近世

【インド】ムガール帝国【バーブル】

2021年1月13日

1: 名無し 2019/05/05(日) 23:13:16.40 0
過去において、インドが最も輝いた時代を語る

2: 名無し 2019/05/06(月) 00:19:18.68 0
決して無能では無いはずなのに死ぬほど小物臭いフマーユーン好き

4: 名無し 2019/05/06(月) 02:33:27.24 0
>>2
短命政権が続いたデリースルタン諸王朝のあと、ムガール帝国も2代目フマーユーンで崩壊して、同じ流れになりかけたんだが

あの状況からカムバックして王朝を再興した例など、世界的にも稀な奇跡だろう

日本史に例えれば、大坂夏の陣に敗れた豊臣秀頼が明に亡命して、15年後に戻ってきて徳川家光を打倒し、豊臣の世を再興するのに相当する

12: 名無し 2019/05/06(月) 19:34:01.90 0
>>4
その場合徳川幕府がスール朝に相当するわけだが、スール朝も二代目三代目がしっかりしてれば、もっと長く続いたのかも!?

13: 名無し 2019/05/07(火) 09:07:52.41 0
>>4
台湾に逃げた鄭成功や蒋介石が大陸反攻実現したようなもんか?

14: 名無し 2019/05/07(火) 18:37:01.57 0
>>13
しかも、日本人を大勢ひきつれて大陸に乗り込んだため、シナの日本化が一気に進むという

3: 名無し 2019/05/06(月) 01:59:19.31 0
支配者はペルシア人やし
国の由来としてはモンゴルのハーン国やし

5: 名無し 2019/05/06(月) 02:42:21.93 0
亡命生活の間に、すっかりペルシャ文化に染まったフマーユーン

大勢のペルシャ文化人を引き連れてデリーに帰還したため、その後のインドは、ペルシャ文化の影響を強く受けて大きく変化した

7: 名無し 2019/05/06(月) 07:37:29.47 0
ペルシア文化はヨーロッパでいえばフランス文化みたいな位置づけだな

8: 名無し 2019/05/06(月) 09:23:17.33 0
近世アジアの3大帝国のひとつなのに、日本ではあまり関心が無いよね。仏教国でないし。
ヒンズー教を弾圧したしインドでも人気が無い。

9: 名無し 2019/05/06(月) 09:41:17.16 0
インド文化に傾倒してヒンドゥー教との融和を図った第3代アクバル帝は、インドで評価が高い

逆に、狂信的なイスラーム信者で、ヒンドゥー教を弾圧した第6代アウラングゼーブは、インドでは評判が悪いが、パキスタンでは高く評価されている

10: 名無し 2019/05/06(月) 13:51:48.87 0
アウラングゼーブも真の無能ならまだマシだったが、こと軍事に関してはそれなりに有能なのがまた不幸だった
版図だけでいえばインド史上2~3番目まで拡大させたはずだが、財政破綻と憎悪で内部はボロボロな状態に
基本戦略が間違っているのに中途半端に有能で邁進できてしまうと国を滅ぼすっていう一例だな

11: 名無し 2019/05/06(月) 17:20:25.15 0
ムガール皇帝の肖像画をみると、頭の後ろに金色の光輪が
描かれていたりするけど、イスラーム的にはアウトじゃね?

15: 名無し 2019/05/07(火) 18:43:15.32 0
>>11
それ以前に、ペルシャで人物画のミニアチュールが発達した時点でイスラム的には微妙

16: 名無し 2019/05/07(火) 18:43:59.08 0
ペルシャ細密画は、ササン朝ペルシャの美術品の流れを受けつぐ細密画(ミニアチュール)のこと。そもそもは9世紀ごろに、ギリシャの科学文献における挿絵として始まったと言われています。

ペルシャは13世紀ごろにモンゴル人の侵略をうけたため中国美術が流れ込み、東洋美術の影響を大きく受けて、現在のペルシャ細密画の原型ができあがったと考えられています。

