名前は、アブラハム、姓はリンカンと表記されることもある。
弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、1861年3月4日、第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。
1861年からの南北戦争で北部を指導、1863年に奴隷解放宣言を出した。
第2期途中の1865年に暗殺された。
アメリカ合衆国では「偉大な解放者」であり、国家の統一と民主主義を守った大統領として尊敬されている。
『機動戦士ガンダム』のジオン・ズム・ダイクンのモデルの人物でもある。
エジソン
ベイブルース
アメリカで神格化されてるやつは性格に難があるやつがおおい
昔はそれをむりやり人格者みたいに仕立てたが
ワシントンはまだまとも
① 表の評価
エイブラハム・リンカーンというアメリカ大統領がいる。
1809年生まれ、1865年没の元弁護士で、
イリノイ州議員、上院議員を経て、
1861年に第16代アメリカ合衆国大統領に就任した人物である。
一般には「奴隷解放のために南北戦争をしてまで戦った
偉大な解放者」「奴隷解放の父」として有名である。
ワシントンやケネディと並び、歴代大統領の中でも
最も人気のある人物の一人である。
昭和天皇ですら昭和20年8月14日深夜、
玉音放送の吹き込みを終わって皇居の自室(御文庫)に戻ってから、
すぐにやったことはそれまで飾ってあったナポレオン像を仕舞い、
代わりにリンカーンの像を飾ったほどに有名な人物であった。
だがその実像は首を傾げざるを得ない、
とても偉大とは言えない人物であった。
例えばリンカーンが行った功績の中でも
最も有名な奴隷解放についてだが、
南部諸州の一部にのみ限られ、北部では解放しなかった。
より詳しく言えばね南部諸州の中でも
ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・フロリダジョージア・
アラバマ・ルイジアナ・テキサス・アーカンサス・ミシシッピの
9州の奴隷が自由民であると言ったのみであり、
メリーランド・テネシー・ケンタッキー・ウェストヴァージニア・
ミズーリの5州、および北部に逃亡した奴隷は
奴隷身分のままであった。
これは“敵”である南部諸州の産業を
タダ同然で支えている奴隷を解放すれば、
ちゃんと賃金を払って労働させねばならなくなり、
南部の産業が破綻して
経済力が大きく減衰することが見込めたからであった。
黒人の人権向上のために行った政策ではなく、
敵対する南部連合を経済的に破綻させ、
北部連邦の支配のもとに組み込むための政策だったのだ。
黒人の地位の向上に貢献しなかったのだから、
南北戦争の結果、黒人奴隷たちはせっかく解放されたものの、
白人たちのように新しい職場を見つけられたわけではなく、
結局多くの人間が元の雇用主の元に戻って働く事となった。
また工業が発達しタダ同然の奴隷の労働力を
多分に必要としていた北部では、
リンカーンは1人も奴隷を解放しなかった。
南北戦争の前と後で、黒人の立場は
何ら変わりはしなかったのである。
リンカーンが大統領になる前、アメリカでは、
黒人奴隷を使って安い綿花や農作物を生産・輸出していた。
タダ同然でこき使える大量の奴隷によって作られた商品に
国際競争で立ち向かえるわけがない。
アメリカを警戒したイギリスの首相パーマストーンは
黒人奴隷の解放を唱えた。
黒人の人権のためではなく、
アメリカの経済基盤を壊滅させる事を目的としての事である。
今でこそ世界最強の超大国であるものの、
当時のアメリカは若く弱い国だった。
反対に当時のイギリスは圧倒的な軍事力を誇り、
首相のパーマストーンは老獪かつ強硬派として恐れられていた。
アメリカとしてはイギリスに睨まれればひとたまりもなかっため、
強国イギリスにこびへつらう政治家としてリンカーンが人気を集めた。
リンカーンはパーマストーンを味方につけるため、
彼の望む奴隷解放宣言をうたって大統領に当選したのである。
表向きは奴隷解放論者、その実態は売国奴であるリンカーンの就任は、
綿花栽培で奴隷を必要としていた南部の諸州の態度を硬化させた。
結果としてサウスカロライナ州などが
アメリカ合衆国連邦に見切りをつけて脱退。
1861年2月には11州からなる"南部連合"が誕生した。
イングランドとフランスがこれら南部地主階級を支援した。
同年4月、サムター砦の戦いを機に
