やりたい放題だけど、以降の日本史を知り尽くしている状態で
あの時代でやっとかないといけないことってある?
足利幕府の体制を堅固にするなら、江戸幕府のやったことを真似る
もしくは真似るための準備だな まずは
義満は父の死によりわずか10歳で将軍になった
当然政務は執れないので執権の細川頼之(妻は義満の乳母)が政治を代行し
元服後、義満に政務を返した
だから恩義のある細川切りは思いつかないだろ
現在の知識を持った状態でだから
応仁の乱の元凶は刈り取っておかないと。
将軍たるもの四海泰平を基にしないとね
それを言うなら嘉吉の乱の元凶が先じゃね?
あと日野家
その前に義持と義嗣が争わないようにせねば
応仁の乱は細川が単独で起こしたんじゃなくて
もともとは足利将軍家の義視と義尚の争いで、
双方が山名と細川に援軍頼んだだけだよね?
日本の食文化を50年早くすることくらいだな
幕府自体は先読み成功してもそれ自体が仇になるかも知れんから分からん
自分だったらまず南朝を倒すので精魂尽きるとおもう
で、南朝駆逐しても各地の有力守護大名を削る作業が待ってる
他にも家族サービス(後継者の調整)、朝廷工作、100年ぶりの本格的な外交…
過労死確定
直義高の争いどう止めるか
後醍醐殺すか
直義高は南北朝になってなかったら全国に飛び火しないだろう
あと尊氏に関しては有力武将に大領与えすぎ
ただこれによって後醍醐との差別化が図られ
支持を得られた面もあるから難しいな
大領与える
↓
脅威を感じる
↓
他の大名に号令を掛けて粛正
↓
粛正に参加した大名に恩賞として大領与える
↓
以下ループ
燃えないように石灰でコンクリートを作らせ、永久保存可能にする。
ついでに銀閣も銀箔をぬって造営する。
石垣の城を京都のど真ん中に作り安土城並の天守閣も作り、そこを政庁とする。
後の江戸幕府を真似て大大名は僻地に転封し、勢力を削ぎ落とし、
周りを譜代で固め、参勤交代制度を作り、大名の人質を京都に住まわせる。
磐石になる前に死んじゃったけど
幕府は磐石に?
地球儀も作る
南北アメリカやオーストラリアあたりは特に正確に描いておく
>>28
その前に詳細な日本地図の方が役に立ちそう
南朝勢力が丸裸になるし、守護大名たちへの恫喝に使える
さあトンチ小坊主を禅問答で叩きのめすんだ
一休さんに頓智で負けないようにする。
世界に先駆けて大統領制の施行だな。
民の教養のレベルが低すぎて
早々と衆愚政か独裁制もしくは共和制に以降からの
寡頭政が成立するまで読んだ
禅譲して自ら帝になり、(無理なら治天の君)西洋式の王制を目指す
大航海時代の到来の前にアメリカ大陸、及びオセアニアの発見、植民地化
これにより、日本は18世紀には西欧列強をはるかに凌駕する存在になる
せっかく築きあげた体制をひっくり返されたらかなわん
【1351年】
高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】
仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が
三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】
明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が
三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に
一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
------------------------------------------------------------------------
【1358年】
伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】
大島義高(新田氏流)が三河守護になる
(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】
足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が
松平郷主・在原信重の支援を得て
三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】
管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】
三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に
天恩寺を創建する 足利尊氏遺言の寺
開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】
三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に
御馬城築城を管領・細川頼之に命ずる
頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】
三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?