成立の段階から、すでに多様な民族の芸術観や美術上の技術などが複雑に絡み合ってできた美術品です。

17: 名無し 2019/05/07(火) 18:51:28.60 0
イスラム教の偶像崇拝禁止は、宗教的には正しい方針なのだろうが、イスラム圏の彫刻や絵画の発展を止めてしまったのは深刻なマイナス面

ササン朝以来の細密画の伝統を持つペルシャ美術を救ったのは、中国とインドだった

18: 名無し 2019/05/07(火) 21:50:35.86 0
アジアの三大帝王  近世以降

 アクバル大帝
 アッバース大帝
 清の康熙帝

19: 名無し 2019/05/07(火) 22:24:24.12 0
>>18
明治天皇は?
昭和天皇は?

42: 名無し 2019/06/12(水) 05:48:15.77 0
>>18
スレイマン大帝は?

43: 名無し 2019/06/12(水) 08:29:53.55 0
>>42
たしかに偉大な帝王だが、他の3人と並べるほどではなかろう

45: 名無し 2019/06/12(水) 12:11:30.19 0
>>42
ビザンチウム済みなのでヨーロッパの偉大な皇帝

後にヨーロッパの病人扱いされるオスマン帝国だしな

22: 名無し 2019/05/08(水) 10:24:40.55 0
ムガール帝国って室町幕府みたいな印象があるな。 足利義満=アクバル1世以外はgdgdで、最後の100年間は似たような状況だった。
2代目皇帝の亡命は観応の擾乱、アウラングゼーブは足利義教ってとこか。

23: 名無し 2019/05/08(水) 20:40:49.55 0
>>22
観応の擾乱みたいな兄弟間戦争は、ムガール帝国では代替わりのたびに毎度オナジミだ
しかも、足利尊氏と足利直義みたいに、微妙に遠慮しあうような優しい関係ではない
アウランゼーブは、兄の首を、幽閉中の父に送り付けて、父はショックで気絶した

24: 名無し 2019/05/09(木) 20:51:11.40 0
アウランゼーブ死去後のムガール帝国は、形だけは存続していたが、事実上の崩壊

日本史でいえば、応仁の乱のあとの室町幕府
中国史でいえば、安史の乱のあとの唐朝
みたいな乱世に突入した

26: 名無し 2019/05/09(木) 20:53:42.00 0
アウラングゼーブ死去後は帝国各地で反乱が頻発し続けた。これに加えて帝国は代替わりごとに後継者争いを起こし、遂にはズルフィカール・ハーンやサイイド兄弟といった臣下によって帝位が決定されるようになる。

1724年には宰相であったカマルッディーン・ハーンが、デカン高原で独立しニザーム王国を建国。以後、帝国の地方長官が事実上独立し、皇帝はその形式的な上位者にすぎなくなっていく。
最早、帝国は分裂状態となっていたが、更に、南からはアウラングゼーブ時代には抑えられていたマラーター王国が伸長してくる。
王国は各地の領主とマラーター同盟を形成し、北インドはおろか首都デリーを窺う程に勢力を伸ばした。
西からはナーディル・シャーがサファヴィー朝に代わってアフシャール朝を建てて、ムガル帝国領に侵攻し、帝国はインダス川以西の割譲を強いられた。これ以後、帝国の動向は北インドの有力者の動向に左右され続ける。

27: 名無し 2019/05/10(金) 02:23:57.58 0
アクバルに倣って融和策をとるか
あるいは初代と二代目に倣って一度きれいに滅亡したほうがよかったな

28: 名無し 2019/05/10(金) 10:13:48.21 0
結局、ダーラー・シコーとアウラングゼーブの兄弟間の(思想的・政治的)立場の違いって、そもそも何が始まりだったんだ
幼少期からの師匠か侍従か誰かの教育方針の違いなのか、
身内に対する思春期頃からの警戒や反発の表れなのか、
対立党派間の権力争いの御輿にされて気が付いたら退くに退けなくなってたってことなのか

