1871年1月18日から1918年11月9日まで存在した
3代のドイツ皇帝によって統治された国、ドイツ帝国
(Deutsches Reich、第二帝国)について語ろう!
このうちドイツ皇帝はプロイセン王を兼任。
プロイセン王国の首都ベルリンがドイツ帝国の首都。
【王国 Königreich】
プロイセン、バイエルン、ヴュルンベルク、ザクセン
【大公国 Großherzogtum】
バーデン、メクレンブルク=シュヴェリン、ヘッセン、オルデンブルク
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ、メクレンブルク=シュトレリッツ
【公国 Herzogtum】
ブラウンシュヴァイク、ザクセン=マイニンゲン、アンハルト
ザクセン=コーブルク=ウント=ゴータ、ザクセン=アルテンブルク
【候国 Fürstentum】
リッペ、ヴァルデック、シュワルツブルク=ルードルシュタット
シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン、ロイス(弟系)
シャウムブルク=リッペ、ロイス(兄系)
【直轄州 Reichsland】
エルザス=ロートリンゲン(フランス名、アルザス=ロレーヌ)
【自由都市 Freie Stadt】
ハンブルク、リューベック、ブレーメン
「うるせえ!ガタガタ言わずに皇帝に即位して統一ドイツ作りやがれ!」とビスマルクが一喝して成立した国。
ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝即位を渋ったのはドイツ帝国が成立してしまったら由緒あるプロイセン王国が帝国の事実上の一州になりかねないと考えたから。
事実、孫のヴィルヘルム2世の時代になるとプロイセンは独立王国としては半ば形骸化していた感がありヴィルヘルム2世自身、もはやプロイセン王を名乗ることは殆ど無かった。
初代皇帝 ヴィルヘルム1世
第七代プロイセン王。仇名は白髭王(バルバブランサ)
ビスマルクや息子の助言により仕方なくドイツ皇帝になったらしい。
(一日前まで皇帝即位に駄々をこねてたという伝説がある。)
普仏戦争でフランスで勝利し敵国フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位。
別名、皇帝ビスマルク1世の操り人形。
だが本人は決して無能ではなく軍制改革を実行するなど政治的に才能があった。
二代皇帝 フリードリヒ3世
自由主義者であり、国民からの愛称は「我らがフリッツ」(フリードリヒの愛称=フリッツ)
第八代プロイセン王。前代ヴィルヘルム唯一の息子。
親父であるヴィルヘルム1世にドイツ皇帝になるように説得した。
だが即位前から患ってた喉頭癌のためにわずか3ヶ月と9日で死亡。
最も影が薄い皇帝。
三代皇帝 ヴィルヘルム2世
第九代プロイセン王。前代フリードリヒの長男。
ビスマルクをクビにした挙句、自国よりも他国侵略を目論む植民地政策に走り
また日露戦争後に黄色人種国家打倒を唱えたがシカトされた。
差別政策やイギリス・ロシア両帝国との関係悪化、侵略政策により批判が増大。
そしてWWIでオーストリアの味方としてむりやり参戦させるが不満が爆発した部下たちにより権利を剥奪、皇帝も退位させられる。
オランダに亡命後、寂しく他界。
ホーエンツォレルン家は存続している。
現在の本家当主(プロイセン王系)
ゲオルク・フリードリヒ・フェルディナント(32)
王家の者としての名はゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン
「殿下」の敬称、イギリス王位継承順位151位を持つ。ベルリン在住。
独身。キラ王女財団理事長を勤める。
一応、ここまでまとめてみたぜw
まぁ今のロシアの中にも「~~共和国」とかあるが。
というより、だから帝国っていうんだろう
諸王の上に立ってたり
諸民族の上に立ってたりするから帝国なわけで。
(訳語の問題でインカ帝国みたいなのもあるけど)
プロイセンの方が大事だったんだよな。
対外政策より内政充実に努めたのもプロイセンの権力を維持したままで安定させたかったとかなんとか
正式名称は「ドイツ国」(ドイチェス ライヒ)なんだけど。
実際、連邦国家だよね。
帝国の中に王国があるとかわけ分からん仕組みだけど。
プロイセン人を初めとして、バイエルン人、ザクセン人、ヴュルテンベルク人、バーデン人、ヘッセン人などの「諸民族」を統治する「他民族国家」であるから、「ドイツ帝国」という名称。実質上国民国家だけどね。
ドイツ帝国はプロイセン王を皇帝に戴く連邦制の国家ではあったが諸邦国は自治権を有しており、諸侯たちも地位がきちんと認められていた。
だが帝国そのものの君主はやはり皇帝であり、皇帝の即位式には諸侯たちが一同に会して皇帝を自分たちの盟主として仰いだ。
そしてドイツ帝国が崩壊したときも皇帝の退位と共に諸侯たちは皆退位し、王朝は全て葬り去られた。まさに一蓮托生だったわけだな。
あぁ、そういうことなのか。
王国は形だけってことか。国王、大公とかで何が違うんだろ。
それと自由都市って何だ?ハンザ同盟の都市と同じか?
