海老をすくい上げた話
天正十四年三月
徳川家康と北条氏政・氏直親子が伊豆にて、同盟締結のための会見を行った。
一同が集まって先ずは酒宴、と言う時、家康の宿老である酒井忠次、「余興に」と、お得意の踊り、「海老すくい」を舞い始めた。
これは今で言う泥鰌すくいのようなもので、相当滑稽な踊りだったそうな。
これに一座大爆笑。その和やかな空気のまま。徳川と北条の同盟は、無事締結された。
締結直後に、北条側から酒井に向かって一言
「立派な海老がすくえましたなあ」
自分で言うかww
その後徳川家は北条という海老を捨て
豊臣という鯛につきましたとさ
>>874
海老=同盟締結の事だよ。
ついでに言えばこの同盟のおかげで、家康は小牧長久手の対決に至るための、後顧の憂いが無くなったし、北条も北関東戦略に集中できたし、と、双方に大きなメリットがあった。
あと、家康は関東征伐のぎりぎりの段階まで、北条に豊臣につくように説得しているわけで、しかも氏直は、命を助けられ、早死にして果たせなかったが、「家康の婿」として、豊臣政権化で大名として復活するはずだった。
この同盟は、かなり強固だったと言っていい。
ニュース
土佐のこうもりいやで出来人長曾我部元親
土佐人たちの大酒のみっぷりに苦慮しついに禁酒法発令
皆不満たらたらであるもののやむなくお酒は控えることに
所がる日元親自らこっそり酒を飲んでいるのを福留さんが目撃
ここぞとばかりに自ら作った禁酒法を自ら破ってしまった殿を責めまくり
元親平謝りに謝って禁酒法の条項を撤廃しましたとさめでたしめでたし
土佐人じゃないのに幕末の豊信は鯨海酔侯
なんだ?血筋じゃなくて風土が酒好きに影響しているのか?
書いた本人が土佐人で酔いながら書いたんだろww
あそこに住んでたら、周りにあてられてついつい飲みたくなるだろうな
板倉勝重が、徳川幕府の初代京都所司代に就任した時、最初に出した触書
一、町人に申し分があれば、書きたてて目安箱に入れること。(市民の意思や要求を把握する)
一、町人に訴訟したい事があれば、板倉家中のものに頼む必要はない。直接申し出る事。(直訴を認める)
一、訴訟、裁判において、他の有力者に仲介、斡旋を頼むようなことがあれば、理非にかかわらず負けとする。(裁判の公平性を確保する)
一、所司代の者だと言っても、町人の売り物を掛買い(値引き購入)させてはならない。(官僚としての規律を確保する)
一、法は町触れによってはじめて執行される。武家奉公人が所司代の命令だなどと言ってきたときは、所司代に通報する事。(法公開の原則)
これは板倉の治世の間ほぼ守られ、さらに彼に続く京都所司代の、基本方針となり、さらには幕府における江戸、大阪などの都市行政においても、これが原則とされた。
彼が名所司代と京と市民からたたえられたのも、裁判においての手腕だけでなく、このような、自らを律し、市民の話を聞き、公平であろうとする姿勢があったため、だったわけだ。
秀吉が太閤と呼ばれた頃の事
秀吉が風呂に入っていると、蜂屋伯耆守がやってきて、お背中を流しましょうと言う。
それではと秀吉、やらせてみると、蜂屋、こう節をつけながら、リズミカルに背中をこすり始めた
「知行くれい~ 知行くれい~」
そんな感じで背中を流してもらった秀吉、蜂屋に向って「今度はわしがお前の背中を流してやろう」
そんな、殿下に、勿体無い、と断るも、無理やり服を脱がせて、同じように節をつけながら背中をこすり始める秀吉
「奉公せい!奉公せい!奉公せい!」
蜂屋伯耆守、すっかり恐縮したそうな。