天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創
御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】
管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】
伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】
一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を
三河守護に任ずる
【1380年代】
管領・斯波義将が斯波氏先祖代々の墓所がある
三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に永源寺の創建を申し出る
これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】
三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】
源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為
三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】
三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】
一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を
三河守護に任ずる
【1390年】
管領・細川頼之が
三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に
蓮性院を創建する
【1390年代】
足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】
伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】
細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】
出家する
【1397年】
三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に
後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】
三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し
守護使不入の地とする
【1399年】
三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を
管領・畠山基国にを命ずる
下和田郷が水不足に陥り領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】
三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に
高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】
松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】
一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】
死去する
これ以上はハードル高くないか
頓智ではいつも一休さんに負けていたんだよなあ。
先に一休さんが大人になってからやることを
今のうちにやってしまえばいい
公立図書館をつくる
強いて言うなら、日野家と切らなかったことと息子の再教育だな。
この2つは誰かも書いてるがこれしか思いつかない。
できれば脱原発。
義満だったら原発を中国に売りつけて大儲けするだろうなあ。
くじ引きはするなくらいしか言えないんじゃない
医学書持ってって長生きして息子のメンタルを楽にしてやるしかない
幕府の急激な権威失墜の遠因はこいつだもの
義満であるおまえが書いた時点で偽史料にならないだろ
内心どう思って書いたかはともかく。
でも裏が取れないと逆に信憑性が疑われる気がするけど
偏愛とかどうみてもフラグだわ
どうせなら義持を偏愛すりゃよかったのに。
モミアゲが気に入らなかったのか?
最初から正統な後継者として育てられていれば、
あそこまで無茶しなかったかも?
生殖能力については折り紙付きで、義持よりはるかに上だし。
義持の後継者づくり失敗が混乱の原因の一部であることは否めない。
人妻と通じるとかなんか汚らしくて嫌だ。
ましてや上皇や宮さまの妻と密通するなんて気が知れん。
どれだけ思い上がってんだと。
南北朝合体については後亀山院に直談判して
時勢を悟って頂き持明院統優先を明確化。
後南朝による戦乱の芽を謀略ではなく誠意を以て摘む。至誠天に通ず。
納得して頂けなければ南朝は吉野の山中に完全に封じ込めておく。
出世のために自分から差し出したのもいる。
典侍がいいように当時の皇族公卿の性的関係は極めて
ルーズであり、亀山が息子の女に手を出したのは極端だが
愛人とかそういうレベルですらないのは確か。
後亀山は経済的に切羽詰った状況にあるのだから
誠意よりカネが大事だよ。(事実そうなった。)
