あと10年早く生まれていたらの自説ははたしてまことなのか
はたまた、ただの負け犬の遠吠えか。そこを議論せよ
ニュース
東北だけで独立はありかも。そうすると東北だけ後進地になって
ヤバイことになってただろうね。
強豪揃いだぞ・・(笑
奥州独立国で
手ごわいぞ(笑
正宗の軍の約40%が鉄砲持っているから打ち抜けるんじゃねーの?
兵の数はそこそこだけど・・
戦国ヲタ垂涎の展開にはなったろうな
やっぱ関東甲信越の強豪はそっちにちょっかい出せる状況ではなかったし。
それよりも、統一過程で茨城や房総の古豪たちがちょっかい出す可能性のほうが
高そう。しかもそれに正宗も苦戦しそう。で、そこらへんの古豪がもっと
有名になっていたんじゃ無いすか?
農繁期には動員が思うように利かない。
兵農分離はどうなるんだろうね?
…ったく貴様ら何も分かっちゃいねーな
伊達政宗といや猛将でありながら智謀に長けた策士であり、華道、茶道、料理、
歌を愛し、馬上少年過 辞世の句に代表されるように優れた詩人であり、
容姿端麗な美男子で漆黒漆塗五枚胴、三日月の前立ての兜をつけ、
金の十字架、死装束など数々の逸話も残す戦国屈指の名将だろ。
全国で一番多くの家臣団を抱え、全ての知行を家臣に分け与え、
鉄砲を外様大名では異例なほど数多くそろえ、東北中の駿馬を揃え、漆黒の具足で統一した精強な
騎馬隊、さらに片倉小十郎、伊達成実という智と武の面で最高の補佐役を
従え、徳川家康曰く、当代随一の名将と言わしめ、徳川幕府初期には
家臣をスペイン、ローマに派遣し、軍事同盟を提唱し、忠輝を擁し全国のキリシタン30万、
スペインの軍艦を使って本気で幕府転覆を狙う暁将ぶりも。
政宗以外で誰がここまでやれるんだろうね。
実績は驚異的だと思う、丁度武田信玄の一生分の成果くらい
はあげている。
しかも18歳~20前半であれほどの大所領を自力で入手した
武将は他に知らない。
時間があれば北奥州、北関東も入手した可能性も高かったと
思う、数々の逸話からも一流の武将であることは間違い無い。
但し10年早く生まれて勢力が伸びれば、伸びるほど
中央の権力に押しつぶされた可能性は高い。
よほど上手く立ち回れば、天下分け目の合戦の
一方にはなれたかも。
政宗が生まれてくるのが遅かったのも天が決めたこと
ドングリの背比べで長らくダラダラと続いて来た小さい田舎の世界の頭領なんだから信長や秀吉と比べる材料としては不足だ。
名将である事は認めるが、天下人としての資質があるかどうかとなれば、それは無いと思う。精々前田又左ぐらいだろうよ。
所詮は田舎大名だろう。白石城を調略で奪ってはいるが、その後がひど過ぎる。
政宗の本領は謀略と外交。戦は巧いとは言いかねる。天下は取れんな。
関ヶ原では上杉と何した?
伊達、上杉は相互に有効関係あるし、最上に援軍だした部隊は最上の援軍のはずが
終始傍観。
福島城へ進出した部隊は結局一戦も交えないまま帰国。
それらの伊達軍の行為はどういう意味なの?実は裏で上杉と手を結んでいたとか?
最上の後詰では大条薩摩が戦死。直江の武名を上げただけだった。
その後、会津へ侵攻するも先鋒片倉隊は輜重まで奪われる始末。
松川合戦では什物「法華経の幕」を奪われ、政宗自身も岡野左内に討ち取られる
寸前にまで追い詰められてる。しかもそれらは関が原の勝敗が判って後のこと
だ。その様なことでどうして天下を取れようか?
上杉謙信も敵わなかった本庄繁長だからなぁ・・
たしかある程度の領土はぶんどったんじゃないか?
