武田信玄の異母弟に、川窪信実という者がいた。
ある時、徳川家康の家臣、篠瀬某が、主命にそむいたため罪を得、彼の元に逃げ込んできた。信実はこころよく彼を保護した。
さて、しばらくすると家康から篠瀬某に、罪を許すので帰ってくるように、との知らせが届いた。篠瀬某は喜んだ。が、しかし、自分を保護してくれた信実にまだ、何の恩返しの働きももしていない。心苦しく思いながらも、「実は家康様から…」と、信実に報告した。
「そうか。少し待て。」
そういって、話の途中で座敷を立った信実。やはり気分を害していらっしゃるのだろうか?それも仕方のないことだ。と、篠瀬某が考えていると、信実が戻ってきた。
彼は手に、二羽の立派な鷹をたずさえていた
「家康殿は鷹狩りをお好みという。帰参のおりこれを献上いたせば、家康殿も喜び、お主への心象も良くなるであろう。持って行きなさい。」
篠瀬某からこの話を聞いた家康は、信実のさわやかな心根に、深く感じ入ったと言う。
彼は後、長篠の戦で討死する。享年32歳であった。
北向き兜
信長が一向一揆と戦っていた時の事、一瀬久三郎と言う侍が、信長の兜をうっかり北向きに置いてしまった。それに気がついた林佐渡守が叱責する。「何をしておるか!早く向きを直さぬか!」
当時、兜を北向きに置くというのは、とんでもなく不吉なものだったのだ。あわてて向きを直そうとする久三郎。が、信長はそれを止めた
「一揆勢はどこから来るのか解らんのだ!兜の向きなどどうでも良い!」
そう言って、北向きのままにさせておいた。
さて、その日の一揆勢との合戦で、久三郎は一番鑓の武功を挙げた。信長は久三郎を呼び出しそれを褒めた。すると久三郎、未だ北向きに置いてある兜を見てから、
「殿のおかげです。」
「今朝の事で、殿は、私の面目を潰さないようにしてくれました。そのおかげで、気兼ねなく槍働きが出来たのです。」
そう言われて、信長もまた、喜んだと言う。
巷間言われているのとは違い、信長という大将は、部下に細かい心遣いをする男であった。
細かいことは気にしない男って感じだなw
フロイスの大げさな描写に惑わされてるだけで、他の資料からは、少なくともあの時代の平均的な「迷信深さ」を持っている人だと推測できる。
少なくとも巷間で言われるような破壊者ではないというのには同意。
信長が越前制覇したら真っ先にやったのがその、剣神社の保護。
ニュース
天正四年十月十五日、教賀という僧が、越後長福寺の空陀という僧に送った書状の内容。
「甲斐では、信玄公とお話をする機会があり、その時武将についての話になったのですが、信玄公は、『上杉謙信こそ日本無双の名大将である』と、絶賛しておられました。」
なんだか良い話だと思うんだ。うん。
そりゃ自分が何度も戦っても決着がつかない相手だからな互角の相手を褒める=自分もすごいんだぞというアピール
いつから俺はこういう風にしか物を考えられなくなったんだろう・・・
多分、社会人に
なったあたりからじゃないか?
相手強いとほめる→それに勝った俺もっと強いwww
家康すごい→それに勝った信玄超すごい→それとガチンコな謙信パネェ
>>27
つーか信長の時代も京では、信長すげえ→その信長が恐れてる信玄謙信ハンパネエ
こう言う感じだったらしいぞ。
信長すげぇ→信長が戦いを避けた上杉・武田つえぇ!→武田信玄に一流と言わせた毛利元就パネェ!!→毛利元就すら恐れた尼子経久やべぇ…
武田家・上杉家は武家や京都民に人気だったという話を聞いたことはある。
ソースは知らない。
・政宗と鈴木石見、現場で働く人達が好き、可児才蔵と試合
・秀吉の松茸狩り、宮本伊織の豆腐、手柄を譲り合う前田利家と佐々成政
・明智光秀の妻の話、三河時代の徳川家、側室を持たない毛利の男
・忍城攻防戦、三成の奉行「平塚越中守」、伊達政宗に呆れる細川忠興3連発
・花より団子、はしゃぐ毛利輝元、斉藤義龍の妻が持つ茶道具の名品