キングダム実写化記念で白起・楽毅伝の翻訳と解説やります
この二人はキングダムに直接関係するわけではないけど
時代を作った重要人物なのでどうしても紹介したかった
ニュース
こちらこそ
わからないところがあったら遠慮なく聞いてやで
マジ
サンガツ!
2: 名無し 19/05/20(月)21:14:05 ID:SUh
◆
白起者、?人也。善用兵、事秦昭王。
昭王十三年、而白起為左庶長、将而撃韓之新城。
是歳、穣侯相秦、挙任鄙以為漢中守。
白起は、?の人である。よく兵を用い、秦の昭王に仕えた。
昭王の十三年、白起は左庶長となり、将となって韓の新城を攻撃した。
この年、穣侯(魏?〈ギゼン〉)が秦の相となり、任鄙を推挙して漢中守とした。
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其明年、白起為左更、攻韓、魏於伊闕、斬首二十四万、
又虜其将公孫喜、抜五城。起遷為国尉。
?河取韓安邑以東、到乾河。
その翌年、白起は左更となり、韓、魏を伊闕で攻撃し、二十四万を斬首し、
またその将の公孫喜を捕らえ、五城を攻略した。起は国尉に昇進した。
黄河を渡って韓の安邑より東を取り、乾河に到った。
◆
明年、白起為大良造。
攻魏、抜之、取城小大六十一。
明年、起与客卿錯攻垣城、抜之。
後五年、白起攻趙、抜光狼城。
後七年、白起攻楚、抜?、鄧五城。
翌年、白起は大良造となった。
魏を攻め、これを攻略し、城を大小六十一個取った。
翌年、起は客卿錯と垣城を攻め、これを攻略した。
五年後、白起は趙を攻め、光狼城を攻略した。
七年後、白起は楚を攻め、?、鄧五城を攻略した。
斉ですら70城やのに多くないか
小てのは小さい砦とかも含むのかね
城は囲んだものを指すから我々がイメージするものとは厳密に違うらしい
詳しくは知らないんだけどこの場合はその通り小さい砦も入ると思う
◆
其明年、攻楚、抜郢、焼夷陵、遂東至竟陵。
楚王亡去郢、東走徙陳。
秦以郢為南郡。白起遷為武安君。
武安君因取楚、定巫、黔中郡。
その翌年、楚を攻め、郢を抜き、夷陵を焼き、ついに東の竟陵に到った。
楚王は郢を逃亡し、東の陳に移った。
秦は郢を南郡とした。白起は武安君に昇進した。
武安君はそこで楚を攻略し、巫、黔中郡を平定した。
◆
昭王三十四年、白起攻魏、抜華陽、走芒卯、
而虜三晋将、斬首十三万。
与趙将賈偃戦、沈其卒二万人於河中。
昭王の三十四年、白起は魏を攻め、華陽を攻略し、芒卯を敗走させ、
三晋(三つに分裂した晋、すなわち魏・趙・韓を指す)の将を捕らえ、
十三万を斬首した。
趙将の賈偃と戦い、その兵士二万人を黄河の中に沈めた。
◆
昭王四十三年、白起攻韓?城、抜五城、斬首五万。
四十四年、白起攻南陽太行道、絶之。
昭王の四十三年、白起は韓の?城を攻め、五城を攻略し、五万を斬首した。
四十四年、白起は南陽の太行の道を攻め、これを遮断した。
◆
四十五年、伐韓之野王。野王降秦、上党道絶。
其守馮亭与民謀曰:
「鄭道已絶、韓必不可得為民。秦兵日進、韓不能応、不如以上党帰趙。
趙若受我、秦怒、必攻趙。趙被兵、必親韓。韓趙為一、則可以当秦。」
因使人報趙。
四十五年、韓の野王を攻撃した。野王は秦に降伏し、上党は道が遮断された。
その守の馮亭は民と謀って言った
「鄭への道はすでに遮断され、韓はきっと民にできないだろう
(首都鄭に続く道が遮断されたので、
韓は上党の民を自国の民としていられないだろう)。
秦兵は日に日に進軍しており、韓はこれに対応できないから、
上党を挙げて趙に帰順した方がよい。