34: 名無し 2019/05/22(水) 06:28:38.09 0
>>28
父のシャージャハーンは、タージ・マハルに祀られている王妃ムムターズを深く寵愛していたため、ムムターズが産んだ子供のダーラーシコーを溺愛していた

これに対するアウラングゼーブの反感は大きかったと言われている

アウラングゼーブによって塔に幽閉され、タージ・マハルを見ながら幸せな日々の思い出に浸っていたシャージャハーンは、ダーラーシコーの首を送りつけられ、ショックで気絶した

60: 名無し 2019/09/13(金) 10:38:58.89 0
>>28
いろいろあっただろうが、代替わりのたびに兄弟がそれぞれの軍隊を動員して戦争になるのは、遊牧系の帝国では毎度オナジミのお約束だからなあ

ダーラーシコーとアウラングゼーブの兄弟対立に巻き込まれて悲劇的な晩年を迎えた父のシャージャハーンも、かつては親兄弟にかなり酷いことをやってきた

35: 名無し 2019/05/22(水) 06:43:00.57 0
こうしてみると、シャージャハーンは悲劇の人みたいだが、シャージャハーンも父帝に反乱を起こして失敗したり、兄に陰謀をかけて殺害したり、弟や従兄弟を処刑しまくってるので文句を言える立場ではない

36: 名無し 2019/05/22(水) 07:04:58.40 0
アウラングゼーブも、ムムターズ・マハルが産んだ子供のはずだが、なぜか愛されていなかった

37: 名無し 2019/05/22(水) 07:09:59.80 0
息子のシャージャハーンにクーデターを起こされ、「奴は私の息子ではない」と宣言した先帝のジャハーンギールだったが

そのジャハーンギールもまた、父のアクバル大帝との仲の悪さは史上に有名

「よく、これで廃太子されなかったな」というようなエピソードが多い

38: 名無し 2019/05/22(水) 10:04:06.68 0
全裸に蜂蜜を塗っただけの美女をペロペロ

39: 名無し 2019/06/07(金) 21:20:37.53 0
関係ないけど、全身に蜂蜜を塗った囚人をヤギに舐めさせるっていう
恐ろしい拷問が中世のヨーロッパにあったな・・・

40: 名無し 2019/06/08(土) 10:57:13.85 0
山羊の舌がヤスリみたいにザラザラしてて痛いんだっけ?

41: 名無し 2019/06/12(水) 04:00:51.47 0
フランスの山羊責めなら足の裏に蜜を塗るって話だな。
罪人の全身に塗るのは勿体ない。

51: 名無し 2019/09/09(月) 14:33:51.36 0
ムガール帝国っていうわりに、
歴代皇帝はイケメンばかりでドルジ顔はおらんかったんやねw

52: 名無し 2019/09/09(月) 16:33:32.00 0
そもそもムガル帝国の呼び名はあくまでも他称であって、歴代皇帝たちはそんな名乗りはしてなかったからな

53: 名無し 2019/09/09(月) 17:10:27.87 0
なんて名乗ってたの?

61: 名無し 2019/09/14(土) 13:00:40.06 0
>>53
名前のない国って結構あるね

62: 名無し 2019/09/14(土) 20:44:04.23 0
>>53
始祖バーブルは「ティムール帝国」と言ってたらしい

以後の皇帝は「グラーカーニー」などと呼んだが、これももともとティムール帝国の異名であり、意味は変わらない

68: 名無し 2019/09/16(月) 11:30:23.49 0
>>62
帝国は何て読んでいたの?

