まあその頓死が本当にやばかったワケけど
悼武王后との間に子がいなかったのは良かったのか悪かったのか…
楚軍の攻勢を許し王都間近まで迫られた藍田の戦いに参加してそう。
死んでも悔いはなさそうだし>武王
どこで差がついた
穣候が相になると郡守を任されているし単なる勇士ではないのでしょう
樗里子というエリート中のエリートと並び称される任鄙は貴人な希ガス
戦国乱世真っ只中の半世紀以上
外に血風吹き荒れるものの 内に血生臭い事件ほぼなし
(蜀を除くと)反乱もない 楚や義渠に本土を侵されることもなく
商鞅みたく功臣が粛清されることもない
(白起と応候の末路は微妙だが)
伊闕以降 関東が戦争と殺戮の世紀なことを気にしなければ素晴らしい時代だ
丞相が30年ほぼ変わらない時期あるぶんより安定してる感じですね
楽毅が討ったさい本当はどのくらい強かったんだろう?
合従前年のBC285に秦の遠征軍に敗れ打撃を受けたのが気になる
将も戦場も違うが軍はわからんな
秦でいうと宣王が恵文王に、ビン王は武王・昭襄王
秦にとっての漢中・巴蜀は斉にとっての燕・淮北
秦にとっての韓は斉にとっての宋に当たる
斉が秦に取って代わるor並び立つ条件はそろっていた筈なのに
東西帝国の激突で戦国最大の決戦とか面白そうだけど
斉は外交戦で負けたからなぁ、皮肉にも秦に遠攻近交される形になるという。
・征服は出来ても燕の反乱を抑えれなかった斉
・反旗を翻されるも数十年かけて蜀を完全併合した秦
・楚の扱いの上手さ
この辺の差
秦だって合従軍に関中を攻めこまれてるけど撃退してるし
楽毅もよくわからん、なにか途中まで斉を討つ様子がほとんど見えん。気付いた時にはいつの間にか済水の畔に居て斉軍と戦ってた、みたいな。
一度や二度の敗北で潰れた斉も謎
北部西部の都邑を失ったわけでもないのに僅かな兵力の燕軍の奇襲で王が逃走
戦力の配置がおかしい気がする。
楽毅(燕趙)とは別の意思を持った秦軍と魏の芒卯が不穏な動きしてるから
北部にはさほど戦力は配備してなかった様な気もする
それとビン王の暴政で人材が斉から逃げてたみたいだし、割とそこまで難しいミッションじゃなかったのかもしれない
その蘇代、斉がフルボッコになった頃から趙や燕で
「秦を警戒せよ!」「秦を警戒せよ!」なのが面白い
蘇代の説く秦や秦王のイメージが悪役すぎて笑える
燕が担当した占領地域は海に近い斉の北部東部だろうし守り薄いかもね
・伝統的敵国で伐斉の前から戦火を交えてる西隣の趙
・それなりの大国である宋を占領した部隊
・宋を併合した結果、緊張が高まった秦(と魏)
・強国である南の楚
・済西の役まで大人しかった燕
燕を警戒する理由がほとんどない
いまだに蘇秦兄弟は誰が誰やらよくわからんわ(笑
なんか混ざってるみたいだし
俺がビン王でも同じことやるww
始皇帝って特に悪じゃないよな
後、李信はあの始皇帝に粛清されなかった=信頼って言われることあるが
始皇帝は粛清ほとんどしてないし
どう考えても桁が違う大量殺戮・恫喝外交しまくってる昭王期の皆さんの方が悪逆非道w
ご先祖の君臣は戦争で殺しまくるし外交は文字通り虎狼だったけど
他国を生かさず殺さず、必要な部分だけじっくり吸い上げる名手だった
旧六国全部に蛮地まで統治、治安、防衛、全て面倒見るとかお人好すぎ
24万人殺しとかいう頭のおかしい数字を史書に刻んだ人がいるね
それまでどんな大戦も10万未満、紀元前三世紀前半の戦争狂ってるw
伝説と言っていい戦役だからか、敗れた魏将犀武の名が戦国策等によく出てくるな
伊闕の戦以前は韓魏健在で
秦軍は時々中原うろつく程度だったが
伊闕の前後で底が抜けたよね
河東 河内 韓の勢力が伸びていた南陽
ここらを抜かれたのは痛すぎる
韓はそれ以前にも、秦の武王の時代に甘茂に宜陽を落とされたあたりから
かなり厳しくなったね
魏は伊闕直後に安邑は落とされるし
翌年には玉石混淆ではあろうけど60城余も
失って恐ろしい事になってるな
これって国土が一気に半減するくらいやばいんじゃ?って気がする
甘茂と庶長封による宜陽攻略は痛いが秦軍の損傷が激しく単発で終わったのが救いですね。
楚と魏が無傷なので側面から撃たれると中原に突出した秦軍不利、そのあと秦はやや後退している。
