中世ヨーロッパの初期において巨大なフランク王国を築き上げたこの偉大な人物についてたっぷり語り合ってくれ
実態見ると笑っちゃうくらい野蛮だよなこの人w
ザクセンを征服したときには4500人のザクセン人をまとめて斬首。
彼の妻妾の数は9人。
彼に比べれば、チベリウスからユリアヌスいたる歴代ローマ皇帝らは、役立たずの穀潰しであると言えましょう。
「贔屓の引き倒し」って言葉知ってる?
カールのザクセン征服は、カエサルのガリア征服に次ぐ偉業ではないでしょうか。
オクタビアヌス以降の所謂歴代皇帝らで、これほどの成果が実現出来た者は、皆無なのではないでしょうか。もちろん、成果が次代に受け継がれる幸運に恵まれていただけ、なのかもしれませんが。
東ゴートのテオドリックや、ビザンツのヘラクレイオスやバシレイオス2世は、その点に関して、誠に不運であったと言えましょう。
娘コンプレックス
家父長権の移動を伴う、正式な結婚を認めると娘と婿の間に生まれた子供にも、カールの財産に対する相続権が発生します。
この時代はまだ王国と王(王室)の財産が明確に分離していなかったので、複数の相続者がいると、自動的に王国は分割される事になってしまいました。
カールはこの事態を恐れ、娘を自らの家父長権の下に留め続けたわけです。
シャルルマーニュがルイに自己戴冠させたっていう話は知らんかった。
ところでシャルルの戴冠問題で重要なのは、「誰が推薦するか、誰が選ぶか」という、「決定」にまつわる世俗的な勢力争いというよりも、「何が皇帝という立場を正当化するか」という、「任命」に際しての象徴的な問題だと思う。
1、教皇がシャルルに戴冠する。→民衆が「シャルル万歳!」と叫ぶのと
2、民衆が「シャルル万歳!」→シャルルが自ら(あるいは教皇がシャルルに)戴冠する。
のでは皇帝権の出所が違う。
1では皇帝権は、神の代理人としての教皇を通じて、あくまで神によって正当化される。
2では民の支持に基づく。
教会としては、民衆をキリスト教的な救済に導くのが君主(しかもローマを支配する君主)の使命の第一であるから、その使命が神から授かるモノと考えるのは当然なんだけど、王国の分割相続なんかにも見られるように、「君主っていうのは国(民衆を含む)の所有者」という意識のシャルルからしてみれば、王権、皇帝権というのは、自らの「血統と戦功とカリスマ」に由来するもので、神から授かるものだとは思ってもみなかった。
ってとこじゃないかしら。
親の心子知らずで、ルートヴィヒは後に教皇による戴冠を再度受けている。
だからふたつ名が敬虔王なんだけど、自身の信仰心もさることながら、彼の時代には既に教皇による戴冠によって聖性が宿るという後の思想が芽生え始めていたのでは、と考えられている。
しかしカールの戴冠時には、カールはおろか教皇もそんな事を考えていたとは思えない。
せいぜい先に推戴して恩を着せておけ、程度のニュアンスだと思われ。
教皇が冠を載せた事ではなく、その後の歓呼だけが彼を皇帝の位に引き上げたという認識がカールの時代には厳然としてあったのが記録からも分かるよ。
ロード・オブ・ザ・リングで「王の手は癒しの手」ってでてくるけど、あの元ネタは中世
聖性に関しては教会との関わりもあるけど、もともとゲルマンの文化として王は超能力的力をもつと一般的に思われてたみたいだ
戦闘指揮者としての将軍が王へと上昇していく過程で祭祀職が帯びていた神聖性も吸収していったらしい。
春になると完全武装した縁者や友人、家臣らを引き連れて遠征に出かけ、秋には本拠地に戻り、戦利品を惜しげもなく家臣に分配した。
これらの戦は帝国の範囲を拡大するためであると同時に戦利品を得るためでもあった。
カールの息子のルートヴィヒ敬虔王の死後、ヴェルダン条約で王国は3人の息子の間で三分割されてしまう。
962年には東フランク王オットー1世が神聖ローマ皇帝として戴冠。
西フランク王国はカペー朝によって統治されることになる。
「こんなことされるとは知らなかった、知っていたらここには来なかった」
って言ってたけどホントかなぁ?