北部連邦と南部連合の間でシビル・ウォー──
日本でいうところの"南北戦争"が勃発する。
この戦争の中でリンカーンは1962年に「奴隷解放予備宣言」、
翌年に「奴隷解放宣言」を発表し、戦争に勝利する。
そして400万人に及ぶ奴隷を"解放"し、
後世「全ての人間は生まれながらにして平等」という
米建国の理念を体現した、偉大な人物として称えられるようになった。
しかし先にも述べた通り、南北戦争に勝った後黒人奴隷は解放されたものの、
元々黒人の人権向上になどに興味がなかったリンカーンは、
戦争で勝利した後もそちらに関心を向ける事はなかった。
その後もアメリカは黒人を低賃金で働かせ、国際競争力を向上させる事になる。
さらに南北戦争が終わった頃、イギリス首相パーマストーンは倒れ、
そのまま亡くなった。
そのため当初の目的だったパーマストーンのご機嫌取りをしなくてよくなり、
奴隷解放宣言についてはもう済んだ話として、完全になげうってしまったのである。
リンカーンの演説については多くが文書化して残されている。
その内容からも、リンカーンは黒人の人権向上に関心がなかった事が伺える。
「この戦争における私の至上の目的は、アメリカ合衆国連邦を救うことにあり、
奴隷たちを救う事でも奴隷制度を滅ぼすことでもない。
もし奴隷を一人も自由にする事なく
連邦を救うことができるものなら、私はそうするだろう」
(南北戦争の目的『リンカン演説集』岩波文庫)
また、奴隷解放論者のダグラスとの討論の中でも、
リンカーンはこう述べている。
「私は現在もこれまでも、
白人と黒人による社会的平等や、政治的平等の実現を好んだことはない。
黒人を有権者にしようと望んだ事は一度もない。
黒人を陪審員につけたいと思った事も1度もない。
黒人を公職につかせようとか、
黒人と白人の結婚を許そうなどと思った事もない」
「私はここにいる皆と同じように、(黒人に対して)
白人に与えられている優位な地位を保持する事を望いでいる」
リンカーンはこの後「ただ、白人たちが優位な地位にいるからといって、
黒人たちの全てが否定されて良いということにはならない」
と言って、黒人解放を訴えるが、
先に述べた通りそれは黒人の人権向上を目的としての事ではなく
南部経済を壊滅させて北部のアメリカ連合の下に再統合する事を
目的としての事なのだ。
エイブラハム・リンカーンはヒューマニストで、
黒人も白人も平等に扱った博愛主義者だと言われている。
これは全くの間違いである。
それどころかリンカーンほど、先住民族、
いわゆるインディアンに対して
冷酷無比な政策を実行した大統領はいない。
黒人やインディアンアメリカンに対して、
「人間扱いしなかった」のがリンカーンである。
そもそもリンカーンの妻メアリー・トッド・リンカーンからして、
ケンタッキー州で大量の黒人奴隷を酷使していた
奴隷主の娘である。
当時の社会常識として「黒人は白人より劣る人種で、
決して白人と同じ土俵に立ってはならない」という信念があった。
リンカーンも死ぬまで同じ信念の持ち主だったのだ。
だからゲティスバーグでの演説における
有名な「人民の、人民による、人民のための政治」
というフレーズにある「人民」とは、
選ばれた民である「白人」だけを意味したというのが真実である。
リンカーンは南北戦争に勝利して黒人奴隷を解放した。
その後何をしようとしていたか?
人種差別主義者の集団であるアメリカ植民地協会に賛同し
黒人奴隷たちをアフリカ西部沿岸にある植民地リベリアへと
まとめて強制送還しようとしていたのである。
人類史上まれにみる大虐殺者と言われるアドルフ・ヒトラーの目的は
シベリアにユダヤ人の国を作り、ヨーロッパ中のユダヤ人を
まとめてそちらへと強制的に移住させる事だった。
そのため多くのユダヤ人がロシアに近いポーランドへと運ばれた。
しかしソ連との戦争に敗れて計画が破綻し、
ポーランドに移送したユダヤ人らをまとめて"処分"する事になった。
その結果がアウシュヴィッツなどで行われた民族浄化だが、
これらについてはヒトラーの命令書がないため、
果たして本当に彼の命令だったのかは貞香ではない。
例えは悪いが、リンカーンも米国在住の黒人たちに対して
同じような事を行おうとしていた人物なのだ。
リンカーンの祖父は同じ名前のエイブラハム・リンカーン。
また幼かった父親の目の前でネイティヴアメリカン、
いわゆるインディアンに殺されたという。
(単にネイティヴアメリカンと言う場合はハワイ先住民など、
