初鹿野伝右衛門の旗指物
武田信玄の12人の使番は「白地に黒のムカデ」を旗指物とするきまりで、彼らは「ムカデ衆」と呼ばれた。
しかし、ムカデ衆の1人・初鹿野伝右衛門だけは白地の旗指物を用いていた。
それを見た信玄は、
「ムカデ衆の中で白地の旗を指している奴は誰じゃ?なに、初鹿野伝右衛門じゃと。またアイツか。伝右衛門を呼び出せ!」とご立腹の様子。
「貴様は、ムカデ衆は「ムカデの旗指物」とする武田家の軍法は知っておろう。なぜ、軍法違反したのじゃ!!」
それを聞いた伝右衛門は、
「ちっとも軍法には違反してません。」と言い旗指物を信玄に見せた。なるほど、旗指物の隅っこに小さなムカデが描いてある。
これを見た信玄は、
「…。でもずいぶん小さいな。なぜ、他のムカデ衆みたく大きなムカデを描かないのだ?」
伝右衛門は、
「他の人と同じムカデを描いたのでは、戦場において、それがしの手柄が他の人とまぎれてしまいます。ゆえに、わざと小さなムカデを描きました。」と平然と答えた。
信玄は、それを聞いて大笑いしたという。
(武者物語)
ニュース
加藤嘉明の家臣に、河村権七という者がいた。
彼は関ヶ原でも大功をたてた者であったが、生来頑固であり、あるとき、嘉明と行き違いで口論となり、腹立ちのあまり加藤家を出奔することにした。
が、出奔した後「あいつは他の家に、今より良い条件で仕えるために出奔したのだ。不忠者だ」などと言われるのも片腹痛い。そこで、書置きを残した。
「この度お暇を頂くのは、他家に仕えるためではない。例え放浪の身になっても、加藤家以外に仕える事はない。今後加藤家に大事があったときには、何処にいようと掛けつける。」
そうして、出て行った。これを知った嘉明は渋い顔をしたが、そのままほおって置いた。
14年の時が過ぎ、大阪の陣となる。
この時、豊臣恩顧の大名の多くは、江戸に留守居として抑留された。無論嘉明もそうなった。
そしてこんな噂が流れた。江戸に抑留された大名達は皆、改易されるのではないか?
そんな嘉明の江戸屋敷に、汚い身なりをした修験者が現れた。「どうか殿にお目通りを」河村権七であった。
嘉明は驚き、対面した。「加藤家改易の噂を聞き、いても立ってもいられず参上いたしました。」
「…よく来た。書置きのとおりにいたしたな。」
嘉明はそれを喜び、河村を、元のように八百石で召抱える、戻って来い。と言った。
最初権七は恐縮したが、ついにこれに応じた。
「よし…。ではこちらに来い。」
嘉明は権七を、屋敷の一室に連れ出した。その部屋には、紫の布に覆われた、山のようなものがあった。
これはなんだろうと、権七が不思議な顔をしていると、嘉明は家臣に命じその布を取らせた。
その下には、莫大な金銀があった。
「権七、お前の俸禄じゃ。」
権七は混乱した。たった今八百石で仕えるとは言ったが、それが何故このような大金になるのか。
すると、その布を取った家臣が言った。
「これは河村殿が、『見聞の旅』に出ている間の俸禄を、殿の仰せで積み立てておいたものです。14年分で一万一千二百石。どうぞお納めなされ。」
「お前は14年前、言ったな」唖然とする権七に、嘉明は語りかけた
「他家には仕えぬ。わしの一大事には駆けつける。お前の忠心を思えば、わしにはおぬしの俸禄を、横領することなど出来なかった。そして今、その通りにしてくれた。
権七、またこの嘉明に、力を貸してくれ。」
権七はただただ、感涙にむせんでいた。
大阪の陣の後、会津四十万石に加増された加藤家において、河村権七は良く、嘉明を支えたという。
>>645
どっかで見たことある名前だと思ったらこれか
401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/02(日) 12:23:21 ID:O1uOsHhC
関ヶ原の、奥方衆を守った話といえば、加藤嘉明のところの河村権七郎が、
嘉明の命で、苦労の末大阪の加藤屋敷に潜入して、屋敷に井楼まで組み上げて武装して
奥方を守り通したのだが、戦後、嘉明がこの功に200石の加増を言うと
河村「オレがどれだけ苦労して奥方守り通したと思ってるんですか!それをたった200石!?
オレの功を関ヶ原で訳のわからん首取った連中と一緒にする気か!あんた何にもわかってないよ!!」
って言って大喧嘩になって、結局河村出奔、ってのがあったなw
いったい河村さんはその大金を何に使ったのだろう