ビザンツを服属させるだけで満足していたはず。
その後、オスマン・トルコに官僚制度やイェニチェリが定着した
カプ・クル制度はそれ以前からあったが?
コンスタンティヌス11世がそれを飲んでたら、あるいはビザンツ帝国はペロポネソス半島で細々と続いていたかも知れん。
って感じだな。
しかしそれはアリアノス等の描くアレクサンドロスではなく
ペルシアの「王書」等に取り込まれたイスカンダル・ズルカルナインの像なんだろうな。
そういやイルハン朝期に描かれた「イスカンダルの書」のミニアチュールでは「マケドニア兵」を表現するのに思いっきりトルコ・モンゴル風の甲冑を着て盾だけビザンツ風の騎馬戦士が描かれてるそうだw
もうちょっと長生きしていれば、そうなっていたはず。
法王はすでに逃げ出す準備をしていたそうだ。
そうなっていれば、ヴァチカンの礼拝堂あたりはモスクに造りかえられていただろう。ルネッサンスの美術品がどうなっていたかは、考えただけでも恐ろしいな。
>も恐ろしいな。
メフメト2世はイタリアから画家や彫刻家を宮廷に招いていたし、自分のコレクションの中の聖母マリアのイコンに灯明を捧げていたという証言まである。
とりあえず彼の生きてる間は無事だろう。
ただ息子が敬虔なムスリムで親父の集めた異教徒の美術品を死後に全部破却させちゃうんだけどね・・・
>コンスタンティノープルだけでなく、ローマ(ヴァチカン)も征服していればどうなっていたのか?
もうちょっと長生きしていれば、そうなっていたはず。
これはとってもおもしろい想像だ。
かつてキリスト教は西のバチカン、東のコンスタンティノープルに二分され
それぞれ法王と総主教を頂点としてまとまっていた。
しかし東がオスマン帝国に滅ぼされた結果、東方正教会は分裂
今では民族ごとまたは国ごとに組織を作っている。
オスマン帝国がローマも征服していたらカトリックも分裂したことだろう。
少なくてもそうなる可能性はある。
正教というのは元々国ごとに正教があるのは、カトリックとは組織が違うから。
エチオピアやロシアは直接は東ローマ、オスマン両方とも支配を受けた訳ではない。
また、正教が国ごとに分かれているからと言って、コンスタンティノープルから独立している事を意味してはいない。
独立した部分も神学論争との絡みによるもの。征服が分裂を起こす訳ではない。
プロテスタントは個々に独立した新興宗教の側面があるが、これがカトリックから分裂した原因は新大陸の利権をバチカンから奪う為だったと思う。
話は変わるがバチカンにとってコンスタンティノープルがイスラムに陥落させられたのは相当ショックだったと思う。
ラテン王国を拡大させて地中海にローマ帝国領を復活させ、東ローマ皇帝を屈服させて分裂したキリスト教を再統一し、ローマが再び地中海を支配する事はかなわなかった。
新大陸から巨大な利権があがると、今度は北方のキリスト教徒が反抗し、英蘭独米が中心となる中でバチカンは世界の中心から離れていった。
この動きを阻止する事はスペイン人やポルトガル人、イタリア人には出来なかった。
ポルトガルはエチオピアを支配下に置こうとしたが、皇帝から警戒され失敗した。
ロシア正教もコプト教会もバチカンに警戒はしても、現時点で支配に入るつもりはない。
しかし、バチカンにとっては未だに東西・新旧に分かれたキリスト教を再統一する夢は捨てていない。これは前法王も現法王も同じである。
そしてあのローマ帝国の最後のわけだから。1453年のあの日を上回るほどの重要な日は他にはないのでは?
アンカラの戦いこそ世界史史上屈指の名勝負、間違いない
ここでオスマン帝国にトドメをさしておけばローマ帝国も現代まできのこったのに詰めが甘いというか
もしオスマン朝の基盤を本気で潰そうとすればバルカン半島まで進むしかない。バルカン側でオスマン朝の有力者が全員倒されたとしても、すでに各地を占領しているオスマン・トルコ人たちが新たな支配者となったチャガタイ・トルコ人の元で再編されるだろう。つまりビザンツ帝国にとって状況はまったく変わっていない。
その上、なんだかんだいって数百年間キリスト教徒と隣接して生きてきたアナトリアのトルコ人よりチャガタイ人が異教徒に寛容だという保障はどこにもない。
今頃どうなっていた?
つーか、ココでティムールが本気を出しても結局コンスタンティノープルはティムール帝国に編入されてイスラム化する流れは止められなかったんじゃないのかな?
というより中核地域のマー・ワラー・アンナフル周辺が繁栄すれば後はどうでもいい人。たぶん死後は元からいたトルコ人勢力が独立するんじゃないか。
アメリカ人が驚いた時にオーマイゴッドじゃなくオーマイアラーと言うようになるだけさ
実際にペルシア人やトルコ人を大量に抱え込んで変質したじゃないか