約140年前の明治時代、人口日本一だった県とは?
第1回日本帝国統計年鑑をもとに、今から約140年前、1880年の日本の府県別人口を見ていこう。人口が多い順にランキングしてみると、現在とは異なる意外な顔ぶれが上位に集まった。
● 1880年の人口日本一は石川県 2位新潟、3位愛媛
府県別の人口順位のデータを見ると大抵の人は驚く。現在の人口順位とは余りにも違い過ぎるのだ。1位は石川県、2位新潟県、3位愛媛県というように、現在は決して人口が多いとはいえない県が、上位にランクされているからである。
このデータを見て「おやっ!」と思うかもしれない。最下位の北海道が40位だからだ。現在の行政区分は47都道府県なので、47位であってもよさそうなものだが、富山、福井、奈良、鳥取、香川、徳島、佐賀、宮崎の8県が載っていない。堺県という現在では存在しない県がある。この人口統計が行われた当時、日本の行政区分は沖縄を加えて3府36県、北海道は開拓使が管轄していた時代だったのだ。
行政区分が当時と現在では大きく異なっていたということは別にして、明治時代の日本は純然たる農業国で、農村で人手を必要としていたのである。したがって、都市部に比べ農村部の人口が比較的多かった。当時、石川県は現在の富山県と福井県(若狭を除く)も管轄していたが、それを割り引いたとしても、石川県が日本で一番人口が多かったというのは意外だろう。北陸は日本有数の米どころ、農業が盛んな地域だったというのが人口の多かった最大の理由である。2位の新潟県も米の一大生産地だった。
それに対して、東京府はわずか95.7万人で17位、大阪府はそれよりも少ない58.3万人で34位と下位にランクされている。当時の東京府は現在の特別区(23区)を領域とする非常に面積の狭い地域だったのだ。現在は日本の政治経済文化の中心地として人口が密集する東京だが、当時は都心部を除けば、のどかな田園風景が広がっていた。東京23区の人口は、現在では900万人を突破しているので、当時と比べれば10倍近い増加率である。大阪府の人口が少なかったのも、東京府と事情はよく似ている。
このように、農業を主産業としていたわが国は、農村地帯に比べ都市部の人口がそれほど多くはなかった。わが国の産業が次第に発展していくのにともない、人が農村から都市へ、地方から大都市圏へ移動していったのである。
人間って基本的に美味いもんが有るとこに集まるんだなあ
イギリス人「せやな」
2位の新潟県も米の一大生産地だった。
だった?
今は米の作付面積日本一です!
>>1
>それに対して、東京府はわずか95.7万人で17位、
参勤交代が無くなって江戸詰めの藩士達とその家族が去った結果、そのぶん人口が減少したのよな
江戸詰め藩士向けの商売とかも無くなってそれに従事してた人達も去っただろうし
江戸の繁栄と世界屈指の大都市化の維持は参勤交代によるところが大きかったのがよくわかる
地方と江戸を絶えず人が大規模に往来することによって、文化も伝播の役割も果たしていたしな
でも面積考えたら十分都会だけどね。
>>1の表は面積も併記した方が分かりやすい。
>>1
当然だろ、なんら不思議でもなんでもない。
昔は生きるために必要な労力は人間であるのにその寿命は短い、
だから子供は宝とされ、多ければ多い程生き残る人数が増え、
農作物を含む色々なモノの生産力になっていた、
だから地方程子供が多く人も多かった、
今の時代は生産に人は多く要らないから漁夫の利を得るために都会に集まっているだけだからね。
東京は23区に戻そう
石川福井富山も合併
若狭は滋賀県に編入
多摩県作ったら400万人いるからな
なぜ鹿児島が多い?
あそこ6公4民で年貢取られて50%が武士、
江戸から明治までは農業といえばサツマイモしかねえのに
ほぼ独立国として貿易外交してたからな
石川、新潟に関しては浄土真宗の信者が多かったため、口減らしをしなかったことも人口が多い理由。
あんま関係ない
一向宗が加賀国に多くなって
そこから本願寺からの一揆おこせって蓮如の命令で加賀国一揆がおきた
国一揆は最大のものにつける名前だがこれにより加賀国は一向宗が占領して宗教独裁国家となり、
石山本願寺にたんまり貢ぐようになった
サヨが「日本に民主主義があった!」ってのこれで
なんのこたない。
一向宗が本願寺の以降で開拓寄進して荘園増やすのが功徳だったから。
無論秀吉が石山本願寺城を落城させて大坂城作ったときに
攻め込んで壊滅させた
そして加賀は信長子飼いの前田にあげた
以降は北回りで大坂にコメを送る補給地になった
>そこから本願寺からの一揆おこせって蓮如の命令で加賀国一揆がおきた
テキトーな事を言わないように。
蓮如は一揆を寧ろ諫めて、出した手紙が「お叱りの御文章(御文)」として今に伝わる。
「王法は額にあてよ、仏法は内心に深く蓄えよ」
「王法為本」王法=世法を守ることが仏法を極める基本。
と繰り返し言っている。
それは建前で実際は違う!と言うならそれまでだが。
まぁ東京は仕方ない。
東京都と東京府では面積が倍ほど違う。
大阪の方がもっと少ないじゃん
そんな下位なのか
堺県とかいうのがあったからな
今の大阪府堺市+奈良県な
>>6
当時、現在の奈良県と大阪の堺市が合併する形で堺県が存在していた
合併することで奈良は一度消滅することになった
そのせいで奈良は天皇が住み首都である歴史があったのに「府」を名乗ることができなくなり今に至る
奈良前提にしてるけど堺府で良かったんではないのか?