もっともそれと引き換えに百万石のお墨付きは反故にされたが
外様はいないし、
家康の末期、晩年に伊達が江戸を襲うって噂流れ、それだけで江戸中がパニックになった
話に代表されるような、政宗以外にここまで大物な天下人以外の武将はいないでしょ。
前田は加賀百万石で有名だが、政宗ほど武勇、智謀、野心、文化人として
その道の専門家も真っ青と言われたほどの万能ぶりを兼ね備えていないし。
そして何よりもストーリー性があるよね。
正月に大河の再放送され、最近は全話DVDで42000円で発売されたけど、
やっぱ壮絶な、ひきつける人生だと思う。
片目失い、父を無残に殺してしまい、母に毒を盛られ、弟を殺し、秀吉の前で
死装束で謁見、朝鮮出兵の際の京都での奇抜な格好での行列で京を熱狂させたとか、
家臣をローマ法王に謁見させ、ローマ中の市民の歓迎を受けたとか、軍事同盟を
結ぶとか、信長、秀吉、家康除いて政宗以外にはできないと思うんだよね。
いくら信玄だ元就だ謙信だって言ってもここまでは考えられない、古典的な
人間だったと思う。
こんな人間が奥州の田舎に、しかも天下人達から10年20年生まれてきて
のはやっぱすごいことだとおもう。
そうした行為は(ノビスパニア、イスパニア外交遠征)
間違い無く間接的にせよ直接的にせよ信長、秀吉の影響を受けている。
政宗の独自性と言えるかどうかは不明。
まあその思想に共鳴して夢想と言えるそれを手駒の一つとして実行しようとした柔軟性は評価出来るな。
ゲームでものすごく強いけどほんとにそんなに強かったの?数年で領地拡大したといっても周りがね。
当時は芦名家もメチャクチャだったしね。盛氏でも生きてたらそんなに簡単にいってたかどうか。
まあ、外交力はさすがだけどねー。
でも、ゲームの能力は強すぎだよね?
やられたなんて資料ないよw
伊達勢は福島城まで進出したけど、手をつけずに退却しただけ。
戦闘はなかったと思う。
白石城主で上杉の重臣、甘粕虎氏の不在時に、旧領の白石城を奪い返しただけ。
・・・、だめじゃん
佐竹は強いだろ
何しろ芦名、石川ら3万の連合軍で伊達勢4000と戦して
勝ちきれずに連合軍は結局佐竹領が侵攻されたから撤退したからね
伊達勢は7000ぐらいじゃなかったか?
それと、連合軍を嘲笑気味に言ってるようだが、あれは二日あれば終わった戦だろ。
一日で佐竹が帰ったから生き延びたようなものだ。
茂庭と成実がいなきゃ一日で終わってたかもしれんし。
連合軍の撤退は「必然」だったっていう説も根強いんだよね。
クロハバキ(漢字わからん)組っていう伊達の忍者集団、諜報活動する部隊が
連合軍側で流言広めて離間策をしていた、ってのは記録が残ってるので
確実だというものだったはず。
まぁ佐竹本領に侵攻があったのと、佐竹の一族の誰だかが刺殺され、撤退したのが
今の所はそうなってるけど。
にしても成実っていうのは相当な豪傑だったようだね。
後に上杉が高野山に成実がいる時に、5万石で登用しようとしたくらいだからね。
あれなければ100マソ石だったんでしょ?
野心が裏目に出たというか。
>>72
目の前に餌が転がっていて、大人しく待っているのは
政宗らしくないので仕方が無いかと。
獰猛で、臆病で、大胆で、細心で
知的でもあり、本能的なところが政宗の魅力かな
彼の和歌はとても素晴らしいですし、外交感覚も優れている。兵農分離を徹底し
て行ったところから彼の先見性も十分評価されて良いでしょう。
その他、川村重吉を登用しての北上、迫、江合の治水事業や播州浪人を使って
の製塩事業などもっと評価されても良いと思います。
しかし、関が原の際の進退のまずさをみると彼が天下を取れるとはとても思え
ないのです。佐竹や最上と和解し、上杉、徳川を領国に釘付けにするぐらいの
ことが、どうしてできなかったのかと。旧怨を越えられなかったことは人物が
天下人への階段を越えられたとは思えません。
関東に強力な勢力があればまず天下は無理ですよね。
上杉みたいになっちゃう。
運も実力のうちですな
まぁ政宗は良い武将だけど、やはり天下を取れるか、っていうと無理でしょうね。
あと10年20年早く生まれていればっていうけど、やはり場所が畿内から遠すぎる。
奥州制覇して、仮に上杉、佐竹を倒したとしても、大大名の北条や、小田原城もある。
当然武田、織田らもいる。
まぁ仮に天下を取る事ができるとすれば、それはイスパニア艦隊が来日して、忠輝を
擁し全国のキリシタンと蜂起する場合でしょう。
もし仮に徳川を倒せても、また全国が戦国時代に戻るだろうし、政宗はやはり運がないというか。
生まれた場所と時、やっぱこれに限るでしょう。
朝鮮出兵の時、名刀を用いたとはいえ朝鮮の武将(だったと思う)を両断している(鞍切り影秀の逸話ね)
