スペイン フェリペ2世(スペインの絶頂期に君臨した偉大なる王)
オスマン ムラト3世(皇帝自ら公然と売官・収賄する腐敗ぶり、ハレム建設)
中国 万暦帝(明史どころか中国史上屈指の暗君)
日本 豊臣秀吉(日本史上、最も成り上がった漢)
※「スペイン帝国vsオスマン帝国vs明vs桃山日本」の続きです
万暦帝も張居正存命時なら全然雑魚じゃない
ピンだと積極的暗君になり下がるが
>>126
>万暦帝も張居正存命時なら
そりゃ張居正が有能だっただけで万暦帝が有能だったわけじゃない
秀長没後の秀吉の老害ぶりもなかなか
別人というくらい冴えが消えたよな
ニュース
いくら強大な国力があっても上手く使えなければ意味がない。
日清戦争のころGDPは清国は日本の5倍、兵力も5倍
清国海軍は全て鉄鋼船、日本は木造船もあった。
小銃は清国が輸入品を使用、日本の倍の有効射程距離
ロシア帝国のGDPは日本の15倍、本来日本に負ける方がおかしい。
・・・やっぱり中国っつーか支那は経済規模がデカいな
あの大英帝国が清から買うものはたくさんあっても売るものがなくて、
しゃーなくアヘンを売りつけたのもうなずける話
その後イギリスはおろか日本にも戦争で負けてるんだから
よほど政府が無能だったんだろうな
経済規模=国力のデカさにはなっても、軍事力とは直結する訳じゃない
清にしろオスマンにしろアジア的な「帝国」の崩壊時期にあったから
そこは少し同情しても良い部分だと思う
国民国家タイプの国とは戦争では分が悪すぎた
言語がバラバラ、基礎的な学力が不足、軍事組織・国家への忠誠心が低い等々
図体は大きくても質が伴なわなきゃ餌食だわ
当時の日本は文明の枠外で新大陸のインディアンみたいなもんだろ
>>148
西欧だと
スペイン(スピノラ)、フランス(アンリ4世)、オランダ(マウリッツ)
西アジアだと
オスマン、サファヴィー朝
東アジアで明、後金、日本
インドと東欧の扱いに困る
ポーランドでジグムント3世がロシア・バルト海で活躍しているけど
魅力なのは銃の乱射を正面突撃で粉砕してしまうフサリア騎兵
多分明を落とすのは無理だな
尋常じゃないほど広いし人も当時としてはメチャクチャ多い
中国大陸のスケールがデカい民族じゃないと
島国日本人じゃ無理だと思う
ドイツもそれでロシアに負けたし中国は自滅で滅んだし
中国抜いてオスマンが最強かな
中国は勝ちもしないが絶対に負けない
>>209
広大な領土という空間的縦深の中で戦力を流し込むには
どうしたら良いかというのは
大陸の大帝国の永遠のテーマだと思う
手っ取り早いのは
仮想敵国・相手国の国境線近くまで首都を持っていく(北京とか)
国家のあらゆる資源を前線まで集積できる体制を整えやすい
1600年前後だとオーストリア戦でほぼ互角、ポーランド戦で負ける
オランダイギリスの援助受けたサファヴィーに負けたし微妙
16世紀後半ならこんなもんか?
S スペイン、オスマン帝国、明、日本
A イングランド、フランス、ポーランド、サファヴィー朝、ムガール帝国
B スウェーデン、モスクワ大公国
C モンゴル
D イタリアの都市国家、李氏朝鮮
>>213
君主が有能だから興隆しているグループと
圧倒的な国力で繁栄しているグループに大別されるような気がする
サファヴィー朝の
アッバース1世、フランスのアンリ4世、
オランダのマウリッツ、ムガル帝国のアクバルあたりが顕著か
明とオスマンは間違いなくSなんだろうけど惰性感が半端ねえ
スウェーデンのヴァーサ家はスウェーデン本土より
ポーランド・ロシアで活躍している変わり種
モンゴルはアルタン死後は凋落傾向で
アルタンのキャリアハイも1542年の山西省侵攻だから既にピークは過ぎている
総合力でいえば日本はSじゃなくAグループだな
明、インドが有利なのでは
アルマダじゃスペイン2431門、イングランド側がだいたい1800門
1600年ぐらいなら4桁揃えないと話にならん
>>222
まあ、30年戦争のロクロワの戦いでも両軍とも15門前後だし
ずっと後の砲兵が線状を支配する時代になったナポレオン戦争での
アウステルリッツの戦いでもフランス軍の大砲は200門だな。
戦国末期の攻城戦では10門以上大砲が揃う戦は増えていったし
城郭にも大砲に対する防御を意識したものが現れはじめてる
ただ野戦となると上にも上げたように欧州と比べて
絶望的に輸送がしにくいからドウシテモ数がすくなくなる
だから軽量砲が開発されたんだし
それでも日本に比べれば平地は遥かに多い
>>225
欧州と言ってもスイスやスペインは山がちだし
イタリアも中部から北部にかけては起伏が激しい
比較的平坦なフランスで野戦砲の運用が発達したのはおっしゃる通りだが
欧州と十把一絡げにするのはいかがなものかと
>>224
欧州は道路なら砲車にのせて馬で牽けたし、
アルプス超えしないかぎりは山の存在は殆ど無視していいレベルだし・・・
まあそれでも17世紀くらいまでは重いことに変わりはなく、
野戦においては大砲は一度砲兵陣地に設置すると
殆ど動ごかせない存在であったことは確かだな。
それを解決する手段として軽量砲身が開発される直前の18世紀前半では
6ポンド砲(57ミリ砲)とかの口径の小さい砲を大量に揃えることで
戦場での砲兵の機動力を確保する方向になってるね
16世紀頃の日本って重種の輓馬いたのかな?
