賤ヶ岳戦の終了後、怪我をしていた佐久間盛政が褒美狙いの農民に捕らえられ引き出された
縄を打たれた盛政を見た秀吉は慌て、繰り返し謝罪し縄を解くよう御側衆に命ずる
秀吉は賤ヶ岳の盛政采配に感激し家臣になってくれと二時も口説き続けた
秀吉 「加賀、越後、関東好きなところをやる。頼む俺の家臣に加わってくれ」
盛政 「筑前殿の計らい誠に嬉しく思いますが、こたびの敗戦は某の責任でござる」
「勝家殿の恩を忘れる事も出来ず。某の命数が続けば必ず筑前殿の首を取ります」
ここまで明確に否定されて、さすがの秀吉も家臣化を諦め死罪を言い渡す
切腹を命ずるも断固拒否。市中引き回しの上磔を所望する盛政でした
そこへ盛政に討たれた中川清秀の息子が秀吉呼ばれ
秀吉 「この男がお前の父を殺したのだ。憎いだろう?」
息子 「いえ父上を討つ事の出来る武将は大変立派な武将と思います。勝も負けるも兵家の常、憎いなどと思いません」
盛政 「なんと立派な御子息をお持ちか。この方が我が娘の婿なら嬉しいかの」
数年後秀吉の勧めで仇同士の子供だった二人が婚約する事になりました
天国の盛政からみると「なんだあのサル結構いい奴じゃん」と思っていた事でしょう
※盛政を捕らえた農民ですが厳しい褒美が出されました
秀吉「農民の分際でなんと言う事をしてくれたのだ。お前らへの褒美は磔よ」
と全員死罪となりました
いい話なのだが、これを見るだけでも太閤が百姓の出というのは、
ちょっと無さそうだな。
その「盛政の娘」つーのが中川清秀の息子より10歳も年上だったというのも付け加えてやって下さいw
※ただし、年齢についてはガセ説もあり
中川清秀 1542生
中川秀成 1570生
佐久間盛政 1554生
この微妙な差。
えーと、盛政6歳時に生まれた娘か
すごいな、サルが家臣に欲しがるのもわかるわ
ニュース
いい話というか、ちょっと切ない話です。
真田安房守昌幸は関ヶ原戦で見事、徳川の大軍を撃破するも、
主戦場で西軍が敗れたため、紀州九度山に配流された。
さいわい、長男の信之と三男の昌親が東軍についたため、真田の家名は残り、
また信之が昌幸に仕送りをしてくれるため、生活には困らなかった。
(もっとも大名生活が長かったため、無駄遣いが多く、随伴した信繁が困ったという)
昌幸はいずれ再び、天下に大乱がおきて世に出る日を願って日々をすごしていたが、
もともと老齢であるうえ、紀伊は雨がおおく、節の病に悩まされた。
昌幸は病床で手紙を書いた。
相手はかつての家臣の大熊伯耆守というものである。
彼は関ヶ原のあと、出家して夕庵と名乗っていたが、
いまだに信州に在し、真田家と親しかった。
「そこもとは不自由ないか。わしは万事不自由じゃ。
治りかけた病いもまた出始めて、散々の体となっておる。
愚痴もついつい出て、源二郎(信繁)にもたしなめられてばかりじゃ。
ところで、そちに頼みがある。
蔵人(昌親)に、持ち馬のなかでも特に爪がよく、悍の強い若駒を一頭、
わしのところへ送ってくれぬか頼んでくれ。
紀州までは骨折りだとはわかっておるが、たっての願いじゃ。
悍馬を見て楽しみ、病中の慰めにしたい」
九度山での生活も十年を過ぎていた。
老いて、病もあり、気力をなくしかけていただろう。
それでも、これではいかんと考え、
荒々しく元気な若駒をみて、家康を震え上がらせた往年の自分を思い出したい、
と願ったのかもしれない。
(脳中での昌幸の想像図は丹波哲郎でお願い)
・領民を守った九条政基、蠣崎家のイイ話か微妙な話
・寺を守った僧「受連」、最上家臣「北楯大学」、被災者を救う伊勢宗瑞
・海老をすくい上げた酒井忠次、長曾我部家の禁酒法、板倉勝重のお触書
・勝新太郎の三味線、秀吉と鶴、細川忠興が隠居した頃
・土屋昌恒の忠誠、吉川元春と鮭料理、賃金を奮発する鮭様