毛利輝元には一人の娘がいた。
大名の娘である。自家の政治的立場のため、他家に嫁がせるのが当然の存在であった。
娘も毛利家のためにと、その事はよく理解していた。が、一人、それをたまらなく嫌がっている者がいた。
お父さんは、心配性だったのだ。
「あの娘はわがままに育ててしまって、他の家に嫁いだら、そこのしきたりに我慢できるわけがない!いややっぱり無理だ!結婚なんてさせるわけには!」
姫の結婚話を切り出した毛利秀元に輝元は、そんな親バカ丸出しの手紙を出したりしている。
しかし毛利家の姫を、いつまでも独身のままにしておくわけにはいけない。
秀元が口説きに口説き、「では、一門のものでしたら殿も安心でしょう。」
それでも渋る輝元ほっておいて、秀元、一門吉川家の吉川広正との結婚話をさっさとすすめ、どうにか、結婚の運びとなった。
結婚の日輝元は娘に
「この結婚に不満があるかもしれないけど、行儀を良くし、吉川の家中を広正と一緒にまとめていくんだよ。お前は気が短いから、腹の立つこともあるだろうけど、そのときは我慢するんだよ」と、娘を切々と心配する手紙を渡した。
「この結婚に不満があるのは誰のことかしら?」と、手紙を読んだ姫が、そう言ったとか言わないとか。
ニュース
なんかすごい妻の尻に敷かれてそうだなw
意外にもこれがまだだったな
毛利元就は尼子と断交し、大内の傘下に入った。
英雄、尼子経久から家督を継いで間もない孫の晴久をはじめ、尼子家中はこれに怒り、「毛利討つべし!」との声が大きくなった。その中、一人反対した者がいた。晴久の叔父、経久の弟、尼子久幸である。
「元就は、お前たちが考えているような、簡単な相手ではない。」
ここは戦よりも、外交的解決を図るのだ、と言う久幸に、主戦派は怒った。たかだか安芸の一国人に過ぎぬ元就ごときに、数ヶ国を領する大尼子がなめられたままでよいと言うのか。
この久幸、かねてより、物事を戦にならないように謀り、経久の頃でさえそれが無謀と考えれば、その戦に反対していた。
「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ!だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう。」
臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲った。彼はこの屈辱にじっと耐え、あくまでこの戦に反対したが、天文9年(1540年)、晴久はついに毛利征伐の命を下した。
尼子三万の兵が毛利家の本拠、吉田郡山城を攻めたこの戦い、当初の目論見に反し尼子は攻めあぐね、天文10年正月十三日、尼子軍は毛利軍の猛攻と大内からの援軍の背面攻撃を受け大混乱に陥る。
このままでは、撤退も出来ず全滅もある。絶望的な状況の中、尼子側の一部隊が突出した。尼子久幸であった。
「臆病野州の最期を見よ!」
久幸は敵に突進し、先ず大内の軍を蹴散らした。大内軍は名のある家臣、深野平左衛門、宮川善左衛門があっという間に討ち取られた。後世に語り継がれたほどの、恐るべき武勇であった。
久幸のこの奮戦により、尼子は混乱状態から体勢を立て直す余裕が出来、退却をはじめた。
彼は、尼子の撤退を支援すべく暴れまわったが、毛利家臣、中原善右衛門尉に射抜かれ、討死した。
臆病野州と呼ばれた男の奮戦は、尼子軍の誰よりも、あれこそもののふであると、敵である毛利、大内両軍からすら、高く称えられた。
そのエピソード、確か大河ドラマ「毛利元就」にもとりいれられてたの、読んで思い出した。
ケチケチおじさんかと思えば何でも持ってけ~とかなw
徳川家康の有力な家臣である牧野康成の元に、商人が茶壷を売り込みに来た。
商人曰く、これは大変に貴重な茶壷だという。茶のことを良くわからぬ牧野、これに大金を払って買い取った。
が、後にこれは真っ赤な贋物と判明。牧野はやすやすと大金を巻き上げられたのだ。
それを聞いた太閤秀吉。牧野をその茶壷とともに呼び寄せた。
「こんな贋物をつかまされたのか!わしが見ても贋物だとわかるわ!おぬしも馬鹿じゃのう。」
「はあ、まったく。馬鹿でございますなあ…。」
あまりにがっかりしている牧野を気の毒に思ったのか秀吉、
「よいよい。お主ほどの侍がこんなことで損をするのは、この太閤が許さない。」と、茶壷の代金に加え、黄金一枚を添えて、牧野に下したのだ。
これを主君家康に報告すると、家康も面白がって、「なんと、贋の茶壷が金を産んだわ」
そしてこの茶壷は、「科銭の壷」と呼ばれ、天下に喧伝され、牧野家の家宝とされた。
贋物が、本当の銘物になってしまったお話。
その人、長岡藩主の家系の牧野康成と別人なんだよな
なんだって同世代(6歳違い)で牧野姓で康成が2人いるんだ(読みや仮名は違うが)