様々な異民族同士がごっちゃになって紛らわしいので、
ここではインディアンと呼ぶ)
原因は不明だが、白人たちが先住民族に対して行ってきた
卑劣きわまる侵略行為の数々からかんがみるに
祖父も恨まれるようなことをやった結果として殺された可能性が高い。
父親はリンカーンの祖父がインディアンに殺されたという事を
幼いリンカーンに何回も語り聞かせたとみられる。
その結果リンカーンはインディアンに対して異常なまでの憎悪を抱くようになった。
成長したリンカーンは政界に出る前、独学で法律を学んで
弁護士として働いていた時期があり、その頃からインディアンに対して
激しい憎悪を抱いた言動が見られていた。
また、若かりし頃のリンカーンはインディアン排斥主義者に傾倒していた。
彼が傾倒していた一人であるヘンリー・クレイは
「インディアンの絶滅は損失などではない!」
「インディアン共に人間としての価値はない!」
と公言していたほどの筋金入りの差別主義者である。
これらのの結果、どれほどリンカーンが対インディアン討伐に情熱を燃やしたか。
いかにリンカーンが若い頃実際に戦闘に参加したり、
いかに大統領として虐殺命令を出したりしたかの経歴は、Wikipediaにも載っている。
人間を人間扱いせず、生涯を通じて「人間狩り」に精を出していたのだ。
悪名高い「ホームステッド法」もリンカーンが制定した。
インディアンたちに狩猟や遊牧といった本来の生業を禁じ、
定住させて農業をすることを強制したのである。
その目的はインディアンの伝統的な社会慣習や文化を捨てさせる事であった。
紀元前から北米大陸で狩猟をして暮らしていた先住民族に対し、
ほんの数百前に来ただけの白人が、どうしてこうも偉そうに指示するのか。
当然ながらこれはインディアンたちの不満を蓄積し、暴動を起こす種となった。
が、それこそが白人にとって思う壺であった。
さて、リンカーンが若かりしころの1840年代は、
彼自身もインディアン部族の討伐に兵隊として参加していた。
この時代はアメリカ政府そのものが、北米大陸全体で
インディアン部族と「戦争」をしていた。
ヨーロッパで食い詰めたならず者たちが勝手にアメリカ大陸に移住して来て、
先住民族を思いつく限りの非道な方法で追い出しにかかっていたのだ。
当時のインディアンらはバッファロー(バイソン)を生活基盤とする
独自の生活、経済を持っていた。
インディアンらは食べる分だけバッファローを狩っていたが
これが狩っても狩ってもいなくならないので、生涯にわたって
食料の不安のない安逸で豊かな生活を送っていた。
そこで白人どもはバッファローさえ居なくなれば、
インディアンたちは食糧が尽き、暮らしが立ち行かなくなると考えた。
そこで政府は何千人というハンターを雇って、
食べるわけでもないのに数千万頭のバッファローを殺させた。
これにより全土に膨大な数が生息していたバッファローは絶滅寸前にまで激減し、
インディアンたちはついに白人に降伏せざるを得ないところに追い込まれた。
この写真はリンカーンが任期を終えた5年後の1870年代に撮影されたもので、
山のように積み上げられているものはすべてアメリカバイソンの頭骨だ。
写真に写っている2人の男性は、頭骨を足で踏みつけて誇らしげにポーズをとっている。
たった2人のハンターだけででいったいどれほどの数の
バイソンが殺されたのかよくわかるというものだ。
それを膨大な数のハンターで行ったのである。
18世紀に北アメリカ全土で約50億羽が棲息したと推定されるリョコウバトを
絶滅させたのも彼らアメリカ人である。
ただ油を取るためだけに膨大な数の鯨を殺しまくり、
絶滅に追いやったのもアメリカだ。
その数たるや日本の捕鯨数など比較にならない。
そういう国が正義の旗印を掲げ、躍起になって
戦後日本の捕獲量を抑えた捕鯨活動を批判・妨害してきたのである。
リンカーンの制定した「ホームステッド法」により、
アメリカ政府は生活が破綻したインディアンに、
そこに定住すれば年金は支給してやると言って騙し、
指定した荒れ地に強制移動させ、挙句その年金さえ払わなかった。
例えばアメリカ政府はインディアンのチェロキー族の
女子供や老人を含める部族全員を強制移住させた。
ジョージアからアリゾナまで、千数百㎞もの距離を、
雪の降る酷寒の中延々と歩かせ、
12000人のうち8000人以上を死亡させた。
むろん意図的に殺すためにそのような真似を強要したのである。
同じようにインディアンのナバホ族も年金不払いを当局に訴えた。
