「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略
"プロパガンダ"を徹底して使い倒した
尾登 雄平 : 歴史キュレーター 東洋経済 2020/01/04 5:50
https://toyokeizai.net/articles/-/321139
(抜粋です。半分以上略してるので詳しくはリンク先へ。)
「最強で最も血に飢えた征服者」として名を馳せた大モンゴル帝国のチンギス・ハン。彼が用いた「戦わずして勝つ」という戦略はどんなものだったのか(写真:SeppFriedhuber/iStock)
「勝つためには手段を選ばない」「敵対する者は全員容赦なく抹殺する」と噂され、11世紀に「最強で最も血に飢えた征服者」として名を馳せたチンギス・ハン。
しかし実は、彼は「戦わずして勝つ」という戦略を積極的に用いて、大モンゴル帝国を築き上げていました。
戦いの天才とも言われたチンギス・ハンの「戦う前に勝利する」方法。ビジネスマンの教養として知っておいて損はありません。
『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史』より抜粋してご紹介します。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/404604425X/toyokeizaia-22/
(略)
●遊牧世界を統合した「恐怖の大魔王」チンギス・ハン
13世紀の初めに東方草原に突如出現したモンゴルは、わずかな時間で東はサハリンから西はドナウ河口までを支配下に収め、ユーラシア大陸の政治・経済の大部分を手に入れました。
これまで遊牧民族が駆け抜けた地帯をたどる形で、モンゴルは各地の既存の支配者・既得権益者を容赦なく滅ぼし、その上にユーラシア大陸全体がつながる巨大な経済圏を築き上げたのです。
「パクス・モンゴリカ(モンゴルによる平和)」の時代の到来です。
モンゴル軍が破竹の勢いでユーラシア大陸を席巻できた理由は、もちろんモンゴル軍が強かったためです。
騎馬を用いた機動力の高さ、最新テクノロジー兵器の導入、個々の兵の質の高さ、そして勝ち負けにこだわる遊牧民の気質にあります。
遊牧民は戦い方に恥という概念を持ちませんでした。前進して勝とうが退却して勝とうが不意打ちをして勝とうが勝ちは勝ち。
逆に敗北することは恥となります。負けたが立派に戦った、という考えはありません。勝たねば意味がないわけです。
さらにもう1つモンゴル軍の強さの秘密が、徹底した情報戦にありました。
モンゴル軍は次に攻略する都市に侵攻する前に、事前に使者を派遣し、いかにチンギス・ハンとその配下の兵たちが人間離れした連中かを宣伝させました。
「1人のモンゴル兵が大勢の住民がいる街に入り、街の住民を殺していくが誰も手出しができなかった!」
このような荒唐無稽な話を語らせることで降伏を求めるのです。
そして素直に降伏した者は公正に扱うが、それでもなお抵抗した者は徹底的に殺戮します。
大部分の者は殺し、すべての富を奪った後、一部の者は次の都市に送り出し、いかにモンゴル兵が恐ろしいか語らせるのです。
(略)
●次の大国の礎となって消えたモンゴル帝国
モンゴル帝国は大都(現北京)を都とする大元(だいげん)ウルスを中心に、
中央アジアを支配するチャガタイ・ウルス(通称チャガタイ・ハン国)、
イラン高原を支配するフレグ・ウルス(通称イル・ハン国)、
ユーラシア西北草原を支配するジョチ・ウルス(通称キプチャク・ハン国)により構成された
緩やかな形の連邦国家を構成し、陸上と海上の流通を掌握して世界交易圏を確立しました。
モンゴル帝国はユーラシア各地に都市・港湾・運河・道路を建設して流通網の整備を図り、銀を基本とする通貨体制を確立させて自由経済と通商振興策を採り、税率はほぼ一律に3.3%に抑えられました。
統治の面では宗教や社会など在地の勢力を単位にしてそれぞれ自治にゆだねモンゴルの慣習を強制することはありませんでした。
宗教面でもモンゴル帝国は大変寛容で、キリスト教、仏教、イスラム教、その他諸々の宗教を人々は自由に信仰できました。
モンゴル帝国は民衆の生活を保障するような統治はしませんでしたが、一方で生活にも干渉をせず、多文化・多人種・多宗教・多言語がそのまま帝国内にあることを認める社会体制でした。
初めて1つの経済圏として結び付けられたユーラシア大陸は、1310年から1380年まで続く長期の異常気象に襲われます。
地震や洪水、疫病などの厄災が帝国各地を襲い、土台である経済が破綻し、次第に帝国は解体していくことになります。
(略)
ニュース
モンゴルはチンギスの前から最後までずっと内乱
頭おかしい
チンギスの息子が三本の矢になってたらどこも太刀打ちできないぞ
ヨーロッパも征服されてたかも
そうは問屋が卸さないのが歴史の常
反抗すると容赦ない
現代にはかなりの数のチンギスハンの子孫が居そうだな
チンギスハンの子孫の男性が1500万人という人類史一のアルファオスだよ
これについであと2人沢山子孫残してる♂がいるそうだけど歴史的にも偉大なのはチンギスハン
そんなに居るのかw
そういや知り合いに日本人だけど知力体力ガタイ共に日本人離れてしてるのが居るんだけど
ひょっとしてチンギスハンの子孫かも
雰囲気も似てるんだよね
調べたら面白い
チンギスの子孫が各地で代々王族だったからそれらが積み重なって子孫が増えたんでは?
