DQNを発生させない家造り、最上家の場合。
「最上家の掟」
女、子供、病人をみだりに殺さないこと。
敵の領地でも田畑を荒らさない。勝手に放火しないこと。
衣服は質素に。ただし武具は身分以上のものを背伸びしてでもいいものを揃えるのが好ましい。
喧嘩はだめ。酒の飲み過ぎはいけない。
他家の使者を勝手に討ち取ったりしないこと。
人をだまして手柄を立ててはならない。
宇治川合戦で佐々木高綱が梶原景季を騙して手柄をたてたような行為は、他はともかくうちでは絶対に駄目。
同じく佐々木高綱が、藤戸の渡で浅瀬を教えてくれた民を殺して、自分だけ先に渡って手柄を立てようとした。こういう行為をする卑劣な者は、場合によっては死罪とする。
最上にはこんなルールがあった。DQNを発生させないためには、上がこういう 常 識 的 な ルールを決めるのがコツだろうか。
あと民間人殺傷や、騙し討ち禁止はなんかいい人ぽいですね。
鮭様は本当に人格者だな。
>他家の使者を勝手に討ち取ったりしないこと。
この項目が気になったんだが、最上家以外では他家の死者を勝手に討ち取ることがあったわけなの?
つーか、基本的には伊達家の分国法である「塵芥集」を基にしたものだよね。
最上のも。
ニュース
なのになんでDQN大名が生まれたんだろうな
政宗「オレがルールだからだ!」
>>414
そもそも、塵芥集を制定した
その稙宗がDQN
その息子もDQN
その息子もDQN
その息子が政宗
輝宗ってDQNだっけか?
安心の最上クオリティはこういった背景から成り立ってるんだなぁw
輝宗は伊達家では希少種の非DQN
むしろおとなしかったので伊達家の弱小化を招いたと言われるくらい
んでもあの悲劇の死の後に何人もの重臣が殉死したことで人望は察してあげて下さい
「俺が死んだら何人殉死してくれるかなー みんな殉死してくれないかなー ボク一人で死ぬの寂しいよ」
・・・と始終家臣にいってたという息子とはえらい違いだw
中野・牧野が党類、事急なるに因テ妻子を退るに不及して小松に籠城す。
逆徒、退散ノ後公彼等が妻子を殺さんとす。遠藤基信諫て止む。(治家記録)
中野宗時の乱が静まった「後に」その家族を殺そうとした。遠藤さんが止めなきゃジェノサイド。
永禄9年、小泉城攻めのとき、支倉時正(常長の養父)に、鍬を大量に用意させてる。
要するに刈田だけじゃ飽き足らず、百姓の苦労よそに根っこから掘り返して絶やしてる。
天正2年、鮭様パパから遠藤基信あて書状
「一最上へ御加勢に候哉、御自身御出馬候哉、此度可示給候」
当然、天正最上の乱の仲裁名目で出馬したんだろうけど、相手にハナから信用されてない。
>輝宗
>>424
> 中野宗時の乱が静まった「後に」その家族を殺そうとした
乱の静まったあとに見せしめの処分を行うのは、珍しいことではない。
> 要するに刈田だけじゃ飽き足らず、百姓の苦労よそに根っこから掘り返して絶やしてる。
これも戦国時代のごくありふれた戦術。伊達に限らず武田も上杉も北条も織田も毛利も、みんなやっている。むしろ伊達のやり方は甘いくらい。
> 当然、天正最上の乱の仲裁名目で出馬したんだろうけど、相手にハナから信用されてない。
これは信用云々以前に、利権確保の理由が大きいのでは?
戦国はパワーバランスの世界。力があれば信頼がなくてもかまわない。
これらをもって伊達をDQNだと言い張るのは無理がある。
伊達がDQNってのを真に受けるヤツが増えてきたw
ここで使ってるDQNと今いるDQNじゃ質が違うだろ
本物のDQNなら空気読めずに家潰してるっつーの
ここで使ってるDQNはある意味褒め言葉だぞ
長嶋茂雄タイプの微笑ましい方のDQNな
おっと、めんどくさくなるから
「微笑ましいヤツが人殺しなんてしねーよ!」なんてのは無しな
>本物のDQNなら空気読めずに家潰してるっつーの
おっと!最上義光の息子の悪口はそこまでだ!
>>463
孫じゃね?最上義俊。この人はどうも、家を潰したいとしか思えないような行動をしてる。
有名戦国大名の子や孫には、ホントにどうしようもないDQNがいるんだよねー。
最上義俊(最上義光孫)、加藤明成(加藤嘉明息)、加藤光広(加藤清正孫)
こいつらはリアルな意味で、ごく潰しのろくでなし。
>>464
んー、でも義俊って福島家改易の接収時の態度が幼いながら立派だったということで、秀忠から刀をいただいたりしているんだよね。
改易後も最上家再興のため文書を発給したりしているし、無能は『藩翰譜』あたりで後世で強調されすぎているかんじ。
十三歳かそこらで五十七万石継いだらいろいろキツイだろうし、そこは家臣がサポちゃんとやるべきだったろと思う。
義光の後継者選びの失敗も自業自得呼ばわりされがちだし、家親も妾に刺し殺されたとかガセネタ広まっているんだけどさー。
最上の改易って最近の研究では土井・本多の幕府内権力抗争に巻き込まれた、不手際より見せしめの要素が
強いんじゃないかなんて言われるようになってる。
元和偃武期の改易って、理不尽なものが多いからそこんとこ微妙だわな。
最上の改易は、義俊個人の資質はともかくとしても、重臣たちが勝手に過ぎた結果だろうね。幕府も一度は裁定をくだしているのに、それを潰してしまった。
人材マニアが色々集めてきたはいいけれど、当の人材マニアが死ぬとガタガタって辺りは曹操が死んだ後の魏を彷彿とさせるところがあるな
でも同時期の伊達騒動もかなりヤバかった筈
伊達の重臣達が大騒ぎした所を幕府に睨まれ、潰される寸前まで行った
あと少しで最上同様、伊達も改易になってたのでは
結局運だな。政宗があと十年早く生まれていたら、天下を取らずに改易されていたかもしれんね。
最上の場合はね、地理的要素もでかいと思うんだよ。
当時の東北の状況は、主だったところだけでも、
佐竹20万石、伊達62万石、最上57万石、上杉30万石、蒲生60万石とこれだけでも230万石。
全て外様な上に佐竹、伊達、上杉と危なっかしいやつらがいっぱい。
んでこのほかにも徳川とは縁の薄い外様が色々。
こういうのが幕府お膝元の関東のすぐ上にいるってのは、気味悪い。
そんな中、外様とはいえ義光がかなりの親徳川で、次代の家親は家康の小姓。
山形は秋田・仙台・米沢を牽制できる位置にあり、最上家の存在は、他の外様家を牽制する上でも重要なポジションだったと思うんですよ。
実際、最上家改易後しばらくは有力外様が配置されてるし。
で、何が言いたいかと言うと、最上家に期待された役割は単なる外様以上に親徳川であることであり、義俊の時の騒動は、そういう役割を果たせなくなったと思われたことも一因ではないかということ。
長文スマソ
一応
蒲生さんは家康の娘婿でだいぶ贔屓されてるから外様扱いはカワイソス
最上さんちも義光さんは家康さんに贔屓されたけど家を贔屓されたわけじゃないから
どっちも家格は外様で会ってるしょ
できないDQNなんてキチガイだぜ。
お前らと違って歴史に名を残した人物だぞ?
もっと敬った方がいい