69: 名無し 2019/09/16(月) 13:00:24.65 0
>>68
バーブルも「グールカーニー」と言ってたんじゃないかな

正式名称は無かったようだ

54: 名無し 2019/09/10(火) 01:22:49.73 0
ティムールの一族って意味でグラーカーニーとか名乗っていた

55: 名無し 2019/09/11(水) 02:39:39.12 0
モンゴル人というより、トルコ人に近いんじゃないか

56: 名無し 2019/09/11(水) 02:41:15.34 0
といっても、モンゴル人とトルコ人がどう違うかっていったら、「北アジアの遊牧民のなかで、仏教徒になったのがモンゴル人、イスラム教徒になったのがトルコ人」というくらいだが

57: 名無し 2019/09/11(水) 07:22:54.87 0
モンゴル系とトルコ系って一応言語レベルでも違いは大きいんだけどな
同じアルタイ諸語に属すとは言え、モンゴル語とトルコ語はそれなりに違う部分も目立つ言語だ

なお、ムガル帝国の建国者バーブルはチャガタイ・トルコ語で自伝を書いてる辺り、確かにモンゴル系よりはトルコ系に近いと思われる
当時の中央アジアは基本的にはトルコ系が目立っていた世界だ

58: 名無し 2019/09/12(木) 09:02:17.51 0
オスマン帝国と大清帝国は20世紀の初頭まで続いたのに、ムガール帝国の崩壊が早すぎたおかげで、インドは植民地になった

ヒンドゥー教徒との融和政策をやめてしまったアウラングゼーブの責任

59: 名無し 2019/09/12(木) 09:58:34.08 0
アウラングゼーブの瑕疵も大きかったが、歴史上インドは統一できていたことがほとんどなかったんだし、たとえアウラングゼーブがいなくても遅かれ早かれインドはまた分裂したんじゃないかという気はする
その動きをアウラングゼーブが早めてしまったことは確かかもしれないが

63: 名無し 2019/09/16(月) 04:53:09.54 0
ムガル帝国はモンゴルの後継国家というよりはティムールの亡命政権としての面が強いからなあ
ウマイヤ朝がイベリア半島に逃げて後ウマイヤ朝となったように、本当はムガル帝国も後ティムール帝国とでも呼ぶべきなのかもしれない

64: 名無し 2019/09/16(月) 11:04:43.87 0
>>63
Wikipedia 「ティムール朝」によれば、まさにそんな感じ

・・・ティムール一代の征服により大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため、急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。

これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。

65: 名無し 2019/09/16(月) 11:09:09.84 0
ティムール朝を滅ぼしたウズベクのシャイバーニー朝は、サファヴィー朝イランに敗れて勢力が衰える。

ティムール朝の王族の少年バーブルは、イランの支援を得てサマルカンドを奪回し、一時的にティムール朝を復活させた。
しかし、勢いを取り戻したシャイバーニー朝にサマルカンドを逐われて苦難の時期を迎えた。

バーブルは南下してアフガニスタンのカブールを占領し、そこで再起を図る。

66: 名無し 2019/09/16(月) 11:16:39.64 0
カブールを拠点としたバーブルは、なおもイランの支援を得てサマルカンドを奪回しようとするが、サマルカンドの住民はスンナ派だったため、シーア派のイランに反発されて、うまくいかなかった。

そんな中で、サファヴィー朝イランのイスマーイール1世の無敵騎馬軍団が、オスマン帝国の鉄砲隊に敗れるという大事件が起きる。
バーブルは、ついにサマルカンド奪回を断念し、自らも鉄砲隊を組織して、インド攻略に目を向けるようになった。

71: 名無し 2019/09/16(月) 13:04:38.17 0
要は、ティムール帝国の王族たちは自らを「グールカーニー」と呼んだ。
ムガール帝国の王族たちも、自らを「グールカーニー」と呼んだ。

彼らにとって、自分たちがティムール帝国の後継者なのは当たり前の事実だった。

72: 名無し 2019/09/16(月) 13:07:02.54 0
グールカーニーってどういう意味だろう?
グールって大きいかな?
大王国?

