それに張良ほどの博識者なら寧ろ尊敬の眼差しで見られると思うが。
張良は始皇帝暗殺のために資金を沢山持っていたんだし、
以外と頭とかに据えられそうだが・・・
ニュース
二人よりも長生きした事もあり漫画では若造のように書かれるケースが多いけど。
うん、何か若いイメージが強いな。
その項伯と張良は秦末時代からの親友だったから若いはずもない。
項伯と張良は秦末時代からの親友だが項伯が罪を犯した時に匿ったのが縁で
親交が始まった訳で
項伯と年令が近いとは限らない。
まあ張良は若くないのは間違いないが・・・
劉邦と出会った頃って四十代後半ぐらいじゃない?
韓が滅んだ後、全財産を売り払って始皇帝暗殺のために博狼沙まで旅し
その後、逃げ回って下邳にまで行き、陳勝が挙兵するや100人もの同士を集め
挙兵に参加しようとし留で劉邦に出会うや関中まで同行、その後も韓に戻ったり
劉邦に再度付き従って転々とし、また自ら使者となって魏に行ったり
梁に行ったり、斉に行ったり・・・
身軽で体を動かすのを少しも厭う事がなかったから
年寄りというイメージが湧きにくい。
・曹無傷=曹参の一族
・蒲将軍=鍾離昧
ていう本がある。
東洋史学者が書いた本で、他にも通説を覆すことが載ってる。
ただ、筆者自身が「歴史学の手法から離れた部分もある」と断ってる。
佐竹靖彦『劉邦』だね
中国史を手掛けて半世紀、この本のために史記を読み返すこと十余年ということで
異説てんこ盛りだが説得力がある
ただ、「鍾離昧=蒲将軍」説の根拠として、鍾離昧が鍾離の出身であることなどを挙げてるが
史記の「鍾離昧の家は伊盧にあり」云々の部分をスルーしないと成り立たないんだな
著者がここを見逃すはずはないだろうから、出身地と住家を別物として捉えたのかも知れんけど
また、「国宝『史記』に従って鍾離「昧」とする」とも書いてあるけど、顔師古が漢書の註に
わざわざ「バツと読む」と書いてることからすれば、鍾離「目末」のような気がする
鍾離バツだとすれば、息子の發・接(新唐書に載ってる)と韻を踏んで座りが良くなるしね
チラ裏してしまったが、この本が最近読んだ中で一番面白く勉強になったし
おれが考えてるような区々たる問題を解くのはこの本の目的じゃなくて
秦漢についての通説的な歴史観にあえて挑戦することが著者の狙いだと思う
お勧め
だって最初の方の劉邦陣営の人材って、親分を筆頭として、肉屋、牢番、ごろつき、盗賊ととんでもない奴しか
いないもの。
張良一人が光輝いている。
ドラクエ的に言えば
遊び人(劉邦)戦士(樊噲)僧侶(蕭何)御者(夏侯嬰)というパーティーだもんな。
ここに魔法使いの張良が加わり、賢者の韓信が加わったのはやっぱ大きいよ。
兵力供給もだが、物資、台所事情を改善させた蕭何は商人と見ることも出来るような。
その場合、PTの構成は本当にorzだなぁ
一方、項羽の武将は戦士、勇者、武道家ばかりだ。
唯一魔法系の范増は失脚するし。それで回復が効かなかった。
村から遠く離れる時は薬草をいっぱい持ってくというセオリーを無視したのがいけなかった。
劉備(勇者)関羽(商人→武道家)張飛(盗賊→武道家)
PT組む前に前職から既に転職した攻撃力抜群の部下が居ればそれは強い。
劉邦が単身で逃亡する際でも、いつも夏侯嬰だけは常に劉邦に付き添ってるし
秦時代に傷害容疑で劉邦がとっ捕まった時も
劉邦の命を守るために自ら進んで入獄し秦の獄吏の拷問を半死半生になって耐え抜くし
韓信を見出し蕭何と劉邦にしつこく韓信の採用を求めるし
漢からの漢中入りでは将軍として活躍するし