もともと東プロイセンは1000年くらい前にドイツ騎士団領だったのが起源。
日本で言う東北地方みたいな物。やはり正統的なドイツ本流は今のドイツの範囲だろう、と思ってあきらめるしかない。
プロイセンも、もともとポーランド王の封建家臣だしね
>プロイセンて嫌われものなん?
有名な話がある。(実話かネタかを自分で本当に確認してはいないが。)
あるとき、西ドイツのバイエルン州の都市で電車(バスだったかな?)の交通事故が起こり、かなりの死者が出た。犠牲者の中に、西ベルリンからの旅行者が一人混じっていた。
そうしたら翌日の地元の新聞(地方紙)の見出しに「死者、男性○名、女性○名、プロイセン人1名」と出ていたそうだ。バイエルンではプロイセン人は人間ではないらしい。
それは、当時のプロイセンが「東ドイツ」にあった事が理由。
今のドイツに残ってる旧プロイセン王国領ははベルリンとブランデンブルク州だけか。
ドイツってかつてはプロテスタントじゃなかったら正統派っぽくなかったけど、(ポーランド侵攻の時、カトリックのドイツ人が殺されたのを聞いたことがある。)今やプロテスタントは少数派だね。西ドイツなんてカトリック連合だったし。オーストリアと南ドイツを合わせるとカトリックが多い。
二人の皇帝が立て続けに崩御しちゃったから。
ところでフリードリヒ3世は即位式は結局してないのかな?
99日だったと思う。
インテリで社会福祉事業に熱心な嫁だったそうな。
彼女の影響でフリードリヒ3世も自由主義的思想を抱き、そのため彼は父帝や鉄血宰相と思想面で対立していたとか。
衝突らしい衝突はしてないだろ
老皇帝と鉄血宰相は保守的という点では一致していたが、それでも衝突することは少なくなかった。普墺戦争でも、戦争の続行を望むヴィルヘルム1世と戦争の早期停戦を主張するビスマルクの間で意見が真っ向から分かれ、ヴィルヘルム1世を説得させるためにビスマルクは建物の窓から飛び降りたりまでしている。
こうして意見が対立することもあった二人だが、いつも最後には皇帝が宰相のいうことに従った。老皇帝はビスマルクが自分以上に帝国に必要とされている存在であることを謙虚に認めていたからだ。
剛直な武人だったからこそ、ヴィルヘルム1世はビスマルクをの能力を謙虚に認め、全面的に彼に政治を委ねた。
「鉄血宰相」の最大の理解者は他ならぬ「白髭王」ヴィルヘルム1世自身だったのだ。
ローンと大モルトケを忘れるな。
中々絶妙なコンビだぞ。
創業は易く守成は成り難しとは、将にこの事だ。大陸国家の宿命と言えよう。
欧州最高級の能率的な官僚機構
欧州最高峰の兵士、将校、科学技術者
を持っていたドイツ帝国。
強過ぎる故に自己過信と周囲の警戒を招いて1945年に全国土を占領されるまで「世界に冠たるドイツ」の夢想から醒めることは無かった
過信しているわけじゃないでしょ
二次大戦の軍部はフランスにも勝てないと思っていたようだし
というかヴィルヘルム2世が悪い
カリギュラにたとえられたこの皇帝が死んでいれば
世界はもっと平和だった
いや別に生きていてもいいが
オーストリアはほっておけばよかった
最低でも海軍作ってイギリスを刺激しなければよかった
当時のドイツの政治システムは、国内のロビーをうまく調整できるようになっていなかった。
海軍大増強という巨大な内需のおかげで重工業(軍需)が潤うことになり、輸出が多少減っても大丈夫ということになったため、政府は外国農産物の輸入を規制(農業関税をアップする)して国内の農業関係者の支持を集めるという政策に転換した。
でもそれが結果としてイギリスとの対立を招き、帝国は崩壊してしまった。