特に乗馬したまま弓を放つスキルが高かったらしいじゃないの
連射式鉄砲が登場する前は弓矢による殺傷が世界最強だったから
平地での野戦は騎馬隊の能力が戦況を左右してた
だから攻城戦や上陸戦が必要な状況になってきたらモンゴルの前進は止まったろw
そりゃ単純な見方ってもんだ
単純なやり方で帝国は築けはしない
でも日本軍が上陸してきたモンゴル兵と戦えた理由の一つが、騎乗した状態で射る能力が高かったってのはあるようだけどね
日本の弓はちょっと異質だしな
モンゴル兵は馬上で扱う為に短弓だったけど、和弓は変形させて長弓のまま馬上で扱えるようにした
鎧甲と合わせて変態技術というかガラパゴスというか、その祖形なのかも
>>18
単純な弓騎兵なら紀元前からいた
アッティラ軍とか、匈奴とかね
モンゴル軍が圧倒的なのは狩の構成をもとに三軍制作ったこと
弓軽騎兵、重騎兵、掃討歩兵
あと戦争時に移動用パオと妻子、食料たるヒツジやヤギを連れて移動する補給部隊がセット
これがこれまでの騎馬民族と致命的に違う
だからそれまでの軽騎馬弓騎兵なら重騎兵で追い返せば済んだのに、ヨーロッパ型重騎兵やられると死亡確定
トゥールシュタットがそう
これ以降ヨーロッパに軽騎兵が導入されるんだよな
というより何度か戦う前に降伏迫ってきた記録があるからそういうことなんだろうな
それが紳士的なのかは知らないけど
ちゃんと読みな
戦わずに降伏したところに対しては公正にに扱った
抗戦を選んだところに対しては徹底的に悪逆の限りを尽くし、生き残りを各地に散らし彼ら自身に語らせることで、周辺国や地域に恐怖のプロパガンダを撒き散らした
周辺国や地域の人々は降伏した場合と抗戦した場合の両方の結末を知り、抗戦意欲を脆弱にさせられる
対馬の場合は徹底的に戦い、徹底的にやられたので全く紳士的に扱われてなどいないよ
少し戦って有利な和睦条約結ぼうとしたところは痛い目見たってことだな
あー、それはホントそうだろうね
モンゴル人は船のことがよく分からないから高麗に丸投げだったんだろうな
造船は高麗の担当だったけど、載ってる軍は高麗軍と蒙漢軍の両方
将軍もモンゴル人も漢人も高麗人もいた
司令官のクドゥンはモンゴル人武将だし、
少弐景資が射落として負傷させた劉復亨は漢人武将
>>218
時宗の時の特集で検証してたけど、沈んだ船の多くは旧南宋からかき集めた
遠洋航海に向いてない船舶だったという
急いで1000隻の大船団を用意しないといけないから、当時の造船能力じゃ間に合わず
とりあえず使えそうな船を集めたから被害が拡大したとか
弘安の役の時は南宋も造船担当だな
海に面した地域や港町多いからな南宋
最近は1ビット脳の老害が居るんだよ
外交交渉すると、それ以外は考えてないって考える老害が
>>251
元は外交交渉しつつ戦う準備もしてたし、結構多角的に動いてるんだよね
日本との戦争について「朕欲討宋與日本耳(朕は南宋と日本とを討つことを欲するのみ)」とクビライが発言したのも、
日本へ二回目の(日本に来た使節としては一回目の)使節を送った後の、その帰還前の時期
たまにクビライが初期は(比較的)穏当な外交交渉してたから
クビライに日本を攻める気はなかったっていう人いるけど、
むしろクビライ初期から日本を攻める気満々で、
それと同時に戦わずして外交で従えるための交渉も平行して行ってた
「じゃあ諦めて戦わず降伏しよう」ってなるのと
「じゃあ死んでも抵抗しよう」ってなるのがいるからな
後者が一層面倒になる諸刃の剣
侵略したロシア東欧諸国からこぞって献上されたと言う
トルコもそんな感じだったな
最盛期のオスマン帝国に東欧から美少女が献上されてくるから
スルタンのハレムには常に東欧の金髪美少女が居るという
>>69
日本が使者を切り捨てたのも、情報戦の一貫という説がある
元の使者は偵察の役目もあって、実際に元寇の使者のうち五回目と六回目の趙良弼は
日本の風土や地形、日本人の性質まで詳しく調べて、帰国後にクビライに報告した
(なお趙良弼はその結果、日本を攻めるのは困難で無意味だと反対した)
日本も趙良弼の偵察には気付いており、
文永の役で元と完全に交戦関係になりまた元が攻めてくるのも予想していたので、
また使者に偵察されて情報を持ち換えられないように
今度は使者を殺すか、帰さないようになった
駅伝制整備して情報も大事にした
ただなんであれだけ領土大きくしたかっただろう
それだけじゃない
降伏した方が敵意を持たず忠誠を誓うなら積極的に登用するから領土拡大すればするほど人材と兵力が増えていく
ジンギスカンだろ?