73: 名無し 2019/09/16(月) 16:11:41.74 0
>>72
(ジンギスカンの)「娘婿、その子孫」を意味する

つまり、ジンギスカンに由来する母系血統を誇っていた

75: 名無し 2019/09/17(火) 11:50:24.94 0
実際のところ、帝国の歴史的な呼称としては、「後ティムール朝」でも、「グールカーニー朝」でも良かったんだろうけどな

それだけ、「ムガール帝国」が定着していたということだろう

76: 名無し 2019/09/17(火) 18:08:18.82 0
モンゴルの訛りのムガールでも差し支えないと思うがな。
ティムールはチャガタイトルコ人でトルコ化したモンゴル系で祖先はチンギス汗と同祖。
代々チャガタイ家から嫁をもらってるので女系でムガール皇帝にもチンギス汗の血は流れてる。

77: 名無し 2019/09/18(水) 08:30:24.22 0
ムガール帝国の以前から、インドのスルタンはころころ替わってた

ムガール帝国も、バーブルの一代限りで潰れかけたが、2代目・3代目が奇跡の復活を遂げた

78: 名無し 2020/01/19(日) 17:26:00.91 0
アウラングゼーブの強攻策は失政だったというが
統一性に欠けるヒンズー教の小国家群のままでは
どのみちイギリスに各個撃破で征服されるわけだしな。
イチかバチかイスラムでインド統一を狙うのも悪くない。

79: 名無し 2020/01/19(日) 17:37:08.22 0
そうだな

あれで全国統治に成功していたら、史上最高の皇帝だった

80: 名無し 2020/03/22(日) 18:02:35.64 0
ムガル帝国の最大版図を見れば分かるけど
南部を平定してインド全国統一のエンドロールを見る一歩手前までいったんだよな
ほんに惜しいでアウラングゼーブはん

93: 名無し 2020/06/11(木) 09:38:14.95 0
>>80
大英印度帝国が全印度を統一しましたよ

81: 名無し 2020/03/29(日) 08:35:41.76 0
ムガール帝国の最大版図はパキスタンあたりまで領土だから、
いまのインドよりも広大。

82: 名無し 2020/03/29(日) 09:36:34.90 0
>>81
それは、清朝と同じだな

83: 名無し 2020/03/29(日) 09:37:10.56 0
清朝もモンゴルあたりまで版図だった

84: 名無し 2020/03/29(日) 11:46:49.99 0
>>83 
逆に清は服属国の朝鮮とチベットを版図と認めるかどうかで版図が違ってくるよな

北インドのヒンズー支配層はよく20世紀のインド独立時にレコンキスタ出来たな
イスラム教徒が北インドを支配した時代はあまりにも長いからデカン高原辺りがヒンズー主流国とイスラム主流国の国境になってもおかしくない
イランのゾロアスター教徒よりは絶対数が多く支配層も意外と改宗してなかったのか

85: 名無し 2020/03/29(日) 14:43:33.77 0
>>84
まあ、ムガール帝国が崩壊してから、英領インドになるまでの、ヒンドゥー勢力の時代もそれなりに長いからな

86: 名無し 2020/03/29(日) 14:54:19.79 0
>>85
イスラム支配の期間は長くてもイランより
遥かに地元宗教勢力は強かったのですか
アウラングゼーブの死後に直ちに巻き返し
帝国が解体する位

90: 名無し 2020/06/01(月) 12:42:22.47 0
>>86
アウラングゼーブと同じ時代に、南インドのヒンドゥー勢力にも英雄が登場し、生涯の宿敵となった。
マラーター王国のシヴァージーた。
no title 
1680年にシヴァージーが死んだ時点で、南インドのデカン高原はほぼマラーター王国の版図。 
「シヴァージーが死んだ」と聞いて大喜びのアウラングゼーブは、南インドの征服を本格化した。 
それから10年ほどかけて、ムガール帝国は南を滅ぼし、史上最大の領土を実現。 
でも、1707年にはアウラングゼーブも死に、帝国は瓦解した。 
つまり、ムガール帝国のインド統一といっても、その期間は20年もなかった。

87: 名無し 2020/05/29(金) 22:34:17.72 0
アクバル2世は皇太子時代に首都デリーがグラーム・カーディル・ハーンに占領されたとき、父や兄弟二人ととともに目を潰されたとwikiに書いてあるけど、父のシャー・アーラム2世のほうはともかく、アクバル2世には即位後も立派な眼球がついてるので目を潰されたのは別の皇子では?と思った