韓信が得意とした戦車戦の指揮は一手に任されるし
劉邦が死んだ後も呂大后からは自分の子供二人の命を
劉邦に歯向かってまで救ってくれたとして終生感謝されて特別な信頼を置かれるし
その後、後漢滅亡のその時まで夏侯一族は滅びる事なく延々と漢の名家として生き残ってるし。
>>510
旗揚げ以前からの友達、幼馴染とかが最後まで第一線に立てた例ってまずないぜ。
遊び人の劉邦に過ぎたるものが二つ有り 夏侯嬰と竜顔の貴相
とか言われてそうw
細かいことだが、夏侯嬰の子孫は延々と漢の名家として存続はしてない
他の高祖の功臣の子孫と同じで没落してる
韓信逃亡っていうと、どうしても横山のアレを思い出す自分がいる。
「なに 蕭何が帰ってきたと」
「んもう… わしにこんなに心配させおって」
(チラ)
↑どことなく冷たい廷臣たちの視線
これ今読んでもウケるんですがw
劉邦、蕭何に依存しすぎww
冒頓単于に取り囲まれ、陳平の奇策(得意なワイロ作戦)で一応の和平が成り立ち一息つくや
劉邦が夏侯嬰と二人で先に城を脱出し、講和したと言っても匈奴が気が変わって
攻めてくるかもしれないと恐怖にかられた劉邦が夏侯嬰に「急げ!」と
半狂乱になって命じ、終いには言う事を聞かない嬰に刀まで突きつけ
「急がなきゃ斬るぞ!」とまで脅迫されたが「・・(相変わらず兄ィは馬鹿だな)」と
無視を決め込み、悠々と劉邦の乗った馬車が通り過ぎたために匈奴側も何か
劉邦側に策があるのかもしれないと疑って手を出す寸前までいったが結局は思いとどまって
劉邦の命はギリギリの所で救われたとか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
曹操の実家とされる夏侯氏は曹騰の養子になるまで明らかに没落してるよ
少なくとも名家とはとても言えない
曹氏も曹騰が宦官として大成するまでは没落してた
400年の歳月を考えれば、カコウエイの子孫である確率は高くないか?
高祖に仕えた者の子孫で間違いなく名家だと言って良い一族は一つもないのか?
>>520
一つもない、とまで断言はしないが、高祖の功臣の子孫は武帝時代までに残らず列侯の位を失い、その子孫はほぼ例外なく没落していた
前漢末に彼等の子孫を探し侯位を復活させようとした時に、該当者はみな無位無官の庶民だった
その後の○○の子孫を名乗る者たちの初代は、地位をその先人から受け継いだわけでも、子孫だからといって特に優遇されたわけでもなく、自分で功を挙げ名を立てている
曹騰たちも同じで、そもそも曹参や夏侯嬰の子孫かどうか怪しいが、いずれにしても高祖の功臣だから地位を得られたわけではない
あと、曹参や夏侯嬰のような要人は長安で大臣をしたり、列侯の領地で暮らしたりしていたわけで、地元には戻っていない
その子孫なら、長安近辺か列侯の領地の近辺に住んでいる方が可能性が高く、出身地に残ってるのは関係者だとしても兄弟の末裔などの傍流の可能性の方が高いだろう
樊カイ→子供の代に呂氏と共に一族皆殺し
盧綰→子孫は侯に封じられる事は有ったが、歴史の表舞台には立っていない。
夏侯嬰→夏侯惇、淵の1代前の記録がワザワザ記されないくらい、妖しい出自に。
呂后をはじめ呂氏→一族皆殺しまたは廃嫡
蕭何→子孫は呂后や歴代皇帝によって保護された。しかし、早世が続き、やがて断絶を繰り返すようになった。
曹参→嫡流は絶え、宦官に。
張良→張翼は、祖父は司徒、父は広陵太守、本人は蜀漢車騎将軍。少なくともこの三代は紛れも無く名門。
周勃→呉楚七国の乱以降の記録見えず
陸賈→子孫の記録無し