途中まで完璧に当てておいて2020年くらいに人類滅亡を示唆して釣る
けれど、数学が答えを知っていても式を理解していなければ意味が無いように、
歴史の答えを知っている俺達が将軍になったところで大したことは出来ない。
将棋で、この対戦は二四槍で詰みと分かっていても、そこまで持っていけないの
と同じ。素人が手を出してどうにか成る様な歴史ではない。
沿海州、琉球、台湾を領有
将軍家直轄領300万石へ
参勤交代
それを模倣して、泰平の世の中を作ることができるはずだが。
具体的には、参勤交代を義務付けて、
親戚筋の有力大名には官位を与えておき、
政治は信頼できる家来筋の小大名に任せる。
ものすごい抵抗があって実現は容易ではないが、
最盛期の義満の権力をもってすればできるはず。
そしたら、徳川幕府みたいに、
幼君暗君出しまくっても余裕で数百年続くことができる。
斯波や細川に政治引退させて黙らせるのも不可能。
信頼できる腹心っていったら小物すぎて
そんな奴らだけで幕閣を構成させたら
反発を受けることは必至。更に鎌倉府っていう厄介なものもある。
もっと上手な統治機構を考えればできただろうが、
徳川幕府と同じものじゃ無理で、
それを考え出すにはやはり家康並みの天才が必要。
つーか、まずは幕府を鎌倉に移すことだな。
義満はなんだかんだ言って京都の魅力に抗えなかっただろうから
その時点でダメだろう。
大大名共の大粛清を行い、御料所の拡大をしなくてはならない。
それと四管領も廃止の方向で。
全て将軍が一括して行えばいいだけだ。
一人で全部やるのは限界あるわけだが、それ以上に、
一人でやってると、2、3代後には必ず暗君か幼君が出て
政権が傾くってのが歴史の教えるところ。
なので、江戸時代みたいに、
「明確に家来筋」で「大封を有しない」が
「それなりに実力のある」連中の「合議制」によって
暗君でも政治が滞りなく進み
しかも主君を超える権力を握る者が現れない仕組みを作らないと
本当の安定政権はできない。
でも少なくとも東洋で、そんな制度を本当に作り上げてしまったのは
後にも先にも、日本の徳川幕府だけじゃないのかな。
中国も科挙制度が本格的に確立した宋代以降は、
政権内部の叛乱によって王朝が終焉することはなくなったね。
そう考えると科挙ってのはやはり偉大だ。
室町幕府で江戸幕府並みの官僚機構の整備とか無理だよ。
だからせめて、中央集権にして数代でもいいから
史実より勇ましい所を見せられれば上出来ではないかな。
即ち全土を武力を以て完全掌握する事だ。
室町幕府は義満の最盛期でも
関西一帯を掌握しているに過ぎない事実上の地方政権だったし
領域的には鎌倉幕府より大幅に縮小したしね。
それと関東への移住だね。
その上で、暗君が出ても滅びないような制度づくりだが
これは結構たいへんだろう。
義満って、一統の後は、
余計なことは色々してたけど
結局、真に必要なことは殆ど何もしていなかった、っていう印象。
廃止までする必要はないと思ってたのかも知らんが、
その読みが完全に甘々だったことは、その後の歴史が証明している。
その抵抗と厄介さを考えると
すぐには難しいって思ってたんじゃないかな。
でも困難を押してでも廃絶しておくべきだった。
ていうか、そもそも幾ら南北朝の戦乱のためとは言え、
自らそんなものを作って政権を分裂させた尊氏がアホだと思うんだが。
そもそも義満は強いものにはとことん弱い
高圧的に出れたのは武力をもたない公家さんに対してだけ
絶対権力者・義満、っていう前提なんだがw
まあやったとして、どれだけうまくできたかは、やってみないとわからん。
>>1への答えは、
・鎌倉府の廃絶
・鎌倉への幕府移転
でFAじゃないかな?普通に考えると、そう。
それだけでも成功すれば、後の歴史がかなり変わったはず。
やって成功したかどうか、ってのは歴史のIFなんで誰にもわからないが、
でも「できるわけないやん」とか言い切ってしまう>>90みたいな人もよくわからん。
なんで、絶対できないとか断言できるんだろう?
だって中身は現代人なんだろ。
何故、出来ないのかって言うと、それは義満は当時の関西人だからだ。
関西の武者は強く、関東の武者は強い。
これが当時の常識で、義満もこれを信じていた。
実際は強いとは言っても物量は幕府の方が動員できるのだから、
五万でも十万でも動員してゴリ押しすれば良かったんだ。
桶狭間や川越夜戦並のポカミスをやらかさなければ、絶対に勝てた筈だ。
冷静に考えれば、南北朝っていう非常事態が終り、一統が成った後、
政権の安定化のために、鎌倉に戻った方が良いのは明らかだと思うんだが。
自分が想像するに、身分の高い親王・摂関とか公家をヘイコラさせ、
深窓の姫様をいつでも好きな時に犯せるっていう、
そんな人間的な理由だったんじゃないかって気がするんだけど。
京都に本拠を置いた平氏政権がどうなったか、もう少し歴史を学ぶべきだったな
義満が生まれる前に祖父尊氏死亡・10歳の時に父義詮死亡で
義満は関東育ちの尊氏・義詮のことはほとんど知らないし
義満自身石清水八幡宮神官の娘を母としていて関東に馴染みもない
鎌倉公方なんてマトモに言うこと聞いた試しが無いだろ。
行くか行かないか、どちらにしろ武力での完全制圧が必要だね。
武力無くして室町幕府が全国政権に成長する事はあり得ないよ。
将来、必ず本家と分家で争いあって大混乱になるって、わからなかったのだろうか?
それとも、南朝に対抗するためにやむを得ずおいたけど、
一段落したら統合するつもりだったのかな?
