片桐且元と占い師
慶長十六年(1611)、徳川家康は豊臣秀頼に、二条城での会見を要求した。
淀殿は秀頼の身を案じ、軍配者(戦の吉兆を占う者)である白井龍伯にその事を占うよう命じた。
彼は香をたいて煙に現れる気を3度見たが、すべて大凶と出た。それを片桐且元に連絡したところ、且元は
「私は占いの事は良くわからない。が、秀頼様が二条城に行かなければ、戦になること、これだけは解る。良いか、占いの内容を吉と書き換えるのだ。」
しかし龍伯はこう反論した
「そんなことを言われて、もし秀頼様に何かあったら、書き換えさせたあなたの責任になりますよ!?」
且元は笑って答えた
「秀頼様が殺されれば、私も一緒に死ぬ。誰に罪を問うというのだ?」
こうして、占いの結果は吉と書き換えられた。淀殿は秀頼を二条城に送り出し、対面は無事、果たされた。
龍伯には豊臣家より褒美として、白銀100枚が下賜された。が、彼はこれを期に、一切の占いを止めたと言う。
ニュース
引越しの話
信長は、清洲城から小牧山に本拠地を移転しようと計画したが、家臣にいきなり「小牧へ引っ越せ」と命令すると家来が迷惑がるので機転をきかした。
すなわち、最初はわざと二宮山という険しい山に側近を引き連れて「二宮山を新しい本拠地にする」と宣言し、側近に引越しの手順・普請の担当者・新城の屋敷の配置を事細かに命令した。
側近は清洲に戻るとその命令を家臣に通達するも、案の定「あんな山奥に引越しなんてまっぴらだ」と家来全員からブーイングの嵐。
数日後、「二宮山の引越し命令は撤回し、引越し先は小牧山にする。」
と信長は命令の変更を通達した。
二宮山よりずっと便がよい小牧山が引っ越し先と聞き、家来は大喜びして引越しの準備に取り掛かりましたとさ。
出典「信長公記」
戦国時代ではないが藤堂高虎のいい話
寛永4年会津藩60万石の藩主蒲生忠郷が若くして急死した。
無嗣により改易となるところであったが、母親が家康の娘ということでなんとか改易は免れたが、大幅な減移俸となることになった。
さて、その会津を誰が治めるかということで、幕閣で話し合いになったがなかなか結論が出ない。
それもそのはず、会津は奥州の鎮守の府であり、並の武将に任せられる土地ではなかったからである。
そのとき藤堂高虎が、「会津を治めるのは加藤左馬介をおいて他にはおるまい」と言ったので諸将は耳を疑った。
高虎と嘉明は慶長の役の頃からの不仲で、不倶戴天の敵といっても過言ではないぐらい仲が悪かったからである。
もちろん皆そのことを知っており、それをいぶかしんだ者がその真意を問いただしてみると高虎は、
「加藤殿との不和は私事であり、会津入封の事は公事である。私事をもって公事に優先することは出来ないので加藤殿を推すものである。」と言った。
このおかげで加藤嘉明は会津40万石の大俸を得ることとなった。
嘉明は高虎の度量の大きさに感激し、以降2人は水魚の交わりを持つようになる。
八丈島のちょっといい話
八丈島に囚人視察のために、幕府の代官がやってきた。この2人は、特にかの元・五大老の一人、宇喜多秀家の様子を見てくるように言い含められていた2人である。
宇喜多秀家は、豊臣政権下では重職をつとめた男で、しかも秀吉からの寵愛ぶりもひとかたならぬものがあった。関ヶ原の合戦後も、しばらく逃げ回っており、「再起をはかっている」とさえ言われていた。そんな男が、八丈島に流されてからは、おとなしくしているという。
だから、逆に幕府は怪しんだ。幕府としても、もともと「秀家が何か企んでいるのでは」と不安であった。まして、加賀の前田家などは、毎年のように差し入れをしている。
これは許可したものでもあるので、咎めはしないが、何か密約が交わされていては一大事である。
それゆえ、この代官2人は、秀家の様子を見ることを主命としてやってきたのであった。
2人は、とりあえず秀家に接触するために秀家を招いて宴会をすることにした。島の役人に一通り役目のことを話すと、役人を通じて秀家を呼んでもらった。
秀家は喜びの表情でやってきた。
「いやはや、かように過分の御饗応、まことにかたじけない。」
食事をしながら秀家は言った。代官2人は思った。「実によく笑うお人だ」。秀家は、一通り盛ってある分を食べ終わると、また笑いながら、「申し訳ないが、もう一盛りいただけませぬか?」
と言った。代官2人は驚いた。仮にもかつて五大老という重職にいた男が、食事のおかわりを頭を下げて頼んでいる。2人は、一瞬唖然としたが、すぐに「…あ、はい。それはもう。充分に用意してござるゆえ、ご遠慮ご無用にござる。」
と言って、食事を持ってこさせた。
つづく…
食事が再び、膳に並ぶと秀家は、サッと懐から手ぬぐいを取り出した。そして、またしても苦笑しながら言うのであった。
「いやはや、お恥ずかしい限りであるが、この島ではかようなご馳走はお目にかかれぬ。家で待っておる妻子にも食べさせてやりたいのでござる。」
秀家はそう言うと、照れながらも、堂々と食事を手ぬぐいに包むのであった。
代官2人は、その様子を見ていて、いっそ秀家が憐れになってきた。人生がこうも180度変わってしまうというのも、そうあることではあるまい。
お開きとなり、帰る前に秀家からしつこいくらいに礼を言われた2人は、あとで白米2俵を秀家のところに届けた。
もと五大老だった秀家に対して敬意を表したつもりであった。
しかし、やはり秀家は礼儀を心得ている。
「かような心遣いを受けながら、何も返礼ができませんが」と言って、宇喜多家の家宝「内赤の盆」を贈った。
2人は「宇喜多どのの心に、未だ再起を図り、幕府の転覆を狙う心などない」と確信した。
ある時、秀家は、「旧領からの商船が八丈島に流れ着いた」という話しを聞き、現在の岡山周辺の様子をその船の乗組員に聞いてみた。その答えを聞いた秀家は、「そうか、その様子ならば、まことに平穏な世がやってきたのじゃな。ならば、言うことはないな。」とにっこりと笑ったという。
援助が始まってからもまだ生活は苦しかったのかな
5年ぐらい前に、八丈島にいったことがあるけど
秀家が一生を送ったのを想うと、感慨深いものがあったなー
島の資料館で初めて流刑の島だと知ったし 待遇は佐渡送りは地獄で八丈島ははるかにマシだという内容の資料があって勉強になった
罪人も流刑地が八丈島だと聞くと内心ほっとしたらしい
・薩摩島津家60万石、滝川一益が羨むスズメ、浜野家の再興
・立花道雪の最後と家臣の絆、小堀遠州と細川忠興
・守銭奴と呼ばれた小野和泉、浅野家に仕えた上田宗箇
・金貨を自慢する伊達政宗と軽蔑する直江兼続、安土城の受付・織田信長
・毛利隆元「どうか父を長生きさせてください」、小早川の一番備・松野主馬