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もしくはその逆?
足利尊氏と新田義貞は鎌倉幕府の御家人であり、
執権北条氏と姻戚関係を持つ足利は特別待遇だったとはいえ、両者は同僚だった。
どっちかがどっちかの下に入るのが嫌だったからこその合戦だろうに。
そもそも有り得ないとか寒い。
組んでも子か孫の代で謀反だろ
だいたい、足利一門の斯波氏ですら鎌倉幕府では同僚の御家人だったとして
ときの斯波氏当主が足利家管領となって尊氏の部下になることを拒み、
やむなく当主の子が義詮の代に管領になってる
鎌倉幕府では同僚の御家人だったのは北条も一緒だろ・・・
その北条には尻尾振ってたんじゃないのか・・・
一番北条に尻尾振ってたのは足利だがな
鎌倉時代の足利歴代当主の正室はほとんど北条氏の娘で
足利氏はかなり北条の血が濃い
尊氏正室も執権の妹
業が深すぎるぞ足利一門
佐竹と武田も同じ関係
でも完全に他人の関係
一門かどうかとかとは別の話
新田系といえども
当初から足利に付いた山名とか後に幕府中枢に入った大館とか居るしね。
でも、本家としては鎌倉陥落直後に臣従を判断しなけりゃ
あとは同盟する機会は難しいかな。
北条を駆逐して足利と新田は鎌倉から動かない。
やられたと思った後醍醐天皇は護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
って流れを考えた。
新田って自前の軍は集められてどれくらいなのかな。6000くらい?
都からの征討軍を返り討ちにして、そのあとは足利+新田連合軍vs北畠奥州軍か。
如何にも先鋒を買った義貞が討ち死にしそうな展開だな。
>>24
つーか、中先代の乱当時、護良は鎌倉に幽閉中だから
>護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
ってのはないなあ。
じゃあ、誰が総大将よ?となると適任を思いつかないが。
中先代の乱のときの官軍総大将は一応、成良親王でしょ。
足利直義が後醍醐天皇の命により成良親王を旗印として関東下向していた。
直義は中先代の乱のときに幽閉中の護良親王を殺害しているが、
成良親王は都へ連れ帰っている。
てか足利と新田って元々仲悪いの?
よく知らんが新田荘と足利荘が隣同士でいざこざが絶えなかったとか・・・
しかし義貞は勝算があって立ち上がったの?
義貞は鎌倉を攻める際、鎌倉から逃げてきた
尊氏の嫡男千寿王を保護してるからな。
同僚意識程度はあっただろう。
関東管領くらいにはなれたかな?
「いつか北条をつぶす」って思ってて、そのきっかけが欲しかったんだろう。後醍醐を後ろ盾につけて両者は倒幕へ動き出した。
足利は兵を万単位で繰り出せるから六波羅攻めちゃえ!負けても九州逃げちゃえ!って出来ただろうけど、義貞の場合は新田系集めてもようやく6000くらいでしょ?
それに六波羅陥落したから新田についた武将がたくさんいたわけで、義貞が立ち上がった時は自前の軍のみの算段でしょ?もしかしたら裏で足利と新田が通じ合ってて、新田の鎌倉攻めを六波羅云々関係なく支援していたのでは?
そうでなければ越後勢などあんな早急に駆けつけられると思えんし、千寿王の合流もスムーズ過ぎるし。
そのへんの調整を誰がどう付けてたかは興味深いが。岩松とか船田かな。
たしかに幕府を倒すには六波羅と鎌倉を同時に叩かないと戦乱は収まらないし、新田が軍を挙げたのもタイミング良すぎだしね。
仮に足利系が加わらなかったとしたら…新田軍だけで鎌倉落とせたかな?もしかしたら尊氏と義貞が鎌倉をはさみうちにするって案もあったのかも。だけど新田だけで幕府倒しちゃったから後日揉めることにみたいな…
足利尊氏はわずか4歳の嫡男千寿王(後の義詮)が
鎌倉幕府を倒したとか無茶言い出すしな。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼすまでは多くの武士たちと同盟関係を結んでいたが、
鎌倉幕府滅亡後は自分ひとりで戦功を独り占めしようとして
ボイコットにあった気がする。
多くの所領を一族で独占してて収入も多かったし、多くの守護を兼ねてたのに。
後醍醐が敵になっても、それこそ持明院統の皇族を立てて朝敵でないと言うことは北条家にもできそうなものだけれど?
