天智はなぜなかなか即位しなかったのか?いつどこで崩御したのか?
天武はいつどこで生まれたのか?
天智の娘が4人もなぜ弟である天武に嫁いだのか?
天武はなぜ天智から後任の天皇となる依頼を断り出家して吉野山に行ったのに、天智が崩御すると壬申の乱で天智の息子を討ち権力を掌握したのか?
天智と天武は政策も真逆で、天智は百済救済の軍を派遣したり、制度を唐風にしょうとしたり、外国との係りを重視したのに対して、天武は外国との縁をほぼ絶ち、現代の日本文化の原点ともいえるジャパンオリジナルを作っていった
天武は忍者の元祖という話もある
とにかく謎が多く興味深い二人
同父同母の兄弟ということになっている
それなのに兄の娘が4人とも弟に嫁いでおりこんな例は他で見たことない
これは違うのか?
皇極斉明は重祚
皇極斉明は再婚
天智・天武は同腹の兄弟ならあんま関係ないんじゃ。
蘇我が潰されたのって
蘇我の娘と舒明天皇の子供の古人大兄皇子がいたから
天智(中大兄皇子)が自分が天皇になりたくてやったんじゃないの?
ニュース
全部の黒幕だろな。蘇我氏だけじゃなく色々と殺しまくってる。
中臣氏は神祇官の系統で物部氏と共に仏教受容する蘇我氏と対立した氏族だから、乙巳の変の原因は蘇我馬子によって物部氏が滅ぼされたところまで遡る恨みつらみがあっただろうな
渡来系かは微妙。
藤原氏は仏教やで
鎌足は中臣氏の男系ではない
・百済王による倭の王(蘇我氏)暗殺
本来は唐・新羅と倭は敵対していなかったが窮地の百済から亡命してきた百済王子豊璋=藤原鎌足が百済を救うためクーデターを起こし倭の王を殺し政権を簒奪した
本来なら唐軍に協力し百済討伐のはずだったが百済救済軍に代えてしまい大国に刃向かう動機となった説2)
・唐による謀略に嵌められた
日本支配に邪魔な倭の豪族達を勝ち目のない戦場に駆り出し全滅させ戦後処理という名目で唐による日本の支配と中央集権化を目論んだ
中大兄皇子は唐のスパイ鎌足に外圧を口実に騙され乙巳の変を起こすが3年後自らも葬り去られる
武則天は藤原鎌足の娘である(能「海人」、志度寺縁起「海女の玉取伝説」)
鎌足は中臣氏とは無縁で実際は唐の武氏カク(関隴貴族集団の武川鎮軍閥)→郭務?(藤原不比等による架空の人物)に当たるか?
この事から天皇家は鮮卑系と考えられる
百済救済というか新羅が日本を裏切って任那潰して唐と手を結んだから
百済まで完全に潰れたら朝鮮半島南部での日本の勢力圏がなくなるし
安全保障にも関わるから本土で戦争やるよりかは
白村江の戦いやったってだけな気がするけど。
それで負けて結局、日本は朝鮮半島から完全に手引くことになるけど。
もし唐による謀略だったら
その後にわざわざ防人を派遣して財政圧迫するような事しないだろうし。
それをしたなら本格的に日本に攻め込めばいいのにそれもなかったからなぁ。
藤原鎌足が中臣氏を名乗ったのは強いて言えば詐称だよ
中臣の関係者に潜り込んで中臣を名乗ることを許されたから正確には詐称ではない
とはいえ藤原鎌足は中臣氏ではないので熱心な仏教派
鎌足の長男の定恵(定慧)を出家させて仏教を唐で学ばせるために遣唐使に加えている
そして定恵が帰国後に建てた多武峯寺に鎌足が祀られることとなった
もちろん次男の不比等とその子孫も全て仏教派
このように神道をつかさどってた中臣氏と真逆の仏教派であったのが鎌足とその子どもたち
この点からも鎌足の本当の出自が中臣氏ではないとする見方が多い
大伴金村といえば百済に任那の4県を割譲したことで有名だよね
そんな百済派筆頭のひ孫が藤原氏の祖である鎌足さん
「生きては軍国に務無し」
これは日本書紀(天智天皇8年10月)と藤氏家伝の両方に記載されている
