それともやはり呉に荊州を奪われてしまう結果は変わらなかっただろうか?
荊州を任せられるほどの人物がいたかどうかだな。
張飛がいる。
信用度も関羽と同等だし(後に外戚になるから建前上は関羽以上か)軍を率いた実績も後世から見たら関羽以上。
あと何気に土地を治める才覚も悪くは無かったみたいだね。
士大夫に対しては腰が低かったので結構上手くいったかもしれんw
結局、劉備は張飛はずっと手元に置くという選択をしたわけだけど・・・
諸葛亮が実績で頭角を現すのは入蜀以降で、はっきり言って30才そこらのぺーぺーに人が付いて行くは思えん。魏延もしかり。
入蜀時に任せられるのは関張の2択で、その後漢中王僭称時の人事で変えられるとしても4択。
①関羽・・・信用、実績、名声文句なしで留任
②張飛・・・同上だが手元に残したい
③馬超・・・名声は匹敵するが信用度は疑問だし、涼州専用の駒
④魏延・・・大抜擢で漢中
漢中は独自に侵攻することないので、ほぼ防衛時の専門だけど、
荊州は独自で侵攻することもあれば防衛もあるだろうし、一番重要なのは呉との力関係。これらを満たす人が要る。
結局消去法的に関羽しかいなかったと思うよ。
あえて言えば、代役となりうるのは張飛だけ(その場合、関羽はずっと劉備の手元)。
馬超は無理でしょ、荊州人士が納得しない。能力や信用度でいったら黄権も
候補だけど、こちらは関羽に変えるには名前に重みが足りないか。
馬超は無理でしょ、荊州人士が納得しない。能力や信用度でいったら黄権も
候補だけど、こちらは関羽に変えるには名前に重みが足りないか。
麋竺に権限与えて荊州閥の将軍に輔佐させるとか。
尊大な関羽も諸葛亮の言うことなら聞くし、諸葛亮も、関羽の機嫌の取り方みたいなのをよくわかっていた
いや、関羽の様に見下すより、その方が上手くいく?
麋兄弟の弟の裏切りは、関羽と折り合いが悪かったからだよな。
悪い選択ではないかもしれない。
補佐は馬良になるだろうが、蜀はやはり駒が足りん。
…龐統の死とか痛いな…
関羽の留守を預かった人達は呂蒙に対して戦意を見せなかったようだし、関羽は総スカン喰らってたと思われ。
公安江陵だけでも関羽が退却するまで踏ん張る事が出来たら、零陵武陵は取られるけど蜀への連絡路は絶たれないから別の話になったと思う。
まぁ、南郡だけだと荊州という飛び地で対呉対魏に対して勢力を維持できないだろうから、荊州方面からの魏侵攻路は無くなるだろうけどね・・・
張飛なら留守が無抵抗で降伏という、総スカンを喰らうとは思わない。
・・・結局のところ関羽個人の問題より、呂蒙という相手が悪すぎたのが一番の敗因だね。
呂蒙は215年といい217年といい、電撃作戦が上手すぎる。
騙し打ちとはいえ、相手に対応を許さずキレイに目的を果たしてるのは完璧・・・
個人的には誰が守っていたかという戦術レベルより、どうやれば呉に攻めさせない気を持たせられたかという戦略レベルの対応が必要だったと思う。
外交とは「○○はしてくれると思う(願望)」じゃなくて「○○はこうせざるを得ない」だから、呉が背後を突かないだけのメリットを与える必要がある。
劉備としては荊州は魏への牽制路/侵攻路だから渡せない、孫権としては荊州は(赤壁の報酬だから)本来呉が持ちえた土地だから欲しい。
劉備が出来ることは・・・
①襄陽ハン城を取ったら返します手形(この場合関羽は襄陽~上庸~漢中~成都となりますます孤立する)
②関羽に北上を厳禁してその間に対呉への工作。逆に言うと呉が攻めて来ないという確信(工作)ができるまで北上させない。
前者の場合は魏に近すぎることから全力で叩かれるだろうし、援軍はほぼ期待できない。
後者の場合は呂蒙の病気がそれに当たるので、「病気なったから守備兵を前線に送った」が「病気になったのでほぼ全力で北上した」
になるだけで史実と同じ道になりそう・・・
麋芳士仁は陣中に留め置いて、廖化や馬良を江陵の守備に置く事は出来なかったのだろうか?