(それこそ当時の将軍である守邦親王を押し立てて戦うとか。)
実際のところ、源氏の我等が平氏の北条を討つという感覚が、当時の足利新田にどれだけあったかね。
正統化の根拠にはなりうるだろうけど。
治承寿永だって源平入り混じっての勢力争いってのが実相だし。
なぜ新田が率先して兵をあげたのか?が俺にはわからないが。
むしろ、南北朝時代になってからのほうが、やたらと何々の嫡流というのが幅をきかせる時代になったんじゃないかな。
新田も普通にいえば随分と没落してしまった旧家にすぎないのに、桓武平氏の北条はもとより、
弟の家系の足利よりも嫡流だと考えるからこそ骨肉の争いになったわけだ。
実際には足利は頼朝とも北条とも縁戚を重ねて鎌倉時代には有力者に成り上がっていたのだが。
もっとも、そんな没落旧家の新田から義貞という傑物が出てきた一方で、足利のお坊ちゃま尊氏がまったく無能だったせいで
南北朝の争乱が泥沼化してしまったとみることもできる。
「新田から義貞という傑物が出てきた一方で」
え?
竜頭蛇尾の典型だから、もう一花咲かせて欲しかったとは思うが。
北畠親房は、一般には貴族意識で武家全般を低く見ていたといわれているが、
義貞の場合は、最期が余りにあっけない犬死だったからガッカリ感が半端なかったことも加わったのではないだろうか。
それに北畠親房の思想は中世仏教的なもので、藤原氏や村上源氏(北畠など)の血統が栄えたのも功徳の高さ
ゆえというもの。
『神皇正統記』のトーンからは、武家ごときが高位高官にあずかったりしたのが分不相応だったがゆえに、
あっけない最期を遂げたと解釈されたのだろうなあと想像される。
しかも、義貞が尊氏よりも悪運が尽きるのが早かったのは、そもそも新田のほうが足利の末族にすぎないからだ
という解釈にもつながったのかもしれない。そこは少なくとも当家同士にとっては不正確な情報なのだが、
お公家さんからみれば末端のどうでもよい話、だったのだろう。
結局武家の世をというならもっと新田とうまくやってればこんなに乱世にはなってないだろうに。そうではなく、ある程度力を持ってしまった新田は邪魔に見えたんだろうか。
中先代で新田が鎌倉行ってたらどうしたかね。
有力守護大名として生き残れたかもね
それ以外では手を組むってありえないでしょ
足利は泰氏までは順調に「将軍家御門葉」「北条得宗家との婚姻による縁故」で守護、国司任用を受けて、国内各地に所領を増やしてきた、門閥。
足利が、血統では兄筋というだけで、生母もちがう異母兄弟の新田を同族として見るわけもなく、他の武士団でさえも、そこは見誤らないはず。
経済的に豊かでなく、鎌倉北条氏に冷遇されてきたからこそ、猪武者として先陣を切り、手柄をたてて後醍醐天皇から恩賞をあずかろうとしたんだろうな。
鎌倉存続より滅亡の方が望ましいと思わなきゃ動かないだろう
そんなこといったら、足利家、新田家ともに
それぞれ長男が家督を継承したわけではない。
新田家のほうでは、山名家や里見家は分家だけど、新田宗家よりも兄筋だし、
足利家のほうでも、細川家、畠山家は分家だけど、足利宗家よりも兄筋だし。
>>77
そこは論旨からいえば掘り下げて語るポイントではない。
同族だから新田と足利が一緒に連携して…というような
話に対して言っているだけだから、わざわざ例をあげて
説明しなくてもわかった上で、おはなししてるんだお。
新田と足利の初代は、それぞれの母親が国司クラスの受領層の娘で
ほぼ同格の出自。ただし、その父の義国は、義重と同居して
いたから、義国の心の中では、義重が跡継ぎと考えていたと思う。
なんで兄筋云々の話に脱線するのか意味が分からない。それこそ無関係な話だろ。
斯波家もそうだったな。
ただ新田氏の場合、兄筋ということよりも、足利初代の義康が平治の乱の前に早世してしまったのに対して、 新田初代の義重が非常に長命だったから、鎌倉幕府草創期には新田義重が源氏の長老格だったということがあったんだろう。
そのため足利はおろか、娘婿・義平の弟だった頼朝に対しても若僧扱いしようとして、そのことが鎌倉期に冷遇される始まりとなったともいえる。
戦もたいして強くないし、源氏といっても傍流の傍流だし
足利義兼は伯父新田義重の庇護を受けて育ったくらいだし
ただし義兼は頼朝挙兵に際して新田より先にいち早く頼朝に臣従、頼朝の信任を得て、
頼朝の妻北条政子の妹時子を妻とするよう命じられ頼朝の義弟となることに成功した
この先例により足利は鎌倉時代を通じて北条執権家の親戚として発展
足利氏歴代当主が北条氏の正室を娶っていたために鎌倉幕府御家人の中でも別格扱いだった
義康は藤姓足利氏との所領を巡る緊張関係を優位にするため、中央に出仕して官位をあげて、権威で支配権を握ろうとしたと記憶している。
後の半分は、籐姓足利氏のものだったはず。
新田荘って、「空閑の地」と言われていて、
平安末期には浅間山の噴火で荒れ果てていたので、
開発しなければ使えない土地だったと言われてるんだけど。
荘園の大きさで比較するなら、
まずは新田・足利ともに、本領以外に土地がない、
という前提になると思うのだけど?