当時あった軍事は「白村江の戦い」しかないので百済救援に失敗したことに責任を感じ死の間際に嘆いているのである
百済日本(大和朝廷)による九州北部の王朝潰しを目的とした裏切りがこの戦からも垣間見える
日本書紀に白村江の戦いのことはもちろん詳しく書かれていて
斉明天皇は皇居を飛鳥から九州の朝倉宮へ移して中大兄皇子たちも移動しているんだけど
なぜか鎌足の名前は一切出てこず白村江の戦いで鎌足が何をしていたのか不明にしてある
意図的に記載しないことで鎌足の白村江の戦いでの立場を隠しているのである
そして白村江の戦いが終わると再び鎌足の名前が頻繁に出てきて活躍している
藤氏家伝においては白村江の戦いの部分について丸ごと記載していない
日本の国家にとっては重要な事項であっても藤原氏について不利になることは書けなかったのだろう
したがって鎌足についてどんな失態があったのか百済との関係はどうだったのか謎のままである
関裕二らの鎌足=百済王子「豊璋」説はそこから来てるんだよな
鎌足が消えている時期に活躍しているのが豊璋というのが日本書紀
この説はさすがに滑稽としても鎌足&中大兄が百済派であることは間違いない
藤原氏に不利となるため藤原不比等が記載を削ったのだろう
元は天皇と同格の大王だった「臣」であった蘇我と家来にすぎない「連」の中臣
臣からしか天皇の妃は輩出されなかったが、それが廃止されたのち中臣を捨て藤原になることで天皇の妃を送り出し実権を握った
この一貫した目的で行動していたとなれば鎌足の百済王子説は考えられない
大陸側の情勢も大きく関連してる
蘇我や物部が争っていた時代は大陸も南北朝分裂で倭に介入する余力は無かった
内、倭の五王は漢民族の南朝に朝貢している
ところがその後、大陸が統一され騎馬民族系の隋唐王朝が誕生
そして白村江では大敗している
迫る唐の脅威に対抗する為、中臣氏としては大王の正当化権威化を行い国内の安定化を図った
兄の定恵は666年没なのでこの時点で不比等は7歳
父の鎌足は669年没なのでこの時点で不比等は10歳
みなしご不比等となり不比等が30歳になるまで消息不明
不比等が13歳の時に壬申の乱が起きるが中臣氏は大友皇子の近江朝に参加したため中臣氏も天武朝から排除
日本書紀に藤原不比等の名前が初めて出るのは30歳となった689年(持統天皇3年)で判事に任命
このみなしごで遅咲きの不比等がこのあと天下を取ってしまう
そして歴史をさかのぼって書き換えてしまう
藤原不比等は20歳の頃に蘇我娼子(=蘇我馬子のひ孫娘)と結婚
不比等21歳の680年に長男・藤原武智麻呂(南家の祖)が誕生
不比等22歳の681年に次男・藤原房前(北家の祖)が誕生
不比等35歳の694年に三男・藤原宇合(式家の祖)が誕生
3人とも蘇我娼子が生んでいる
ちなみに系譜は蘇我馬子♂→蘇我倉麻呂♂(蝦夷の弟)→蘇我連子♂(石川麻呂の弟)→蘇我娼子♀
つまり真の大王である蘇我馬子の血を受け継いでいるのがその後の藤原氏
そして皇位簒奪者である天皇家から藤原氏が天下を取り戻したわけだ
・父の舒明天皇が亡くなっても即位できず
・母の皇極天皇が皇位を退いても即位できず
・叔父の孝徳天皇の時に中大兄皇子が皇太子だったとされてるけど孝徳天皇が亡くなっても即位できず
・重祚した母の斉明天皇の時も中大兄皇子が皇太子だったとされてるけど斉明天皇が亡くなっても即位できず
・そして7年間も天皇のいない空白期間(この間に百済救援の白村江の戦い)
・近江大津宮へ遷都してようやく中大兄皇子が即位して天智天皇
中大兄皇子は「天皇の子」ではなく「出自の怪しい実力者」とみなすと全て辻褄が合う