それナポレオンのときじゃね?
絵で見る限りカール君のときは教皇自ら授けてるし
皇帝こそが教会を支配するのがローマ帝国の本来だったのに、逆に教皇風情がローマ皇帝を決定するのがおもしろくなかったんだろう
実際当時の東ローマ帝国は皇帝が教会をコントロールしてたんだし
ローマ皇帝位は教皇の推薦など必要ないというのが、当時の常識でした。
事実、カールは戴冠以前よりアウグストゥスの称号を文書で使用しています。
彼の理想は人民からの歓呼により、自己戴冠にて皇帝になる事だったと思われます。
彼の息子であるルートヴィヒに自己戴冠をさせている事からも、それは感じられると思います。
俺は西ローマ帝国をミラノ帝国と呼んでやる
バルバロッサよりもハインリヒ6世の方が有能だと思うんだよな
さびれてたのか?
古来からの諸勢力が多すぎて、あの町にいたら皇帝であっても何も出来ないから。
桓武天皇が平城京から遷都したのと一緒の理由。
ここら辺の時代に関する本がほとんど日本語に訳されてないのが現実
日本のアマゾンでカール大帝やシャルルマーニュといれても合計25件しか出てこないが
北米のアマゾンでCharlemagneで検索したら25730件でてきた
欧米圏ではシャルルマーニュが相当人気なのがわかる
伊<カルロ・マーニョ に決まってんだろ
ルートヴィヒ敬虔王のグダグダな後継者選定は問題だけど、その子の世代にはもうガリアとゲルマニア、イタリアは別々の政治的集団になってたろ。
まあ後世への影響はでかいし肯定的に評価されとるから
ラッキーなほうさ。
聖杯とか聖槍みたいな(インディジョーンズとかみたいな)扱い
アーサー王伝説やジークフリート伝説に完全に押されてる。
叙事詩でも「ローランの詩」以外にメジャーなのがないって…。
しかも「ローランの詩」の主役はシャルルマーニュじゃないし。
微妙に史実の方が有名だからフィクションの題材として使い辛かったのかね。
様に思うのは気のせい?
そもそも西欧では王朝が変わったからといって国家や政府が転覆するわけじゃないから
あまり王朝を重視しても意味無いだろ
カロリング朝は滅ぼされたわけじゃなく断絶して女系つながり次の王家になっただけだからな
やっぱりラテン語?
基本的に読み書き出来たのは聖職者くらいだったみたいだし、シャルルマーニュの伝記書いたのも確か聖職者。
ラテン語からの脱却を最初に果たしたのはイングランドだったみたい。
中国語を自国の言葉に道具として適用したのが日本だったのと似てるかも。
シャルルマーニュの母語もラテン語?