失態があったので入れ替えて留守にしたという話がありますけどね。罰として
留守にするという人事は様々な意味で問題があるとおもうが。
劉封+張飛(ついでに黄忠もつけてやるか)
関羽は上庸から漢中・荊州の支援。
劉備の養子・劉封なら名前負けもする可能性が少ない。
劉封も関羽・張飛に認められようと奮起するだろう。
後継者問題で禍根を残すかもしれないがこれがベストじゃない?
人材難でもないのになんで王甫とか周倉とかしかつけてやらなかったのか…
やっぱり関羽のプライドがあったのかな。
信義を守って呉との交誼を固めていれば奪われなかっただろう。
外交ミスを詳しく
知る限りミスといえば劉備のではなく、関羽が孫権との姻戚話を蹴ったことくらいしか知らん。
・・・
荊州の領土半分明け渡した時点で呉は「盟友」ではなく「仮想敵」。
呉からしたら江陵は絶対に譲れない土地ということくらいは関羽も認識してたはず。
信義とか交誼とか、そういうレベルの話は通じないでしょ。
現に劉備自身が乗っ取りを成功させて、その時代に甘い事は通用しないと知らしめてる訳だし。
つまり劉備・関羽からすると呂蒙(陸遜)に如何にして侵攻させないかの抑止力が第一であり、次に侵攻してきた時にどう対応するかが問題であって、「関係をしっかり持てば呉は攻めてこない」という前提が間違ってると思う。
少なくとも江陵が呉の地になるまではね。
呉を仮想敵国とすれば、蜀は二正面作戦を余儀なくされる。
当然、魏に対する関羽の正面兵力に余力がなくなり、それならいっそ荊州を放棄したほうがマシな情勢になりかねない。
どうあっても呉とは友好関係でいるべきで、外交努力により魏との共闘態勢を作りあげるべきとなる。
いっそ劉備みずからが荊州に戻り駐屯すべきだったかもね。
外交ミスは語弊があった。
正確には「外交努力が足りなかった」と言うべきでした。
劉備みずからが荊州に戻り駐屯、に同意。
長安奪取を目指さずに、襄陽からの北上に集中しても良かった気がする。
もちろん呉とは友好関係を崩さないことが絶対条件だけど。
手駒も漢中&襄陽からの二面作戦を実行するには軍師役になれる人間に欠いていたし、無理があったんじゃないかなぁ
あの時期で、趙雲にはそこまでの格はなかったんじゃないかな?
関羽の補佐としてなら有りかも?
陳到とかどうですか?><
でおkだろ。劉備の判断は正しかったさ
やはりシゲンの戦死が痛すぎる
諸葛亮がいたら・・・って書いてる奴は孔明がいたら何が違ったか具体的に説明してほしい
劉備がいたら・・・って書いてる奴はその間にどうやって獲ったばかりの蜀経営をするか説明(ry
それと呉と友好をって奴は、
217年に形式上だけど孫権が曹操の軍門に下って、合肥-濡須ラインがほぼ暗黙の国境として定着し、ついでに魯粛が死んで孫権が拡張するなら劉備の荊州しかない・・・
つまり国策として劉備に当たることがほぼ決定してる事をどうするのか書け。
戦略上、孫権を思いとどまらせる案はあるのか
戦術上、呂蒙を撃退する術はあるのか
○○なら~と羅列するだけなら議論が進まん
その呉の侵略を止めるには、孔明の口先三寸で~って言うのはさすがに無理だろうから、支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。
そして蜀経営は麋竺や馬良たちに任せて、漢中から長安侵攻に集中する。
もし可能であれば、長安侵攻に応じて荊州から呉軍が北上する約定を取れればベスト。だけど呉と魏の関係が良好ならそれは難しいだろうと思う。
必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw成都に関羽と馬超、馬良らを置いて、劉備と諸葛亮、趙雲らは荊州を治めつつ呉の態度軟化を図る。でもこれだと呉との関係を良化するのに相当時間掛かるだろうし、結果的にジリ貧になりそう。
