よかったら見ていってください
ホウ統、字士元、襄陽人也。少時樸鈍、未有識者。
ホウ統、字を士元は、襄陽の人である。若い頃は質朴で明敏でなく、まだ(彼を)知っている者はなかった。
潁川司馬徽、清雅、有知人鑑。統、弱冠往見徽、徽採桑於樹上、坐統在樹下共語自昼至夜。
潁川の司馬徽は、清雅で、人物を見分けることができた。ホウ統は、弱冠(20歳)のとき司馬徽に会いに行くと、司馬徽は木の上で桑を取っていたので、?統は木の下に座って昼から夜までともに語り合った。
徽甚異之、称統、当南州士之冠冕。由是漸顕。後、郡命為功曹。
司馬徽は彼をとても素晴らしいと思い、ホウ統は、南州の士の筆頭になると称賛した。それからだんだんと有名になった。後に、郡の命令で功曹となった。
性好人倫、勤於長養。毎所称述、多過其才、時人怪而問之、統答曰「当今天下大乱、雅道陵遅、善人少而悪人多。
生まれつき人倫を好み、(人を)育てることに努めた。称賛するたびに、その才能より過分に褒めたので、当時の人はおかしいと思って質問すると、ホウ統は答えた「まさに今は天下が大いに乱れ、正道はしだいに衰え、善人は少なく悪人は多い。
方欲興風俗、長道業。不美其譚、即声名不足慕企。不足慕企、而為善者少矣。今抜十失五、猶得其半、而可以崇邁世教、使有志者自勵。不亦可乎」
今は風俗をよくし、行いをよくしたい。話(評価)を飾ってやらねば、名声を求めようとしなくなるだろう。求めようとしなくなれば、善人は少なくなる。今十人を抜擢して五人がだめでも、まだ半分がおり、世に教化を広められ、志ある者に努力をさせられる。それもよいではないか」
司馬徽も好好先生って言って
なんでも肯定する人間だとかね
呉将周瑜、助先主取荊州、因領南郡太守。瑜卒、統送喪至呉。呉人多聞其名。
呉将の周瑜は、先主(劉備)を助けて荊州を取り、南郡太守を兼任した。周瑜が亡くなると、ホウ統は遺体を送って呉に行った。呉の人の多くは彼の名を知っていた。
なんで呉にいたんやろこいつ
功曹になって周瑜が南郡奪ったらそのままついてきた
劉備軍に移籍するときも同様
及当西還、並会昌門。陸勣、顧劭、全琮、皆往。統曰「陸子、可謂駑馬有逸足之力。顧子、可謂駑牛能負重致遠也」
(ホウ統が)西に帰るにおよんで、(呉の人は)昌門に集まった。陸勣、顧劭、全琮は、皆行った。ホウ統は言った「陸子(陸勣)は、駑馬だが俊足の力があるといえよう。顧子(顧劭)は、駑牛だが重いものを背負って遠くまで行けるといえよう」
謂全琮曰「卿、好施、慕名。有似汝南樊子昭。雖智力不多、亦一時之佳也」績劭謂統、曰「使天下太平、当與卿共料四海之士」深與統相結、而還。
全琮に言った「卿は、施しを好み、名声を慕っている。汝南の樊子昭に似ている。智力に富んではいないが、当代の良き人物だ」陸績と顧劭はホウ統に、言った「天下を太平にしたら、卿と四海の士を論じてみたいものです」深くホウ統と友誼を結んで、帰った。
先主領荊州、統以従事、守耒陽令。在県不治、免官。
先主が荊州を領有すると、ホウ統は従事として、耒陽の令となった。県にいても統治しなかったので、免官となった。
呉将魯粛、遺先主書曰「士元、非百里才也。使処、治中、別駕之任、始当展其驥足耳」諸葛亮亦言之於先主。
呉将魯粛は、先主に手紙を届けた「士元(統の字)は、百里の才ではありません。治中、別駕の任につかせてこそ、初めてその俊足を使えるのです」諸葛亮もまた先主にそう言った。
先主、見、與善譚、大器之。以為治中従事。親待、亜於諸葛亮。遂與亮並、為軍師中郎将。亮留鎮荊州、統随従入蜀。