堺に単独で都があった歴史がないので府としては認められない
「府」って過去に都があった場所ってことが条件なの!?
知らなかったけどマジ?
嘘だよ。
ex.度会府、越後府、長崎府
奈良が県に落ちたのは例に挙げた府と一緒で単に田舎だっただけ。
幕府の奉行が置かれてた場所が「府」とされた
だから、函館や長崎、奈良や下田なんかも一時的には「府」にされてる
加賀藩はいまの石川県だけじゃない
県になってたけどその区割りを継承してたのだろ
加賀100万石は、越中、越前、能登を含むから。
海運が盛んだった時代は日本海側が潤ったりもしていた
>>7
1,米どころであること
雪が多いことをマイナスに捉えてそんな土地に住むなとかいうやつがいるが
雪は天然のダムであり豪雪地帯は巨大なダムを持ってるに等しい。
水稲稲作には水は必須だからな。
2,北回り船の中心地だったこと。
物流は船であり、太平洋岸は航海にあまり適していなかった。
北海道から俵物の海産物を「輸入」し、年貢米を大阪へ運び、逆のルートで
様々なものを運んだ。
瀬戸内海から日本海にかけて、港が多く人口も多い。
港の適地も多く、それは弥生時代からのことだな。
裏日本なんて名前をだれが付けたのか知らんが、
日本海沿岸は表だった。
旅行に行ったが魚も野菜も美味かったな
前田家の武家文化や茶道が盛んだったから和菓子のレベルも高い
冬の日照時間が短いというのはあるが住むにはいい所そうだ
瀬戸内海とか
毛利家があったからな。
>>28
広島7位 山口21位
その割には山口イマイチで広島
頑張ってる 多分江戸時代も広島の方が人口多かったけど、毛利家はもともと広島出身だし広島を優遇したんだろうか? 明治維新がエライのは
植民地にならないように速攻で国
を発展させなければいけない→
地元にたいした利益還元せずに、効率考えると東京を発展させようとしたこと
それを考えたら、広島にそんなに利益誘導てのは多分無いとみたけど
でも毛利家は海軍利権を取り、長州
出身者は出世しやすかったんだっけか?
政府高官が中央で発言力を得るために国のために地元へ無理をさせたのが長州閥
地元を優遇するために中央で権力を行使したのが薩摩閥
結果、国が発展して長州閥高官が優位にたった
マジレスすると当時は今の島根県+鳥取県なので数字としては今のほうが多い
今は人口減少しているけど減少数としては多くないんだよね
まあ増加も少なかったけどね…
そういや戦前は朝鮮と連絡船のある新潟港の活気がすごかったとか。
朝鮮も日本と満州をつなぐ大動脈になってたそうなので
日本・朝鮮・満州が今に続くなら、朝鮮半島は今以上に発展したかもな。
うん、戦前の新潟は大陸往来の玄関で繁盛した。
さらに江戸時代より前の時代から日本海沿岸の
貿易圏があったんだよ。
福岡じゃないんだね、それが意外
福岡だと本州への輸送で二度手間になるからね
なるほど
黒船来た頃は200人くらいの漁村から、いまや400万近くになったんだから
横浜は戦後の伸びが大きい。比率から言えば札幌。戦前までは神戸と思われていた。神戸は江戸時代の寒村が第1回国勢調査(1920)には、東京、大阪に次ぎ、全国3位。
日本の深センだな。
横浜神戸は
海外からのバリケードにするつもりが
オシャレな街として栄えてしまった
日本政府側の思惑が外れた
東京は90万なの?何故減る
江戸のは最大瞬間風速人口
参勤交代があったから
定住人口はがっつり下がる
>>45
参勤交代がなくなったから、江戸100万の半分を占めた武家のうちの
大名屋敷がなくなってみんな地元に帰ったからだよ。
京都から天皇を引っ張り込んで公家を連れてきて
大名の家族を連れてきたけど、及ばなかった。
参勤交代は行軍であると言ってたけど、
まさに軍勢を率いて江戸の防衛をしてたわけで。
無駄なことと言えばものすごい無駄だったけど、
そのおかげで日本全国に情報が行き渡ったわけだ。
街道が整備され(各地の藩は道路の整備の責任があった)