レキ食其→弟のレキ商、その子のレキ寄までは記録が有るが、その後は分からない。
魏書武帝紀注によると、曹参の子孫も嫡統は断絶しては再興を許されてたみたいだよ
宦官曹騰の血筋は曹参の系統に繋がるとしても傍流
>>522
樊カイの子孫の樊他広が司馬遷の父司馬談と交流があったけど
景帝の時代に庶民に落とされている。
周勃は子の周亜父の時代に讒言によって絶える。
後に名誉が回復されているけど
傍流もなくて再興もできなかったはず。
項伯の子孫が漢の丞相になっているよ。
丞相となった桃侯劉舎は項氏の末裔だけど項伯の子孫ではないよ
>>531
指摘有難う。
もっと後の時代になるけど項氏の詩人が唐代にいるよ
偶然見つけたけど、地元に残った項氏の子孫だと思う
中国のサイトで見た怪しい家系図によると
張良には孫が5人いて、子孫が結構繁栄していたよ
>張良には孫が5人いて、子孫が結構繁栄していたよ
確か張良も陳平も息子か孫の辺りで一回、取り潰され
後に再興されて子孫が命脈保ってたはずだったような・・・
韓信→自身の代で一族皆殺し
カイ通→荊州の大豪族、カイ良、カイ越に繋がる。が、その後は洋として知れない。
彭越→自身の代で一族皆殺し
英布→そもそも、項羽を裏切る際、一族を皆殺しにされていた。子孫も絶えた。
陳平→曾孫の代に一度改易。玄孫が霍去病の義理の父となるが、結局絶えた。
項羽→伯父の項伯が漢代に残ったが、劉姓となったために項姓の記録は絶えている。
鍾離昧→子孫とされる魏の鍾ヨウ、鍾会、鍾イクは栄華を極め、呉には鍾離牧がいる。
季布・龍且・范増→子孫の記録は無い
以後、韓頽当が呉楚七国の乱鎮圧に際し騎兵を率い功を立て、韓嫣、韓説は武帝の寵臣となり、韓増は宣帝の時に領尚書事に至っている
とはいえ韓王信の場合本人は謀反人として匈奴に逃げているわけで、彼の地位が子孫に受け継がれたわけではない
前漢の名家と言うと張、韓、金、韋の4つ
張は実質的な祖を張安世とする河東の張氏
宣帝と深い関係にあった
韓は韓王信の末裔で、外戚以外で領尚書事になった数少ない氏
金は匈奴の王子だった金日テイの子孫
韋は漢で唯一、親子二代続けて丞相になるなど、高位高官を多数輩出した官僚の家
これら4氏の末裔は後漢でも没落しておらず、少なくとも後漢末までは名家と呼べるような家でありつづけた
なんか因縁を感じるね。
子孫は・・・だから没落していてもそれはそれでいいかと。
逆に、その方が国としてはうまくいくんじゃないかな。
もし建国の元老の子孫に中途半端に才がある奴がいて、要職についた場合、
変な政策とか打ち建てて来ても建国の元老の子孫だからとか言って、
誰も諫めたり出来なかったら悲惨な事になりそうだな。
景帝の時代までは、建国の功臣の子孫が丞相職を独占していたが、
これといった弊害は無かったようだ。
蕭何がいかにも長者の風があって良かったが、韓信を見殺しにした場面はちと後味が悪かった。
他に見た人がいたら感想を聞きたいです。
そんなのあるのか
探してこよう
最後まで勉強らしい事もせず博識にもならなかった農民皇帝って劉邦だけかもね。
字もヘタクソで、見かねた部下が「大きい字を書けば見栄えがします」と言うと、
数枚の紙の上にデカデカと字を一つ書いてみせたというボケっぷり。
劉邦は兵法なんて身につけてたっけ?
劉邦は中国屈指の戦う皇帝
それはそうなんだが、兵法というと違うと思うんだがな。
後唐の李嗣源も、その点では同レベルだな。
勢力の及ぼす範囲も、劉邦のころの前漢とほぼ同じくらいだし。
在位中は豊作もあって、荒れた分裂時代には特におだやかな時期だったという。