最上義光三連
1.最上家の鮭延家臣に、裸亥之助というものがいた。あまりに太っていたため、あう甲冑がなく裸で走り回るためそう呼ばれていた。
義光はこれを聞いて「いくら太っているからって、ブタ(亥)はないだろ、ブタは…今日からは 武 太 之 助 って呼びなさい、なんちて♪」
と寒いオヤジギャグをかました。
2.庄内地方を上杉と争った最上だったが、結果的に外交で敗北、庄内は上杉家のものとなった。しかし年貢とりたてが厳しく、一揆があいつぐ。
そんな中、池田讃岐という武士が一揆に加わり逃亡、最上領に逃亡し鮭延に助けを求め匿われた。彼は天下のお尋ね者となったため、悪次郎と名乗った。
悪次郎は現地を開墾、治水灌漑をおこなった。住民はそれを感謝し、地名を悪次郎に変えた。明治以降、あくどいイメージなので地名を変えるように行政指導があったが、住民は悪次郎という地名を守り抜き、現代まで残っている。
3.秀吉政権以降、由利十二党が最上配下となった。義光はとりまとめに苦労していたが、あるとき十二党のものに「大井五郎という暴れん坊に困っているので殺して欲しい」と頼まれた。
義光はなんとかして五郎を山形城に呼び出して暗殺しようとした。
しかし、現れた五郎が鮭をまるごと平らげ、あまりに大食いなのを見てすっかり気に入り、
「あのー、わし本当はお前のこと殺そうとしてたんだよねー。でもなんか気に入ったから殺さないからね? 何か困ったことあったらいつでもおいで」
とたくさんお土産を渡して家まで無事に帰した。
ニュース
じゃあここはネタを投下する 直江つながりで対戦相手の最上ネタ。
最上家中鮭延秀綱配下に、に鳥海勘兵衛という若い侍がいた。
彼はある日、義光の奥方に仕える侍女に一目惚れしてしまい、ひそかに恋文をやりとりするようになった。ところがある日、これが発覚し義光は激怒、二人は死罪を言いつけられた。
これを聞きつけた鮭延秀綱は義光を諫め、勘兵衛がいかに勇敢か、過去の武功を説いたところ、義光は二人を許し、勘兵衛に侍女を妻としてめあわせた。
これからおよそ半年後、長谷堂合戦で鮭延秀綱は志村光安とともに、城の防衛にあたった。鮭延勢奇襲の際、あやうい秀綱を若武者が救い、討ち死にした。鳥海勘兵衛であった。
彼の遺書には主君への感謝と、妻と過ごした日々の喜びが綴られ、「この御礼には命をもって報いるしかない」と記されていた。
勘兵衛の妻は、夫の葬儀が終わると自害しあとを追った。二人が夫婦であったのは、僅か半年ほどであった。
戦後、鮭延秀綱は義光にこの遺書を見せた。義光は号泣し、かつて勘兵衛夫妻を罰しようとしたことを恥じて、手厚く弔ったという。
鮭延秀綱、このスレで出番多いなw
あいよあいよー 鮭いくよー 鮭話ファイナル
最上家は二代目藩主急死後、義光の孫・義俊が幼弱であるとして義光の四男・義忠をかつぎあげる動きがあった
これの中心であったのが鮭延であるしかしこの動きが幕府に叛くものとされ、改易の憂き目にあう…
鮭延は幕府の土井利勝に気に入られたのか、古河に預けられ五千石の身分となった
土井は優秀な官吏ではあったが武勇に功績がなく、そのため武勇の誉れ高い鮭延を買ったのではとも言われている
ちなみに彼は長谷堂合戦では志村光安と並び活躍している
しかし鮭延は一切の政治から身をひき、五千石すべてを最上家から己を慕ってついてきた家臣に分け与えた
また、改易の原因を作ったのを恥じたのか、鮭延家を意図的に断絶させた
彼の死後、その徳を慕った家臣は鮭延寺を建立し、彼をしのんだという
鮭オマケ
鮭延の主君・最上義光はあまりに鮭が好きなので、「おまえは鮭喰らいたくて海とったろ」と後世言われたらしい
それは本当かどうかわからないが、家臣宛に「鮭トンクスw 食べてみたけどマジウマー」と手紙を書いているので、好きだったのは確か
水戸黄門こと水戸光圀も鮭中毒患者、特に鮭皮マニアだったらしい。
鮭といえば
毛利秀就が江戸城に登城した時、弁当のおかずに鮭の切り身入れてたら、一緒に登城していた諸侯達が
「やや!その珍しいものは何ですか!?」
と、集まり、一口味見させてくだされと言って来て、秀就も人がいいから
どうぞどうぞと食べさせちゃったら、「おお!これは美味じゃ!」とみんなでパク付きはじめ、最終的に秀就、自分の分が無くなった。ってお話が。
義光の良臣に男惚れする性格にもあるんだよな。
こういうところで謀略暗殺義光の汚名が少しでも払拭されるのは素直にうれしい。
義光は漢が漢に惚れる良い主人だけどあんまり家臣を厚遇しすぎたのか
家臣に禄を与えすぎて最上直轄領少なかったんだよな。
>>769
謀略暗殺は別に戦国じゃ当たり前の話なんだけど、何故か義光は冷酷なイメージにされるのね。
どっちかって言うとむしろ、開墾したり水運整備したり寺社保護したり、領民に暖かい政治姿勢だったんだが。
命懸の開墾を計画した家臣に対し、全面的バックアップするとか、改易後、酒田の商人に二君に仕えずと言わせたりね。
ああそうそう、ウィキによると義光は五千石程度の暮らしだったとか。
五十七万石なのに君主が五千石とかアリエナス
そんだけ清貧だったからこそ、たまに食べるタンパク質=鮭がうまかったんだろうなw
・秀吉様が臆病になられますように、米粒をいただきたい、焼き塩鯛の身を焦がしつつ
・元旦から不機嫌な信長と木下藤吉郎、長宗我部元親と羽柴秀吉の饅頭
・静御前が使ったといわれのある薙刀、伊達政宗の愛馬「五島」
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