召し使いの女
清洲城主・福島正則の家来に、大崎玄蕃という銭勘定に無頓着な武将がいた。
ある時、賤しい格好をした女が武家奉公をするために清洲に来たが、誰も召し抱えなかった。ところが、玄蕃は家来の反対を押しきって召し使いとして採用した。
以後女は陰日向なく21年間働き、玄蕃も2万石の身上まで出世した。
ところが、福島家が改易されるや家来・奉公人はことごとく退散し、残ったのは玄蕃の家来3人と召し使いの女1人だけとなった。
「かつて2万石の身上だったワシも、いまやすかんぴんじゃわい。」と玄蕃が自嘲すると、
女は庭石を動かし穴の中から、金5000両・銀2500枚を取り出して玄蕃に献上した。
「このような大金をどうしたのじゃ?」と驚いた玄蕃に対して、
「旦那様は銭勘定に無頓着ですから、万が一のことを考えて旦那様の収入の一部をコツコツ蓄えておきました。旦那様の金ですからお役立て下せえ。」
玄蕃は女の機知に驚いたが、互いに「金は受け取れない」と押し問答になりそうなので、
「ではこうしよう。銭の山を交代でひと掴みしあいワシとそなたで山分けしようではないか。」
女はその提案を承諾し、玄蕃と金を山分けした。
玄蕃は後に徳川頼宣に仕官できたという。
(名将言行録)
おお、いい話だね! これぞ恩返し
大崎玄蕃は、福島家が改易されてからその逸話にいたるまでの、おっそろしい頑固貧乏話が面白いよねw
>>823
>おっそろしい頑固貧乏話が
たぶんこの人の話↓
吉村又右衛門物語
福島正則の家臣に、吉村又右衛門という武将がいた。
福島家改易により又右衛門は妻子と伊勢の関に寓居した。
寓居中の貧窮ぶりはすさまじく「女房は丸裸に、娘は泣き伏して飢えに及ぶ(原文より)」という有り様。
そんな中、福島家の同僚・大崎玄蕃が訪ねてきた。要件は、紀州に仕官できそうなので又右衛門に紹介状を書いて欲しいというもの。
又右衛門は快く紹介状を書いてやり、
「玄蕃殿は路銀をお持ちかな?」と聞く。
玄蕃がないと答えると、具足櫃から金50両と銭1貫を取りだし玄蕃に与え、玄蕃は喜んで帰った。
それを見ていた女房は「家族を飢えさせながら、他人に大金を与えるなどあり得ない!」と激怒した。
対して又右衛門は、
「武士はそろばん勘定はしないものだ。あの金は我が武名を落とさないためのものじゃ。そんなことも分からないのなら武士の女房とは言えぬ。離縁申し付ける。」と言った。
さて、又右衛門の武名を聞いた松平定綱から仕官話が来た。
又右衛門はボロの着物のまま定綱に会いに行こうとした。
定綱の使者が「せめて馬か駕に乗って下さい。」と頼んでも、
「浪人は恥ずるものではない。」と一向に聞かず徒歩で登城した。
めでたく仕官がかない又右衛門は定綱の重臣になったが、連日ボロ具足・古葛籠を担いだ百姓が広島からやって来た。
あまりに異様な光景に定綱の家臣が驚いて又右衛門に理由を聞くと、
「彼らは皆ワシの譜代の家臣じゃ。再起の時のため広島の村々に預け百姓をさせていた。彼らをいつか役立てようと浪人中も彼らに隠し扶持を与えていたのだ。」と答えた。
そんな又右衛門が子供に残した遺言は、
“ワシは武功を持って大禄を得た。しかし、貴様には武勇武功もない。よってワシの所領は殿様に返上せよ。
もし貴様に新たな所領が与えられたなら、小禄でも文句を言ってはならんぞ”(名将言行録)
>>867
このあたりがなんというか、安土桃山以降江戸時代の武士の価値観になるのかね。
戦国までの武士は一族郎党家族家来を養い保護するのが第一義。
>>821
これ、いい話なんだけどさ、
もし万が一なことが起こらないうちに蓄えてた金が見つかったら、
召使のクビ飛ぶよね(文字通りの意味で)
大崎「貴様、俸禄を着服しておったのか!!ワシが雇ってやったにもかかわらず!」
召使「いえいえ、これはダンナ様に何かあったときのために・・・」
大崎「問答無用!!」
スパーン
確かにw
主の銭勘定への無頓着さを信頼してたんだろうか
>>821の大崎玄蕃、再士官のときのお話
福島家が改易される時、人材マニアとして有名な紀伊藩、徳川頼宣は
「福島左衛門大夫はよき侍を数多く召抱えていた。そのうちにて名の知られている者であれば幾人であっても我が家に召抱えたいものだ」
と、語り、熱心に勧誘して、世間にも名の聞こえた大崎玄蕃長行・村上彦右衛門義清・真鍋五郎右衛門貞成の3人を召抱えた。
その年の冬の事、頼宣はこの三人に御茶を下される事となった。
ところが、大崎玄蕃には頼宣御手前にて御茶を下され、彦右衛門と五郎右衛門には茶道の千賀道圓の手前にて茶を下された。
彦右衛門と五郎右衛門の両人は、
「なぜ玄蕃には君自らの御手前でわれらには茶道の手前であるのか心外である!