フランスの場合は大型種の育成に中世の頃から携わっていたから
馬で牽引するって発想にも容易にたどり着けたんだろうけど
まあ、日本に大型種がいたとしても穀潰し扱いされそう
馬は平坦な地形で直進する動物だから
日本の地形は馬にとってはキツいし。
日本製は性能が低くて使い物にならなかったってところだろ
初めからイギリス製やオランダ製がきてたら使ってる
あとリュッツェンだとスウェーデンは60門使ってるけど
そのうち40門は軽砲
そういう大砲の運用をはじめたのは
まさにその時代のスウェーデン軍が元祖でしょ
軽砲(っていうかセーカー砲)は家康がオランダやイギリスから買ってるで
後、18世紀の野砲は17世紀のセーカー砲と口径こそ同じだけど
砲身長が短くて炸薬量が少ないよ
(無論時代や製造国その他によって差があるが)
エゲレスがびびったという話があるが
黒船来航あたりの日本も実は似たようなもんであった
攘夷でござるーってあの当時にマジで戦争したら
清の二の舞いだったんだよなぁ
しかたがないので百姓を銃士に登用。
恐らく百姓の方が戦闘力が高い。
近世戦闘を目の当たりにしてようやく武士も鉄砲を装備する。
オスマンの剣から銃への切り替えみたいだ。
サファヴィー朝なんてチャルディラーンでボロ負けするまで
銃採用をクズルバシュが拒否し続けていたからな
西アジアではティムールの頃から遊牧勢力は火器を使っていたというのに…
戦国期でも足軽鉄砲隊とか普通にいたのに
野戦で使うんだから当然か
そもそも30年戦争の前の
1593-1606のオーストリアVSオスマン戦で
すでに銃火器運用が変化してるんだよね
オーストリアは数値がはっきりしないが最大100門を野戦で使ったっていうし
銃騎兵もグスタフアドルフよりハンガリー騎兵のが早いんだよね
ちなみにその結果オーストリア兵の70%-75%が銃を装備してた
リュッツェンで帝国側も軽砲使ってたから
野戦砲の軽量化はとっくに進んでたと考えていい
軽砲ってどういうものを指して言ってるの?
馬で牽引できないことはない。
戦場で戦況にあわせて動かすなんてことは無理だがな
30年戦争のスウェーデン軍においては6ポンド革砲がそれに相当するのだが
皇帝軍においてはより重いセーカー砲で代用してたみたいだね
まあ革砲は余りにも軽量化やり過ぎて砲身破裂する事故が多発したが
スウェーデン軍は革砲使わなかったはずだが
それ3ポンド連隊砲の間違いじゃないだろうか
日本は大阪の役までろくなのがなかったって事実は変わらんだろ
まともな大砲作れるようになった頃には戦争自体がなくなった
セーカー砲なら日本でも運用できたと思うぜ
大砲が普及したら日本もあーいう戦い方をやっただろうな
戊辰戦争はそんな感じだったでしょ
高度な軍隊を前にして対応できる有能な将軍が明に居るとも思えない
日本は織田信長なら対応策を打つことが出来るかも
オスマンは当時どんな将軍が居るか知らないからわからん
>>273
信長本人はそこまで会戦に強くないぞ
どっちかと言うと秀吉の方が戦巧者
明だと16世紀は兪大猷、戚継光ぐらいしか有能な指揮官は思いつかないなあ
李成梁は将軍と言うよりは政治家っぽいし
日本の火縄銃は射程500m。
在日の工作で削除されたけどWikipediaにも記載されていた。
日本の方が圧倒的に有利。
火薬の量増やして爆発力上げれば射程距離は伸びるってだけ
長篠の二の舞になるだけ
つか明の大砲で散々蹴散らされてたじゃん
清が明を倒したのではなく
明が李自成の乱と呉三桂の寝返りで自滅しただけ
>>289
サルフの戦いでも
野戦築城と火砲の戦闘準備が整っていた部隊には結構苦戦してたな
防御されたら火砲を突き崩すのは至難の業だわ
マジノ線のせいでダメな子扱いされているけど、
実際は攻撃よりも強い戦術行動という評価の方が正鵠を射ている
明と日本は陸戦で明の勝利(引き分けみたいなもんだが)
さて・・・
スペインとオスマンの海戦は
プレヴェザとレパントのことをいってるんだろうが
内容があまりに違いすぎる。
プレヴェザはスペインの戦略的撤退にすぎないが
レパントはオスマンの壊滅的大敗だ
モンゴル帝国 VS 日本
アメリカ合衆国 VS 大日本帝国
国力的にどっちの方がヤバかったの?
