気になって纏めて見たんやが
色んな資料と照らし合わせすぎて
訳分からんくなって草
信憑性にかけるものが多くて憶測推測が入るけど
そこは堪忍してほしいやで
ニュース
蜀漢・昭烈皇帝
漢の中山靖王・劉勝の末裔とされる
黄巾の乱の際に挙兵し、その後多くの勢力を渡り歩く。
諸葛亮を軍師として迎えて雄飛し、益州・荊州を領して
漢中王、後に蜀漢の皇帝に昇った。
演義では仁徳の人として描かれる。
祖父に孝廉に推挙されて東郡范県の令となった劉雄
父に劉弘、叔父・劉子敬、親族・劉元起という者が居た。
劉備「いつか皇帝の車に乗ってやるで!!」
劉子敬「滅多な事を言うなや、一族が滅ぶで」
同居人、李定
「この家からは貴人が出るだろう」
先主伝・漢晋春秋より
劉備の学費を負担することを妻に問われた際に
劉元起「我が劉一門の中でも並みの子ではないからやで」
とまで言われる
この劉元起の子供と共に大儒学者・盧植に学んだときに
公孫賛と学友になり弟として彼と仲良くなる。
これを踏まえ洛陽等で色んな人間と交友関係を持った可能性があり
中には後に魏の将として活躍する牽招とも交友があったとされる。
盧植という
ビッグネームに学んだことが大きなステータスになり
以後、名士受けが良くなったのかもしれない。
当時の人物像に
喜怒哀楽を表情に出さずに寡黙な一方で
良く人にへりくだる事が出来た。
読書に励まず闘犬、乗馬、音楽、衣服に拘る生活をする
とあったのでコミュ力がありまくっていた模様。
【関羽・張飛との出会いと挙兵~徐州統治】
関羽や張飛とどのタイミングで出会ったか不明だが、
塩の商いをしていた関羽が交易ルートを通じて并州、幽州へ訪れ
劉備と出会った可能性が挙げられる。
商人の護衛や賊退治で評判を挙げ、それが大商人の耳に入る
(当時、義兵と言えど盗賊紛いが非常に多かったため、
信用のおける傭兵団はとても貴重な存在だった)
大商人の張世平・蘇双に支援を受けて、
関羽、張飛、簡雍、田豫らと挙兵が初陣。
この2人から大金を預けられる以前から
徒党自体は組んでいた模様。
商人と地域の用心棒から挙兵に至ったのは184年
黄巾の乱後は安喜県の尉になっているので
少なからず戦功は挙げた模様
督郵をフルボッコにして印綬を投げ捨てる
→演義では張飛がやる。
その後何進の命を受けた?丘穀に従って
丹楊に向かう途中で賊を撃破して戦功を挙げる。
横から茶々入れたらうるさいか
>>7
ええで、ワイも信憑性高い情報知りたいし
とりあえずはってくわ
サンガツ
関羽の塩商人は民間の伝説やで
一族はそうじゃないってことやろ
せやね、母方は貧しいが、親族は裕福な方だったみたいやね
塩密売はあくまで推測やないか
?丘殻との遠征は桃園の前やないか
うーんわからんw
>>11
そこ事細かに分からんかったんよなぁ…
遠征に関しても前後関係が良く分からん
塩に関しては
関羽自身が商売に携わってたのか塩商人関係を
護衛してたとか説もあったがマジで分からん
>>15
桃園の誓いに関しては
演義のものと判断することにしたで
義兄弟の誓いは何らかの形でしたんちゃうか?
もうそこは想像するしかない
霊帝死後は曹操と反董卓の兵を挙げる
→演義では黄巾の乱で出会うが、初対面はこのタイミング。
先主伝・英雄記より
(217年魏の侍中・王粲が編集)
冀州の高唐の県令になり、二袁の争いが本格化すると
袁術派に近い公孫賛の別働隊長として袁紹と戦い
戦功を挙げて平原の相に昇進
192年
黄巾賊の管亥に包囲された孔融の救援として
大史慈の要請に応えて三千の兵を派遣、管亥を撃退。
193年
曹操が陶謙を攻めると
田楷に従って私兵一千と烏丸騎兵を率いて救援に向かう。
途中で流民を組み入れて大軍に見せかけて徐州を救援、
大敗後は陶謙に代わって曹操・袁紹の軍と戦う
陶謙は強兵で知られる丹楊兵四千を劉備に預け、
曹操が兵糧不足で退却した後も手元に留めている。
その後、予州刺史となる
→袁術派の公孫賛陣営から離れようとしていた
(公孫賛が劉虞を殺して衰退の道を辿っていた為。
小沛に駐屯。
ここらへんで陳到、一時的に陳羣も配下に加える
(名士が仕える、孔融辺りの繋がりを匂わせる)
徐州統治後には
当代屈指の学者・鄭玄から孫乾を預かっていることから
名士の中でかなり深い関わりがあった模様。
194年
曹操侵攻
→劉備・曹豹が対抗するも撃破される
→曹操は呂布・陳宮が叛乱したので退却。
陶謙危篤
陳珪・陳登親子が劉備を説得。
陳登の叔父は揚州刺史だったが
袁術と争って地位を追われてる
弟も袁術に捕まって脅迫されていたので
アンチ袁術派だったと推測。
陳羣
「え?徐州を治めるんですか?