先主は、(ホウ統に)会い、よく語り合って、彼を大器だと思った。治中従事とした。優待ぶりは、諸葛亮に次いだ。こうして諸葛亮と並んで、軍師中郎将となった。諸葛亮は荊州に留まって鎮守し、ホウ統は(先主に)随行して蜀に入った。
あくまでイッチ個人の予想で聴きたい
法正がいて仮に夷陵の戦いがなかったとしても
それほど影響はないんじゃないかな
ましてやホウ統がいても
どうなるものでもないが率直な感想や
劉璋の立ち位置について
史実では、劉璋の父焉が漢王朝の使者を殺し、独立して群雄となっている。劉備は同族の情など感じておらず、初めから土地を奪うつもりで入蜀している。
この三国演義との違いは念頭に置いてほしい。
具体的には同族の土地を奪うためらいがないので、ホウ統が大義と小義を説く場面がない、劉備が当初に劉璋を襲わなかった理由が違うなど。
ちなみに劉璋が劉備を引き入れた理由は張魯を討伐させて領土を広げ、曹操に備えようとしたから。
劉備が承諾した理由は法正らの「この機に蜀を奪え」との進言があったから。
益州牧劉璋、與先主会?、統進策曰「今因此会、便可執之。則将軍無用兵之労而坐定一州也」先主曰「初入他国、恩信未著、此不可也」
益州牧の劉璋が、先主と?で会見すると、ホウ統は献策した「今この会見で、ただちに彼を捕らえましょう。そうすれば将軍は兵を苦労させず座ったまま一州を定められます」先主は言った「他国に入ったばかりで、恩愛も信義も施しておらぬのに、してはならない」
さすがは流浪将軍やなって
流浪将軍か
そういわれれば劉備の経験からこの発言なのかもね
璋既還成都、先主当為璋北征漢中。統復説曰「陰選精兵、昼夜兼道、経襲成都。璋既不武、又素無預備。大軍卒至、一挙便定、此上計也。
劉璋が成都に帰り、先主は劉璋のために北のかた漢中を攻撃しようとした。ホウ統はふたたび言った「密かに精鋭を選び、昼夜兼行で、真っ直ぐと成都を襲いましょう。劉璋は軍事に疎く、また平素からの備えもありません。大軍がにわかに到着し、一気に平定するのが、上策です。
せやな
ホウ統は伝を読む限り
決断力に富んだ人、強硬派って感じや
楊懐、高沛、璋之名将、各仗彊兵、拠守関頭。聞、数有牋諫璋、使発遣将軍還荊州。将軍、未至、遣與相聞説荊州有急欲還救之、並使装束外作帰形。
楊懐、高沛は、劉璋の名将で、それぞれ強い兵をたのんで、関所で守備しております。聞けば、何度も手紙で劉璋を諌め、将軍を出発させて荊州に帰らせようとしたとか。
将軍は、到着しないうちに(=荊州に行かないで)、(人を)遣わして上聞し荊州に危急があるので帰還してそれを救いたいと言わせ、支度して帰るふりをしてください。
此二子既服将軍英名、又喜将軍之去、計必乗軽騎来見。将軍、因此執之、進取其兵乃向成都、此中計也。
この二子はすでに将軍の英名に敬服しており、また将軍が去られるのを喜んで、必ずや軽騎で会いに来るでしょう。将軍が、そこで彼らを捕らえ、進軍してその兵を奪って成都に向かうのが、中策です。
そうじゃなかったら
背後に控える楊懐らを名将呼ばわりせんわ
「名将」はその気持ちを込めてか
その視点面白い
あとは
「ワイの策で『名将』を討ち取るで!」
っていう誇張というか誇示かもな
それもありそうやな
退還白帝、連引荊州、徐還図之、此下計也。若沈吟不去、将致大困。不可久矣」
撤退して白帝に戻り、そのまま荊州に撤退し、徐々に戻りながら攻略しようとするのは、下策です。もし悩んで去ろうとしなければ、大きな問題が起こりましょう。引き延ばしてはなりません」
