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【戦国いい話26】薩摩島津家60万石、滝川一益が羨むスズメ、浜野家の再興

2022年7月19日

668: 名無し 2008/08/14(木) 19:32:43

太閤検地の行われていた頃の話

薩摩島津家は未だ君主権が弱く、秀吉の求めるとおりの検地など実行したら
反発を受け、何が起こるか解らない。

「とても無理だ」

と、検地の責任者である石田三成に書状で泣きついた。そこで三成、

「ならば、村の数だけ調べてよこしなさい。石高はこちらで適当に数字を作るから」

と、温情あふれる返答。
これには島津家、および後世の書類偽装役人、大いに感銘を受ける。

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670: 名無し 2008/08/14(木) 21:59:10
そしてその適当に作った数字が
その当時の実質的な石高約40万石を遙かに越える60万石だったのですね
さすが三成、秀吉の懐刀といわれるだけありますね

 

671: 名無し 2008/08/14(木) 23:06:15

滝川一益が上野厩橋にいたころのはなし

ある日一益が何人かの家臣と亭で休憩をしてると周囲を警戒しながら餌を食べている鶴を見つけた。

しかしもう少し近くを見てみるとその鶴の周囲にじゃれあい、好き勝手に餌を啄ばんでいる沢山の雀がいるのを見つけた。

昔の自分と今の自分を比べた一益は家臣たちに呟いた。
「あの鶴はまるで私、大勢の雀は家来である貴様らのようだ」
「大名ともなればあの鶴と同じく一時として安心できるときはない、心配してばかりだ。だが貴様ら雀はあのように自由気ままな暮らしが出来る」
「貴様らは鶴を羨んだり、また、鶴になろうなんて思わず、今の雀の楽しみを楽しみ給え」

晩年、一益は雀に戻ったわけだが実は幸せだったのかもしれない。

 

677: 名無し 2008/08/15(金) 12:56:30
加藤清正が京都に来た際福島政則と茶を飲むことになった。
茶室で部屋掃除をしていた二人の近衆がふざけて暴れて壁に穴を空けてしまった。
速めに着いた加藤は二人から事情を聞き不問として帰した。
福島が来ると真っ先穴を見つけ
「なんだこの穴は?」
っと不機嫌になった。
加藤が事情を説明すると
「なぜその二人を切り捨てない」
と怒った。加藤は呆れて
「お前は戦はできても仁愛の欠片もない日本一人使いが出来ない奴だ。
若者達を成敗してどうする?子孫の事を思えば逆をとられよ」
と呆れられた。

 

680: 名無し 2008/08/15(金) 19:09:36
>>677
清正は部下に優しいから好きだな
まあ猛将だから優しいだけじゃないんだろうけどさ
親分肌なのがいいよね それにしても彼の配下はやんちゃなのが多いなw
茶器割って開き直る小姓とか

 

686: 名無し 2008/08/16(土) 15:35:33
>>680
心構えのない部下には容赦なかったと思うけど。

 

678: 名無し 2008/08/15(金) 14:34:11

毛利元就が、息子小早川隆景に当てた手紙

「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。
これ以上悪いことはありません。
一般に家臣を殺す事は、その主人に器量がないためで、器量のある主人は
家臣を殺すような真似はしません。
よくよく、心得て置いてください。」

実はこの手紙、元就が、家臣の中での最大勢力だった井上一族を粛清したすぐ後に書かれたものである。
無論隆景もその事は充分に知っている。その上で、元就は自身の苦悩と自戒を篭め、この手紙を書いたのであろう。

 

679: 名無し 2008/08/15(金) 16:12:29
>>678
これは深イイ話だなぁ。
「お父さんを見習うな」
っていうことを伝えたかったのだろう。優秀な息子が育つわけだなぁ。

 

682: 名無し 2008/08/16(土) 00:44:08

佐竹義重の配下に、浜野正杞と言う侍がいた。彼は天正12年(1583年)の沼尻の合戦で武功を上げ、義重は政杞に、直々に戦功をたたえた書状を与えた。

時は過ぎて関ヶ原合戦のあと、佐竹家は出羽に国替えとなった。この頃政杞は既に老齢で、「もうお供も出来ません」と、佐竹義宣から暇を取り、下総で帰農した。やがてこの地で死ぬが、
その時
「何かの役に立つ事もあるだろう」
と、義重の書状だけは後に残した。しかし、彼には娘一人しかおらず、この娘は結局嫁に入り、浜野の家名は断絶した。

その下総に、新たに水野忠光が領主として入ってきた。彼は、どこかからかこの義重の書状の話しを知り、「鬼義重と呼ばれたほどの武将の筆、是非拝見したい」と、自ら娘の嫁ぎ先にまで出向き書状を見た。
これによりその書状は有名になり、佐竹義宣まで父親の文章を見るために、参勤交代の折わざわざ立ち寄った。

そうして、沼尻の合戦からおよそ100年後、元禄11年(1698年)の佐竹藩の家臣名簿に、浜野久兵衛という名前が現れる。浜野家は、佐竹藩において再興されたのだ。

侍の命がけの武功とは、子々孫々にまで影響を与えるものだ、と言うお話。

 

683: 名無し 2008/08/16(土) 05:51:20
( ;∀;)イイハナシダナー

 

685: 名無し 2008/08/16(土) 14:33:18
久兵衛は娘の子?

 

687: 名無し 2008/08/16(土) 16:31:41
>>685
娘の子の血筋

 

689: 名無し 2008/08/17(日) 21:45:44

茶の湯の大嫌いな若侍がいた。あんなものは武士の嗜む物ではない、と、いつも高言していた。
それを聞いた悪友の一人が、「しかし、お前の義兄は茶の湯好きとして有名ではないか」
と、ケチをつける。痛いところを突かれた若侍、「軟弱な義兄を懲らしめねばならぬ」と、義兄、中川清兵衛の屋敷に忍び込み、彼自慢の茶の湯釜を盗み出した。
せっかく盗んだ茶の湯釜である、これで一つ茶の湯の真似事でもしてみよう、と、悪友たちに囃され、彼も一通りやってみた。

「これは…以外に面白いものではないか?」

真似事をしているうちにふと、若侍の中に、そんな感情がわいてきた。

この若侍、後に天下一茶の湯宗匠、古田織部と呼ばれることになる。

 

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