政宗の鎧がぼろかったから大将と気づかずに見逃したって左内はいってたような
元は蒲生家の武将で、関ヶ原の時は上杉に仕えていた(政宗を討ち取りかけたのはこのとき)。後また蒲生家に戻ったが
秀吉子飼の大名として取り立てようと誘いかけても、伊達家臣を選んだ忠臣。
成実は武勇無双と謳われた伊達軍1の猛将。
で、あとに続ける、続かないと駄目な武将としては家老の鬼庭綱元かな。
で、武田四名臣高坂の伊達版、後藤信康、豪傑原田宗時、騎馬武者率いた
白石宗実、人取橋で壮絶な最期を遂げた鬼庭左月なんかかな。
あとは父譲りの才気の持ち主と言われた鬼の小十郎こと片倉重綱かな。
秀吉が直臣に取り立てようとしたのを拒んだ鬼庭某
>>111
政宗の作戦行動全てに参加した留守政景
全軍の指揮を一託されることもあった亘理元宗
これら二人の身内
政宗の良いところは信長のように能力のある者は身分に関わらず使うところ。
京で天下国家の研究をしていた鈴木元信がそう。
数理に明るく、行政、経営に練達していて伊達家を後ろから支えた。
彼は伊達幕府の「式目」「草案」を準備していたそうだよ。
>>131
鶺鴒の一見は、秀吉がその気になれば無視できる言い逃れ。
それをスルーしたのは伊達を取り潰して不慣れな将に奥州を任せるより、
伊達に貸しを作って支配下に入れた方がいいという秀吉の計算。
氏郷の役割は奥州の安定であって伊達を取りつぶしたり領土を広げたり
することじゃない。須田伯耆の証言と鶺鴒の書状を手に入れたのは
氏郷の功績、その後の判断は秀吉任せなのは立場上仕方のないこと。
奥州の安定という意味では、伊達の一揆煽動疑惑を盾にして、平定に
自軍の戦力を使わなかったのしたたかな計算。
政宗の狙いは奥州に混乱を起こし、ドサクサ紛れに自分の領土を広げること。
鶺鴒の書状で取りつぶしの危機を脱することはできたけど、結果的には
一揆の平定で兵を消耗させ、秀吉に睨まれ、領土は増えもしないいいとこなし。
鶺鴒の一件こそ政宗が氏郷に及ばなかったことを示してると思うが?
もともと政宗の外交・政略は読みの甘さが垣間見られる。
30にも満たない若年に老獪さはもとめるべくもないといえばそれまでだが……
上司にぺこぺこしてストレスためてる部長が
アフターファイブに酔っ払いとストリートファイトしてる状況に似ている
朝鮮で具体的にどう戦ったんだ?島津や立花の活躍は聞くが
確か浅野親子が篭城してる金海城を救援したことかな
後は晉州城の戦いで戦果を挙げたはず
その戦果を聞いた日本の秀吉から感状が届いたとか
政宗じゃなく南部晴政
同意
三日月の丸くなるまで南部領
政宗が果たして天下人足りえたかということに関しては疑問かな。
政宗は例の3人の中で一番近いのは信長だと思うけど(ここは自分の主観)
信長ほど天才ぶりを発揮していないと思うし、
かといって秀吉のような下から上に駆け上がったエネルギーっていうのも感じない。
もし早く生まれていれば巨大な勢力にはなっただろうが、
たぶん天下は取れなかったと思う次第だよ。
それに東北の人って温和。天下は絶対取りたがらない。
21歳そこらであそこまで勢力を広げたのは政宗だけやねぇ。
過去みてもおらへんね。あと10年早くてのは生まれてたら・・てのはみてみかっかた。
伊達家には戦国時代一の法、塵芥集があるから急激に領土を広げても統制とれるし、
伊達の騎馬鉄砲隊はあたらぬのは稀なほど精度が高かった虎の子がいるし
(当時騎馬鉄砲隊は各地にあったがほとんどが威嚇、あたればラッキー程度の能力)
これはあまり有名じゃないけど、武田家滅亡後は(当時の武田騎馬の精強は有名)、
上杉ではなく伊達騎馬隊の精強ぶりがなんかの歴史書に記述されているので兵も強い。
というか奥州を巻き込んだ伊達氏天文の乱は精鋭騎馬隊を上杉家に送るということからおきた乱だから精強ぶりがうかがえる。
お抱え忍者黒脛巾組もいるし、なんといっても情報網、先見性があった。
伊達輝宗の時だが、1573年に織田信長に鷹を贈り、返書をもらっている。
後に鹿毛の馬を贈り喜んだ信長が虎、豹の毛皮を輝宗に返礼として贈っている。
これは関東勢(佐竹、田村等)が初信を交わす4年も前である。伊達の対応の速さはぬきんでていた。
よって父輝宗の代から近畿、日本の中枢の情報は的確に入っていたことを伺える。
また遺骨から整った公家系の顔立ちが復元され、公家受けもよかったと思われる。
したがって、10年早く生まれていれば政宗は天下をとれた可能性は高い。
版図を広げたっても、実際の所、既にボロボロだった芦名領を奪ったぐらいだろ。
盛氏が健在だった頃じゃ無理だろう。
むしろ、あの時代に生まれたからこそ、あの若さであれだけ勢力を広げられたんじゃないか?