宿場が整備され(参勤交代以外では庶民も泊まれるから)
日本全国庶民も交流が可能だった。
厳しい関所で他所へ行けないなんてのは嘘っぱちでw
藩の中から出ることを許されないなんてのも嘘っぱちだ。
お伊勢参りや、全国の温泉、各地の寺社仏閣、西国巡礼
四国巡礼、熊野詣・・庶民もあちこちにでかけていた。
疎開にしてもよくわからん
工業化が進んで西日本各地や朝鮮半島からの流入
昭和半ばまでは本社大阪の企業多かったから
比較的温暖で水田が拡がる地域は食糧が豊富ってことだな
日本が没落するとこんな感じで地方へ回帰するんだろう
この頃の越後平野は信濃川の分水が出来ていないから、年がら年中洪水が起こってた様な土地だけどな。
収量はともかく米の質も悪くて、いま思われてる様な米どころではなかったりする。
新潟が今の様な米どころになったのは、コシヒカリの栽培法が確立して穀物乾燥機が普及してからの話だったりする。
食料は不可欠なのだから他の産業が農業を支える政策は正しい。
国力とはすなわち食糧力なり
自給率が低い国は必ず負ける
長崎も福岡より10万人も多い
これがゾンビランドサガでやってた佐賀が無くなった時代か
長崎は出島で有名だし
海外と日本との交流の場所
アメリカとつきあいがないから、どうしても日本海側が栄えるわな
出雲王朝なんてそれだろ
>>79
東北の人口が多けりゃ必死になんとかしただろうけどね。
まあ、関東以北の太平洋側は、ヤマセがあったり水不足で
米があまり作れず、面積と大平野のわりに人口維持能力は低かったんだよ。
津波もあるしな。
山陰地方、新潟が山の上まで苦労して膨大なエネルギー使って
棚田を作ってるのは、雪のダムによる水があるから。
ここらあたりは、麦やヒエに差し出す無駄な農地はなかった。
水があるから棚田を作って米を作った。
安芸門徒は間引きをしなかったからか
備後も広島にしちゃったからだろ
なんで福山を広島にしたんやろな
歴史的にみて完全に岡山やのに
そういうのって全国にいくつもあるんじゃね
北九州から中津宇佐までに至る地域は豊前国として千年以上一つの国だったけど
明治政府により福岡県と大分県に分断されてしまった
広島藩と福山藩に分かれていた備後国が
明治政府によって広島県に統合されたのでそれとは逆のパターン
>>713
長くなるけどまとめてみた
もともと小田県51万石は山口県53万石、旧岡山県42万石、旧広島県49万石と遜色ない規模だったが
福山藩は幕末の経緯により明治政府から睨まれていたせいで
天領であった備後国の笠岡に小田県庁がおかれてしまうなど不遇だった
まず岡山県に取り込まれたのは武一騒動の影響で小田県の地租改正?が難航していたせい
そこで岡山県令の高崎五六の強引な手法によって地租改正を推し進めるために併合した
備後地域が広島県に編入されたのは諸説あるが江戸時代から続く神辺の境界争い説を推したい
岡山県に編入されても折り合いが悪い地域を
広島藩主浅野長勲の弟が最後の福山藩主・阿部正桓として家名を保っていた縁で広島県が救済したというもの
なお広島県も境界争いにおいて甲島を巡って山口県と喧嘩している
へ~ 面白いな
特に
「広島藩主浅野長勲の弟が最後の福山藩主・阿部正桓として家名を保っていた縁で広島県が救済した」
このくだり
愛媛、鹿児島、高知も多かった時期があったんだな
愛媛は香川 鹿児島は宮崎 高知は徳島 を抱えてたから
昔の行政区分で良いよね、無駄に政治家と役人が多すぎる
米が貨幣の代わりじゃなくなったから?
薩長に嫌われてるところは没落したんじゃないの?
国が太平洋ベルト地帯の工業化を促進したから
その他の地域からベルト地帯へと人が流れた
金沢は戦争被害が殆ど無くて戦後復興の財政投入が抑えられたとかなんとか
明治4年だか7年に7人だったというのは本で読んだ
それより千葉の方が多かったのは知らなかった
千葉は古代からずっと人口の集積地だよ
江戸時代中頃だと、現在の都道府県単位で換算すると全国3位規模