しかし、ナバホ族の住む土地に金鉱があると考えられたため、
白人の軍隊によってナバホ族の家や畑が焼き払われ、
家畜や女性は奪われ、逆らうものは撃ち殺された。
ナバホ族は大虐殺や伝染病でやら膨大な数の人口を減らされ、
生き残った者も殺されるか、灼熱不毛の地にある
ボスク・レドンド強制収容所へ送られた。
この強制収容所は、アパッチ族という
別のインディアン部族を収容するためのものだった。
ナバホ族の土地からは300マイル(約483km)も離れていたのだが
リンカーンの大統領就任2年目となる1862年に
米政府は女子供や老人を含めて、そこまで徒歩で歩かせた。
ピクニックではない。疲れたら休む事もできない。
満足に食事や睡眠をとる時間もない。
立ち止まれば殺される。
その結果子供や老人の中には、刑務所に着く前に
死んでしまった者も多かったという。
やっと着いた収容所ももちろん安穏ではなく、過酷な労働をさせられたり、
暴力や性犯罪に遭うはめになった。
ホロコースト支持者であるリンカーンが殺され
3年経った1868年になって、やっと和平条約が調印され、
それまでにナバホ族だけで2,000人以上が亡くなったといわれている。
アメリカ全土で見たらリンカーンの在任中だけでも
インディアンのうち何万人が被害に遭ったのだろうか。
考えるだけで背筋寒くなる話である。
さまざまな部族へのこうした強引な移住政策に対して、
起こるのも当然な部族の暴動が起きると、
米政府は武力と権力によって徹底した弾圧および虐殺をやってのけた。
それを行った人物がリンカーンなのである。
歴代有数の人種差別意識に凝り固まり
組織的かつ大規模なホロコーストを実行した冷酷な虐殺者であった。
リンカーンは南北戦争の間も
黒人奴隷制度を維持する事を望む南軍の打破など無視して、
連邦軍を使いインディアンに対して凄惨な虐殺と土地収奪を行ない、
強制収容所への移送と監禁を徹底的に行なっていた。
リンカーンはニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州で、
インディアンとの数多くの協定を一方的に破棄して、
大虐殺、強姦、放火、略奪を行なった。
有色人種に対する「約束」という観念など
全く持ち合わせていなかったのだ。
これでわかったろう。
リンカーンが演説で述べた 「人民の人民による人民のための政治」の意味が。
人民とはただ白人のみをさす言葉で、
白人による絶対支配を唱えたのである。
有色人種はアメリカの「人民」の中には含まれてはないのだ。
わが国では「士農工商穢多非人」と言うが、リンカーンにとっては
白人>>>>>猿>>>>>黒人>>インディアンの順だったのである。
こうした時代、ミネソタ州のインディアンである
ダコタ族(スー族)が平和に暮らしていた地域で
黄金(ゴールド)が採れるという情報が流れた。
そして黄金目当てに白人たちが大挙して襲来し
彼らを一方的に虐殺して追い払った。
またダコタ(スー)族は、アメリカ政府が保証したはずの
年金・食料の配給を止められた。
何度も当局に訴えたものの徹底的に無視された。
インディアンにはアメリカへの入植が始まった頃は、
白人を襲う部族もいたが、この時代は友好的な白人に
自ら攻撃を仕掛けることはほとんどなかった。
それが進退窮まってついに暴動を起こした。
これに対し、当局はダコタ・スー族が起こした暴動を「戦争」と称し、
反撃という大義名分として大規模な武力鎮圧を仕掛けた。
担当者は「私の目的はスー族皆殺しにする事だ」と宣言した。
リンカーンはこれを全く止めなかった。
結果としダコタ・スー族総勢2,000人のうち、5分の1にあたる
392人が軍事裁判にかけられ、そのうち38人が同時に絞首刑に処された。
アメリカ史上最大最悪の処刑記録である。
もしかしたら世界史上でもそうかもしれない。
リンカーンはその後もダコタ・スー族への年金を一切支払わず、
本来彼らに市は割られるべき資金を、
ダコタ戦争で亡くなった白人遺族への慰留金にあてた。
リンカーンがそうした姿勢を見せたため、
ミネソタ州の役人もダコタ・スー族の絶滅に動いた。
女子供問わず賞金首にして皆殺しを推奨し、
それに煽られた人々も大虐殺に加わったのである。
そしてその後、彼らの先祖伝来の聖地であるラッシュモア・マウンテンに
リンカーンをはじめとする、人類史上最も卑劣な征服者、虐殺者たちの顔を、
戦勝記念としてデカデカと刻みつけた。
まさに悪魔の所業である。