伊闕の恐ろしさは仰るように直後の魏攻略戦でしょうね。抗秦の要である魏はこれで半身を失います。 関東での秦の行動を常に牽制していた黄河対岸の河東郡安邑を中心とする広域喪失で魏韓は黄河水系の支配権を奪われた。
60余城という未曽有の都邑、巨大都市が密集する中原の中の中原、黄河中流域の核心・河内郡があっさり降ったのも分かる気がする。同時にこれは趙国西部&韓上党郡が孤立・不安定化する発端、歴史的意義は相当大きい。
その
魏攻略は司馬錯&白起(&魏冉)
楚攻略は司馬錯&白起
後年、サボタージュ白起と司馬錯の孫が一緒に自害
(近い時期に蔡尉とかいうのもサボタージュで斬られてる)
すごい派閥臭
恵文王時代に征蜀に従事するくらいの重臣で、
昭襄王時代に白起と轡並べてる
少なく見積もっても60~70オーバーだよなあ
たぶん本当の重臣になったのは武王~昭襄王の頃で
恵文王の末年だとまだ30代だろう
魏冉の一回り上、白起の一世代前イメージ
【君主】宣太后・昭襄王
【将相】魏冉
【将軍】司馬錯・白起
寿命は為政者の最も大事な才能だね
無論、蜀への回廊である漢中の責任者もなかなか
上記の人物がよく働けるよう手配した上も偉い
王都・咸陽に迫られた藍田の戦いから楚都陥落までの三十年間
南方へ出る道は楚に脅かされていた、よくまあ蜀を保持できたもんだ
商・於や蜀地の枳や雲南方面に攻勢をかけて落としてるからね
上庸も確保してるし、西部戦線は途中まで結構がんばってる。意外と強勢
戦国時代限定でも一体何回攻められてるんだ
韓ですら首都決戦ほとんどしてないのに、どういうことなの
章邯によると邯鄲の守りは堅いらしいから。
戦国後期の対秦戦で篭城が頻発・長期化したのは邯鄲が西方からの攻撃に強い地勢だから
魏恵王の邯鄲攻略は戦術的に正しく、昭襄王や范雎の邯鄲攻めは無理攻め
秦の昭王武王って略称なの?漢の孝みたいな。
でも恵文王を恵王とか孝文王を孝王とかいう言い方はせんよね
人名等は後世の文献で一字に略される傾向が顕著
恵文王は恵王って略されることあるよ
この人って燕の昭王なのかねぇ?
史記だと子之と戦った太子平が即位して昭王になるけど、学説に依っては、趙によって擁立された公子職が即位して昭王になった、というのがあるんだね
なぜそういう学説が唱えられるようになったのかよく分からないけど、ちょっと面白い
太子平が殺されたとする史料が存在するから
それと燕王職と刻まれたものが複数出土しているのが大きい
百度百科やwiki(中文)の燕昭王は公子職説だから読むといいかも
中文wikiは詳しくていいですね
史記索隠(竹書紀年)と燕王職壺を確認しました
特に出土資料の燕王職壺から、公子職=燕昭王でほぼ確定した
と言っていいかもしれませんね
少し気になるのは、中文wikiのタイトルが燕「昭襄」王となっている点
どこから「襄」が出てきたのだろう?
それにしかも、中文wikiを信じるなら、昭王であり襄王でもある、という諡が並立している説を取っている点も気になる
ありがとうございます。韓非子が出展でしたか
ただ、これを見る限りだと燕昭襄王が正しい表記というよりも、
昭と襄の区別がされてなかったと解釈する余地があるなあ、と思いました
睡虎地秦簡のように、秦昭襄王が昭王、秦荘襄王が荘王と、襄がない表記例がある訳ですし
もしかしたら、昭=荘=襄が混同して伝わったのかも?
諡だと「文」と「ビン(閔)」が混同されているケースもあるしね
参考資料多彩だし考古学の成果を多数採用してるから日本語wikiとかなり違うね
同時期に頃襄王、昭襄王、荘襄王、悼襄王が存在
なんか流行っていたとしか思えない
秦:昭襄王(BC306~BC251)、荘襄王(BC249~BC247)
楚:頃襄王(BC298~BC263)
斉:襄王(BG283~BC265)
燕:昭襄王(BC312~BC279)
趙:悼襄王(BC244~BC236)
魏:襄王(BC318~BC296)
韓:襄王(BC311~BC296)
襄の諡の王、多すぎぃ
というか秦荘襄王と趙悼襄王以外、だいたい同時期の君主じゃないか
荘襄王と悼襄王も同時期の君主だし。同じ時期の君主はだいたい同じ諡を持つ傾向があるのか?