会話する時は多分先祖からの母語。
シャルルマーニュも最初に覚えたのはフランク語(ってのが存在すれば)。
聖職者以外の人間は大概ラテン語を読み書き出来ないし、世俗の言葉は誰かが文字化しないと表記不可能。
なので中世では「ラテン語の読み書きが出来ないこと」=「文盲」扱い。
聖職者がラテン語で記録するのが普通
俗語での記録は限定的
11世紀以後になると
騎士や商人の俗語での読み書きが普及して
徐々に一般化する
三本の矢の根底にある惣領制の概念がフランク人には無かったんだからしょうがないんじゃないの。
とはいえシャルルマーニュは帝国の分裂を予防する為に、自らの家産の継承権保持者を増やさない努力はしてたわけだけど。
毛利元就の三本の矢の教えは、実際にはあり得なかったけど、残された手紙などからすると、「俺は卑怯裏切りなどひどいことをイパーイやってみんなから嫌われている。お前らは俺の子供だからよけい嫌われるなのよ。だからせめて兄弟だけでも仲良く裏切るなよな?」ってことだからねぇ。
だいたい相続で揉めたってのは、孫の代になってだし。
実現すれば統一ローマの再現だったな。
ローマ帝国末期に分割統治が何故始まったか、ってのが前提で。
占領だけじゃなく統治も成功させないとダメなのがなあ。
孫のフリードリヒ2世はイェルサレム王位を獲得したりイスラーム勢力と宥和してまたまた教皇に嫌われるし。
結局教皇庁は世俗の君主全員が教皇に跪かない限り満足しなかったんだろうから関わった君主はみんな災難なんだよな。
「バルカン半島と小アジアとパレスティナを全部寄進しろ!」的なw
聖職者も官吏としての性質もあったし
ビザンツ皇帝になるとかはあり得たかもしれない。
ザクセン征服でもあんだけの損害出してるのに伝統的な官僚組織や軍隊、それに「正統なローマ帝国である」って国民の意識を考えたら当時の王朝を倒すだけでも大仕事でしょ。
西ローマ皇帝戴冠だってローマ司教と仲間たちの演出であって、その後コンスタンティノポリスの皇帝がその称号を認めるまででも大変な苦労してる。
それに当時の意識としては「ローマ皇帝の本家はコンスタンティノポリスに鎮座してる」って感じだったろうから、攻め込もうと計画するのすら憚られたんじゃないかね。
成功の可能性としては廃位されたイレーネを復位させてそこにルートヴィヒ1世を押し込むくらいか。
それでもそれこそドーヴァー海峡、ピレネー山脈からゲルマニア、バルカン、小アジアまでを一人の君主(ルートヴィヒ)が統治するってのを各地の有力者が容認したか疑問だね。イベリアと西アジアの双方でサラセン帝国と戦うには不利だろうしね。
成功しても結局史実みたいに息子たちに領土を分割相続させて帝国分裂になっただろうしな。
巨大な帝国ってのもそれなりに弱点があるわけで
一長一短だよ
分かってたんじゃないかな。
宗教の組織力をそのまま支配原理にしてたから、結局それがそのまま支配域の限界な訳で。
ごもっともですな
ビザンツを征服するにはビザンツも改宗するしかない
どう考えても無理だがな
ローマ教皇に皇帝即位の許可を貰うとか
こいつのせいでドイツ人がどれだけ迷惑こうむったことやら。
だいたい征服した領土もそれほど広いわけでもないし、
死んで30年ぐらいたったらもう国家分裂。
こいつが教科書で大きく取り上げられるなら
バシレイオス2世とか取り上げろよ
だいたい、字書けなかったとか
国王で字書けないって幼君除けばこいつぐらいじゃないの
カールの時代は暗黒時代といわれる中世のさらに初期だからな
文盲は多かったぞ
読み書きができるのは聖職者関連をはじめとする一部の人間に限られていて、後世の歴史学者とかも聖職者の偏見入りまくった書物まで資料にせざるを得ないことを嘆いたりしてる
古代中国の五帝も時代からいってまず文盲だったろうし
堯舜も夏王朝の王族もおそらく文盲だったろう
でもそれは時代背景とあわせて考えればおかしなことではない
カール大帝も同様
エルベ河にいたる地を諦めずに平定した事は、カエサルのガリア征服に次ぐ偉業だとされる。オクタビアヌスらが断念した事に成功した。
征服した領土は継承時の2倍近く。凄いだろ。
領域は現代のフランス・ドイツの大部分にイタリアの半分以上。
これで広くないとかいったらルイ14世が泣いちゃう。
字が読み書きできないのは中国史なら石碌とかいる。
ルイ14世とか