ボロボロの芦名の後ろには、伊達の二倍近い勢力を持った佐竹がいるのだが…。
盛氏が健在だったら連携して相馬氏倒して、佐竹の息の根止めてたんじゃない逆に。
>>204
佐竹攻めとなると、更に北条との連携も必要になってくるな。
北条も佐竹を目の敵にしてるから、話に乗ってくる可能性も高い。
でも結局、三家が連合して佐竹を滅ぼしたところで終わりになるんじゃないか?
伊達の関東進出を北条が許すわけないしな。
と言っても北には南部や最上がいるし、奥州の統一だって出来っこない。
いや普通に佐竹がいなくなったら、北の最上やら南部やらに集中できるぞ。
最上なんて義光もおらん時代だから勢力拡大もできてない。普通に潰せる。
でもって、大崎葛西はほとんど狩場に近い状態になってしまう。
そういや義光は家督相続が遅かったな。
すると芦名と伊達で奥州を分け合うのか?そうなると要は南部か。
あとは滅ぼされないために強くなる、とかいう目的だろ(無論否定するつもりはない。つーか生き残りがまず第一)
仮に10年早く生まれていても、権威(朝廷)と経済の中心である畿内を抑えるという発想ができたのか?
あれだけの版図を広げたのは正直凄い。
が、豊臣政権下で外様である伊達があれだけの領地を
承認されるのは無理だった。
ボッシュート確実。
逆らえば島津のような運命が待っている。
奥州一なのは認めるが天下を取るのは無理だろう
論外。だって政宗が秀吉に降伏した頃に政宗が切り取った領土ってほとんど衰退しつつある弱小大名のモノばかり。肝心の南部、最上、安東、相馬といった有力大名は健在で、
逆に領土を脅かされていたほどだ。ただし切り取った領土をほとんど取り返されていない。
2.小田原での豊臣秀吉との対面の際の大博打。
論外。だって政宗のやった事はただの開き直りなんだから。ここで秀吉自身は殺してしまおうと思ったとしても、自分の器量のある所を諸大名に見せなければならないので許されたのだ。
もし仮に政宗がそうなることを予測してこの大博打を打ったのだとしても、失敗したら死ねば良いというこの考えは主君にあるまじき思考回路ではないだろうか?
3.奥州一揆での書状の花押に針の穴を開けておいた事によって危機を逃れた機転。
論外。ってしつこいか。つまり、政宗は最初から失敗する一揆に、地侍や農民を駆り立てて見殺しにしたのだ。またその一揆鎮圧の為に多くの蒲生家臣団や周辺大名の家臣が犠牲になっている。
それを踏まえて考えると、すでに戦国は終わり皆が平和な世の中を作ろうとしている時に、一人戦国の復活を望み、自分に火の粉がかからないように悪知恵を働かせた武士にあるまじき男、
という素顔が見えてきそうではないか(他の大名も五十歩百歩だけど)。
無理。二十年前の奥州に政宗が生まれてきたとしても状況が違い過ぎる。鉄砲も普及しておらず、小豪族が割拠しており、強大な蘆名帝国には名将蘆名盛氏が君臨していた。
さらにその蘆名を破ったとしても北条氏康が控えており、上杉謙信や武田信玄といったキラ星のごとき戦国大名達が待ち構えている。彼等を相手に政宗が勝てたであろうか?無理とは言わないが、
相当難しかったであろうことは言うを待たない。
5.先見の明で欧州に使節を送った。
これに関しては使節を送った事によって何を得ようとしていたのかが不明瞭ながら、わざわざ国が鎖国に向かっている時に使節を出して、
鎖国が確定した後に苦労して帰ってきた支倉常長を冷たく扱ったりしている。つまり己の計画性の無さを棚に上げて家臣を冷遇するなどという主君にあるまじき失態を演じたりしているのだ。
新しいものにばかり目が行って全体の動きが見れなくなってしまっている。はたしてこれで先見の明があったと言えるのだろうか?