趙がもしわれらを受け入れれば、秦は怒り、必ず趙を攻める。
趙が兵を受ければ(兵に攻められれば)、必ず韓と親しむ。
韓と趙が一つとなれば、秦に当たることができる。」
そこで人をやって趙に報告させた。
◆
趙孝成王与平陽君、平原君計之。平陽君曰:
「不如勿受。受之、禍大於所得。」
平原君曰:「無故得一郡、受之便。」
趙受之、因封馮亭為華陽君。
趙の孝成王は平陽君、平原君とこれをはかった。
平陽君は言った
「受けないほうがよろしいでしょう。
受ければ、得るところの災いは大きいでしょう。」
平原君は言った
「わけなく一郡を手に入れられるのだから、受けたほうがよいでしょう。」
趙はこれを受け、そこで馮亭を華陽君に封じた。
やっぱ無能
平原君はよい話聞かないから無能の印象あるよななあ
◆
四十六年、秦攻韓?氏、藺、抜之。
四十六年、秦は韓の?氏、藺を攻め、これを攻略した。
城も落としてるから記録に残ってないの含めたらヤバい数になりそうだけど
厳密に調べたことないけど史記で一番殺してるまである
これ以上って清以前だとどのくらいおるんやろ
屠蜀くらいしか思いつかん
大虐殺だと揚州十日記は蜀碧に並ぶグロテスクな記載いっぱいらしい
あとは打草穀とかがぱっと思いつく
やっぱ新しいのばっかりになるんやな
打草穀かー野蛮ですなあ
ワイの知識不足で恐らく他にもたくさんあると思う
項王の二十万人、薛仁貴の十万人生き埋めとかも出てきた
胡殺令や胡藍の獄なんかも多いっすね
でも長平には勝てないなあ
そう思うと長平やべーな
◆
四十七年、秦使左庶長王?攻韓、取上党。
上党民走趙。趙軍長平、以按拠上党民。
四月、?因攻趙。趙使廉頗将。
趙軍士卒犯秦斥兵、秦斥兵斬趙裨将茄。
四十七年、秦は左庶長の王?に韓を攻めさせ、上党を取った。
上党の民は趙に逃げた。趙は長平に駐屯し、上党の民を慰撫して住まわせた。
四月、?はそこで趙を攻めた。趙は廉頗を将とした。
趙軍の兵士は秦の斥候を攻め、秦の斥候は趙の副将の茄を斬った。
◆
六月、陥趙軍、
取二?四尉。
七月、趙軍筑塁壁而守之。
秦又攻其塁、取二尉、敗其陣、奪西塁壁。
廉頗堅壁以待秦、秦数挑戦、
趙兵不出。趙王数以為譲。
六月、趙軍を陥れ、
二つの城砦(「?」は「障」に通ず)を取り四人の尉を捕らえた。
七月、趙軍は塁壁を築いて守った。
秦はまたその塁を攻め、二人の尉を捕らえ
その陣を敗北させ、西の塁壁を奪った。
廉頗は塁壁を堅くして秦に対し、秦がしばしば戦いを挑んでも、
趙兵は出陣しなかった。趙王はなんども譴責した。
◆
而秦相応侯又使人行千金於趙為反間、曰:
「秦之所悪、独畏馬服子趙括将耳、廉頗易与、且降矣。」
秦の相の応侯(范雎)はまた人に趙で千金を使わせて離間させ、言わせた
「秦が嫌がっているのは、ただ馬服(趙奢)の子の趙括が将となることだけで、
廉頗は与しやすいから、やがて降伏するだろう。」
やっぱ范雎有能だわ
畜生だけど有能だよな
畜生だけど
韓を攻めてる秦がキレるって
現代に生きてるワイからしたら不思議な感じに思えるわ
秦にしたら力で分捕ったり失ったりした土地が
そっくり他国に移るから不快に思うのはしゃーない
戦国目線こえーわ
◆
趙王既怒廉頗軍多失亡、軍数敗、
又反堅壁不敢戦、
而又聞秦反間之言、
因使趙括代廉頗将以撃秦。
趙王は廉頗が兵の多くを失い、
戦いにしばしば敗北し、
またかえって塁壁を堅くして戦わないことを怒っており、
さらに秦の離間の言葉を聞いたため、
趙括を廉頗と交代させて将として秦を攻撃させた。
◆
秦聞馬服子将、乃陰使武安君白起為上将軍。
而王?為尉裨将、
