ヤンデレかよ
時宗「なんやこいつ…」
それは文永の役の後の使いやろ
あれ、そうやったか
ワイが勘違いしてた
一回目 蒙漢軍&高麗軍
二回目 蒙漢軍&高麗軍&南宋軍
やぞ
はえ~
宋は許されて蒙古高麗は皆殺しやったわね
許されたのは南宋だけやな
旧北宋地域の漢人はあかんかった
高麗の歴史みとると金だけで済んだかも疑問なんよなあ
元寇でもやれ船作れ、やれ兵士出せ、やれ兵士の妻になる女出せと要求されまくりやし
しかも女はこの時以外にも度々要求されとるし、その捜し方も家族が隠しても家に侵入して家人を責め立てまで見つけ出して連れてくとかまた惨いんよなあ
高麗がそそのかした説は違うんか?
忠烈王は積極的に日本遠征に協力姿勢とってはいたけどそれより先にクビライが日本攻める言うとるから、唆したというか既に日本攻める気のクビライに賛同した感じ
最初の使者が持ってきた国書でもう高圧的な感じ出とるし、
その使者が帰国する前にはもう日本を討つ宣言しとるしで、
最初っから別に友好的でもないんよなあ
あいつらにとっての友好はワイらの下についたら優遇したるぞみたいなのやったんやろ
いうて、高麗も陳朝も独立保ってるやん?
高麗は元に散々苦渋舐めさせられとるで
高麗時代は元からあれもこれも要求されまくりで内政にも干渉されとるし、王子は人質として元で育って元の文化に染まりまくりや
忠烈王(元寇の時の高麗王)でももう帰国した時に髪型も服装も元のものになっとって、高麗の民衆は嘆いたそうや
どっちも結局は従属しとるやんけ
戦争で勝ったベトナムですら
結局は従属を避けられなかったんや
二回目日本「危なかった…」
2回目も余裕やったぞ
一回目は人数からしても威力偵察やったし
いうても南宋との戦争中に他国の威力偵察してどうするんやろなあ
偵察して攻め込む気やったとしても
南宋との戦争終わらんと本格的な侵攻はできんやんけ
威力偵察兼脅しとのやろ
次の獲物の品定め、屈すれば最高
まだ南宋って獲物があるのに
もう日本とか早すぎん?
1回目は備えが間に合わなくてちょっとヤバかった
2回目はちゃんと防御固めてて余裕やった
・獰猛で殺を嗜む
・親孝行を知らない
・上下の礼も知らない
・土地は山水が多くて耕作に利がない
・日本人を得ても役に立たない
・日本の土地を得ても富まない
・舟で海を渡るのも風は不定期で、損害を測ることもできない。
・日本征服なんて有用な民力で底なしの巨大の谷を埋めるようなもの
・結論、(元寇)反対
ここまで言われてなんで攻めてきたんや…
太平洋に出たかったのでは?もしかして地動説を信じてたとか
太平洋に出るのに日本必要ないやろ
普通に中国からでも出れる
日本をわざと悪く言って断念させたかっただけやぞ
やっぱ江戸時代が転機なんやろか
江戸時代と刀狩が原因なのでは戦国までは日本全国修羅の国やったし
馬さん泳がれへんやろが
船作れる国が他にあるからなあ
造船と操船はそいつらにやらせればええ思ったんやない?