いずれにしても、計画性なさすぎる気がする。
近代以降と違って通信連絡輸送手段が整備されてたわけでもないし、
最低でも東国と畿内、必要があれば奥羽、九州、中国まで探題を設けて抑えないと無理だ
京離れる必要性も理由もないからだよ
何で近世まで最大の都市だった京を、
まだ大和あたりに敵対勢力が残ってるのにわざわざ手放すの
> 京離れる必要性も理由もないからだよ
武家政権が京に本拠置いたら弱体化するってのは当然で、
実際に室町幕府はそうなったんだから、
必要性と理由は十分にあるだろ
京都なんて武力を持たない公家ばかりだろ。
危険性など皆無だ。
利権を与えておけば黙っているからな。
心配なら室町探題でも置けばいいだろう。
だったら、さっさと後南朝を潰して征東軍を起こすべきだったな。
家中をしっかりと統制し、京都だろうが鎌倉だろうが
本拠を定めて、そこから着実に勢力を進展させていけば
鎌倉公方に関東のことは一任、なんてことはしなくてもよかったはず。
実際には弟や実子や側近の部下と争いまくってたからねえ。
やっぱり尊氏の性格と統率力と計画性のなさが問題だったんだろうよ
京を捨てて鎌倉とか自殺行為以外の何物でもない
東国政権は京の朝廷を囲い込む勢力が出たら終わり
京で公卿がだらしないって、じゃあ政治経済のとびぬけた要衝より、
戦う気満々の野蛮人の地域に首都置いた方がいいの?
> じゃあ政治経済のとびぬけた要衝より、
> 戦う気満々の野蛮人の地域に首都置いた方がいいの?
いいに決まってるじゃん?何言ってるのか・・・
武家政権に限って言えば、京都や関西に本拠を置いた政権より
関東に置いた政権の方がずっと安定するってのは
歴史が明らかに証明してるんだが。
そしてその余勢を駆って関東を制圧すべきなんだ。
幾ら野蛮人とはいっても、西国の物量の前には勝てない。
なら完全制圧して鎌倉に中央集権的な政府を再興すべきだったんだ。
京都においた政権は往々にして文弱になる。
すると国家体制そのものが脆弱となってしまう訳だ。
室町時代に他国の軍が来なかったのが不思議な位だよ。
わざわざ関東に本拠を置いたってこと自体
その方が政権の安定にとって良いってことを意味してるよな
「対抗勢力が大阪の豊臣家を中心に、西国に残っていたことを考えたら、
伏見を捨てて江戸で征夷大将軍就任とか、自殺行為以外の何物でもない。
政治経済のとびぬけた要衝より、
戦う気満々の野蛮人の地域に首都置いた方がいいの?」
って言っているのと同じだよ。
自分では何らかの理屈を言っているつもりかも知らんが、
傍から見たら、関西人が何かわけのわからないこと言ってるとしか正直、読み取れない。
住民の荒くれ度が関東のほうが高く
荒くれ度が高いほうを支配したほうが有利なら
現代だって福岡に首都を置いた方がいい
当時の京は南朝勢力の本拠に対する最前線だったわけで、
何で最前線を将軍が離れて鎌倉に行くのか
政治的正統性の面からも危ういことこの上ない
正平一統の時に治天・天皇・皇太子・神器を全て南朝に奪われて
後光厳即位の時に広義門院を引っ張り出したくらいなのに
じゃあ、徳川家康も伏見に幕府を作った方が良かった、とかいうのが
あなたの意見なわけ? 本気で言ってるの?