令軍中有敢泄武安君将者斬。趙括至、則出兵撃秦軍。
秦は馬服の子が将となったと聞くと、そこで密かに武安君白起を上将軍とした。
王?を尉裨将(副将)とし、
軍中で武安君を将としたことを漏洩させた者は斬ると命令した。
趙括は到着すると、兵を出して秦軍を攻撃した。
武霊王を信じろ
ほめてんのか貶してんのかわかんねえ諡だな
思えば武霊王や恵文王からしてひどかったわ
◆
秦軍詳敗而走、張二奇兵以劫之。
趙軍逐勝、追造秦壁。
壁堅拒不得入、而秦奇兵二万五千人絶趙軍後、
又一軍五千騎絶趙壁間、
趙軍分而為二、糧道絶。
秦軍は敗れたふりをして逃走し、二つの奇兵を展開させてこれを脅かした。
趙軍は勝ちに乗じ、秦の塁壁まで追いかけた。
塁壁は堅守したため入れず、秦の奇兵二万五千人が趙軍の背後を遮断し、
また一軍五千騎が趙の塁壁の間を遮断し、
趙軍は分断されて二つとなり、糧道は絶たれた。
◆
而秦出軽兵撃之。
趙戦不利、因筑壁堅守、以待救至。
秦王聞趙食道絶、王自之河内、
賜民爵各一級、発年十五以上悉詣長平
遮絶趙救及糧食。
秦は軽装兵を出してこれを攻撃した。
趙は戦って敗北し、そこで壁を築いて堅守し、救援が到着するのを待った。
秦王は趙の糧道が絶たれたと聞くと、王自ら河内に行き、
民に爵をそれぞれ一級賜り、十五歳以上の者を徴発して全員長平に行かせ、
趙の救援と糧食(が通る道)を遮断させた。
◆
至九月、
趙卒不得食四十六日、皆内陰相殺食。
来攻秦塁、欲出。
為四隊、四五復之、不能出。
其将軍趙括出鋭卒自搏戦、秦軍射殺趙括。
括軍敗、卒四十万人降武安君。
九月になると、
趙軍は四十六日間も食事ができず、みな密かに互いを殺して食べ合った。
秦の塁壁を攻めに行き、脱出しようとした。
四隊となり、四・五回繰り返したが、脱出できなかった。
その将軍の趙括は精鋭を出して自ら格闘したが、秦軍は趙括を射殺した。
括の軍は敗北し、兵士四十万人が武安君に降伏した。
◆
武安君計曰:
「前秦已抜上党、上党民不楽為秦而帰趙。趙卒反覆。非尽殺之、恐為乱。」
乃挟詐而尽?殺之、遺其小者二百四十人帰趙。
前後斬首虜四十五万人。趙人大震。
武安君ははかって言った
「以前秦はすでに上党を攻略したが、
上党の民は秦に組み込まれるのを喜ばず趙に帰順した。
趙軍は裏切るやつらだ。殺し尽くさなければ、反乱する恐れがある。」
そこではかりごとを設けてこれをことごとく埋めて殺し、
年若い二百四十人は趙に帰らせた。
前後で四十五万人を斬首し捕虜とした。趙人は震撼した。
白起が30年間で斬首した数≒白起が長平で生き埋めにした兵士の数
◆
四十八年十月、秦復定上党郡。秦分軍為二:
王?攻皮牢、抜之;司馬梗定太原。
四十八年十月、秦はまた上党郡を平定した。秦は軍を分けて二つとし、
王?が皮牢を攻め、これを攻略し、司馬梗が太原を平定した。
◆
韓、趙恐、
使蘇代厚幣説秦相応侯曰:
「武安君禽馬服子乎?」
曰:「然。」
又曰:「即囲邯鄲乎?」
曰:「然。」
韓、趙は恐れ、
蘇代に手厚い礼物を持たせて秦の相の応侯に説かせた
「武安君は馬服の子を捕らえましたか?」
言った
「そうだ。」
さらに言った
「そうであれば邯鄲を包囲いたしますか?」
言った
「そうだ。」
◆
「趙亡則秦王王矣、武安君為三公。武安君所為秦戦勝攻取者七十余城、南定?、郢、漢中、北禽趙括之軍、雖周、召、呂望之功不益於此矣。今趙亡、秦王王、則武安君必為三公、君能為之下乎?雖無欲為之下、固不得已矣。
秦嘗攻韓、囲?丘、困上党、上党之民皆反為趙、天下不楽為秦民之日久矣。今亡趙、北地入燕、東地入斉、南地入韓、魏、則君之所得民亡幾何人。故不如因而割之、無以為武安君功也。」