92: 名無し 2020/06/07(日) 17:42:38.67 0
>>87
たしかにアクバル2世が盲目にされたという話は、Wikipediaの他言語版にも見えないね。
なぜか日本語版だけそう書かれていて、息子のバハードゥル・シャー2世の記事にも祖父と父が盲目にされたとあるが・・・

94: 名無し 2020/08/26(水) 18:52:29.12 0
ムガル帝国にもオスマン帝国と同じように兄弟殺しの習慣があったよな
イスラーム圏にはなぜ長子相続制が根付かなかったのか

95: 名無し 2020/08/26(水) 19:04:50.18 0
>>94
遊牧民系だから、とか?

96: 名無し 2020/08/26(水) 19:29:23.15 0
中国人(漢族)は農耕民だけど、中国の歴代王朝を見ると、必ず長子が相続すると決まっていたわけではないよな

97: 名無し 2020/08/26(水) 22:21:52.36 0
南アジアの王権は、日本と違って外国人や異民族に対して開放的だったムガル帝国の宮廷では、時期によって多少の差はあるが、およそ25~30%の官人がイラン高原から移住してきた人々とその子孫によって占められていた。

彼らの中には、詩人や文人として名を知られた者も多い
イラン系の人々は、企業家、商人としても活動した

経済的な面についていえば、領土内に豊かな商品がもたらされ、王の宮廷が経済的に潤う限り、貿易を行う主体が誰であるか、どこの出身であるかは大きな問題とならなかった

98: 名無し 2020/08/27(木) 07:52:54.11 0
バーブルは父からトルコ人の血を、母からモンゴル人の血を受け継いでいるにもかかわらず、モンゴル人を軽蔑し、モンゴルと呼ばれるのを嫌いぬいた

99: 名無し 2020/08/27(木) 17:20:51.27 0
アウラングゼーブの様子を伝えるイギリス外交官の報告書が残っています。

ムガル軍のキャンプは不潔このうえない泥土の中にあり、兵士達の俸禄は一年以上滞っている。宮廷人は腐敗の極みにあり、何一つするにしても賄賂を要求する。だが老皇帝一人だけは、尚可也の威厳を持ち純白の衣裳で前線を回る。多くの兵が皇帝を見ようと群れる。だが皇帝は彼らの方を見ず只手中の本のみに目を凝らす。その本はコーランだった。
(1699年イギリス使節報告)

100: 名無し 2020/08/27(木) 19:21:33.70 0
バーブルはアフガニスタンでの行軍中、大雪であわや遭難の危険に見舞われた数日間、雪を踏み固めながら、道を見つけようとしたとき、「生涯でほとんどなめたことがないほどの苦しみ」を味わった

バーブルは、一見して狭そうに思える洞窟で一人休息をとるように部下から慫慂されても、敢然と拒否している。

「全ての人々が雪と強風の中にいるときに、私が眠りを貪って休息することは、人間的なものからはほど遠く、また友誼からもかけ離れたことである。どんな不安や困難があろうとも、私はそれに立ち向かおう。何であれ人々が耐えることは、私もまたそれに耐えよう。一つのペルシア語の諺がある。『友と共にする死は婚礼である』」

102: 名無し 2020/08/27(木) 22:31:16.72 0
バーブルは征服した北インドのことを好きになれなかったようだな

ヒンドスターンは魅力に乏しい国である。人々の容貌は良くないし、互いに訪ねあうといった人づきあいもない。才能も包容力もなく、マナーも知らない。…良い馬や良い犬もおらず、美味しい葡萄やマスク・メロンなど一級の果物も、また氷や冷たい水、美味しいパンや
調理した食物なども市場にはなく、温浴場や学校、蝋燭、トーチや燭台もない。