袁術と戦うはめになるし呂布に背後を突かれますよ?」
と反対。
名将で梟雄と思えてくる
梟雄って言葉は合ってるわ
だんだん徐州に入った後にその片鱗を見せてくる
陶謙
「劉備でなければ徐州を安定させることはできない」
糜竺に対し、先主伝
袁紹
「劉備は度量ある立派な人物で信義がある。
徐州が彼を迎えるのは私の希望に沿った事だ」
陳登の使者への返答 献帝春秋より
孔融
「袁術のボケなんか気にしないで
民に支持されている君の様な有能な物が徐州を継ぐべきだ」
陳登
「傑出した雄姿、王覇の才略を持っている劉玄徳を尊敬している」
陳矯伝より とめっちゃ評価される。
この辺りで袁術派から袁紹派に鞍替えしたっぽい
→袁譚を茂才に推挙し、袁紹との結びつきを図る
→人物を推挙できるくらい声望のはあった模様
呂布を招き入れる、戦力補充のためか。
最初の張世平のときか
逃亡して公孫賛に逃げたときか
大商人2人のバックアップで募兵した可能性は大いにあるな
商人のお金のおかげで人を集められたと
蜀書にあるからそれやな
てか大商人の目に留まるくらい
その時点で評判が高かったんやろな
恐らくね
【徐州失陥~袁紹の元へ】
196年
袁術北進(袁術は孫策を使って江東へ勢力拡大)
曹操と通じて鎮東将軍の官位を得て、劉備は淮陰で袁術と戦う
一ヶ月後、袁術と組んだ呂布が寝返り本拠陥落
→結果的に劉備は徐州を捨てている
陳宮ら「劉備を手懐けるのは無理ですわ、殺しましょう」
と呂布に進言するも却下される。
袁術「呂布将軍には3つの功績があるで」
1、董卓を討って一族の仇を討ってくれたことで私の恥を防いだこと
2、曹操の本拠地を撃破して再起の時間を稼いでくれたこと
3、劉備とか言う田舎者を討つ手助けをしてくれたこと
袁術が呂布に送った手紙
袁術
「流石は呂将軍や!見返りで十万石の兵糧、武具を贈って迎えに参上するで!」
→されない(孫策の独立が関係か
呂布「劉備を罵倒する文書書いてや」
袁渙「は?嫌や」
呂布「ええから書けや!(武器ツキツケー」
袁渙「は?他人を辱めるのは文書ではなく
その人の徳が高ければ対立する者が辱められるんやで」
呂布「」
劉備の軍は四散したが、この兵を集めると呂布に降伏、
なぜか殺されずに小沛に駐屯させられる
→呂布が徐州刺史
徐州での声望があり
袁術と互角に戦う名将で多くの兵を抱えていることから
敵だらけの呂布の立場を読んで自分を売ったのか(信憑性は薄
泰山の臧覇が敵に回る恐れがあったことも関係か。
袁術、紀霊に三万の兵で劉備攻め開始
呂布「アカン、袁術派の包囲網に囲まれる」
といって急行
呂布「ワイ、戦嫌いやねん」
紀霊「は?」
劉備「は?(サンキューリョッフ)」
→戟を弓で射て仲裁
呂布に本拠取られる
→降伏
の流れの身の振り方は大博打レベル
普通やったら殺されてるが
ここら辺の駆け引きはすごい
すでに声望の高かった劉備を殺せば
この二の舞になるのを呂布が考慮したのかしてないのかは分からんが
陸戦指揮官としても有能だった劉備は
ちゃっかり前線の小沛に配置されている
海西で麋竺に支援されて回復しとるし
転任先小沛でも一万手にして呂布にビビられてるし
力関係は同等?