海軍作ることの何がいけないのかと思うかもしれない。確かに軍縮条約を批准していなかったら別に国際法上は問題ない。けれども、そういう問題じゃなくて、イギリスは巨大な大陸勢力を歴史的につぶしてきたのを認識するべき。
そもそも、イギリスと違ってドイツはショボイ植民地しか持っていないのだから、大海軍は必要ないわな。
1897年に海軍長官に就任したティルピッツ提督の主導のもと、まず1898年に「建艦法」を、続いて1900年に「第2次建艦法」を制定して、1920年までに戦艦38隻を常備するという大計画をぶちあげた。
当時のドイツは経済的に著しい躍進を示しており、特に重工業は90年代のうちにイギリスを凌駕、20世紀に入る頃のGNP成長率はイギリスの2倍にも達していた。しかも人口も増えていて国中に若々しい活力が溢れていた。
イギリスで起こった第一次産業革命はそのほとんどがアマチュアの手になるものであったのに対し、第二次産業革命では、専門家に主導権が移ってしまった。
ドイツ人はいきあたりばったりの研究方法を廃止して、工業学校や工科大学で専門家を育成した。したがってときおりの天才や幸運な思い付きを待たなくても、進歩が見られた。この知識の訓練は技術をこえて純粋科学に、科学をこえて学問全般に適用された。
ヴィルヘルム2世
まさに当時の「ドイツ人」の典型的な姿をしていたからね。というか、あの人の髭を真似る人が多かったから、帝政期のドイツ人の標準的な姿は髭の印象があるが。でもあの人って意外にも二次大戦中盤まで生きていて、ドイツ軍がパリに入場した時は、予の軍隊がフランスに勝利した、とか相変わらずお馬鹿な発言をのたまりましたが。
その時その時で目的ははっきりしていた。
ただ、その目的がころころ変わっただけの話だ。
(植民地を含まない。単位は100万ゲアリー=ケイミス・ドル)
米 312866
英 176504
露 154049
仏 115645
独 99227
墺 50272 (含ハンガリー・チェコ・スロバキア)
日 50045
(Monitoring The World Economy 1820-1992 OECDより)
この力関係は、WWIまで大きくは変わらない。
基本的に
ドイツの総生産はアメリカの1/3未満(1915-1918年は1/4未満)
イギリス本国の6割未満(1916-1918年は半分未満)
フランス本国と同程度(1915・1916年あたりはフランスの完勝)
1917年にはイタリアにも追い抜かれる。
オーストリア・ハンガリー帝国は、そのドイツよりも更にずっと下。
GDPと工業生産は別なんだろうか
工業生産では米独英仏露の順だったと思うが
カトリック地域(バイエルン、ポーランド人の多いポーゼン)の人口が増えた
ロシア帝国からもポーランド人が大挙してシュレジェンやルールに移住してきた
ヴィルヘルム2世は欲張りすぎたんだよな。
自国本土だけでなく植民地支配まで…。
チュートン騎士団領
チュートン騎士団領のハンザ都市
→プロイセン連合を結成しポーランドと同盟
→ポーランド王国に加盟
→ポーランド王国滅亡
→自治権剥奪
その他
帝国都市(ハンザ都市含む)
→宗教改革
→自治権剥奪
双方のその後
ナポレオン戦争
→ドイツ連邦
→自治権回復
→自由都市
君臨すれども統治せずの精神があったら…
国家の上に、超国家機関として参謀本部があったのが最大の問題点だと指摘されてない?
皇帝すら参謀本部の意思に従わざるをえなかったそうだし。
軍事はそうだね。結局そのせいで皇帝が反対していたのにもかかわらずWW1の回避ができなかったし。軍事的必要性という言葉で政治が押し切られたという意味でも悪例。
政治では皇帝の鶴の一声ですべてがひっくり返ってしまうし、実際にひっくり返ってしまってフランス封じ込めという国家戦略が破綻した。