と述べている。アフガン台地のほうがバーブルには合っていたのだろう

103: 名無し 2020/08/28(金) 18:57:50.09 0
アウラングゼーブの死後、18世紀に入ると短命な君主が続き、帝国の有力者が皇帝位を左右した。皇帝は有力者の傀儡と化した
1739年、ナーディル・シャーがペルシアから侵入し、ムハンマド・シャーを捕虜にして、デリー市を略奪した。ムハンマド・シャーは帝位を回復したものの、帝国支配は完全に崩壊した。以後、ムガル皇帝は様々な勢力により擁立された

104: 名無し 2020/08/28(金) 22:15:40.22 0
セポイの反乱の時に最も勇敢で有能だったと言われるジャンシー王妃ラクシューミーは英国人の記録によると「色白で、とても美人で、背の高い女性だった」という。

このセポイの反乱で神輿に担ぎ上げられたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世は英国のデリー攻撃中に降伏し、英国の裁判にかけられ反逆罪を宣告されて廃位。
ここに17代332年続いたムガル帝国は滅亡した。

なお、バハードゥル・シャー2世の正室のズィーナト・マハルも肖像画(細密画)で見る限り若い頃は美人。
no title

no title

105: 名無し 2020/08/28(金) 22:49:06.60 0
20世紀前半のインドのマハーラージャたちの間では、白人女性を妻に迎えることが流行り、手っ取り早く整形手術で後宮の女たちをパリジェンヌに変えてしまった者もいた。
ベルサイユ宮殿そっくりの小宮殿を建て、宮廷内でフランス語を公用語とし、エビアン水しか飲まなかったマハーラージャもいた。

107: 名無し 2020/08/30(日) 09:46:45.25 0
バーブル…ヌルハチ
アクバル…康熙帝
シャー・ジャハーン…雍正帝
アウラングゼーブ…乾隆帝
バハードゥル・シャー1世…嘉慶帝
ムハンマド・シャー…道光帝
シャー・アーラム2世…光緒帝
バハードゥル・シャー2世…宣統帝溥儀

111: 名無し 2020/08/30(日) 15:38:36.84 0
>>107
アクバル除くと清の歴代皇帝と比較すると見劣りする皇帝ばかりだな

112: 名無し 2020/08/30(日) 18:09:19.72 0
バーブルはヌルハチとタメ張れるでしょ
あとジャハーンギール、シャー・ジャハーンも乾隆帝ポジってところだな

108: 名無し 2020/08/30(日) 14:58:57.12 0
イギリス東インド会社がインドを植民地にできたのは、結局、当時のインドにナショナリズムが存在していなかったからなんだろうな
だから多くのインド人が東インド会社の傭兵として戦った

109: 名無し 2020/08/30(日) 15:36:05.11 0
インドが近代化してのはイギリスの植民地になってインド全土が鉄道で結ばれたから

113: 名無し 2020/08/30(日) 18:24:36.55 0
清朝は太子密建で後継者を決めたから、ムガル帝国のような兄弟同士の殺し合いには発展しなかったな

116: 名無し 2020/08/30(日) 21:03:05.89 0
>>113
兄弟間で皇帝の座を争うのってモンゴルからの伝統だっけ?

でも当時のイランの王朝も継承者争いとか家来の裏切りとかで盛衰が激しいな

114: 名無し 2020/08/30(日) 18:40:05.00 0
兄弟争いは止まなかったが…バーブル-フマーユーンの親子愛もいいもんだよ
あの2人は兄弟争いはしても殺すようなことはしなかったし

115: 名無し 2020/08/30(日) 20:58:37.51 0
病身のフマーユーンへのバーブルの献身の逸話が有名だけど
他にも、息子にあてた手紙の中で、孫が生まれたことをとても喜んだり
凝った手紙を書こうとする息子に、読む側のことを考えて簡潔に書こうねとたしなめたり
ちょっと頼りない息子への父の愛を感じる

