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【戦国いい話4】干し飯を気にしない立花宗茂&相撲狂の長曾我部元親と雑賀衆

2022年7月11日

116: 名無し 2008/02/07(木) 22:34:34

長宗我部元親は阿波の中富川で三好(十河)勢と決戦をした。
紀州の雑賀衆は元親に味方して、二千余の兵を援軍として送ったが、海が荒れて遅刻。
ついたときは、戦いが終わり、三好方の勝瑞城も落ちていた。
雑賀衆は遅参を恥ずかしがり、
「これから讃岐の三好方の城を攻めにいく」
といったが、元親は、
「志はうけとった。海をこえてはるばる来てくれたというだけで、十分にありがたいし、嬉しい」
といい、新たに阿波から紀伊にかけての海上の警備をたのんで雑賀衆を帰した。
そのさい、米二百石と馬、鞍、太刀、脇差しなどを、援軍のお礼として雑賀衆に与えた。
(南海治乱記)

 

118: 名無し 2008/02/08(金) 14:03:57
>>116
その雑賀が、本能寺前には織田方に付いてたのは皮肉だな。

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120: 名無し 2008/02/09(土) 18:48:15

関ヶ原の合戦後、立花宗茂は大名から浪人に転落した。
かねてより宗茂と親交があった東軍の大名のなかには彼の武名を惜しんで、
召し抱えたいというものも多かったが、宗茂はそのいずれも丁重に断った。
彼は、
「我が身惜しさに、太閤との誓いを裏切り、親しき友を討つようなものたちの仲間入りはできない」
といった。
そして、
「わしは天に誓って、わが生き方を恥じておらぬ。天運あれば、きっとふたたび立花の名を興す時がこよう」
と家来たちには言った。
しかし、その機会はなかなか訪れなかった。
宗茂は肥後を追われ、京都、江戸と転々と住まいをかえて、流浪した。

江戸の高田、宝祥寺の一隅を借り住まいとしていたころのことである。
宗茂が国もとを出たときの路銀はとうに消え失せ、主従は日々の米にこと欠いていた。
由布雪下、十時摂津ら、宗茂の家来たちは槍、甲冑も売り払って金銀を得たが、それでもなお食えない。
彼等は、宗茂に隠れ、傭われ人足や托鉢僧、ひどいものは乞食に身をやつして銭をかせぎ、なんとか日々を暮らしていた。

 