このようなことではお暇をいただき申す」
と、憤った。
これを聞いた頼宣は
「大崎は元は備後国鞆の城主で、福島家の家老までやった、お前達の先輩じゃ無いか。こっちでの仕官は横一線で一緒だけど、こう言う所で昔の先輩を立ててやってもいいだろ?」
と、体育会系によくある理論で諭す。
彦右衛門と五郎右衛門も、
「言われてみりゃその通りですね。」
と、納得。さすが福島の旧臣たちであった。
聞き分けがいいなぁ、二人
家臣は結構良いのが揃ってたのになあ福島家は
年間あたりおよそ金250両前後、銀125枚前後もの大金を
21年もの間露見せずに侍女が抜き取れてたとか銭勘定に無頓着とかってレベルじゃねえww
もしかして金500両、銀250枚の間違いでね?
それでも1年あたり金25両前後、銀12枚前後と侍女が抜き取るには額がでかいw
逸話の真偽はともかく数字はガチ。
ちなみに、庭石を動かしたのもこの召使い。
玄蕃はこの女を採用する際に家中の侍と相撲をとらせて、
女が14人勝ち抜いたのが採用の決め手になったそうで…
なるほど、それほどの豪の者なら
穴も一晩で掘ったに違いない。
たしか大石臼を軽々持ち上げるだとかいう怪物女だからありえるな
しかもこの話、主を晴れやかに送り出した後小船に乗ってどこぞへ去るとかいうやたらかっこいいシメだったような
正則の家臣はむしろ、超まともなのが多い。
例の酔った勢いで切腹させられた家臣もまとも故だろうな
あの時代、主君の切腹命令はそりゃ軽いものじゃないだろうけど
それでも市松の酔いが醒めるまで適当に誤魔化して時間稼ぎせず
家臣としての勤めを果たす
・・・もう少し不真面目というか要領良く立ち回っていい気がするよ
>>826
> それでも市松の酔いが醒めるまで適当に誤魔化して時間稼ぎ
本多正信あたりはそうしそうだな、と思った。
抜き取ると云うよりも
例えば銀1枚も要らない程度の支払いに
玄蕃「これで払っといて」と適当に銀1枚出して
その女がきっちりお釣りは取っておく
みたいなのが積もり積もってじゃないのかな
流石に主人が出した額以外に色々抜くのは
他の奉公人の目もあるから難しいと思う
>>854
どうだろうな。
大崎家は2万石と小大名並の所領を持つ家だから当然勘定方がいるんじゃね?
だから、仮にその女が代金を支払うとしても勘定方を介して金を受け取るだろうから、毎回毎回お釣りをちょろまかすなんて無理な気がする。
まあ真面目に考察しすぎるのも野暮かも知れんけど、どうやったらそんなウルトラCを決められたのかどうしても考えてみたくなるw
野球の長嶋茂雄はどんな小額でも一万円札で支払うらしいね。
もちろんお釣りなんて受け取らない。
とか馬鹿な事態が起こりそうw
主人が出した額:これで今月の支払い全部やっといて、と手持ち全部
とかかもしれんぜw
これだけの量を収納できる穴を用意、隠し通した事の方がすごいと思ったり(笑
結構でかい穴だなw
5000両と銀2500匁は米換算で合計11000石相当
勤続21年だから一年当たり平均523石相当を貯蓄に回していたと推測
まあ常識的な範囲とも取れる
大崎家の所領は2万石。
2万石と言っても年貢収入で年間2万石を得られるというわけではなく、2万石程度の収穫を見込める領土を与えられてそこから年貢を徴収する。
そして6公4民だとすれば年間1万2千石程度を年貢米として徴収というわけ(豊作や凶作等で年貢米は変動)
1万2千石から更に大崎家に仕える者への俸禄を支払うから大体多くて4割程度(5千石前後)が大崎の手元に残るはず。
大崎家が1年間に自由に使えるのが5千石前後ならば、1年当たり523石相当は相当の額だと思うんだが…
>>868
そのへんのやりくりが上手だったんだろうなぁ・・・と思った。
純粋な大崎の収入も5000石も無かったかもしれんし最初から2万石貰ってた訳じゃない。
でも小遣いの1/10程度なら常識的な貯蓄と言えるしあまり常識的な話だと逸話にすらならないから。
まあどう解釈するかは各々でw
女を採用するのに相撲取らせるってそれ本当は雇う気無くて
追い返すつもりだったんと違うか。
そこが四天王との違い棚。
その市松さんが家臣に慕われてた話。
藤堂高虎が福島浪人久留島彦左衛門に使番を遣わして一万石で召抱えようと伝えた。
しかし、久留島は答えて
「旧主福島左衛門太夫が和泉殿と不和の事は衆知の事実である。
私は扶持米を受けるために元の主人の敵に仕える事は義理においてできない。
よろしく御断り申し上げる」
と言った。
高虎はそれを聞いて、やっぱり豪傑なんだ、惜しい事よと断念が、数日の後、久留島は紀伊国に遠ざけられて一万石を与えられた。
久留島は、これは全く高虎が人を見定める力の賜物として、書状をもって恩を感謝したという。
(開国遺事)