秀吉が太閤と呼ばれていた頃
当時秀吉の御伽衆の中に、二徳という者がいた。
かれがいつも調子のいい事を言うのをこにくらしく思っていた秀吉は、悪戯をしかけてみた。
二徳を呼び出すと「今日は非常に立派な鶴を献上された。これを生き造りにしてお前に食わせてやろう」と言う。
そんな気持ちの悪いもの食わされてはたまらない、と思った二徳
「わたくしは、愛宕権現に願をかけておりますので、ただいま生ものを食う事ができません」と言った
「なんじゃと?いい加減な事を言うと釜茹でにするぞ?一体何の願をかけておるのじゃ?」
「太閤殿下の事で」「わしの?」「はい。殿下が臆病になられますように、と願をかけております」
わしを臆病にするとは何事か!と、言い出しそうな秀吉に二徳は
「殿下はあまりに命知らずでありまして、戦場でも鉄砲などにお構いなくどんどん進んでいってしまいます。もし鉄砲の弾に当たってお果てになられたら、私はどうしたらいいいのか…。それゆえに、臆病になられますようにと、精進し権現様に祈っておるのです」
秀吉はこの答えを気に入り、二徳をほめ、褒美をとらせた。秀吉の悪戯を見事に切り替えしたお話。
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有名な吉四六さんも秀吉に絡んだ逸話がなかったっけ?
>>514
ちょっと調べてみたが秀吉の御伽衆でとんち話だと曽呂利新左衛門か。
あるとき、秀吉が新左衛門に褒美をとらせることになりました。
秀 吉 :「新左衛門、何でも褒美のものをとらせよう。何がよいか?」
新左衛門 :「はい、それでは米粒をいただきとうございます。今日から将棋盤の目の数だけの日数、毎日いただきとうございます。」
秀 吉 :「どのくらいほしいのじゃ?」
新左衛門 :「はい、今日は1粒、明日は2粒で結構でございます。毎日その前の日の2倍の米粒をいただきとうございます。」
秀 吉 :「米粒だけでよいとは、おまえはなんと謙虚なやつじゃ。その願い確かにかなえようぞ。」
新左衛門 :「ははっ。ありががたき幸せ。」
家 臣 :「秀吉様、たいへんでございます。」
秀 吉 :「どうした。」
家 臣 :「81日も褒美をあげれば、国が潰れてしまいます。」
秀 吉 :「なんと言うことじゃ。早く新座衛門ここへ呼んでこい。」
新左衛門 :「秀吉様、どうされたのでしょうか。」
秀 吉 :「そなたには、参った。褒美を他のものに替えてくれんか。」
新左衛門 :「承知いたしました。」
インドの古代象棋の説話でもあったよなぁ、これ。
細川幽斎が家老の松井を夕食に誘った際の事
何があったか松井の到着が送れて、せっかくの料理が出すに出せない。
料理人が「今日のメインディッシュに用意した塩鯛が、焼けすぎてしまいます!」と愚痴を言う。
それを聞いて幽斎は一句
来ぬ人を まつ井の浦の夕めしに 焼き塩鯛のみをこがしつつ
おなかがすいてイライラしていたご相伴一同、これにはどっと笑って場の雰囲気も一気に良くなったとか。
幽斎のインテリ文化人らしいお話。
(定家の「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ」のパロディ)
>>519
いい話ではあるんだけど
同伴衆もそれに見合う教養がないと座が和まないと思われ
・・・
ま、戦国~江戸初期じゃ武将レベルはこれが普通だったんでしょうか。
秀吉の子飼いはこのレベルに達してるか怪しそうなのがいるがw
慶長年間の事
京の綾小路で、ある家の女房が屋根の吹き替えをしていたところ、足を滑らせて下に落ち、運の悪いことに、ちょうどその落下地点に隣の家の女房がおり、下敷きになった隣の家の女房は首の骨を折って死んでしまった。
これに怒った、死んだ女房の夫は「うちの妻を殺すためにわざと屋根から落ちたのだ!」と言いたて
京都所司代、板倉伊賀守訴えた。
訴訟を聞いた板倉は
「よしわかった。では、隣の家の女房をお前の妻がいた場所に置き、お主は同じように屋根から落ち、憎い女を殺すがよい」
男は「そんな事をしたら自分が下手をすれば死んでしまう」と、訴訟を引っ込めた。
どっちに転んでもうまい話じゃないかこれは。
細川幽斎が歌道に目覚めた話
藤孝は若いころは、
「歌詠みなどは公家児女がやることで、武士なら恥ずかしくてやってられない」
と見向きもしなかった。
ある時、敵将を追っていたが、途中で見失いあとへ引き返そうとすると、藤孝の供の一人の侍が馬の口
を押さえて、「いま少し追撃するべきです!」と進言した。
藤孝は首を横に振って
「長路、すでに人馬も疲れて追いつくことが困難だし、そもそも敵はすでに遠くに逃げてしまっただろう。」
と言った。
すると、その侍が、
「歌の心を持って考えてみまするに、
『君はまだ遠くには行かじ わが袖の 涙もいまだ冷ややかならねば』
という古歌があります。いま、敵の乗り捨てた馬をなでてみますと、鞍がまだ温かですから、
敵はそう遠くへは逃げておりますまい。」という。
藤孝はそれを聞いて感心し、侍の助言どおりに追って行くと、まもなく敵に追いついて、敵将を
捕虜にするという戦功をたてることができた。
それ以来、藤孝は歌道を好み、ついに歌道の達人になったという。
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