121: 名無し 2008/02/09(土) 18:48:59
ある時、寺の檀家が、宗茂らの困窮を知って、炊いた飯をわけてくれた。
由布雪下らはありがたくそれを頂き、その飯で干飯をつくることにした。
干飯とは元来は陣中食であるが、平和な時代は、食べるものに無いときの備蓄食である。
つくりかたは単純。日に飯をさらして乾燥させるだけである。
秋晴れが続き、江戸ではしばらく雨がふっていなかった。
これならば大丈夫、と、由布らは、飯を干したまま、いつものように宗茂ひとりを寺に残し、みなで人足の仕事をしにいった。ところが。
どういうわけが、この日にかぎって、天に雲わき、午後、にわかに雨がふりだした。
人足仕事は雨のために早く終わった。
由布や十時ら急いで、寺にもどった。
道すがら、
「しまったぞ」
と十時摂津がいった。
「飯はダメになってしまうだろうな」
十時は朝鮮・碧蹄館の戦さで武名をあげた男だが、このときは干し飯のこと頭がいっぱいであった。
雨にぬれれば、干し飯は食べられなくなる。それは一大事であった。
そして、この心配は十時ひとりのものではない。ほかの家来たちもそうだった。「大丈夫だ」
と家来のひとりが十時だけでなく、自分をも励ますようにいった。
「殿は聡いかただ。この雨をみて、きっと干し飯を屋敷のなかにしまってくれている」
そのとき、最年長の由布雪下が、
「馬鹿なことをいうな」
と叱った。
「馬鹿なこと?」
十時や家来たちは驚き、由布に問い返した。
「そうじゃ」
由布は言う。
「大将は雨をみて、兵を考え、民を思うものじゃ。殿は大明まで知られた日の本一の大将ぞ」
もし、と由布はしわがれ声をくぐもらせていった。
「目前の干し飯などという些事に心を奪われるようでは、殿の人品、地に落ちたのじゃ」
十時らは黙った。
「もし、そうであれば、立花の家が再び天下に立つ日などない」
「そのとおりじゃ」
十時は顔をあらためた。
他の家来たちも、みな静かに深くうなずき、みな一様に暗く、神妙な顔になった。
祈るような気持ちで、家来たちは、寺の門をくぐった。
雨は激しさをましていた。
萩の花のさく庭をみた。
板の上のならべられた握り飯は雨にうたれている。
みるも無惨に崩れ、あるいは流れ、地面におちて、泥にまじっていた。
家来たちは呆然としてそれをみたあと、屋敷のほうへ顔をむけた。
そこでは宗茂は端然として書見をしていた。
「殿!」
十時が吠えた。
大きな身体をふるわし、手を雨の中にあげ、万歳、とさけんでいた。
ほかの家来たちも声をあげて叫び、笑った。濡れた飯をすくいあげて、雨になげるもの、抱き合って泣きあうもの。
宗茂はわずかに顔を庭にむけると、書見をやめた。立ち上がった。
「爺」
といった。
ひとり、天を仰いでいた由布雪下がその声に、その皺と戦さ傷だらけの顔をむけた。
「なんだ、みなは、雨がそれほどうれしいのか?」
「そうですな」
由布の頬に涙が雨とまじっている。
「うれしいですわい」

 

123: 名無し 2008/02/09(土) 19:46:33
いい話だね  家康だけはけっして許さない

 

126: 名無し 2008/02/09(土) 22:51:35

米が足りなくて、せめて体積を増やそうとお粥みたいにして出したら、
「お腹壊してないからこんなにしなくて良いのに…」とか言ったらしいしな、宗茂。
まあ、大人物だよww

>>123
でも旧領にもどしてくれたよ。

 

124: 名無し 2008/02/09(土) 20:52:51
武将の奥さんとのいい話エピソードって意外と多いよね。
前述の立花宗茂の父親・高橋紹運があばた面になっても結婚を迫った話とか。
明智光秀も似た様な話あったしなぁ。

 

125: 名無し 2008/02/09(土) 21:54:26
>>120-121
宗茂は名将だが坊ちゃん育ちで生活力が無かったらしいから、
家臣も苦労したんだな・・・。

 

127: 名無し 2008/02/09(土) 22:59:32
家臣が養うってのも珍しいな。
大半は内職するか、親族の仕送りで凌いでたのに。
伊東さんみたいな人もいたけど……

 

128: 名無し 2008/02/09(土) 23:15:50
伊東さんは頭一つ下げれば息子みたいに秀吉に捨て扶持貰えたのに。

 

129: 名無し 2008/02/11(月) 00:58:35

土佐の長宗我部元親は、若いころ、姫若子といわれるほど華奢で、立派な体格ではなかったが、大の相撲狂だった。
見るのが好きなのだ。どれくらい好きかというと、毎年、土佐国分寺の十七夜の法会に、土佐中の力自慢をまねいて相撲大会をひらかせていたぐらいである。
その元親の耳に、「相撲日本一」の名をうけた男がいる、という噂がきこえた。
(だれが日本一と呼んだのかはわからないが、信長もかなりの相撲好きだったので、
あるいは信長がそう名付けたのかも知れない)
和泉の住人、小島源蔵という男である。
元親は彼を土佐の岡豊に招いた。
(土佐には大男が多いときき、小島から出向いたという話もある)
土佐の男たちも興奮した。
「源蔵を倒せば、わしが日本一じゃわい」
と、みな腕まくりして、前浜にやってきた。
しかし、源蔵の姿をみて、多くが戦意喪失した。
元親に実際に仕えた高島孫左右衛門の「元親記」によれば、
この源蔵、190㌢近い大男で、しかも肥満し、ふつうの人の二倍の大きさの袴をはき、
歳のころは二十七、八だが、四十歳に老けてみえたという。
(老けてみえることが、当時は強さのバロメーターだったのか?)
それでも、何人かは実際に相撲をとった。
これが、子供が遊ばれているようで、全く歯がたたない。