それすら置かずに関東を鎌倉府という名の下に放置するのは愚の骨頂だ。
義満はそれをやってしまった。
故に戦国時代が訪れたのさ。
わかり易く凡庸すぎる人物だと思うんだな。
絶対権力を握ってしまったら、その権力を楽しむことしか頭になくて、
自分の子孫がそれを失うかも知れないってことを考えてない印象。
強固な支配体制を築いた頼朝や家康に及ばないのは勿論だが、
信長だって、大封をもった臣下は認めない方針で、
強大な敵は降伏させるのではなく、滅ぼす方針だった。
もし信長が天下統一してたら家康はほぼ確実に滅ぼされてただろうし、
もし義満の代りに信長だったら、ほぼ確実に鎌倉府を攻撃、殲滅していただろう。
彼の源氏内部の粛清は北条一族にとって都合が良いだけである
最後に恐らく時政は馬を驚かせて実質頼朝を暗殺したものと思われる
頼朝=レーニン 義経=トハチェフスキー 時政=スターリン
それ以上に強固な支配体制を維持するために必要なもので
政略的な面が強いと思うんだな。
結果からみると、頼朝は嫁の実家対策で失敗したわけだけど。
義満や秀吉は、そんなこと考えもしなかったために、
楽天的・放漫な政治をして
没後まもなく戦乱に逆戻りしたわけだが、
大衆的な人気は義満や秀吉の方が高くて、
頼朝や家康は狡猾・吝嗇だっていうので評判悪いっていうね。
ホント歴史の評価って、あてにならん。
あんないい加減な体制のまま、豊臣政権が何代も続いてたら
そっちの方が驚きだよな。
何で武士の棟梁が関白なのか?
全国の武士は全員、関白の私兵扱いなのか?とか、
今後、五摂家の扱いはどうするのか?とか、
征夷大将軍っていう職は今後どうするのか?とか
そういう基本的なところさえ、何も考えていなかった模様。
権威が欲しかった訳ではないでしょ。
権威が欲しかったら帝位を簒奪するはずだ。
仮に「権威が欲しかったわけではない」にしても、
権威をうまく利用しないと、人心をつかんで政権を持続させることはできない。
それが秀吉には理解できなかった、ってことだね。
そうだね。
とてもじゃないが有効活用はできていない。
なら、権威など自らが奪うか葬ればいいのだが
秀吉にそこまでの勇気はなかったな。
信長なら禅譲を時の天皇に求めていたろう。
ただでさえ、武田を滅ぼした絶頂期にいきなり謀反で殺されたくらいだから。
新の王莽みたいに、すぐ滅んで、悪逆者呼ばわりされるのがオチ
反抗する封建諸侯を皆殺しにすれば、反乱は起こらない。
当時の民衆にとっては王が誰であろうがどうでもいいだろうしね。
まず、当時の国民に天下人に対して臣従する義務は存在しないし、権利も無い。
それに天下人を選ぶ権利すら無い。
恐らく大多数の民にとっては税さえ高くなければどうでもいい話だろう。
君は戦国時代を民主主義の現代と勘違いしているのかい?
そのまま帝を臣下にする
これが一番現実的なわけで
全盛期の徳川将軍並に強い絶対権力を持っていたとしても
皇位簒奪した時点で、それなりに無視できない確率で反乱が起きて
誰かに討ち滅ぼされる。
それだけの高いリスクを負って皇位を簒奪しても、実益はほとんどゼロっていうか
単に本人の虚栄を満たすっていう自己満足になる以外には、
周囲の人間にとっても、社会にとっても何のメリットもない。
いくら信長だって、その程度のことがわからないような馬鹿じゃなかったろうよ。
あれくらいで皇位簒奪考えたんなら逆の意味で凄いよな
関西周辺しか支配していないから、権威を求めたのではないのかな。
朝廷は武力を持たない組織だし、その気になったら容易いよ。
結局義満は暗殺されたが。
自分は清和天皇の皇胤だから皇位を嗣ぐ資格ありと
思っていたと思われ
あったら被害妄想の激しい後小松や完全な狂人の称光をあそこまで
支えてやらんよ。
足利義氏の娘婿の家系(世良田氏)で
一色氏の血も引く(当然、初代吉良氏、初代今川氏の血を引く)
家康とやらが江戸に室町幕府を移しただけでしょ
徳川将軍家の考えは明白だろ、足利将軍家の親戚として室町幕府を再興した
菩提寺の鑁阿寺には徳川将軍家の位牌がある
http://roadsite.road.jp/history/shiro/ashikaga/ashikaga.html
あったら信長には付かないしね。
そもそも家康なんて始めは先祖は藤原としていた位だからな。
そんな大した出では無いと思うぞ。