この他に良い方法を思い付けないから、もし良かったら>>35の意見も是非聞きたい。
荊州を丸々返したら孫権も劉備と事を構える理由はない。間違いなく魏+呉vs蜀から魏vs呉+蜀になる。
しかし、荊州は劉王奇から譲り受け、劉備自身は漢中王になるまでは左将軍荊州刺史だったという大儀名分がやすやすと譲りわたすほど軽くないだろうし、仮に(ありえないだろうけど)「呉と争わないなら安い」としても、荊州士人がそれを許さないと思うよ。
さらにこれらの問題をどうにかして、決断しだいでは返還できたとしても、劉備が襄陽(中原)への入り口を諦めるはずがない。呉にその侵攻路を譲る(呉がそっちから攻めてくれる)など、そんな甘い考えは一瞬でも持たなかったと思われ。 現に孫権は荊州南部を掌握後も、魏への侵攻は主に揚州から行ってるしね。
長くなったので区切るけど、「蜀とったから返せ」との要求の答えは「涼州取ったら返します^^;」だったはず・・・
少なくとも、漢中-長安の一本だと無理と認識してたのは間違いない。
じゃあ、>>38だったらどう対処するのが最善だと思うか、それも聞かせて。
俺には>>38の反論に対する別の策が考え付かないからさ。
>必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw
死守というか、>>38で書いたように何故劉備にとって荊州が譲れないかといえば、長安と襄陽を同時に脅かすことが出来るということ。だから、荊州を放棄するからには別の侵攻路が貰えるか、もしくは長安が確実に落とせ、尚且つ長期保有できるという裏付けが必要になる。どっちもあり得ない話(敢えて言えば・・・涼州を丸ごと手に入れれば近いのかな)なので、その時点では文字通り死守するほかない。
っと、ここで私案だけど、
まず関羽の出兵を遅らせるべきだった、というのが一つ。
というのも漢中からの同時出兵でもなく、呉との関係がいいわけでもなく、呂蒙が病気になる前で、情勢的に最悪のタイミングだったと思う。呂蒙が急襲したというのはあくまで関羽の留守中に、しかも呂蒙が病気と信じて守備兵を減らした後ということだから、関羽がいれば正面からくる可能性は限りなく低い。仮に正面から来ても、恐らく3万と言われてる劉備の荊州方面の総兵力があれば援軍が来るまで持ちこたえるだろうし、上手く行けば領土を失わないどころか、漢中方面で曹操に動きがなければ215年に失った長沙と桂陽を取り戻せるかもしれない。まぁこれは後知恵以外の何でもないけど、220年には呂蒙は死ぬ訳だしね。
関羽が独断で攻めたはずが無いので、恐らく本拠地-漢中-上陽-襄陽-江陵-本拠地というリンクを作る劉備の腹だったんだろうけど、甘すぎたと思う。二正面作戦を強いられてる方面で敵片方への配慮を疎かにし、その上ほぼ無援だったのだから、攻勢に出る場面では決してなかった。
というわけで、また長くなったけど、「襄陽攻めるな」「待て」ってのが取れる限り最善だったってのが持論です。
続きの途中に書き込んでしまってすまんかったです。
なるほど、関羽に侵攻指示を出すのをもう少し待っていれば、まだ状況は良かったかも知れないと。この指示は恐らく諸葛亮によるものだろうから、これは諸葛亮の大きなミスと言えるね。
そうなると、漢中を獲ったまでは良いにしても、漢中王宣言は失敗だったのでは。
あの宣言は魏への反乱の火種にはなっただろうけど、同時に呉に与えた衝撃や圧力も小さくなかったと思う。もしあの宣言がなければ、呉の態度はもう少し軟化していたのでは?
と思うんだけど、これも甘い考えかな?あんまり自信ないw
それともう一つ。荊州を統治する大将として関羽を置くのは妥当だったのかな?