(以下、蘇代の発言)
「趙が滅びれば秦王は王となり
(昭襄王はすでに王号を自称している。ここでは周に代わって正式な王となる
くらいの意味か)、武安君は三公となりましょう。
武安君が秦のために戦って勝ち取ったのは七十城余り、
南は?、郢、漢中を平定し、北は趙括の軍を捕らえ、
周(公旦)、召(公?〈セキ〉)、呂(太公)望の功績も
これに上回りません(この三者はみな周初の功臣)。
今趙が滅び、秦王が王となれば、武安君は必ず三公となりますが、
君は彼の下にいられますか?下にいることを望まなくとも、
もともとやむを得ないことなのです。
秦はかつて韓を攻め、?丘を囲み、上党を苦しめ、
上党の民はみな背いて趙となりましたが、
天下は秦の民となることを喜ばなくなって久しくなりました。
今趙が滅べば、北の地は燕に組み込まれ、東の地は斉に組み込まれ、
南の地は韓、魏に組み込まれますが、
君の得られる民は数人もいないことでしょう。
ゆえに土地を割く(割譲してもらう)だけにして、
武安君の功としないほうがよいのです。」
◆
於是応侯言於秦王曰:
「秦兵労、請許韓、趙之割地以和、且休士卒。」
王聴之、割韓垣雍、趙六城以和。
正月、皆罷兵。
武安君聞之、由是与応侯有隙。
そこで応侯は秦王に言った
「秦の兵は疲労しておりますので、韓、趙が土地を割譲して和睦するのを許し、
しばらく兵士を休養させましょう。」
王はそれを聞き入れ、韓の垣雍、趙の六城を割譲してもらい和睦した。
正月、すべての軍事を終わらせた。
武安君はそれを聞き、このために応侯と間隙ができた。
◆
其九月、秦復発兵、使五大夫王陵攻趙邯鄲。
是時武安君病、不任行。
四十九年正月、陵攻邯鄲、少利、
秦益発兵佐陵。陵兵亡五校。
その九月、秦はふたたび兵を出し、五大夫の王陵に趙の邯鄲を攻めさせた。
このとき武安君は病気で、任に就けなかった。
四十九年正月、陵は邯鄲を攻め、あまり有利にならなかったので、
秦はますます兵を出して陵を助けた。陵の軍は五人の校尉を失った。
ただ漢文訳してるだけやで
◆
武安君病愈、秦王欲使武安君代陵将。
武安君言曰:
「邯鄲実未易攻也。且諸侯救日至、彼諸侯怨秦之日久矣。今秦雖破長平軍、而秦卒死者過半、国内空。遠絶河山而争人国都、趙応其内、諸侯攻其外、破秦軍必矣。不可。」
武安君は病気が治ったので、秦王は武安君を陵と交代させて将にしようとした。
武安君は言った
「邯鄲はまことに攻めるのが用意ではありません。
さらに諸侯の救援が日に日に到着しており、
彼ら諸侯は秦を恨んで久しくございます。
今秦は長平の軍を破りましたが、秦の兵士の死者は半数を超え、
国内は空になっております。
遠く山河を隔てて人の国都を争おうとしても、趙は内から呼応し、
諸侯は外から攻めますから、秦軍が破られるのは必定です。
してはなりません。」
◆
秦王自命、不行;乃使応侯請之、武安君終辞不肯行、遂称病。
秦王自ら命令したが、行かなかったので、応侯にも要請させたが、
武安君は最後まで辞退して行こうとせず、ついに病と偽った。
◆
秦王使王?代陵将、八九月囲邯鄲、不能抜。
楚使春申君及魏公子将兵数十万攻秦軍、秦軍多失亡。
秦王は王?を陵と交代させて将とし、
八・九月に邯鄲を包囲させたが、攻略できなかった。
楚が春申君と魏公子(信陵君)に兵数十万を率いさせて秦軍を攻めさせると、
秦軍の多くが失われた。
◆
武安君言曰:
「秦不聴臣計、今如何矣!」
秦王聞之、怒、彊起武安君、武安君遂称病?。