馬鹿みたいに戦争狂いのわりには微妙な結果しか残せず、寵姫にかまけて国税を湯水の如く垂れ流して宮殿おったてて、しかもチビで歯がなくてフランス革命の遠因作った最悪の暴君だろ
さすがに比べられたらカール大帝がかわいそうだ
ノンノン
ルイ14世は全ヨーロッパに近い敵と戦いながらも、最後までフランス本土には敵を寄せ付けなかった点で大したもの
もともとルイ14世が即位した時点ではフランス陸軍は少なく、王の権力もかなり制限されたものだったし、秩序も乱れていた
しかしルイ14世はここから権力を拡大し秩序を整え文化を確立し、陸軍を強大化させ、それはヨーロッパの模範となった。海外植民地も維持していたしスペインにも結局自分の血脈を王統に据える事に成功
また彼の時代に確立されたフランスの文化はヨーロッパ中の国々に影響を与えてきたし、良くも悪くもルイ14世はこの時代の中心だった
ヴォルテールはルイ14世が君臨した時代を「ルイ14世の世紀」と呼び、史上存在した頂点の時代の中でもっとも完全なるものと位置付けた
チビとは知らないが、歯の逸話はどうにも疑わしい。ルイ14世がやたらと大食漢で多くの肉とか果物をあっというまに平らげるのを、人が目撃した記録とかもある。歯がないとできない事だろう
支配者層が変わっても、地域や民族の別は早々変わるもんじゃない。
東西フランクと北イタリアが今の仏独伊の元とかよく言うけど、ローマ以前からガリア、ゲルマニア、イタリアって区別はあったし、同じフランクの遺産である中部フランクは地理とかガン無視して失敗した。
俺はカール大帝が現れようが現れまいが
ドイツとかドイツ人意識とかは結局生まれていたと思うよ。
ドイツフランスの国境はローマ文明に属したかそうでないかは大事だとは思うが
ザクセン戦争なくして、ゲルマニアの文明化、都市化はありえなかったとされる。
ローマ帝国と長期に渡りに接触していたのにもかかわらず、ゲルマン人の多くは、後のドイツ騎士団に対抗して国家建設をしたリトワニア人らよりも遥かに頑迷であったようだ。
印刷技術なんか発達してないから本の大量生産ができず、書物は基本的にみんな手書きか写本で当然ながら数は少ない
そのわずかな本も大げさにいえば、明日にでも他国や賊に襲われたり、災害に見舞われたりして身一つで逃げださなきゃならない時代だから、書き物に頼るよりもその内容を記憶したり、歌にしたりして自身が把握しておかないととても活動にならない
だからこの時代には記憶力を高めることが奨励されて、歴史をはじめとするたくさんの物語を語って聞かせる語り部や吟遊詩人、聖書の内容をそらんじる聖職者といった連中が闊歩してた
カール大帝もこの時代背景を考えるなら、食事時に語り部や吟遊詩人に物語を朗読させる事を好み、語学においても複数の外国語を話せたというから、当時としてはなかなかの教養人だったといえるんじゃないか
>もともとカール大帝の時代はその識字層である聖職者達とかでさえ
>「読むより聞け」「書くより覚えろ」の時代だからなあ
ケルトのドルイド僧が教義を記録に残さずに丸暗記させたってのをちょっと連想させるな。ガリア戦記によると、本場のブリテン島に行って丸暗記だそうだ。
覚える内容はキリスト教に変わっても、ともかく「教義を丸暗記出来る人間がいた」のは事実な訳で、そういう伝統も少しは影響したと思う。
もしカールが死んだ後も帝国が分裂しなかったら
次の王もずっとこんな事を繰り返していくつもりだったんだろうか
次世代の王たちがこんな事をしてないのに
なんでカール大帝はこんな事を生涯続けていたんだろうか
大帝が建てたアーヘンは一応首都だよね
次世代の王達は分割された領土の中で、やはり宮廷を引き連れて王領地の巡回をしていました。この巡回する宮廷という習慣はその後も長く続きます。
理由は単純な話で、各地から税を徴収して、それを首都へ輸送する組織が無かったので、王は彼に付き従う直臣達を食べさせる為に食べ物の豊富な地域へ絶えず移動するしか無かったからです。
ちなみに王から領土を任された諸侯や、諸侯達の臣下でも同じ事を行っています。
都市や修道院の記録を読むと、主への義務として定められた日数以上の奉仕(食料など必要物資の供給)を拒み、退去を願う要請がしばしば行われています。
そうしないと結束が不安だったのか
ただイギリスの支配権は安定してたから
ほとんど大陸にいたらしい
食料や物資の輸送も重い負担になるだろうし、直接居座って飯食って、地域に対する支配権を誇示するのは有効なんじゃないかな