毛利元就が1570年、出雲に攻め込んだ時のお話
家臣、岩木道忠が尼子軍に左膝を矢で射られた。
医師に見せたが矢じりが体の中に残ってしまい、なかなか取れない。医師は
「切断しないと、無理です」
元就は、そうかと頷くと、いきなり岩木の傷口に口をつけ勢いよく吸い込んだ。
あら不思議!
矢じりが取れたではありませんか!
元就は医学に通じていたので医師の誤診を見抜いていたのだった
傷が治った岩木は感激して
「いよいよ、死を覚悟してあなたに尽くします」と誓った。
ところが元就は、
「こんな事ぐらいで、すぐ死のうと思うのは本当の忠義者ではない。もっと別の事で俺のために働け」
といったという。
岩木はあらためて元就に忠誠を誓ったのであった
なんで童話口調なんだww
1570年っていったらもう結構歳なのにカッコいい
ニュース
武田家墳墓の地、天目山へと落ち延びる勝頼一向。
そこに一騎の武者が追いかける。
名は小宮山友晴 かって勝頼の近習や一門を非難した事によって謹慎処分を受けていたものである。
しかし武田家滅亡を聞き、最期のご奉公と勝頼一行に駆けつける。
友晴着到を受けた勝頼は涙を浮かべ、労を労ったという。
人間の興亡には、勇もあり、怯もあり、美もあり、醜もある。
黒田如水が、関が原の折、軍勢を募集した時の話。
如水は、応募した浪人達に一騎当たり前金として銀300匁、徒士には一貫文を当座の支度金として渡した。
この時、2重に支度金をもらったものがいた。
係りの役人からこの話を聞いた如水は、
「二重に金を取らせても味方になって働けばよい、同じものが二度来ても景気付けにはなる。俺が常に倹約して金を蓄えたのはこの時のためなのだ」
と、見て見ぬふりをするように指示した。
こうして数日で3600人が集まった。
この中に、荒牧軍兵衛、小城源兵衛、大塚角太夫などの一騎当千の兵がいる。
元就のお話
尼子が和睦の使者として大杉という豪傑を使いによこした。
この男、周囲ニ尺もある杉の木を引き抜いたというので大杉抜右衛門などというふざけた名前をなのっていた。
大杉を迎えた元就は大杉にいった。
「お前が剛力だということはよく知っている。そこにある大杉を引き抜いてくれまいか?」
といって庭にある大きな杉を指さした。
しかし、その杉は木の幹があまりにも大きい為、さすがの大杉も
「とても抜けそうにありません。」
と遠慮した。すると元就は、
「そうか、毛利家には、その木を抜ける者がゴロゴロしているぞ」
そういって側にいた小柄で痩せた男に
「お前、あの杉を抜いてみよ」
小柄な男は杉の木の前にいくと、あら不思議!
いとも簡単に杉の木を抜いてしまったではありませんか!
尼子の使者達はみんな呆気にとられた。
実は前日に元就は杉の木の根を全部切ってしまって、どんなに力の無い者でもすぐ倒せるように細工をしていたのだった。
大杉が元就の申し出を受ければアウト!
厳島の合戦以来の元就、一世一代の賭けであった!
国に帰った大杉は
「毛利には私以上の力持ちがたくさんいて、とてもかないません」
木を抜くついでで鮭様と木のお話
敵方から延沢満延引き抜きに成功した最上義光は、その剛力の噂を聞いてなんとしても力比べしたくなった。そこで早速、勇士七名ほど家中より集め、帷子一枚を皆来て延沢屋敷に押しかけた。
「いくらなんでもおれたちならば勝てるだろう!」と、勇士は延沢にとびかかったが、延沢は軽々と投げ飛ばしてしまう。鮭様は凄い! と喜んでいたが、そのまま延沢がこちらに突っ走ってくるのを見て顔色を失った!
「たすけてくれえ~~~!」と近くにあった桜の木にしがみつく鮭様。
「そうはさせるか!」と鮭様にしがみつく延沢。両者はもみあったままだったが、やがて鮭様は負けた…桜の木ごと延沢が義光を引き倒したのである!
こちらは正真正銘トリックなし、ガチである。
根っこごと木を引き抜いたのだ、延沢おそるべし!
義光は延沢の怪力にすっかり喜び、そのまま城に招いて宴会をして楽しく過ごしたとさ。
あまりの怪力をおそれた鮭様が延沢を毒殺した説がありますが、これはガセですので念のため。
昔々、正確に言うと享禄元年(1528年)、上州に大袋城主、赤井照光というお侍がおった。
お正月、甥の舞木城主、俵秀賢に年始のあいさつに向かう途中、近藤林で子供にいじめられる子狐を見た。子狐をあわれに思った照光は、子供たちに
「可哀想な事をしてはいけない。ほら、これを上げるからその子狐を私に譲りなさい。」
と、小銭を与え、子狐を、「もう、捕まるんじゃないぞ?」と、野に放してあげた。
さて、その日の夜。甥のところで御馳走になった照光、いい気分で帰っていると目の前に、身なりのいい一人の老人が現れた。
「わたくしはは大袋の守護稲荷、稲荷新左衛門であります。我が眷属の子狐を助けてくれた御恩をお返ししたく参りました。実は殿様、沼の北岸に要害の地があり、ここに城を築けば、必ずや名城になるでしょう。」
こう言うと、その老人はたちまち消えてしまった。
その時は照光、「少し酔いすぎた」かと思っていたが、なんとなく気になり、老人の言った沼の北岸を調べさせてみた。なるほど、天然の要害である。
たしかにここに城を築けば難攻不落は間違いない。しかし、いかにも縄張りが難しい土地でもあった。
どうしたものかと悶々とした日々をすごしていると、七夕の夜、今度は屋敷に、かの稲荷新左衛門が現れた
「縄張りはこのようにするのが良いでしょう」
と言うと、尻尾で地面に図面を書き始め、たちまちのうちに、文句の付けようのない立派な縄張りが完成した。
「城が完成いたしましたら、私の主人である稲荷神が、その城を守護すると申しております。どうか一角に、稲荷社を建立しますよう。」
そう言うとまた、たちまち消えてしまった。
照光はすぐさま、狐の縄張りどおりに築城を始めた。狐の図面に間違いは一つも無く。立派な城が完成した。この城の名を館林城。あるいは狐が尾で図面を引いたことから、尾曳城と呼ばれた。
戦国の世は、狐すら高度な軍事技術で恩返しをした、と言うお話。
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