>>328
「仕入れることができる情報の量や質」の面で
「モンゴルvs鎌倉幕府」のほうが
「マジで滅ぼされるかも…」なヤバさはあったはず。
「米国vs大日本」は
「開戦から半年以上経つと負けの可能性は日を追って濃くなる」
はおおよその日本の上層部は分かっていたわけが、
鎌倉幕府はほぼ完全に手探り状態
(なにをどうすればよいのかが殆ど分からない
文永弘安ともに取り敢えずは九州北部に兵士を集めて、
二度目の弘安の上陸の前に石塁地を構築くらいしかできない)
だったはず。
前者
動員兵力100倍ぐらいの差があるのでは?
>>328
モンゴル帝国 VS 日本
→周りを制圧した大国がその次を攻める
アメリカ合衆国 VS 大日本帝国
→戦争で疲弊した国が別の大国に騙し討ちで戦争を仕掛ける
どう考えても後者がヤバいだろ
大元もアメリカも全国力を対日に傾けたわけじゃない
1000万を動員するモンゴルに敵うわけがないな
1000万もどうやって輸送するのか?
お船
最盛期のオスマン朝に勝てる国家はないだろう
しかし、西欧列強が暗黒中世から脱却し力をつけ地中海に進出してきたら
もう、勝てなくなったよね
むしろ、オスマン朝が強大な勢力を持っていた時に
その欧州深部への進出を必死に食い止めていた
ハプスブルグ帝国の評価はもっと高くていいとある歴史家は語っている
もし、ハプスブルグ帝国が首都ウィーンの手前で
オスマン軍を食い止めていなかったなら
まだ、産業革命前で弱小だった西欧、中欧が、イスラム化してしまって
その後の世界史が大きく変わっていた可能性が高いと彼は書いていた
でも、皮肉なことに、最新の欧州の状況は、イスラム難民の大量流入で
まさにイスラム化しつつある・・・
フランク王国と東ローマ帝国が敗れていたら欧州とっくにイスラム世界だったね
それでもウィーンぬけなかったが
ていうかハンガリー中部の征服も苦労してるし
一見すんなりやってるように見えてそうでもない
ヤーノシュ・フニャディやマーチューシャの頃は何度も撃退されてるし
モハーチ以後もハンガリーが地元貴族ザポイとハブスブルクの間で
内乱がおこってるすきにザポイと同盟
でザポイがオスマン軍をハンガリーに引き入れて
内部から協力体制作れたのがでかい
ヨーロッパの場合拠点支配のために無数にある城塞を落とすことが重要で
一回の戦闘で領土は変更しない
だからモハーチ後もスレイマンは
ハンガリー戦線で病死する40年間延々と地味な城塞戦をやってる
ウィーン包囲後3年後に同じように10万以上の大軍でウィーンを攻めようとしたが
その時はカール5世が大軍を率いて構えてたので
ハンガリー南西部の小さな城塞に目標を変更と冒険しないタイプでもある
イスラム教徒としての英雄は後ろ二人だけど
クルド人とトルコ人という
キリスト教徒から領土奪った英雄って点から考えると、
ベルベル人以外大分キツイんじゃね
ベルベル人だと、ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンとか
ムワヒッド朝のアブー・ユースフ・ヤアクーブ・アル=マンスールとかいるけど
トレド奪回できてないからちょっと微妙
モンゴル扱いもされるが本人はテュルク系のムスリム
同時代のハーリド・イブン・アル=ワリードを挙げないといけないと思う
オスマン・スペイン・明・日本
スペインは単独ではなくヨーロッパ連合でオスマンと対峙して、
五分未満だからな。
オスマンが巨大大砲でガンガン大規模戦争やってた頃、
日本じゃ、まだ応仁の乱前だから。
明はもう衰退期に入ってる頃だからな。
それなら飛ぶ鳥落とす勢いのジュルチンを出した方がよいかも。
北京入城前にすでにモンゴルとか従えてるし。
スペインは主敵のイングランドに苦戦してる片手間に、
レパントでオスマンを粉砕したぞ
・滝川一益とかいうマイナーなのに信長の野望でいつも良い能力もらってる謎の男
・三国志が歴史の教科書で一瞬で終わってしまうの怖すぎだろ・・・
・昔の人「俳句は5・7・5、決まりです。すこし余る位ならOKです」種田山頭火「…」
・歴女「えまって。武将の家系図に母親の名前ないのって女性蔑視じゃない?呆れる」
・島津家ってよく考えたら、とんでもない畜生じゃね?
・アメリカ人「原爆を落とさないと戦争は終わらなかった原爆は必要悪」←論破できる?