確かに和睦ってのもしっくりくるな
声望的には劉備が上なんよな
戦力的にも利用されたってのが正しいのかも
下手なことはできん
198年劉備の元に兵が集まり始めると呂布が劉備を攻める
(曹操と劉備に密約があった事が浮上)
ゲリラ戦で呂布の馬購入を阻む
→呂布ブチ切れて高順・張遼派遣
夏侯惇が援軍に来るが防戦の末敗走
このタイミングで曹操が本体(青洲兵)を率いて呂布攻め
呂布本隊を二度撃破し下ヒまで侵攻
荀攸・郭嘉の策で内応&水攻め
→呂布捕縛
呂布「曹操ニキが歩兵、俺が騎兵を率いれば最強やで!!」
劉備「は?どうせこいつ裏切るで」
呂布「こいつが一番信用ならんで!!」
→呂布処刑
劉備、曹操から左将軍に任ぜられ厚遇されまくる。
挙兵から約15年で
大・車騎・驃騎・衛将軍に次ぐ四方将軍に昇進。
この時点で後漢の高官としてすげえ偉い地位に。
曹操参謀陣は袁術征伐に劉備を派遣することに猛反対
程昱
「劉備はずば抜けた才能を持っている上に
人心を掴んでいて人の下にいる人物じゃないで
早く殺すべきや。なんで殺さんのか理解できん
あいつに兵を貸せば絶対裏切る」
郭嘉
「気持ちは分かるけど殿を頼ってきた劉備を殺したら
他の名士は去っちゃうで、止めた方が良いで、今は」
「劉備を自由にしたら碌なことないですよ」
袁術征伐の時
「袁紹は迅速では無いで
挙兵したてで人心を掌握していない劉備を殺しましょう
あいつの謀反は軍存亡の危機やで」
→袁紹は動いたが、于禁楽進が撃退
董昭
「劉備は勇敢で野望を持ち、
関羽・張飛とかいう支えがあるんや。
奴の心について判断を下すのは早計や」
曹操「うーん、却下!!」
どっちもどの口がいうんやって感じで
結局袁術討伐に行かせる
(ここで車騎将軍・董承と曹操誅殺の密議があった可能性が。)
董承は擁立時に
袁術と組んで曹洪の軍と交戦している
政治的対立が曹操とあった
(ちなみに董承・伏完は外戚 ぶっちゃけ忠臣とは言い難い)
結果的に劉備は都を出る。
袁術軍は劉備と戦う前に病死、軍は四散
朱霊らと別れた後
徐州で車冑を討ち徐州の大半を占拠、
昌豨もこれに呼応し数万の軍隊になる
昌豨は事あるごとに反逆しまくり、曹操が15回程攻めたが
最終的には屈服させられなかったほどの面倒くさい武将
于禁の旧友。
糜竺・糜芳が合流、陳登、臧覇は静観
陳登は曹操派、このとき孫策が南に攻めてきており
劉備討伐どころではなかった。
董承一派処刑&官渡で袁紹と対峙中
劉岱(皇族の劉岱とは別人)・王忠を瞬殺。
劉備
「お前らなんざ相手にならんわ!
曹操が来るなら分からんけどなガハハ!!」
献帝春秋出典(この発言は信憑性が薄
曹操「来たで~」
劉備「ヒエッ…」
劉備軍は崩壊し関羽が捕虜に。
なお劉備は曹操本隊が来たと知った瞬間に兵士を見捨てて逃走。
魏書より
家族が捕虜(三回目くらい)
やっぱ評価は高かったんやなって
声望もさることながら長男の袁譚を官位に推挙してる
袁家と関わる為に根回ししてるんやわこの男
袁紹は徐州に援軍を出してたが
この好機には動かず、郭嘉の言うとおりに。
劉備は袁紹のもとへ、青洲の袁譚がこれを迎えて歓迎し、
袁紹本人も?から200里先で出迎える。
(徐州を継いでからここまでブレずに袁紹重視だったともいえる、
徐州を起点にする関係上曹操と接近したが)
ちなみに師匠の盧植も最後は袁紹のところにいた
ここらへんで趙雲合流、独自に募兵もしている
袁紹進軍、文醜と共に劉備は騎兵を率いて出陣、
文醜が荀攸の策で戦死すると撤退し、今度は進軍を任される。
袁紹は袁氏の本拠、汝南へ劉備を派遣し元黄巾賊の劉辟と連携し後方撹乱する。
曹操は満寵や李通らを派遣し鎮圧に出る、
劉備は許都周辺で転戦、袁氏の支持者は満寵が鎮圧したが
劉備対策に曹仁を本隊から派遣し、劉備を撃退する。
関羽と合流し、一度袁紹の元へ戻った後
もう一度汝南へむかうが袁紹から離脱している。
劉備「劉表使おうや」と訴えるが
とうの劉表は曹操と組んだ長沙の張羨、桓階の鎮圧で動けず
(夏侯惇が謀反を起こさせたとの説もある
劉備、関羽、張飛、趙雲らを率いて汝南に駐屯
規模一千あまり、曹操は蔡陽を派遣するも撃破される
→蔡陽戦死
曹操は袁紹を退けたあと汝南に向かうも
この時すでに糜竺・孫乾を劉表のもとへ向かわせ
戦わずに荊州へさっさと逃走。
劉表の客将として約三年間最前線を守る。
劉備、関羽、張飛、趙雲他にも将軍クラスおるやつらの一千には
5000くらい出さんとヤバイやろ指揮官戦死してるし
加えて劉辟もおったようやしな
劉辟おったんか
その前の曹仁戦のときにやられたかと思った
蒼天の描写だと曹仁戦で死んでるが詳細不明やった
その前後で死んでる臭い
今後を左右してくる
劉備も中年太りする年やね
40代半ばやもんな