誰か他の人材を置いた方がいいとかあればそれも聞かせて欲しいです。
漢中王はあまり呉の方針に影響は無いと思うよ。
何が呉を変えたのかというと
・合肥+守備軍が強すぎる(何度も痛い目にあってる)
・下?は地理上リスクが高すぎる
という風に、この方面は攻めるのには難しすぎるという結論に達した事。逆に防衛には成功してるので両者で自然と国境線が出来上がってしまって、膠着してしまったこと。
それに加えて、赤壁後決して荊州南部をフリーで劉備に渡した訳じゃなかったこと。特に江陵は全力で奪ってるのに、奪ったことによるメリットは劉備にしか行ってなく、いくら大義名分が劉備にあるとはいえ荊州南部は(特に劉備が益州獲ったなら)呉の物であるという下地があったこと。
(現に劉備も「返します返します」と空手形だけど、何時かは呉へという負い目があったと思われw)
孫権から見たら、荊州北部方面の侵略から揚州を守るには夏口を、夏口と荊州南部を守るには江陵を、と江陵はどうみても最重要拠点とみなされてたはず。
長沙桂揚割譲後の呉の領土は、曹操から見ると劉備の江陵を落とせば揚州と荊州南部両方にナイフをつきつける格好になる。劉備から見れば(その気はまるで無いだろうけど)いつでも取り返して孫権の荊州の足場を夏口だけにさせることが出来るように見えたと思う。つまり、呉からすれば江陵が無いと赤壁からの努力はいつまでも不安定な訳で、劉備が居座る限り衝突するのは必死だったということになる。
呉が軟化する可能性として考えられるのは、
・曹操が死ぬまで待って「魏が弱くなりました!攻めるチャンスです^^」と、矛先を魏に向けること
(現に孫権は死後襄陽を奪おうとしてる)
・涼州を本気で取りにかかって「あと少しで荊州返せますから待ってください!今度は本当に返します!」と話に信憑性を持たせ、「あと少しで手に入るなら待とうかな」と、考えさせること
これくらいかな。
あと、関羽を配置したのは凄く妥当。
入蜀前だと、正式に漢から高位を授かってるのは劉備以外では関羽の偏将軍と張飛の中郎将くらいで他は取るに足らない・・・
尚且つ対外的にもこの二名が飛びぬけて有名だった。
さらに軍権を握るに当たって実績と信用でこの二名に匹敵する者はいなかったこと。これらを考えると、はっきり言って関羽か張飛しか選択肢がなかったはず。
漢中王になって勝手に人事できるようになったあとでも、劉備陣営で名実ともに関羽に伍するのは馬超と張飛しかいない。結局、「関羽しかいなかった」が正解だと思う。
>誰をつけるか
普通の場合は越権や独断行為を監視する目付け役なんだろうけど、関羽の場合はそれが必要ない。関羽に外交権などは当たり前に無かっただろうから、「付く人」というのはほぼ100%軍の役目・・・
法正のような策略家で尚且つ関羽も話を聞く人、樊城戦の見極めが出来た人かなぁ~正直、思いつきません・・・
・・・守勢に強く、機転が効く・・・張既のような人物を守備に置いて行けるような状況だったら良かったと思う。
(黄権or法正+孔明or馬良)/2=?
レスサンクスです。
せめてもう少しだけ待っていたら曹操も呂蒙もいなくなっていたのに・・法正も死んじゃうけど。でも曹操の場合、関羽が生きたままなら数年長生きしてそうだけどw
関羽の傍に置く人物は、やはり馬良ぐらいなものな気が俺もしますね。
侵攻を数年遅らせた場合、蜀内も内政的な意味でもっと安定していたことだろうし、
そしたら諸葛亮の負担がもっと減っていたかもしれないし。
やはりあの状況下で関羽を動かしたのは、天命が無かったというか何か諸葛亮の焦りが感じられますね。
ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。
こうやって考察して行く内に俺の中で結構まとまったのですっきりしましたw
とても有意義だったと思います、ありがとう。
ふむ。
そうすると関羽は自分で反乱の兆しを撒いといて、
いざ反乱が起きたらそれらを援助せず見殺しにしろと?