色んな形容があるんよ
>>111
理由はふたつあって
①モンゴル語の発音が、当時と今で変化した。
②モンゴル帝国の資料には二大グループがある。ひとつは漢語系、もうひとつはペルシャ語系。
漢語系の発音をカタカナにすると「チンギスハン」、ペルシャ語系なら「ジンギスカン」
ヨーロッパのモンゴル帝国研究は、ペルシャ語資料が主になってきたから「ジンギスカン」で、東アジアのモンゴル帝国研究は漢語資料が主になってきたから「チンギスハン」表記が多い。
元での税率が、どこの国にいっても一律3.3%って、
元の国王だとか貴族とかの統治者以外にはめちゃくちゃ良い国じゃん。
いまの日本みたいに五公五民みたいな重税な国じゃないわけだろ
いまでいう「小さい政府」の代表みたいな国やね。うらやましいわ
モンゴル帝国は重商主義だったんだ
歴代の中国王朝は基本的に重農主義で元の後の明とか
それが甚だしくて農民上がりの朱元璋が皇帝になった
為に農民より知識の有る人を殺しまくったから
ほとんどの文化人が殺されたほど
>>112
元に支配や従属されると、次に元が戦争する時に
そのための物資、渡海するなら造船と船員、時には兵士やその妻になる女性?も要求されることがあった
当然、兵士や造船と船員に男手をもっていかれたら、田畑を耕したり他の男手が不足して残った女子供も苦労する
高麗がまさにそれで、元に従属後に元寇へのそれらを要求されて民衆が苦労してるし、
弘安の役の後にも、元の重臣は民衆が疲弊しているからと再度日本侵攻に中止の諫言してる
>>112
高麗の記録だと弘安の役の時には何故か江南軍の兵士の妻になる女性?を要求されて
女性かその家族なのか泣き声が響いていたとか、
他にもたびたび元への貢女?を要求されて
その捜索が厳しく娘を隠しても家の中まで捜索されたとかの悲惨の記録がある
とても王や貴族以外には良い国、なんて都合の良い支配の仕方じゃなかった
旧南宋地域は弘安の役や三回目の元寇の造船負担で民衆が切れて反乱多発してたぞ
南宋人は10万が日本に消えたし
元は戦争を続ける、戦争は膨大な金も人も物も、海の先の国なら船もいる
それを用意する負担は支配された地域に、その民衆にかかってくる
大量虐殺して生産者や商人が居なくなったら意味ない
見せしめで完全な破壊した町もあったろうがほとんど
は戦わず降伏させるか小規模な戦闘で収めたのが
真実だよ
>>136
> 大量虐殺して生産者や商人が居なくなったら意味ない
それはあなたの思い込み。代わりが他にいるから虐殺を躊躇しない。
チンギス・ハーンにとっては、牧草地を増やすことが最優先だから農耕民とか要らない。むしろ邪魔。
今の南モンゴルと漢人社会の緊張関係が当時もあったんだよ。
モンゴルが征服後に銀による世界経済を作り上げたのは常識
草原じゃ銀は要らないよね
銀はおおいに必要だが、人はさほど必要ない。
逆らう者は殺せばいいだけのこと。代わりが他にいくらでもいる実力社会だからこそ可能な殺戮なのよ。
商人手記だったか?なんかで読んだが、チンギスハーンのひ孫?辺りだと、
良いとこのお坊ちゃん・お嬢ちゃんになっていて、
殺戮王のチンギスハーン一族のイメージとは、程遠かったそうな。
モンゴル帝国4代皇帝モンケとかバツゥのヨーロッパ
遠征にも参加したチンギスの孫世代だけど4カ国語
話してユークリッド幾何学を理解したらしい