先主然其中計、即斬懐沛、還向成都、所過輒克。於?、大会置酒作楽、謂統曰「今日之会、可謂楽矣」統曰「伐人之国而以為歓、非仁者之兵也」
先主は中策をよしとして、すぐに楊懐高沛を斬り、引き返して成都に向かい、通過する所で勝利した。?で、大いに会して酒を用意し楽しむと、?統に言った「今日の会は、楽しいものだ」ホウ統は言った「人の国を攻めて喜ぶのは、仁者の軍ではありません」
先主酔、怒曰「武王、伐紂、前歌後舞。非仁者邪?卿言不当、宜速起出」於是、統逡巡引退。
先主は酔っていて、怒った「武王が、紂を討伐すると(※)歌いも舞いもあったではないか。それも仁者ではないと?卿の言葉は不当だ、すぐに出てゆくがよい」そこで、ホウ統はためらったが退出した。
※周の武王が殷の紂王を討伐した故事に基づく
紂王は夏の桀と並び悪人で有名
あとでワイのランキング作ってみる
みんなでやったも面白そう
孔明
ホウ統
法正
黄権
が順当やな
軍師としてなら
法正>ホウ統>孔明>>>>>黄権
先主、尋悔、請還。統、復故位、初不顧謝、飲食自若。先主謂曰「向者之論、阿誰為失?」統対曰「君臣、?失」先主大笑、宴楽如初。
先主は、すぐに後悔し、戻らせた。ホウ統は、元の席に戻ると、初めから謝罪せず、飲み食いして平然としていた。先主は言った「先ほどの議論は、誰が間違っていたのであろうか?」ホウ統は答えた「君臣が、ともに間違っておりました」先主は大いに笑い、酒宴の楽しみは初めのようだった。
素直な君臣ええぞ^~
進囲?県、統率衆攻城、為流矢所中、卒、時年三十六。先主痛惜、言則流涕。拝統父、議郎、遷諫議大夫。諸葛亮親為之拝。追賜統爵関内侯、諡曰靖侯。
進軍して?県を囲み、ホウ統は兵を率いて城を攻め、流れ矢に当たり、亡くなり、時に三十六歳であった。先主は痛惜し、話すたびに涙を流した。ホウ統の父を、議郎とし、諫議大夫に昇進させた。諸葛亮は彼のために自ら任命を行った。ホウ統に関内侯の爵位を追贈し、靖侯と諡した。
統子宏、字巨師、剛、簡、有臧否。軽傲尚書令陳?、為?所抑、卒於?陵太守。統弟林、以荊州治中従事、参鎮北将軍黄権征呉、値軍敗、随権入魏、魏封列侯、至鉅鹿太守。
ホウ統の子の宏は、字を巨師といい、剛直で、簡素で、批評を好んだ。尚書令陳?を軽んじて傲慢になったため、陳?に抑えつけられ、?陵太守で亡くなった。
ホウ統の弟の林は、荊州の治中従事として、鎮北将軍黄権の呉征伐に加わり、敗北したため、黄権に従って魏に入り、魏に列侯に封じられ、鉅鹿太守にまでなった。
不運としか言いようがない
(´;ω;`)
高島俊夫先生の説やろ?
気になって調べてみたことあるんだけど
雨のように降る矢にしては
生存率高くて違うんじゃないかがワイの結論
そうなんか
ずっと回避不能だと思ってた
評曰。ホウ統、雅好人流、経学思謀。于時荊楚、謂之高俊。法正、著見成敗、有奇画策算。然、不以徳素称也。?之魏臣、統其荀彧之仲叔、正其程郭之儔儷邪。
評にいう。ホウ統は、人物評価を好み、経学と謀略に長けていた。当時の荊楚の人は、彼を俊才と言っていた。法正は、成功と失敗をよく見極め、優れた計画や策謀を有していた。しかし、徳については称賛されなかった。
これを魏の臣でたとえるなら、ホウ統は荀彧の兄弟、法正は程郭(程昱・郭嘉)のともがらであろうか。
大差なかったんじゃないかと思うが
北伐で有利になった可能性もあるし
どうなんやろ
夷陵がなかったら
蜀晩年の人材難もマシやったやろ
蜀の未来を担う中堅大将と数万の兵士がこんがりやからね
でも荊州出身者をつなぎとめるには必要やったろうし、うーん
演義は孔明のためにある小説だからしゃーない