因みに、新田氏は新田荘以外に、
八幡荘(高崎市の山名)辺りも所領だったようだね。
そもそも、初期は新田・足利が
別の一族という意識があったのかな?
義康が死ぬまでは、
都の義康
開発領主の義重
という図式だったのかも知れない。
長男の義顕が非業の死を遂げた、翌年に金ヶ崎城奪還は、その証拠。
その後、子供の時の親友集めて物見に行って死んだのは、言わずもがな。
オレがそう認めているんだから嘘じゃない。
二刀流で日本の項羽とも称された武人。
義家、義朝、義経の源氏の強さを見事に受け継いでいた人。
尊氏とは正反対の、源氏の中の源氏と、なんで、こんなに、オレがエキサイトするんだw
とにかく義貞の悪口は許さん!人が良すぎたのが、唯一の。。。
徳川宗家は一応、新田とは別家を興した得川氏の子孫であって
新田氏とは違うということにしてたんじゃなかったかな
新田義貞を祖先としてあがめるということもしてないしね
戦ってほしくないのだが
義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。
歴史の皮肉だ。
とは思う
>>102
受領で院近臣かつ財産家の武士、平正盛の娘(平忠盛の姉)と、
源義家の嫡子、源義忠が結婚しており、源氏内でさらに力をもつことを恐れた、義家の同母弟の新羅三郎義光が、 兄の義綱の犯行に見せかけて、義忠を暗殺したため、伊勢平氏と河内源氏の共栄はなくなった。
忠盛の忠の字は、姉婿である源義忠が烏帽子親だった可能性を示す。
義忠の子孫は、のちに義家流源氏の家督となった、為義にはつかず、平家とともに行動したことからも、源氏内部での対立の深さを示す。
平氏の側の問題より、源氏一族内部の内訌が問題だった。
まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)
それとも多摩川渡れなかったかな?
たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。
しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?
それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。
>>112
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。
叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。
>>115
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。
千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。
三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。
それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。
鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出した
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。
指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。
新田は足利と手を取り合って天皇政治を盛り立てようとしたんだが、足利が新田ネガティヴキャンペーンを開始しておかしくなった。
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…
そもそも仲が悪かったら新田に千寿王なんか預けないしな(笑)
北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの?
鎌倉時代は足利氏も無位無官だろう
ただし足利は代々北条家から正室を迎え北条執権家の姻戚であったため家格は高かった
足利が有力御家人だったのは北条の恩顧の賜物だがその北条を攻め滅ぼしちゃったから
(尊氏の正室もまた北条氏であり足利全将軍に北条の血は流れているが)
代々従五位だ
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。
堀口初代が何故か伊具北条と婚姻に成功して代々官位得ている
あと岩松が持ってなかったっけ
堀口貞義(従四位下美濃守)
岩松政経(下野守?)
義貞の時代になるともうどこが本家かワガンネ状態にまでなってたから
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった
政義って基地外だね
わざわざ足利の傘下に入って所領を安堵してもらおうとは思わなんだのだろうな
上手く欲で釣ってますよ
庶流が力を持っていてもおかしくない
特に初代義重と四代目政義が致命的だった
>>151
それはそれで良かったかもよ
なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり
歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ
政治に疎くて、治天の君にうまく利用されちゃった人
義貞は後醍醐天皇に弓引くところまではいかなかったけど
いずれにしても鎌倉幕府末期には外様御家人中最大勢力になってた足利一門が、冷遇され没落しきっていた新田一門を同格と見なせる訳も無く、共に生きるには新田が臣従する以外の道は無かったろうね。
まぁ新田が自らを足利の庶流と認める事ができれば、或いは鎌倉を攻め滅ぼした名声で斯波氏を抑えて足利一門の筆頭の地位を狙えたかもしれない。
初期は新田氏のほうが優勢でしょう?
足利家は、実質的に新田氏の管轄下だったから。
まあ、これは、足利義康が早死、
新田義重が長く生きたのが影響しているが。
もともと尊氏の対抗馬だったのは護良親王で、義貞が当て馬に浮上したのはその後。
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。
武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立
名門のボンボンとしてはそこまで大事にしたくなかったけど、家中の突き上げにあって、じゃあお前らの判断に従うよって感じだったんだろう。
幕府を開いてから弟に政事の一切を任せてしまったところにも、最後まで後醍醐天皇へ未練たらたらだった所にも
尊氏がイケイケ状態になってる一門に対し、どこか冷めている感じが否めない。
その意味で、足利氏と違い代々、鎌倉や京都の中央政界とはおよそ無縁だっただろう新田義貞がいきなり大出世してしまったのだから、
政治力については資質云々以前の問題だっただろう。
逆に言えば、義貞に突出した資質がなかったら、とてもあそこまでの活躍ができる位置にそもそもいなかった。