117: 名無し 2020/08/31(月) 07:31:40.67 0
中央アジアを父祖の地とするムガル皇帝たちは、中央アジア支配の願望を持ち続けたけれど、結局それは果たせなかった
アウラングゼーブの代になって、中央アジア支配を諦め、もっぱらデカンに眼を注ぐことになる

118: 名無し 2020/08/31(月) 10:38:09.34 0
アウラングゼーブまでの歴代皇帝たちはカンダハールをサファヴィー朝と争い続けたからな
中央アジア支配の夢を諦めきれなかったんだろう

119: 名無し 2020/08/31(月) 17:03:47.33 0
アウラングゼーブは版図を最大に広げたと言っても、デカン進出以降はイスラム原理主義によるジズヤの復活に加えて軍事費捻出するためにイスラム教徒にも重税をかけたから北部インドで反乱が相次いで統治がままらなくなっていたので、その版図はハリボテみたいなものだな。

120: 名無し 2020/09/01(火) 11:32:43.25 0
イランはイスラーム化したのに、インドはムスリムが多数派を占めることにはならなかった
両者の違いはどこからきたのだろうか

121: 名無し 2020/09/01(火) 14:59:43.31 0
>>120
一瞬で征服されたイランと違ってインドはイスラーム王朝も征服するのに時間かかっているし、南部を中心にヒンドゥー教徒の勢力の抵抗も強かった
最大版図のアウラングゼーブの時代ですら南端部までは征服できてないからな

123: 名無し 2020/09/03(木) 22:40:33.19 0
>>120
単に人口がクソ多かったから
ムスリム人口なら世界一だった

122: 名無し 2020/09/02(水) 19:23:45.43 0
ムガル帝国で、非ムスリムに対する迫害が最初に見られるようになるのは、アウラングゼーブではなくてシャー・ジャハーンの時代からなんだよな
1632年、シャー・ジャハーンは新しく建てられたヒンドゥー寺院の破壊を命じ、また旧寺院の補修を禁じた
そのため、ヴァーラナシー(ベナレス)では76の寺院が破壊されたという
この時代、ムガル帝国では、ウラマーの勢力が強まり、より厳格にシャリーアを守ることを要求するようになってきたことがこのような動きを生みだした

124: 名無し 2020/09/04(金) 22:27:00.13 0
アウラングゼーブはムスリムに対して飲酒、賭け事、大麻の吸引を禁じているし、イスマーイール派のムスリムやスーフィーも弾圧していて、必ずしもヒンドゥーだけを弾圧したというわけではないんだよな

125: 名無し 2020/09/05(土) 09:22:06.92 0
>>124
ようは自分にも他人にもあらゆる人間に対して厳しい超超超厳格なイスラム教徒だったってことだな
イスラム教の戒律が正しく守られていないことが許せなかったわけだ

126: 名無し 2020/09/05(土) 09:33:53.54 0
>>125
一個人としてなら尊敬できる人間かもしれないが、多宗教・多民族帝国の統治者としては向いていなかった

127: 名無し 2020/09/07(月) 04:30:10.10 0
ダーラー・シコーは文人としては優れていたが武人としてはてんでセンスなかったな
センスないことを自覚してればよかったんだがその自覚すらないんじゃ負けるわ

128: 名無し 2020/09/07(月) 19:23:06.99 0
>>127
自分の能力を客観的にみられる人間のほうが少ないと思う

129: 名無し 2020/09/08(火) 19:41:51.71 0
アクバル時代後半からムガル宮廷とカトリック宣教師との接触がはじまった
ジャハーンギール時代にもこれは引き続き行われた
ジャハーンギール時代にはまた、ヨーロッパ東インド会社の使節を宮廷に迎え入れている
宮廷とヨーロッパ人との交流はムガル宮廷絵画やムガル建築物のデザインに大きな影響をおよぼした

130: 名無し 2020/09/16(水) 22:20:38.24 0
アクバル帝は、ものづくりが非常に好きだったとか
職人たちと共に石切り場で石を切り出すこともあり、職人たちの仕事ぶりを眺める
だけでなく、楽しみから彼らと同じ作業を行いさえした

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