 

130: 名無し 2008/02/11(月) 01:00:14

元親は家臣たちを招き、緊急で評定をひらいた。
戦さではない。相撲についての軍議だ。
「わざわざ土佐者の武勇をきいて相撲をとりにきたのに、相手になるものがいないといって、
このまま源蔵を帰すのは無念である。ましてや、武勇で知られた我が家で、
だれひとり敵わないとなったら、家の名が廃る。どうにかならんかの」
「さようですな」
家老たちは真剣になった。
そのころ、家中で身体が大きく、腕っぷしの強い侍といえば、
「荒切り」で有名な江村備後、その甥の江村右兵衛、や久万豊後、岩神三郎衛門らがいた。
このうち、一番背丈が高く、力が強いのは、江村右兵衛である。
「右兵衛の武勇は家中一です。彼が勝てぬなら、誰もかてませぬぞ」
とみな言った。
ところが、その右兵衛が青い顔をしていった。
「勘弁していただきたい」
「なぜじゃ」
と元親。
「拙者の家は長宗我部家の家老職でござる。もし、負ければ、お家の名に傷がつきまする」
「相撲は戯れ言じゃぞ」
「しかしながら、源蔵は天下をまわって相撲をとっている男でござる。天下の大名に、
拙者の負けがしられ、お家の名を汚すのを畏れるのです」
そのとき、末席にいた久武兵庫という若い武士が、
「ならば、私がやりましょう」
といった。
「おまえがか」
久武は武勇の士だが、小兵である。しかも、久武の家も、江村と同様、
家老職であった。
「自信があるのか」
「ああいう大男は、力にたよって、技をしりません。先に相手の腕をつかめれば勝機はあります」
元親は半信半疑だったが、しかし、面白い勝負がみられる、というのなら、それでよい。
「よし、やってみろ」
といった。

そのとしの夏、八月十八日。
岡豊城下の犬の場において、相撲大会が開かれた。
行事は元親の家中きっての猛将・福留隼人である。
源蔵は数人と相撲をとった。しかし、誰も歯が立たない。
そのうち、久武兵庫の出番となった。
源蔵は兵庫が小さいのをみて、もろ手をあげて掴みかかった。
兵庫はこれをかわし、手足で相手をあしらい、間合いをとって、
土俵のなかをぐるぐるとまわった。
源蔵がさらにつかみかかった瞬間である。兵庫は相手の手首をつかむと、
そのままひねりあげ、足をかけて、一気に転ばせた。
それがちょうど元親の目の前であった。

元親はさすがに喜悦をそのまま顔にださず、むしろ敗れた源蔵の大力をほめたが、
あとで兵庫をよびだし、
「戯れ言とはいえ、勝負じゃ。あっぱれ、見事だったぞ。家の面目もたもてた」
といい、知行を増やした。
ただし、元親はちゃっかりしていて、
「これでそなたが日本一だが、今後は相撲をとるな」
「なぜです」
「そなたが、日本一ときいて、また相撲を挑むものがあらわれる。一度、二度は勝てても、そうそうは勝てぬだろう。
勝ち逃げすれば、相撲が日本一強い大名は、長宗我部じゃ」

 

131: 名無し 2008/02/11(月) 01:31:07
↑別にいい話では無いようだが?

 

132: 名無し 2008/02/11(月) 10:35:09
だが面白かったよ。

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