お馬さんは船に乗せていけばええし
悪手だったと思うで
元に決して従属する気のなかった日本と違って、三別抄は条件次第で元に従うつもりがあって、元々徹底抗戦するほどには反元派でもなければ、別に高麗を守るために戦ってたわけでもない
同盟相手としては不足にすぎるし、それ以前に日本と半島の両方の防衛をするのは、日本も渡海しないといけないから、日本のみの防衛より難易度上がる
もう清盛の頃から日宋交易が東北以外でも行われとるから、日本が金銀の産出国やいうのはどっから伝わってもおかしくないで
建物が金で出きとるいうのは金色堂が元ネタやろけど
元寇の頃はもう博多でも宋と貿易してるしなんなら宋人も博多にいた
元史にはそう書いとるなあ
けどそうすると捕虜が二、三万やから七、八万人が掃討戦でやられたことになるんやけど、無事な船は将軍たちが乗って帰ってしもうとるから逃げ帰ることもできんかったやろし
四方を海に囲まれた島国攻め落とすとか可能やったんやろか
城攻め三倍どころの話しちゃう気がするんやが
詳しい人はどう考えとるんやろな
日本の場合、弘安の役の14万人でも当時の日本の動員能力を下回るから、例え台風が来なくて遅れた南宋軍込みで日本軍と激突しても、この頃には鎌倉など他からの援軍も合わせたら日本軍の方が数でも優勢になってただろうし、これ以上の大軍を送るのは、南宋を手に入れた後の元であっても難しいから無理やったと思う
元にいくら大軍があっても、日本に運ぶための船が用意できんと渡海はできんからな
まあ領土広げたいうことは侵略された国も多いわけやしな
やべぇな
フビライも前々から攻めてたとはいえ南宋滅ぼしてるしなあ
統治面といい結構有能な君主のはすせなんやけど元寇はなんでやらかしたのか
そら銀も硫黄もあるけどコストに釣り合わん
そらあそこまでクソデカ帝国築き上げたんやから
日本とかいうの邪魔やなw となるのは自然な流れやろ
いうても日本なんか大陸から離れたぼっち国家やし
放置しても元に敵対することはなかったんちゃう?
日本に喧嘩うったときは元も不安定やったからな
元の敵と手を組んで攻められたら困るから先に潰しにかかったって説がある
むしろ弘安の役の大損害と三回目(中止した)のための造船の負担が
後の反乱など国内不安の原因になったって説もあるから
日本と喧嘩したことでかえって不安定にしてへんかな
それでも反乱制圧するくらいには力あったが
親子みたいな関係くんで一緒に栄えようや
お前が子やでって手紙きたらいややわ
実際後に朝廷が送ろうとしてた返事もそんな感じやしな
知らん国がいきなり何言ってんねんみたいな
帝国滅ぼした暗君とか言われてんの?
元いちの名君やぞ
帝国は別に滅んでない
むしろフビライは総合的には帝国を大きく発展させたし領土も広げた
日本遠征は失敗して大損害だしたけど
それ含めても総合的には有能な方
元の衰退はもっと後
名君やん
元からは関係改善の使者とか来てたけど全部追い返してたんよな
元との貿易ちゃんと出来てれば歴史はちょっと変わってたかもしれない
元との貿易はしてたよ
日元貿易
日本が頑として拒否したのは従属であって貿易じゃなかったし
南宋が滅んだ以上、南宋征服した元と貿易するしかないからな
貿易は日本にとっても必要だったし
南宋征服後にこれでワイが名実ともに南北中国支配して皇帝や!
って貿易だけを脅さずに申し込むなり
使者送らず民間貿易に任せるかすれば
戦う必要もなく貿易は盛んになってたんやないかな
フビライ死後の使者の坊さんは殺されなかったけど
元に帰されることもなく日本でどっかの寺の住職になったそうな
属州の反乱とかが多すぎたからやなかったっけ?
あと丁度三回目の元寇準備中にベトナムと開戦した
国書の内容が友好的やったとしてもただのポーズやろな
・使者派遣~第一次元寇~使者処刑までの順番まとめ
1266年8月
一回目の使者・黑的、殷弘が選ばれ、高麗経由で日本に行くが途中で引き返す
1267年6月
クビライは再び黑的、殷弘に日本行きを命じる
1267年9月
高麗王は「海路は危険なので皇帝の使者が行かなくても」と自分の側近の潘阜を二回目の使者として派遣する
1267年1月
大宰府に潘阜が到着、クビライの国書「大蒙古国皇帝奉」を日本に届ける
1268年5月
クビライが「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と発言
1268年7月
潘阜が高麗に帰国、日本からの返書はなし
1268年10月
クビライが「或いは宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と発言
1268年12月
黑的、殷弘が三回目の使者として日本に向かうも、対馬で拒まれ引き返す
1269年6月
四回目の使者・高麗人の金有成が来日、国書を届けて大宰府に長期滞在するが日本からの返書はなし(金有成は弘安の役後の十二回目使節)
1269年12月
五回目の使者、元の秘書監の趙良弼が派遣され国書を届ける
1271年9月
返書はなかったが趙良弼は弥四郎ら使節団を連れて帰国
1273年6月
趙良弼が六回目の使者として再来日、大宰府まで来るが帰国する
1274年10月
第一次元寇・文永の役