応侯請之、不起。於是免武安君為士伍、遷之陰密。武安君病、未能行。
武安君は言った「秦は臣の計を聞かなかったが、今はどうだ!」
秦王はそれを聞き、怒り、強いて武安君を起用しようとしたが、
武安君はついに重病を偽った。
応侯が要請しても、行かなかった。
そこで武安君を罷免して兵士とし、陰密へ左遷した。
武安君は病のため、行けなかった。
◆
居三月、諸侯攻秦軍急、秦軍数却、使者日至。秦王乃使人遣白起、不得留咸陽中。武安君既行、出咸陽西門十里、至杜郵。
三月になると、諸侯が秦軍を攻めること厳しくなり、
秦軍はしばしば退却し、使者は日々やって来た。
秦王はそこで人をやって白起を遣わそうとしたが、
咸陽の中に留まれないようにした。
武安君が出発し、咸陽の西門の十里まで出ると、杜郵に到着した。
◆
秦昭王与応侯群臣議曰:
「白起之遷、其意尚怏怏不服、有余言。」秦王乃使使者賜之剣、自裁。
秦の昭王は応侯や群臣と議論して言った
「白起を左遷したが、内心まだ怏々として不服に思い、
言い残し(不満)があるようだ。」
秦王はそこで使者をやって彼に剣を賜り、自殺を命じた。
◆
武安君引剣将自剄、曰:
「我何罪于天而至此哉?」
良久、曰:
「我固当死。長平之戦、趙卒降者数十万人、我詐而尽?之、是足以死。」
遂自殺。
武安君は剣を引いて自らの首を刎ねようとして、言った
「わたしは天に何の罪があってこのようになったので?」
しばらくしてから、言った
「わたしはもともと死んで当然だ。長平の戦いで、趙軍の降伏者は数十万人いたが、
わたしは騙して埋め尽くしてしまい、これでは死んで当然だ。」
ついに自殺した。
有能な味方はそれこそ有能な敵と同じくらい怖いからね
李牧スレから伝統の素早い兎が死んでってやつや
李牧さんの場合は兎どころでなく
虎がピンピンしてるのに殺されましたね…
あれはアホな王が悪い
◆
武安君之死也、以秦昭王五十年十一月。
死而非其罪、秦人憐之、郷邑皆祭祀焉。
武安君の死は、秦の昭王の五十年十一月であった。
死んでも罪はなかったので、秦人はこれを憐れみ、郷邑はみな(彼を)祭った。
残らないものを含めれば120万は行くだろうから怖いやろうね
王からしたら自分を批判してくるようなやつだから
いつ刃を向けられるか分からないやろうし
同意
この時代は裏切って違う国に行くなんてのもありえないわけでないから
手中にあるうちに殺したい気持ちもわかる
◆
太史公曰:鄙語云
「尺有所短、寸有所長」。
白起料敵合変、出奇無窮、声震天下、然不能救患於応侯。王翦為秦将、夷六国、当是時、翦為宿将、始皇師之、然不能輔秦建徳、固其根本、?合取容、以至?身。及孫王離為項羽所虜、不亦宜乎!
彼各有所短也。
太史公は言う。俗語にいう
「尺も短い所があり、寸も長い所がある
(良いものも悪いところがあり、悪いものも良いところがある)」と。
白起は敵をはかって変に応じ、奇計を用いること極まりなく、
名声は天下を震わせたが、しかし応侯(范雎。白起を自殺に追い込んだ)
の患いを逃れることができなかった。
王翦は秦将となり、六国を滅ぼし、当時においては、翦は宿将となり、
始皇は彼を師としたが、しかしながら秦を輔佐して徳を樹立し、
根本を固めることができず、迎合して受け入れられようとし、
亡くなるまでそうであった。
孫の王離が項羽に捕らえられたのも、もっともではないだろうか!
彼ら(白起・王翦)はそれぞれ短所があったのである。
この人物は罪こそ犯してない、殺したのも相手で秦からみたら敵弱めたわけやし
でも虐殺を止められる立場でありながら止めなかったのも事実