魏:襄王(BC318~BC296)
韓:襄王(BC311~BC296)
当時同盟関係の魏韓、仲良しさんっぷりが際立つ
――そして忍び寄る喪明けの惨劇・・・
バリエーションの問題で二字諡号が同じような時期に流行るのはわかる
それまで諡号にそれほど使われてなかった襄に白羽の矢がたったのかも
周王家は中華帝国をつくってない
なぜ秦室は天皇家になれなかったのか問うべきだ
四海の範囲が大きく広がって白起みたいな一将軍が
周王朝の元勲たちより功績が上だと言われるほどだし
日本の古代中世に天皇家を圧倒する大物が体制外から発生した事はない
西周が秦に対して反抗しようとしたのは、BC258年の邯鄲攻略失敗による秦の関東戦略の大頓挫→弱体化が原因
秦が邯鄲攻略に失敗したのは、当時の宰相・范雎が白起を警戒して、白起の即時邯鄲攻略を却下したせい
なので、周王朝を滅ぼしたのは、間接的には范雎のせいってことになる
BC256年(正確にはBC255年)に秦が滅ぼしたのは、西周公を首長とする「西周」国
周赧王は西周が秦の攻撃を受けた時点で、秦に亡命してほどなく死去
周王が亡命してきたと思ったらいきなり病没されて、秦が狼狽した可能性も捨てきれない
ちなみに周王朝の祭祀はちゃんと秦で存続しているので、
「周王が秦でなくなったらしいよ」
「秦が周を滅ぼしやがった、許せん!」
という六国の宣伝合戦の可能性も
日本も江戸時代までは建前上源氏の一族が幕府を開いていたじゃないですか
つまり日本は今、中国の歴史でいうところの漢までまだ来ていなくて春秋戦国より前の時代にあるのではないか
確か大陸では周室の嫡流は断絶したが、周公旦の魯室の後裔(とされる)の東野氏が後世の王朝で周室の祭祀を継いだという扱いになってたかと。
でもどの歴代王朝も東野氏を日本の皇室みたいな尊重すべき家とせず、数多ある先代の聖王の裔の一つとして捨て扶持を与えて先代の裔を顕彰しているふりをするだけだった。
むしろ孔子宗室の裔の方が遥かに尊重された位。
趙の全軍を率いて出撃したはずの趙括が引き籠ってるのは何でだ?
援軍くるわけないし兵力を恃んですぐ突破しようとするだろ普通
廉頗藺相如列伝だと、軍を二分された上で包囲されてるみたいだし
まあ史記に限らないけど中国の史書の記述は簡潔すぎてよくわからんね
野戦であるし堅陣による完璧な包囲はほぼ不可能
趙括が全軍を率いていなかったのなら理解できるが
趙世家・・・・・・
秦軍に包囲されて、趙括が降伏。四十余万の兵が生き埋めにされた。
秦世家・・・・・・
武安君が攻撃して、趙の四十余万を尽く殺した。
廉頗藺相如列伝・・・・・・
白起が趙括を誘い出して、糧道を遮断した上に趙軍を二分。趙軍の士気は壊滅。
四十余日後、軍が飢え出したので趙括が精鋭の軍を率いて出陣するが、秦軍は趙括を射殺する。残りの趙軍は秦軍に降伏。生き埋めにされる。
白起王翦列伝・・・・・・
白起が秘かに秦軍の上将軍となる。
趙括を壁まで誘い出して、二万五千で趙軍の背後を遮断。五千騎で趙軍を二分。
そこから秦の軽兵が趙軍を圧倒。勝てない趙軍は壁を築いて堅守し、救援が来るのを待つ。
長平の情勢を知った昭襄王は河内で徴兵して、趙軍の救援および補給を絶つ。
包囲されること46日で、趙軍飢える。秦軍、土塁を築いて趙軍をさらに包囲。
趙軍、四隊を作って四、五回攻撃させるがを勝てない。
趙括自身が出陣するが射殺される。
残りの趙軍40万が白起に降伏し、捕虜45万が斬首される。
そうなればいくら趙軍が全軍で出撃しても秦軍が展開する包囲陣を一度の攻撃くらいでは安易に打ち破れないものだったんだろう
おまけに退路は断たれてるうえに、普通に考えれば陣所を打って出た趙軍は輜重を携行していないだろうから、食料だけでなく陣所を構築する資材や武器や矢も精々持ち出した量でしかないからジリ貧に陥るのはそう遠くない趙軍にしてもおそらく包囲陣を突破するために幾度も攻撃は試みただろうけど、早いか遅いかの差は不明でも準備をしている側とそうでない側の差は顕在化する
決定的なのは秦将が実は白起だったって事もあるだろうね
加えて食料が不足して退路も失い状況が停滞し続ければ戦意も戦闘力も萎えてまう