たぶん、蜀は反魏から二度と信用されなくるね。
そう。全てが早過ぎた。
反乱を利用しに出兵して、その出兵を利用されて全てを失うくらいなら、まだ見殺しにしたほうがマシ。
大体、曹仁をはじめとする本来の守備隊に加えて于禁と徐晃、果ては夏侯惇まで動いていた魏に勝機というか、落としどころはどうみても無い。魏から見たら襄陽と樊城は荊州から呉なり蜀なりが中原に出てきたときの「蓋」なんだから譲るわけがない。つまり単独で攻めたら魏の総兵力を相手しないといけないわけだし、結果として徐晃軍で打ち止めになってる。
ようは負けても元の鞘に戻るだけという認識だったのだろうけど前にも書いた通り、呉は既に帰順して(おまけに親劉備と言われてる魯粛が死んでる)その矛先を劉備領荊州に向けてたのは217年の段階で明白だったはずだし、「関羽が居ない」「守備兵も少ない」「関羽は撃退されて退却中」こんな好条件がそろってる中で攻めて来ないと考えるほうがおかしい。
関羽にとって魏への出兵は漢中の劉備出兵とセットであり、これによって関羽への圧力が減ることが唯一の襄陽奪取・維持の条件じゃないかな。 それが出来ないのに小事のため(決して小事ではないけど・・・例え、ね)に大事を失うのは余りにも痛い。
損得で味方を見殺しにするやつは滅びると横光三国志に書いてあった
でも関羽はあっさりと言う程綺麗にやられちゃうしなぁ
>ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。
数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。
魏は漢中の敗戦で反乱が連続で出て襄陽の守りが薄くなっただけだし。
多分、攻めなければ江陵は曹仁に落とされた可能性のほうが高い。
曹仁らを相手に守り通すのは難しいということね。
とすればどうすれば一番ベストなのか、>>50の対案を聞きたいところだけど
>数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。
鎮南将軍として赴任して宛の乱を治めたのは周知だけど攻勢を準備してたのは初耳。。
というか、拝命してから4年は立ってるはずだけど、その間に曹仁のメジャーな攻勢または攻勢の計画ってあったの?
江陵は周喩の攻勢に耐え切れず放棄し、南郡の大部分を諦めた土地だと思うんだが・・・
>拝命してから4年は立ってるはずだけど
何を狂ったのか、4年はありえないね・・・
218年に反乱があって、219年初頭に鎮圧だから、どう考えても1年未満。
スマセン。
曹仁が襄陽に来たのは曹操から関羽を責めるために派遣されたと
何処かで読んだ
多分それの根拠は武帝紀だな。
武帝紀の侯音の乱の記述の所に、「初、曹仁討関羽、屯樊城」とある。この記述だと、既に曹仁と関羽の間で何らかの衝突があった事になる。これが218年冬10月の事で、217年2月の所では夏侯惇らと共に居巣に駐屯した記述もあるから、曹仁が樊城に入ったのは、この間の事だね。
考えるヒントになりそうなのが、218年正月の吉本の反乱じゃないかと思う。武帝紀の注釈に引く三輔決録では、吉本らが劉備に援助を求めるつもりだった事と、関羽の勢いが盛んだった事が書かれている。曹仁を樊城に派遣したのは、この吉本の乱の前、217年内の事だと思う。
関羽の勢いが盛んだったから、荊州の防御に曹仁を回す。その後、吉本が関羽に助力を頼みつつ乱を起こして、関羽が援助の為北上。樊城にあった曹仁が関羽に当たってこれを撃退した、って流れなんじゃないかと。
だから、武帝紀では既に何らかの衝突があったように書かれてるんだと思う。まぁ、その後に関羽を討伐する計画があったかは分からないけど。
維持しなければ益州に閉じ込められて中原への覇を唱えることは無理、つまり荊州放棄は地方政権として甘んじることを半ば公表するようなものだよ。それは劉備の国家としての成立ち全てに矛盾が起きるのでありえない。
孫権は荊州に足がかり=コネが殆ど無い上に直接曹操の脅威に面し、その上江夏と違って江陵を守ることイコール劉備の領土を守ることだから旨味がほとんどなかった。つまり放棄して劉備に「貸す」ほうが美味しかったわけで、技術的な問題じゃないきがする。