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【戦国いい話45】家康による毛利家領土安堵の起請文、五体満足なものが一人もいない福島家の重臣達

2022年7月31日

162: 名無し 2008/09/25(木) 18:43:43

関ヶ原が終わった時、家康が大阪城にいた毛利輝元に当てた、領土安堵の起請文。
ご存知のとおり、この領地安堵は輝元の大阪城退去後覆されたため、家康が輝元を騙したのだ、と言われるが、実はこの起請文、その後にも歴史を作る。

慶安四年(1650年)、毛利秀就が病気で急死する。跡継ぎの千代熊は、まだ元服もしていない13歳の少年であった。
当時はまだ、減封、改易の多く行われていた家光の時代である。また、当時の毛利家は家中のまとまりが悪く、「藩主幼少により減封」も、充分に考えられる状況であった。

そこで毛利家が幕府に提出したのが、この起請文である。
なんとこの書状、この当時では、「神君家康公による、毛利家の存続を保障した起請文」という解釈がなされていたのだ。

起請文の力により、千代熊の封襲は無事認められた。どころか、毛利家は藩主の交代のたびにこの起請文を幕府に提出し、毛利家36万石の領土を幕末まで保ちきったのである。
藤堂高虎が家康に粉骨砕身に使えていただいた、領土安堵のお墨付きと同じ効果を、この起請文は持っていたのだ。

毛利の、中国の覇者からの転落の、原因の一つにもなった書状は、お家にとって無二の家宝となっていた。

禍福はあざなえる縄の如し。

 

165: 名無し 2008/09/25(木) 21:16:24
>>162
面白い話だ
毛利家もちゃっかりしてるなぁ

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163: 名無し 2008/09/25(木) 20:08:39
よく破り捨てずに保存してたなw

 

166: 名無し 2008/09/25(木) 21:17:09
文面が知りたいねぇ

 

167: 名無し 2008/09/26(金) 12:31:38
>>166
今は山口県の毛利博物館に収蔵されているね。この書状。

 

168: 名無し 2008/09/26(金) 19:05:16

江戸時代の毛利家で思い出したけど、元旦の問答の話。

家老が当主に向かって「今年こそ徳川を討つべし」
当主が答えて「未だその時期ではない」

このやり取りがお正月の恒例行事になってたらしい。
多分毛利家だったと思う、違ったら島津かな

 

169: 名無し 2008/09/26(金) 19:11:49

>>168
それは都市伝説で、おそらく実際には存在しなかった。

「徳川を討て」といえば、加藤光広(加藤清正の孫)が、これが典型的な暗君で、重臣たちが困るのが面白くて、酒に酔っては「これより徳川を征伐に行くぞー!」って叫んでたりして、しまいにゃ悪戯で徳川征伐の密書を作って、大騒ぎになったんだけど、結局これが元で熊本の加藤家は改易された。

 

172: 名無し 2008/09/26(金) 20:08:04
>>169
加藤・福島家の改易って、巷間言われてるような「言いがかりで改易」というよりは、改易された側にもかなりの問題があったらしいしね

 

170: 名無し 2008/09/26(金) 19:49:11
>>168
幕末の時はよしやれとかったんかね

 

171: 名無し 2008/09/26(金) 19:56:28
>>170
「そうせい」だろうな

 

173: 名無し 2008/09/26(金) 22:24:45
加藤(肥後も会津も)は残れたかもしれんね
福島は・・・改易なくてもドッカよそに移されそうだ
これは本当に「はめられた」って感じがするし
案外初期に潰れた大身外様大名でどう頑張ってものこれなかった奴は少ないかもね無嗣改易とか多いし
徳川が虎視眈々とつぶす気満々だったってのは疑問が残る

 

174: 名無し 2008/09/26(金) 22:31:25
前田も伊達も毛利も島津も、敢えて加えりゃ細川も黒田も大身だがうまく立ち回ってるぞ
福島は脳筋で加藤はバカ
幕府に従順な振りだけでもしときゃいいのに空気が読めないのはいつの世もハブられる運命
自業自得だろ

 

175: 名無し 2008/09/26(金) 22:36:40

家光の時代くらいになると、旗本や親藩に、外様のロビー組織みたいなのが出来てて、外様が存在していてこそ利益がある、って連中が幕府内部にもたくさんいた。

福島も、最初は城の破却で所領安堵、って裁定が下ったのに、不完全な破却にとどめて
それが幕府を逆撫でして、改易って事になってしまった。

 

177: 名無し 2008/09/26(金) 23:12:36

じゃあ福島正則、と言うか、福島家ちょっといい話

家康が大御所の頃

福島家の重臣たちが一同に、家康にお目見えすると言う事があった。
勇猛で鳴る福島家、どのような豪傑が来るのかと、家康に仕える小姓たちは噂しあった。
ところが現れたのは、皆年齢以上に齢を取り、そしてある者は足を引きずり、ある者は片目がなく、ある者は口が裂け、およそ五体満足なものが一人もいない、みすぼらしい人々であった。

謁見が終わり彼らが退出すると、小姓たちは我慢に耐えられなくなったように笑い出した。

「なんだあの満足に戦えそうもない年寄り達は。あれが福島家の重臣か?」

それを聞いた家康は、激怒した

「お前たちは本当に情けない者達だ。勇者を外見でしか判断できないのか!?あの者達がいかに戦国乱世を戦ってきて、福島に名をなさしめたか、その偉業を成し遂げた才能を、あの姿に見る事が、出来ないのか!?」

小姓たちは、言葉も無かったと言う。

後日、福島家が改易された時の事、

福島家の広島城退城は、城明け渡しの作法があまりに完璧だったので、天下の評判になった。
そのため、福島家の家臣たちは、諸大名から「あの家の家臣なら」と、引く手あまたで引き取られた。
退城を指揮した主席家老の福島丹波は、旧家臣達の再就職を全て世話し、それが終わると自分はどこにも仕える事無く、人知れず隠棲し、主家に殉じた。

家康に謁見した折、足を引きずっていた男である。

 

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