今ではその由来も知らぬ日本人が、無邪気に観光に出かけて
素晴らしい景観だとマウント・ラッシュモアの写真を撮ったり、
リンカーンを「偉大な解放者」「人種差別を解消した偉人」「平等思想の持ち主」
などと囃し立てているのだから、呆れた話である。
まあ日本でも東北地方に住む原住民たちを
最先端の武具で武装した朝廷軍によって大虐殺し、服従させた
坂上田村麻呂を崇め、その巨大な像を練り歩かせる
「ねぶた」という祭が毎年盛り上がっているのでよその国の事は言えないが。
なおユダヤ人はホロコーストを行ったナチスのアドルフ・ヒトラーを
悪魔の化身として憎悪し
日本もその同盟国であったくせに戦後は世界世論に追従して、
同じようにヒトラーを悪の権化として叩きまくっている。
その一方でリンカーンに対しては人権解放者、
博愛主義の偉人だと持てはやしている。
実際にはリンカーンはインディアンにとってアドルフ・ヒトラーと同様、
いやそれ以上の大殺戮を行った極悪人であるにも関わらずだ。
リンカーンの行った大虐殺の中でも
これらダコタ戦争と言われるダコタ・スー族への民族絶滅政策は、
ボルシェビキとナチ両者によって行なわれた民族絶滅政策に、
極めて強い影響を与えたと言われる。
ちなみにリンカーンが大統領だった時代(1861~65年)は、
日本では坂本龍馬や新撰組が活躍していた時代である。
明治維新によって成立した明治新政府は、
北海道のアイヌ民族への過酷な絶滅政策を行なったが、
実はこれについても稀代の大殺戮者・リンカーンの
ホロコーストを手本にした可能性が高いのだ。
リンカーン暗殺後、敗北した南軍 (アメリカ連合国) の白人支配層は、
KKKを組織し、黒人へのリンチや焼き打ちを行なった。
それは事実上の奴隷制の延命である。
さらには1876年に人種差別を正当化する法律が
最高裁の判決によって決定された。
個人や企業などによる公民権の侵害を差別としない事が裁決され
すべてのアメリカ人に与えられたはずの公民権は、
法制化により有名無実化された。
通称「ジム・クロウ法」という、アメリカ合衆国南部諸州の
人種隔離法によって、
合州国全域で学校、交通機関、公共施設での黒人分離は
人種差別に当たらないという、公然とした差別が行なわれ続けたのである。
これは黒人だけでなく黒人との混血児、
在米中国人や日本人といった黄色人種にも適用され、
水飲み場ひとつをとっても白人と同じ場所の使用は認められなかった。
例えばアラバマ州では白人と有色人種が同席できるレストランは法律で禁止。
電車もバスも白人とそれ以外は席が別。
病院にしても白人女性が勤務している病院への黒人立ち入りは法律で禁止。
フロリダ州では4世代前までに黒人の血が一滴でも入っていれば法律的に「黒人」であった。
白人の学校には「黒人」の入学は禁止。
白人と「黒人」が交際したり、一緒に住んだり、あるいは同じ部屋で一夜を過ごしただけでも
12ヵ月以上の禁固刑か当時の額で500ドルの罰金。
白人と「黒人」の結婚も禁止であった。
このようなアパルトヘイト政策と全く変わらないレイシズムが、
1960年代に公民権運動が激化するまで、ずっと公認されていたのである。
さまざまな部族へ強引な移住政策を命じ、
それに対して起こるのも当然な部族の暴動が起きると、
米政府は武力と権力によって徹底した弾圧および虐殺をやってのけた。
それを行わせた人物がリンカーンなのである。
歴代有数の人種差別意識に凝り固まり
組織的かつ大規模なホロコーストを実行した冷酷な虐殺者であった。
リンカーンは南北戦争の間も
黒人奴隷制度を維持する事を望む南軍の打破など無視して、
連邦軍を使いインディアンに対して凄惨な虐殺と土地収奪を行ない、
強制収容所への移送と監禁を徹底的に行なっていた。
リンカーンはニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州で、
インディアンとの数多くの協定を一方的に破棄して、
大虐殺、強姦、放火、略奪を行なった。
有色人種に対する「約束」という観念など
全く持ち合わせていなかったのだ。
これでわかったろう。
リンカーンが演説で述べた 「人民の人民による人民のための政治」の意味が。
人民とはただ白人のみをさす言葉で、
白人による絶対支配を唱えたのである。
有色人種はアメリカの「人民」の中には含まれてはないのだ。
わが国では「士農工商穢多非人」と言うが、リンカーンにとっては
白人>>>>>猿>>>>>黒人>>インディアンの順だったのである。