6.奥州一の戦上手
政宗の戦歴をみればどの程度だったかがすぐ分かると思う。確かに政宗は奥州では、かなりの戦上手だったに違いない。
しかしそれ中央軍との戦いでは、あまり褒められた戦績を残していないのだ。
例えば関ヶ原の戦い。この戦いで伊達軍は上杉方の白石城を急襲し落とす事に成功している。
これはこれで大した事だと思う。が、当時白石城を守備する城将は軍議のため城を留守にしており、
そのために簡単に落城してしまったのだ。さらに南からは徳川軍約八万が北上中であり、上杉軍の主力はそちらの方に向かっていたことも挙げられる。しかし白石城を落とした後が悪い。
徳川軍の北上が無くなった後、上杉軍の主力は急遽向きを変えて北上を開始した。上杉対徳川が伊達・最上対上杉になったのだが、
伊達・最上連合軍は連戦連敗を重ねて窮地に追い込まれるのだ。しかも頭の悪い事に徳川家康から停戦命令が出てもそれを聞かず、がむしゃらに上杉軍と戦い破れ続けていたのだ。
もうひとつ例。大坂夏の陣である。この戦いで政宗は大坂方の後藤又兵衛基次を討ち取るという大戦果をあげている。これは評価できるんじゃないだろうか?
兵力差を見てみると後藤隊が二千八百に対して伊達隊が所属していた東軍部隊は二万三千もの大部隊で圧勝しているのだ。当然勝ってあたりまえ。
これで戦上手とは笑わせる。ただこのまま終われば伊達軍の戦功はそれでも輝かしいものとなったであろう。
しかし、調子に乗って伊達軍は突出し、真田幸村と毛利勝永の三千に撃破されてしまう。
しかもその十分の一の敵と戦った戦闘でのダメージが大きく次の日の決戦では後方で休養しなければならないほどの有り様だったのだ。
しかもあまり知られていない事だが、政宗は後藤隊との戦闘(道明寺の戦い)の際に、
同じく先陣争いをして大戦果をあげた神保相茂の部隊を襲って全滅させているのだ。
その理由が「度々我ガ手先ヘ働キ来ル事ヲ口惜ク思ヒケルニヤ、鉄砲ヲ打掛ケル」(『難波戦記』)とある。
つまり伊達隊に割り込んで戦功を立てた事を悔しがって突然味方に襲いかかったのである。これは当たり前の事ながら諸大名の大ヒンシュクを買い、
特に島津家では『薩藩旧記増補』等で散々にこき下ろされている。
夏の陣で、神保相茂隊が手柄横取りしたってんで鉄砲撃った件って、
当主の神保相茂まで撃ち殺して、ほぼ皆殺し状態だったんだな…。
ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル
「巧みな言い逃れで罪を逃れた」っていう事だけど、政宗は、どんな
素晴らしい言い訳をしたのでふか?
>>237
敗走する味方が自隊に混入すれば友崩れを起こすから、伊達家の軍法に従い
攻撃した、というような要旨のことを言った。
諸大名は嘲っていたらしいが。
伊達政宗っていうのは機転が利く奴だね。外交官や宮中の太鼓持ち野郎に
ぴったりな奴だなW
頭良かったんだろうけどこんな奴は天下人じゃないんじゃない?
あの時代に所領と家を保持しつづけた事が偉業だ
政宗を評価するにあたってその点を見るべきだ
輝宗あっての政宗だと俺は思う
幼少時での英才教育を受けさせるだけでなく父親としての優しさも兼ね備え
外交と登用のセンスがあった輝宗こそ政宗が評価され後世に伝えられた最大の理由
稙宗→輝宗→政宗って感じで。名前は変わるけど。
これなら洞の乱も起こらず地盤強化できて、その後輝宗が家中を纏めると同時に良将を発掘し、
さらにそれらを率いて政宗が各地に侵攻、輝宗が足場を固めるニ頭体制に。
結構、北條とタメ張れるぐらいまでいけるんじゃね?
完全な妄想でない?
稙宗の基本的な戦略を知ったうえで書いてるとは思えんが……
まさか各豪族を武力で併呑するとか安易に考えてない?
輝宗が生きてたら政宗の侵攻に待ったをかけるんじゃないのか?
大義名分とかね。
無名の師は戦国時代だからこそ、まずいしな。
タネ宗にしても素直に晴宗に家督ゆずっときゃ何の問題もなかったぞ。
燃えたけど
バカめ!って言う