日本書紀では「天皇の子」だったことにしたためそれら多くの問題点が生じた
日本書紀には舒明天皇の皇太子も中大兄皇子とある
舒明天皇の葬儀の時に皇太子の中大兄皇子が16歳にして代表して葬儀の弔辞を読んだと書かれている
しかしこの皇太子だったとの記述はほとんどの研究者が日本書紀の捏造だと断定している
同様にして孝徳天皇の時の皇太子や斉明天皇の時の皇太子も中大兄皇子であったかどうかは不明
中大兄皇子が本当に舒明天皇と斉明天皇の子供なら正統派中の正統後継者なんだから支持も高く不穏分子なんかいても少数派
中大兄が即位できないほど不穏分子が多いならば中大兄は正統な後継者ではないということ
どっちにしても弟を始末しなかったのは失策だったがな
年齢を計算すると天武の方が年上になるのに皇位の順序から天智の弟という設定にしただけだよ
むしろ天智にとって天武はめっちゃ気遣いしなければいけない関係
そのため天智の娘が4人も天武に嫁いでいる
額田王もあげてたな
飽きただけかもしれんが
だから天智の本性も天武の本性も日本書紀に書けない
そこで天智と天武は同父同母の兄弟でその前の天皇の子だったというファンタジーでお茶を濁すことにしたんだよ
だから矛盾点が山のように生じている
同腹じゃないと思う
同腹の兄弟の兄が自分の娘を四人も弟の嫁にするって当時の状況でもありえない
中大兄皇子と大海人皇子は血が繋がっていないと思われる
最初の夫との間にも斉明天皇の息子がいて名前は漢皇子
最初の妻(蘇我法提郎女)との間にも舒明天皇の息子がいて名前は古人大兄皇子
そして天智天皇の正妻(皇后)はこの古人大兄皇子の娘である倭姫王
その皇位継承者筆頭である古人大兄皇子を出家させて吉野に追い払って攻め殺した中大兄皇子は悪人
天皇になれる見込みの薄い人だったとか
その可能性はある
日本書紀は中大兄と鎌足をスーパーヒーローにする形に表面上は書き換えてあるが
細かく見ていくと様々な矛盾が吹き出してきておりその可能性はある
・藤原氏にとっては始祖である鎌足を持ち上げるために乙巳の変での相棒である中大兄も持ち上げなければならない
・天武系にとっても天武の死後は中大兄の娘である持統天皇とその子たちだから中大兄も持ち上げなければならない
そのため中大兄皇子も同時に持ち上げる形に日本書紀は仕上げられた
兄も大友皇子も本来天皇になれる人ではなかった
正義の味方コンビ・中大兄皇子と中臣鎌足が、大悪人の蘇我入鹿を成敗して成し遂げた政治改革を「大化の改新」と言う。
日本古代史上、最大級の暗殺事件だ。
明治17年、美術研究家アーネスト・フェノロサと岡倉天心は奈良の法隆寺・夢殿の中にある謎の仏像を見ようとした。
その仏像は「救世観音」と呼ばれ、聖徳太子をモデルにしたとされる。
ところが白布でぐるぐる巻きにされて1200年以上も封印され、誰も見ることができない。
おまけに、その仏像を見ようとすると天変地異が起こるという伝承まで残されていたのだ。
https://www.cmoa.jp/title/71268/
日本版ダヴィンチ・コード??
ふたりが夢殿の扉を開こうとすると、恐怖に駆られた僧達が逃げ出すほど。
しかも仏像を調べると、後頭部に釘が打ち込んであった!!
ありがたき聖徳太子の化身を、なぜ人目に触れぬよう封印し、釘を打ち込み、絶対秘仏とせねばならなかったのか?
まるで、その祟りを恐れているかのようである。
ここで日本古代史上、最大の暗殺事件の犠牲者が浮かび上がってくる。
「大化の改新」の真相は、中大兄皇子(天智天皇)と、父親を殺された大海人皇子(天武天皇)との、壮絶な兄弟喧嘩の号砲だったのだ……!!
