る。
ただ、この時代の専門書でも、結構、学者さんたちにもアンチ李世民はいて、この高句麗遠征失敗を『完全無欠気取りだが、手ひどい敗北』などと記述されていることが多く、 また、韓国の歴史書(『三国史記』は唐書の記述そのままなのに)でも、『圧倒的大勝利』なんて書いてあるので、つい、過剰反応してしまった。
この上のレスでも300の内容に書いてあるようなものもあるし、なんか、曹操だけ他スレでも、異様なまでに擁護されるのと差を感じて、疑問を感じただけ。あなたにぶつけた形になり、すまなかった。
自分も、あの高句麗遠征は無用だったのは同意。
基本的に李世民の「煬帝超え」願望と(上のレスでもあったが)親征による国内引き締めに起因すると思っている。ひょっとしたら、軍事能力の見せつけや、内政に飽きた李世民の気分転換もあったのかもしれない
>>301
李世民は曹操をもちあげるのに、かませになることが多いね。
他時代を比較するなんて、ほとんど意味ないのに。
ただ、より時代の希望の応えたかの比較なら、李世民>曹操になるだろうな
曹操は長い戦乱時代の原因者、李世民は終焉者の位置づけだろうから
>>302
まぁ、一瞬そう読めてしまったw
しかしながら『完全無欠気取りだが、手ひどい敗北』は、現実ですよ。
李世民はエエカッコシーだから、そういう皮肉もありでしょう。
でも、自分はそんなところだけで李世民をみてはいない。
ファンは必ず全肯定しなければいけないわけじゃないんです。
>>曹操は長い戦乱時代の原因者、李世民は終焉者
魏晋南北朝というひと括りの分裂時代の果てに、隋唐があるわけだから、まっとうな意見だね。
正確には、曹操が分裂、乱の起因というわけではないけど。
それにしても、曹操を持ち上げるひきあいが李世民って…かえって空しくならんのかね。
ちょっと待ってくれ。李世民の評価がどうかはひとそれぞれだけど
>曹操は長い戦乱時代の原因者
これはないだろう。
後漢末の戦乱の原因はどう考えても曹操にはない。彼はその混乱をある程度収束させた功績はある。その後の永嘉の乱から続く戦乱の原因は司馬氏だろう。
その永嘉の乱以降の遠因が曹操の政策だということと、混乱収束が「ある程度」で止まったことを指すんだろう
まるで全ての原因かのような言い方は間違いだと思うが、全て司馬氏のせいで曹操に問題がなかったと言うのも難しいと思う
そこは、曹操は国内最大勢力で、乱を収束できる可能性が一番高かった。
だが、できなかった。
ということで、魏晋南北朝という長い分裂期の、最初の分裂した一方の雄であり、当時、最大の権勢家として、302が起点に曹操を持ってきたのかと読んだ。
で、終点には、李世民をもってきたのかな、と思った。
原因という言い方は当たらんから、一応つっこんではいるけど。
302だが。
>曹操は長い戦乱時代の原因者
といったのは、305氏と306氏の内容の通りだよ。
曹操だけに原因があるのではないのは知っているけども。
時代をリードするものは、その時代全体に対する賞賛を受ける権利があると同時に、非難される義務があると思っている。
もちろん、色んな時代背景の違いはあるだろうけど、直前の漢王朝が長い統一政権を立てていたのを後継できず、分裂させたのはやはり、曹操の責任が大きいのじゃないかな。
劉備や孫権のせいにするのは負け犬の論理。司馬一族みたいな元家臣に責任をかぶせるのは英雄として、むしろ恥だろ。しょせん、個人論だけど
長孫無忌に唐を牛耳られ、李治が功臣排除のために、武照に主体性をとらせ、唐王朝の存続が危うくしてしまった責任の一端が李世民にあるのと同様、非難してもいいのではないかな?
>>311
曹操を後漢末の混乱をまとめ切れなかったとして避難するのはわかるんですが。
それでも彼には混乱した社会をある程度はまとめたという功績もあるわけで、原因としてしまうのはどうかと。
あといわゆる永嘉の乱以降南北朝にいたる混乱の原因は、やはり司馬氏にあると思いますよ。少なくともここまで曹操の責任にするのは無茶かと。
もう一つ、李世民を纏め上げたといってますが、それが天下統一のことをさしているのなら、その功績は厳密には李淵のものなのでは?世民はたしかに李淵の元で統一事業に最大の功績は樹ててますが、だからって李淵を無視するのはひいきがすぎると思います。
>>314
厳密と言えば、天下をおさめたのは隋の文帝になる。
でも、隋唐を取り扱う場合の考え方は継承路線でいくので、李世民の代で完成されたと見るのがいいのではないかと。
文帝から太宗の間の皇帝は治世が短いから。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食ふは徳川」
ではないけど、まぁそれに近いかな。
なんつうか、そう言ってしまうと
「そういう状況だったから」「そういう動きだったから」というのにまで、個人の責ばかりを要求するだけになってしまうと思うよ。
一個人の才覚がシステムを凌駕できるとは限らないわけだから。
秦漢型中央集権から貴族制への動きは曹操の責任ではないわけだし、関隴閥抜きにして李世民政権というか唐王朝の存立があるどうかもあるし。責任を原因と言い換えるなら、そういう見方もあるだろうねと言えるけど。
李淵→李建成 李世民→李承乾 李治→李忠、李弘、李賢
鮮卑としての習慣も関わっていたりするかな?