>>244
日本書紀でも聖徳太子一家とその死については謎が多いのよ
まず最も重要な事項「日本書紀には山背大兄王が聖徳太子の子とは書かれていない」
「山背大兄王が聖徳太子の子と書かれている資料は『上宮聖徳法王帝説』のみ」
じゃあその『上宮聖徳法王帝説』は日本書紀より信頼できるの?ってことになるわけだけど
両者に記録されていることで一致することは多いけども不一致点もあるのよ
例えば有名な「辛亥の変」「継体・欽明朝の内乱」と呼ばれる相違点
【日本書紀】継体天皇が亡くなった531年に安閑天皇が即位して536年に宣化天皇が即位して539年に欽明天皇が即位
【上宮聖徳法王帝説】531年に欽明天皇が即位
【百済本記】531年に継体天皇および太子と皇子の3人が同時に亡くなった
つまり全く出所や背景が異なる百済本記と上宮聖徳法王帝説の内容がこの点では一致
もちろんそうだよ
山背大兄王を殺した犯人は中大兄皇子だとする研究者も多い
例えば福岡教育大学の亀井輝一郎教授など
ありがとう
それで色々調べてみた
山背大兄王vs.蘇我入鹿の戦いで中大兄皇子は入鹿側に付いていたとみる研究者が多いようだ
それで聖徳太子の一家が滅亡しちゃったわけだ
斉明天皇の最初の夫は用明天皇の孫ということになってるしな
ということは山背大兄王のいとこだよな
つまり聖徳太子の息子であるとともに蘇我系の皇族
ライバルである山背大兄王が殺害されて得をした人物はもちろん中大兄皇子である
研究者たちの中には皇極天皇(=斉明天皇)の天皇即位を疑う人たちも多くて
その理由としてここでは書ききれない様々な理由があるのだけど
例えばその中で素人でもわかりやすいのがこれ
【歴代女性天皇一覧】
推古天皇 欽明天皇の皇女
皇極天皇 敏達天皇のひ孫
持統天皇 天智天皇の皇女
元明天皇 天智天皇の皇女
元正天皇 元明天皇の皇女
孝謙天皇 聖武天皇の皇女
明正天皇 後水尾天皇の皇女
後桜町天皇 桜町天皇の皇女
天皇の皇女でない人が一人だけいる
皇極天皇(=斉明天皇)は曽祖父が敏達天皇ではあるのだけどあまりにも遠すぎる
当時もその後も現在も血統最重視で天皇が選ばれており
曽祖父(以上)まで遡らないと天皇にたどり着けない事例は歴代で5回しかない
(1) 継体天皇 応神天皇の5世孫 (他に皇族がいなくなったため)
(2) 皇極天皇 敏達天皇のひ孫 (謎)
(3) 孝徳天皇 敏達天皇のひ孫 (謎)
(4) 後花園天皇 光厳天皇のひ孫 (他に皇族がいなくなったため)
(5) 光格天皇 東山天皇のひ孫 (他に皇族がいなくなったため)
つまり理由が成り立たない事例が2回あり皇極天皇(斉明天皇)と孝徳天皇
いずれも皇太子は中大兄皇子ということになっている時代
このように中大兄皇子の時代だけ異常な現象が発生しているのである
>>272
元正天皇 元明天皇の皇女
女帝の皇女は無理が有るだろ父親が草壁だから天武の孫だな
兄弟相続は先代の天皇が父親であるときだけだぜ
天皇の子供でもない姉弟が順に相続することなんてない
そこは事例が少ないからそういうルールとも言い切れない
それよりもそこで初の譲位が行われたということのほうが重要
中大兄皇子は殺害して天皇になった(なる道を開いた)
書紀はそれを隠したとか
・他に皇位継承者たちがいるのに敏達天皇のひ孫にすぎない皇極天皇が即位している
・歴代で初めて皇極天皇が生前譲位を行っている (当時としては異例)
・歴代で初めて皇極天皇が斉明天皇として重祚している (歴代で2例のみ)
いずれも日本書紀では皇太子として中大兄皇子が存在することになっているのに以上の異常なことが行われた
日本書紀そのまま信じても謀反の密告があったからと中大兄皇子が吉野を攻めて殺してる
・チンギス・ハンの長男、ジュチって「客人」って意味なのは知ってるんだよ
・戦国時代で一番安全そうな都道府県はどこになるのか?
・昔の人「鬼畜米英!鬼畜米英!」←言うほど戦時中のイギリスって鬼畜だったか?
・JK「信長の野望で北条でプレイする人とは付き合えない」
・太平洋戦争中の日本軍の攻撃によるアメリカ民間人の死者について
・漫画の項羽と劉邦読んでるんやが、范増がめちゃくちゃかわいそうで草
※飛鳥時代の他の記事一覧はこちらです
「飛鳥時代」